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米国:あるユダヤ国家

【 XIV 】

この思想闘争の中に恐るべき大量破壊兵器がある。反対者の悪魔化である。キリスト教神学ではそれは「マニ教的」異端と呼ばれる。もし社会を破壊しようと思うならこれ以上に効果的に全体に効果を及ぼす兵器は無い。誰でも人々を《光の子》と《闇の子》に分けるべきではないのだ。

ユダヤ人は通常、自分の共同体の中で作られた思想に対しては極めて寛容である。シオニズムの創設者テオドル・ヘルツル(theodor hertzl)は非宗教的なユダヤ人以外の何ものでもなかった。信心深いユダヤ人たちは彼を非常に嫌った。にもかかわらず、あるラビが彼について何か良いことを言うように求められた際に、彼は次のようなすばらしい言葉を見つけた。テオドル・ヘルツルはシナゴーグの中では世俗的な話題を決してしゃべらなかった、フィラクタリー【訳注:ユダヤ教徒が額と左腕につける聖句箱】を身に付けているときには決して便所に行かなかった、彼はクリスマス・イヴには決してタルムードを開かなかった、と。実際はこうである。ヘルツルはシナゴーグに行ったことがなかったし、フィラクタリーを身に付けたこともなかったし、タルムードを学んだこともなかった。それだけである。同様の文脈で、ユダヤ人たちは共産主義者のレオン・トロツキー(leon trotsky)にも、ナチの支持者であったヤイール・スターン(yair stern)にも極めて寛容だった。どのような思想もそのポジティヴな要素を持っていると知っていたからである。近年で言うと、左翼の野党であるヨッシ・サリッド(yossi sarid)は暗殺されたユダヤ・ナチの大臣ゼエヴィ(zeevi)とは友人であり感動的なほどに賞賛していた。

【訳注:ヤイール・スターンは、親ナチのユダヤ・テロリスト組織レヒ(lehi)=「スターン・ギャング」の創設者アブラハム・スターンのこと。この組織には後にイスラエル首相となったイツァーク・シャミールもいた。】

【訳注:レハヴァム・ゼエヴィ(rehavam zeevi)はシャロン政権の閣僚時2001年にPFLPによって暗殺されたが、ウラジミール・ジャボチンスキーのユダヤ・ファシズムを最も強固に受け継いだ人物の一人であった。】

しかし外の世界に対しては、ユダヤ人たちは通常、永遠に祝福するのとは逆に、憤怒に打ち震え怒りと復讐心に満ちた永遠の呪いの思想を提供した。心理バランスを回復させるために、このユダヤの内に向けての寛容さは普遍化されるべきであり、そしてユダヤの外に向けての不寛容さは拒否されるべきである。

ユダヤ-アメリカ的思考は外に向けて消費させるために製造され続ける。ロナルド・レーガンはロシアを「邪悪の帝国」と呼んだ。ブッシュはサダム・フセインを「ヒトラー」と呼んだ。メディアの大立者であるロード・ブラック(lord black)の妻であり導きの光でもあるバーバラ・アミール(barbara amiel)は、現在イスラエルとユダヤ人が邪悪の帝国として紹介されている、と論評した。

あなたは間違っている、アミール女史。邪悪の帝国などどこにも無いのだ。ただ野放しにされる国があるだけだ。

ソヴィエト・ロシアは邪悪の帝国ではなかったし、共産主義はスターリンと強制収容所で体現されるようなものでもなかった。ショロコーフ(sholokhov)、ブロック(block)、パステルナーク(pasternak)、エセーニン(esenin)、マヤコフスキィ(mayakovsky)、そしてデイネーカ(deineka)は、ロシア革命を受け入れその理想を芸術に表現した。それは人間の平等と兄弟愛における偉大なそして部分的には成功した実験の場だった。そして貪欲さの魂を打ち破るための勇敢な試みの場だった。共産主義者とその支持者たちは労働を解放しようと試み、地上に天の王国をもたらそうと試み、貧困を取り除きそして人間の魂を解放しようと試みた。共産主義は欧州の社会民主主義をもたらした。

ドイツは邪悪の帝国ではなかったし、その組織的な伝統主義の精神はヒトラーとアウシュヴィッツで体現されるようなものでもなかった。伝統主義者たちはワーグナー、ニーチェ、そしてヘーゲルに基づいた新しいパラダイムを確立させようと試みた。民衆のルーツと伝統の方に進もうと試みた。それは決して無駄ではなく、クヌート・ハムスン(knut hamsun)からルイ・フェルディナン・セリーヌ(louis ferdinand celine)、エヅラ・パウンド(ezra pound)、ウイリアム・バトラー・イェイツ(william butler yeats)そしてハイデッガー(heidegger)に至るまでの欧州最良の作家と思想家たちが、伝統主義者の組織的なアプローチを肯定的に見ていた。もしロシアとドイツが悪魔化されなかったとしたら、それらの国があれほどの極端さにまで向かうことはなかったかもしれないし、十分にそう言えるのではないかと思う。

我々は第2次世界大戦後の世界で失われた精神と議論のバランスを回復させなければならない。それはブルジョアジーの「ユダヤ- アメリカ的」思考のあまりにも完璧な勝利によるものなのだ。行き過ぎと戦争犯罪を非難する一方で、我々はマヤコフスキィ(mayakovsky)からパウンドに至るまでの精神の王国を取り戻す必要がある。邪悪な人間などいない。我々は神の似姿に創られており、あらゆる思想が新しい思考を作り上げるのに必要とされるのだ。

この1930年代と1940年代の二つの偉大な主人公は多くの凶暴性を発揮した。しかし罪の無い者が最初の石を投げよ。ドレスデンとヒロシマの後で、そしてデイル・ヤシンとジェニンの虐殺の後で、石を取り上げる資格を持つ者はそんなに多くいない。それらは悪魔化を解かれるべきだ。その悪魔化がバランスの無い思考という危険を作るからである。

我々は同様にそれらにとっての敵をも悪魔化すべきではない。米国は邪悪な帝国ではない。それは正気に戻すことができるしそうしなければならない。起業家精神、発明、独立心、拘束の無い自由と民主主義という米国精神は、全人類の価値ある財産として保ち続けられるべきである。

ユダヤ民族は邪悪の帝国ではない。良い組織者と外交官、頑固さと熱心さ、軽々と実行する力、感じやすさ、第一級の思想家たち、そして勇敢な兵士たち、気軽な旅行者、同情心と快活さ;ユダヤ人たちは人類の繁栄のために必要とされる。

しかしそれらの特徴の一つ一つは、もしチェックを受けないままにしておくと世界を破壊する可能性がある。

ソヴィエトはその古い世界を取り壊していくときに何千万人もの人々を殺し追放した。彼らは古い教会を破壊し、農民を根こそぎにし、そしてその米国の敵対者と同様に画一性を維持した。ナチスは最も世界に恐ろしい戦争を勃発させ何千万人ものスラブ人とユダヤ人を殺した。現在、ユダヤ-アメリカの勢力が、1945年と1991年の勝利の完璧さによって、歯止めを失った状態にある。彼らはそれを、世界を地獄に突き落とすライセンスであると理解している。彼らのグローバリゼーションの計画は、世界のあらゆる美と固有の価値を絶滅させ、精神を殺し、芸術を地に落とし、魂を吹き払い、自然を破壊し、社会的成果を亡き物にし、人類を主人と奴隷に分けてしまうのかもしれない。彼らが行く所がどこであろうと、古いカフェーとレストランが消えてスターバックスとマクドナルドが乗っ取る。労働者たちは職場を失い、博物館はクズで埋まり、芸術派TVに置き換わる。にもかかわらず、彼らは世界に存在すべきであり、破壊されるべきではないのだ。

通常我々は戦争を国家的利益のぶつかり合いとして議論する。しかし同時にまた第2次世界大戦の果てしなさは思想の戦争という面だった。これは間違っており不必要なものだった。様々な思想は永遠の闘争の中で共存すべきだからだ。ちょうど陰と陽、あるいは女性力と男性力のように。ユダヤ-アメリカ的思想は、もしそれがチェックを受けないままで走り続けるなら、世界を去勢するだろう。この去勢は米国の中で強く感じられるものである。そこでは男たちはもはや敢えて男であろうとしない。彼らはもし一人の少女を見つめるならば訴えられる。そしてもし一人の少女を見つめなくても訴えられる。偉大なアングロ・サクソンの叙事詩であるbeowulfの中では、ある残酷な女王が自分を見るような無礼な男を全員殺す。しかしこの残虐な女王の精神が世界に君臨することになるだろうとは、ほとんど誰も思わなかったに違いない。

ユダヤ-アメリカ的思想は生物学的な生活には強く執着するが精神は拒絶する。その支配の下で偉大な芸術作品も偉大な思想も現れてこないことには十分な理由がある。その一方で、その敵対者が持つ純粋に男性的な傾向は、これまた同様に人間種族の生き残りにとって危険なことだった。

前世紀の三つの敵対者【訳注:ソ連、ナチス・ドイツ、およびユダヤ-アメリカの三つ】は共通の特徴を持っている。それらはキリストを、我々の精神性の基盤を拒絶した。第2次世界大戦の大国指導者の中に神を顧みた者などいなかった。米国人たちは現在、そして共産主義者はかつてそうだったのだが、ユダヤ人たちから馬鹿にされ非難されることのないように、こわごわとキリストのことには触れないようにする。ナチスは強く反キリスト教的だったし、さらにオカルトにまで手を出した。これはバランスの回復を見失わせる第4の要素である。

こうして、我々は4つの傾向の合成を捜し求める必要がある。自然の生物的で本来的な愛情、地域的なルーツと伝統、あらゆる人間のための社会共同体的な正義、人生への愛と起業家精神である。それに深い精神性が加わる。それらは十字架の新しい意味を表現するだろうし、人類に精神の一致をもたらすだろう。美しい多様性を同時に保ちながらである。

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