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<第5章 もうひとつの「お金」は可能だ!>日本人が知らない 恐るべき真実

第5章 もうひとつの「お金」は可能だ!−目次>>忘れられた経済学者シルビオ・ゲゼル

忘れられた経済学者シルビオ・ゲゼル

<2005.09.20>

シルビオ・ゲゼルは、1862年、ザンクト・フィット(当時はドイツで、現在はベルギーのリエージュ州)で、プロイセン人の父とワロン人の母の間に、9人兄弟の7人目の子供として生まれました。幼い頃から独仏以外のさまざまな言語に親しみ、ベルリンの郵便局に勤めた後、兄の商店のもとで商売を学んで、その後スペインのマラガに特派員として2年滞在。ブラウンシュヴァイクやハンブルクでも商売の経験を積み、24歳の時にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに渡って兄の商店の支店を開きました。

当時のアルゼンチンは、広大な農地の開発のために欧州移民の誘致に積極的でしたが、金本位制度導入後、金不足のためにデフレが起きたり、それを克服するために紙幣が乱発されインフレが起こったりという混乱した経済状況でした。それを目の当たりにしたゲゼルは、物価の推移を詳細に分析し、損失の回避に成功しましたが、これをきっかけに経済学の研究へと関心を深めてゆきます。

1891年、初めての著作『社会福祉国家への架橋としての貨幣改革制度』を発表。この著作は、その後、数多くの発行されるゲゼルの「社会的問題の原因およびその解決手段」に関する著作の根幹となりました。

アルゼンチンでの経験により、ゲゼルはマルクスとは異なる立場を取り、労働における搾取は生産手段の私的所有にあるのではなく、貨幣制度の構造的欠陥にあると考えました。ゲゼルは、お金の中に矛盾する二つの役割、つまり市場に仕える"交換手段"としてのお金と、同時に市場を支配する"権力手段"としてのお金と、2つの特性を見ていました。そして、どのような方法によって、中立的な交換手段であるお金の特質を損なうことなく、増大する権力手段としてのお金の特性を無力化することができるかを考えました。

お金が市場に君臨する要因として、ゲゼルは次の2点を挙げています。

  1. 需要手段としての従来の貨幣は、労働力や経済界の提供側の商品やサービスとは異なり、蓄えることが可能である。また、貨幣の所有者にさほどの損失を与えることなく、投機的な理由によって一時的に市場から引き上げることができる。
  2. 貨幣は商品やサービスに比べてはるかに高い流動性を備えている。トランプのジョーカーのように、いつでも、どこでも使うことができる。

この二つの特性は、お金(特に多額の所有者)に特権を授けます。購買と販売、そして貯蓄と投資の循環を中断させることが可能であり、投機的な現金保有の放棄と貨幣の経済循環への再投入に対する特別のプレミアムとして、生産者と消費者に利子を請求することができます。

貨幣の構造的な権力は、貨幣が持つ現実的な貯蔵性に起因するものではない。社会という有機体の経済的な新陳代謝に対して、貨幣が利子を生み出すという条件を設定するには、循環が遮断しうるという可能性で十分である。収益性は経済性より優先され、生産は需要よりも貨幣の利子からより多くの収益を上げる。

恒久的なプラスの利率は、市場の非中央集権的な自己秩序に不可欠とされる利益と損失のバランスを損なう。それは、きわめて複雑な全体的症状をともなった社会有機体の機能不全にいたる。

利子を生み出す非中立的な貨幣は、業績に見合わない、不公平な所得分配を生じさせ、それは貨幣資本および物的資本の集中をもたらし、その結果、経済の独占にいたる。貨幣所有者は、貨幣の流通および停滞をコントロールできるため、貨幣は人体をめぐる血液のようには自ら社会有機体の中を流れることはできない。したがって貨幣循環の社会的コントロールおよび貨幣量の適正供給は不可能となる。デフレおよびインフレによる物価の変動も回避不可能である。また、景気が変動するなかで、一時的な利子の低下によって投資の採算性に展望が見られるまで相当量の貨幣が市場から引き上げられるならば、景気の後退が起こり、失業が発生する。

ゲゼルは、お金の権力を無力化する方法として、貯蔵性および流動性のメリットを相殺するコストをお金の中に組み入れることを考えました。現金としてのお金に手数料(運輸業における貨物車両の留置料に相当する)が課せられるのであれば、お金は市場に対する優位性を失い、交換手段としての奉仕的な機能だけを果たすことになる。循環が投機的な行為によって妨げられることがなくなれば、通貨の購買力が長期に渡って安定できるようになり、流通するお金の量を恒常的に物質量に適合させることが可能になるというのです。

『社会福祉国家への架橋としての貨幣改革制度』以降、ゲゼルは1890年代に『貨幣の国有化』、『現代商業の要請に応える貨幣の適用とその管理』、アルゼンチン政府のデフレ政策に反対する『アルゼンチンの通貨問題』等を発行します。これら初期の著作の中で、ゲゼルは"貨幣制度の有機的改革"の手段として"減価する銀行貨幣"について語っています。

この改革によって社会有機体の中でも自然界の中でも"死せる異物"であった貨幣は、すべての生物体の永遠の死と再生に組み込まれる。貨幣は同時に無常の存在となり、利子および複利によって無限に増殖する特性を失うことになる。この種の貨幣制度改革は、貨幣流通の封鎖を解いて、多様な景気的および構造的な危機症状に苦しむ社会有機体に穏やかな自然治癒という援助の手を差し伸べ、再びバランスを取り戻させ、調和のとれた自然界の全体秩序に順応させる全的な調整的治療法といえるものである。

1900年、弟に商売を託し、ゲゼルはスイスのジュラ州に農場を購入して、自ら農民として晴耕雨読の生活を送ります。その中で、フランスの社会革命家ピエール・ジョセフ・プルードンの思想に着目していきました。封建的絶対主義が終わっても支配なき社会とならなかったのは、農地の私的占有および利子を生み出す貨幣の権力にその原因が帰せられるとプルードンは考えていました。そして、農地の私的な借地料は略奪であり、貨幣利子は癌細胞のような暴利であると規定しました。これらの搾取にもとづく収入は、新たな支配階級となる大ブルジョアを生み出し、彼らは国家および教会を小市民階級および労働者階級に君臨するための手段として利用したとしています。

また、土地に関して特に影響を受けたのが米国の農地革命家ヘンリー・ジョージや、それをドイツに伝えたミヒャエル・フリュールシャイムでした。ゲゼルは「農地が私的な商品で投機的な対象であり続ける限りは、人間と大地の有機的な結合は妨げられる」と考えました。「もともと土地は全人類の共有財産なのだから、土地を徐々に国有化することで、私有制によるさまざまな弊害を除去しよう」いう考えを発展させていきます。具体的には「農地の私的所有者に補償金を支払い、農地を国家の管理に移行させ、最高値で落札した賃借人に私的利用させる」というフリュールシャイムの提案にならいました。

1907年、アルゼンチンに移住していた弟の死によって再度アルゼンチンに渡たり『アルゼンチンの貨幣過剰』を発行、また、弟のフランクフルトと共著で『積極通貨政策』を発行します。

1911年、今度は息子に店を任せ、フランツ・オッペンハイマーによって土地改革の実践が行われているベルリン近郊のオラニエンブルク・エデンに移住。1912年に仲間であるゲオルク・ブルーメンタールと『重農主義』という雑誌を発行します。この雑誌で「国有化した土地の地代を子育て中の母親への年金に充てよ」という提案が行われました。

人がいて、人が増えてこそ土地の価値が創造される。また、人口が増えることによって土地の価格が値上がりする。ならば、土地の保有から生まれる地代は、母と子の維持・持続にあてられるべきだと主張したのです。すべての母親が、経済的に自立し、安心して子供が産め、男性に頼らなくても母子が生活でき、教育費も成人するまで十分に給付をすれば、女性は収入のために男性に隷属することもなく、男性にとっても義務として家庭に隷属されることなく、本当にやりたい仕事をし、創造的な生き方を選択できる。そこには、真の意味でのパートナーシップが生まれ、男女双方にとって本当の自由が得られるであろうと考えたのです。

地価税をすべて母子年金として、養育期間中の母子に給付するというアイディアは、多くの女性に支持されました。しかし、この『重農主義』はプロイセン当局の検閲によって1916年に発禁となります。

ゲゼルはスイスに戻って『自由土地と自由貨幣による自然的経済秩序』の初版【※1】をベルンで発行します。この本は各界から賞賛を受け、ゲゼルの名は広まってゆきました。

この『自由土地と自由貨幣による自然的経済秩序』の中で、円滑な貨幣循環のもとで、利子水準が従来の実質3%の下限を下回るように、資本供給および資本需要のバランスをとる方法について詳細に論述しています。

貨幣の権力に対する労働者の貢租である"基礎利子"は利子から消滅し、利子は危険プレミアムと銀行手数料だけになる。市場利子率のこの新たな均衡利子分の変動は、需要に対応した投資の非中央集権的な貯蓄管理をもたらす。しかし、これらの要素はお互いに相殺される。"基礎利子"から解放された貨幣である"自由貨幣"は分配面で中立となり、生産の形態および規模に対して売り手と買い手の利益に反する影響を及ぼすこともなくなる。完全な労働収益が実現することによって、幅広い層の労働者が賃金および給料に依存した雇用環境を放棄し、個人的および協同組合的な経営形態のもとで独立することが可能になる。

1919年に樹立したランダウアー政権に、ゲゼルは財務担当人民委員として入閣しますが、わずか1週間後に共産主義者によってこの政権は崩壊し、ランダウアーは殺害されてしまいます。その共産主義者のクーデターも失敗に終わると、今度はゲゼルも共産主義に荷担していたという濡れ衣を着せられて逮捕。裁判で無罪を勝ち取ったものの、スイス当局に危険視されてスイスに戻れなくなり、ポツダム近くに住み着き、文筆活動に専念します。

1920年に『ドイツ通貨局、その創設のための経済、政治、金融上の前提』や『インターナショナル・ヴォルタ・アソシエーション』を、21年には『国際連盟の再編成とベルサイユ条約改定の提案』と『ドイツ国民への宣言』を、22年には『労働組合の実践指針覚書き』と『緊急事態にある独裁政権−ドイツの政治家へのアピール』と『仰天したマルクス主義者』を、23年には『プロレタリアートの武装』や『西洋の勃興』を、そして27年には『政府の解体』を発行します。

若い頃から地球を渡り歩いたゲゼルは、初期の段階から人種差別主義や反ユダヤ主義のイデオロギーとは一線を画した思想を持っていました。また、ダーウィンの進化論には強い影響を受けながらも「人間社会において生存闘争と自然淘汰による優勝劣敗は必然」とする社会ダーウィニズムには反対していました。過度の民族主義に対しては異議を唱え、東西の近隣諸国との協調に尽力。民族国家の領土拡張主義は、権力によらないヨーロッパ諸国の連合にとって代わられるべきだと考え、脱資本主義的な世界通貨秩序の創設を試みました。そして、資本主義的独占や関税境界もなく、保護貿易主義や植民地的侵略のない開放的な世界市場を支持し、現在のIMFや世界銀行、そしてユーロなどとはまったく質の異なる、あらゆる国内通貨に対して中立的な立場をとる世界貨幣を発行する"国際通貨協会"を設立して、自由な世界貿易関係の均衡が保たれるように管理することを考えました。

ゲゼルが目指したものは、資本主義から解放された市場経済の仕組みをもつ"自由経済"といえるものです。それを達成するために自由土地と自由貨幣の理論がありました。

万人のための自由を欲し、そのために生涯を考え抜いたゲゼルは、晩年、再度オラニエンブクル・エデンに住み着き、1930年に68歳の生涯を終えます。

【※1】 同年、ベルンで行った講演『金と平和?』と、翌年、チューリッヒで行った講演『自由土地、平和の根本条件』がのちに『自然的経済秩序』に加えられました。

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