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結局のところ、棚橋氏などが著作で主張する言い訳は、次のものに尽きます。「外圧に従わなければ経済戦争だ。それを避けるためにはどんな譲歩もせよ」。
確かにマスコミで報じられた「アメリカの雰囲気」は、激しいものでした。そうしたアメリカの横暴に対する日本人の反発の声が出ると、決まって出てくる反論は「反日で荒れているのは議会だけ。アメリカの民衆は日本に無関心」。不思議なことに、「アメリカが反日で結束している訳ではない」という意見は、「理不尽な圧力で盛り上がる理不尽な国」という対米批判に対する反論としては出てきても、「外圧に従わなければ大変なことになる」という脅しへの反論としては、けして出てこないのです。
しかし逆に言えば、そうであるにも拘わらず、「外圧に従わなければ経済戦争だ」という脅しがマスコミで横行した状況は、通産官僚の「屈伏への国内説得」のための脅しとして、大いに機能した訳です。実際にそうした「アメリカでは日本批判の嵐だ」という記事を読むと、結局それは交渉担当者が伝えたアメリカ政府筋の雰囲気に過ぎなかったりする。つまり、そういう「アメリカ市民擁護論」によると、これは通産官僚による明らかな情報操作という事になる。
いずれにせよ「アメリカの民衆は日本に無関心」という事は、アメリカ市民の良識が働かない状態だった訳です。アメリカ人は一般に外交に対して無関心で、実際に読まれているのは地方新聞に書かれた国内記事だと。その結果「フジヤマ・ゲイシャ」の偏見に安住し、満足な知識を得ようともしないまま、組合や政財界の垂れ流す偏ったマスコミ情報を無批判に信じ、権力者の暴走を許した。それはけして彼らの免罪符にはならない事は、言うまでもありません。
さらに言えば、アメリカの議員は「得票」のためにこそ、対日強硬派として行動した。それはつまり、何だかんだ言っても、アメリカ市民は「日本叩き」を喜んでいたのだという事です。アメリカの政治家や官僚にとって、日本叩きは「ゲーム」だと、多くの人が表現します。アメリカ側の、論理的には到底成り立たない我が儘は、まさに「我が儘を通す」ことにより、自己の力を誇示する・・・。これを行う弁護士出身の担当者が、「ゲーム感覚」で得点を競い、そのために、あらゆる手法で反日感情を煽る。これは典型的に危険な衝突コースで、普通の国であれば当然反発します。
当然、日本では広範な人々による反発が起こりました。それがマスコミと政・官担当者によって無視され、せいぜいが「認識の違い」に過ぎないかのように見なされて、日本人の不満は鬱屈するだけ。日本が「国」として怒らないから、政治家も安心して「国益衝突ゲーム」に狂奔し、それを民衆はスポーツ観戦のように、熱狂する。「平和のため」として血を流す敗者は軽蔑を浴び、勝者は賛美を浴びる。
世界的に見て、外国に「言うことを利かせる」事の快感を求めて、政治大国を指向して醜い争いを繰り返す独裁者の、なんと多いことか。それは民衆をも酔わせ、独裁者の地位を堅固にします。そのためにこそ、イラクのフセインや金正日のように、危険な軍拡に走って国民を不幸に陥れる罪人は、後を絶たない。アメリカの日本叩きもまた、その同類です。
クレッソンやファローズなどが「日本が経済支配の陰謀を巡らせている」と主張し、「ライジングサン」のような悪質な日本陰謀本が横行する・・・と、まさにユダヤ差別にも酷似する状況が現出したこの時期、日本では、様々な陰謀説を「トンデモ本」として批判した「陰謀がいっぱい」という本があります。何故か、この日本陰謀説だけは取り上げられていないのは、不思議と言う他はありません。こうした陰謀論は、日本を「一枚岩の強固なグループ意識に支えられたものと」みなす発想に、その基盤を置いています。しかし、それが過ちであることは、霍見氏が「日本見直し派」との討論で完膚無きまでに論破したにも関わらず、執拗に宣伝され続けました。
外務官僚だった小倉和夫氏は、その著「日米経済摩擦」において、アメリカが国内で対日感情を煽るテクニックをいくつか紹介しています。例えば、様々な案件を「象徴」化する。その案件で「勝利」すれば、闘いに勝った事になるとして、官民一体化して要求の声を荒げるのです。日本としては「それさえ譲歩すれば相手は納得する」として譲歩すると、さらに次から次へと、限りなく「象徴」を出てくる。
グリーンピースなども捕鯨を「象徴」だと明言されていますし、自動車もそうです。映画会社やロックフェラーセンターなど、まさに反日を煽るために「象徴」として宣伝されました。その他、「相手側担当者の顔を立てる」という発想も、小倉氏は「日本的な考え方が災いした」ような言い方をしていますが、結局はアメリカ側の「俺達はお前等の味方だから顔を立ててくれ」という要求で、ああいう不透明な交渉をやった訳ですから、「日本的が災い」などというものではありません。「白黒つけるのを避ける」のが日本的・・・などという言い訳も、同じです。
このような、相乗的に悪化する要求・譲歩・増長というサイクルを断ち切るためには、日本からの怒りによってアメリカの要求を拒否する他は無いということは、誰の目にも明らかなのです。そして、多くの人の指摘するところでもありました。ところが自民・通産の政官複合体は、「譲歩すればアメリカは宥められ、摩擦は収まる」と主張し、言いなりを続けてアメリカの我が儘を肥え太らせたのです。
「摩擦を未然に食い止めるには、アメリカから言われる前に、進んでアメリカの意を汲むべし。」などとアメリカ通を自称する提灯学者やに説法させて、日本の政治システムを丸ごとアメリカに奉仕する御用聞きと化していきました。小倉氏の言う「こうした論議に迎合し、米国や西欧の批判を日本にとりつぐことだけを自らの存在意義としているエセ国際主義者」とは、まさにこうした人達なのです。
富田氏がその愚かさを指摘し、紛争の拡大の原因たることを実証した「米国の報復に対してはっきりと反対の意思表示もせずに、産業界に対して米国製半導体の使用を促した」政策は、まさにその要求への対応として行われ、その後も富田氏の警告した通り、ますますアメリカを増長させ、その欲望を刺激し、さらなる生け贄の要求を引き出していきました。こうなる事は誰の目にも明らかなのに、耳を貸そうとしなかったのです。結局それは彼等通産官僚が、日本ではなく、アメリカの利益に奉仕する存在であったからに他なりません。
「日本を封じ込めろ」と声を大にするアメリカの反日派を前に、「話せば解る」と和解の可能性という虚しい幻想を振り撒き、あるいは「彼等はアメリカの一部に過ぎない」と、一方では言いながら、まさにその「一部に過ぎない」筈の彼等の主張に沿って日本を叩く行為に対する抵抗を「アメリカとの対決を煽るから」と制止する。なぜ「一部に過ぎない」筈の日本叩きに身を任せるのか。何故、ひたすら自制が強要されるのか。客観的に見れば、アメリカ側が「国」として、「力の勝利」を目指す限り、和解の可能性は皆無なのに、その事実に目を背け、結局は日本が「全てを奪われる」という彼等の目的通りの結末に終わったのです。
つまり、限りない「衝突」と「叩頭」という、相反するベクトルに固執した両者の、見事なコンビネーションによって、見え見えのシナリオ通りに邁進したのが、この80〜90年代に行われた「摩擦」の実態です。全ては「批判すべき相手を批判しない」という過失の結果であり、その「過失」すらも「物言わぬ日本が悪い」とアメリカを正当化する論理に転用されています。その「物を言う」行為を妨害した人々の責任は、あくまで不問に付されたまま・・・。
こうなってしまったのは結局、その背景にあるのは、自省の利益のためなら国益を犠牲にする、巧妙に隠された官僚の背信行為であり、外国との不透明な癒着です。それは厳罰に処すべき犯罪行為ですが、それを国民が止められなかったのは何故か?結局、彼等が最も苦慮したのは国民が反発する可能性でした。だからこそ、それに対する目眩ましとして、口先では棚橋氏自身、「20%を約束した覚えはない」と言って、抵抗の素振りを示し、実際には正反対の事をやっていたのです。
盛田氏なども、「NOと言えるニッポン」などで、外圧抵抗派であるかのように勘違いしている人が多いのですが、こうした行動を理解する例として、金丸氏のこんな話があります。金丸氏は「アメリカあっての日本」と公言する対米従属派の巨頭で、棚橋氏と近いという梶山この金丸氏の側近をもって任じたほどでした。この金丸氏は一方で郵政族の首領として、NTT民営化問題に大きく関わっていました。最初、彼は民営化に反対を主張したのですが、後に一転して賛成派に転じます。
これについて、彼が当時の盟友に言ったのが「俺はこれから絶対反対を唱える。すると反対派が俺の所に集まるから、頃合いを見計らって賛成に転じて、情勢をひっくり返す。これで全てうまく行く」と・・・。つまり用心すべきなのは、外圧容認の人が、外圧反対派を自分の所に集めるために、わざと反対を唱える場合があるのです。そうやって彼らを回りに集めて、その動きを押さえ、裏で外圧容認のために画策する・・・。
では、国民としては、どうすれば良かったのでしょうか。実際の行動・・・交渉の結果に対しての責任を追求する事は、先ず大前提でしょう。それには「日本の国益とは何か」「あるべき外交とは何か」という基本的な概念が必要です。国益とは、日本国民にプラスになるべく、その繁栄と地位を最大限に高める事です。そしてその国益を最大限に実現するためにこそ、外交は存在する筈なのです。
「日米関係を良好ならしめるための努力」だって、そうした国益を実現するための外交の、一つの手段に過ぎない。そうした基本概念を真っ向から否定し、「外国に喜ばれ、アメリカに可愛がられるのが国益」などと、対米関係を糊塗することが目的化されました。そして、日本の外交は「アメリカとの関係」を支えるための道具になり、それを支えるために国益を犠牲にする・・・という、まさに本末転倒の「国民認識」が巧妙に演出されていたのです。
アメリカは日本人を「論理を重視する理性的なアメリカ人に対して、日本文化は感情優先だから思考が非論理的」と言い張ります。しかし一連の日米摩擦では全く逆の実態が証明されたのです。日本側が理によってアメリカの要求を批判したのに対し、アメリカが感情を振りかざす。まさに感情優先で非論理的なのはアメリカのほうではありませんか。アメリカに論理は通用せず、客観的な正当性は度外視される。その「アメリカの感情を最優先」して理論を取り下げた日本は、その意味では「感情の国」と言えるのかも知れませんが。
ビルトッテン氏などは、論理的にアメリカを批判した1人です。それに対して、「日本人のプリミティブな反米感情に火をつけるのを恐れる」などという発想は、まさにそうした日本人愚民視の現れでしょう。おかしな悪しき排日が反発を受けるのは当然で、それを「恐れる」というのは正義を恐れる事です。「日本人は感情的になると一斉に走り出してコントロールが利かなくなる」と言い張る日本性悪論者は、(新)右翼にも左翼に居ます。
では、アメリカの排日はコントロールが利いたのか?「アメリカは行き過ぎれば自分で反省する」などと嘘臭いアメリカ擁護論を出す人は「クリントンの二期目で反省して押し売りを止めた」と言っている、まさにそのクリントン二期目で、フィルムでも保険でも過去の押し売り協定の継続でも、あれほど執拗に押し売りを要求したのは何故か?中国をヨイショして日本に圧力をかけたのも、まさにその時期です。願望と現実を取り違えても、何も解決しません。クリントン二期目の時期に「それ以前に比べて日本叩きに熱心ではない」と言う言い逃れも、既に日本をボロボロにした後で「熱心ではない」のは当然で、それを「不当な日本叩きを反省」などとはあまりに無理が過ぎる・・・。
それに対して、アメリカ側が「国益」つまりアメリカ国家のエゴイズム的利益追求や、議員選挙区企業の利益を代弁して、不当な対日要求をごり押しすれば「理性を起点とした対日批判(古森義久氏)」だというのだ。日本人が「国益」のために自国に対する不平等条約要求を批判すれば「お前は国家主義者」だと言われる。そして「右翼の感情的反発」との言いがかりを吹っかければ、大抵の日本人は沈黙します。
「アメリカの感情を宥めるために」とか言っても、その感情は結局は、日米関係を自国国益の道具とするアメリカの「気分次第」なのですから、論理も正義も無い、アメリカの御都合的な感情のみが左右する。アメリカが感情を昂ぶらせれば、何でも要求できる。感情を武器にすれば、どんな無理難題でも日本が呑む。それで縛ればいい。
これはまさに奴隷状態です。客観的な論理を通さずに何でも強制できて、日本の存在目的そのものが「日本人の利益」を離れてアメリカ国益の感情に奉仕する道具と化し、どんどんすり減らされるだけの存在になる。「国滅んで日米関係残る」・・・これこそまさに現在の日本ではありませんか。
こういう隷米主張は、無能な政治家はさらに露骨に主張します。加藤紘一氏が東洋経済88年4月9日号に書いた論では、アメリカ人を代弁して、こう主張しています。「地元の自動車工場を潰され」「工業製品を輸入し農産物を輸出する」ことによって「プライドが傷ついた」と日本を恨み、「この痛みを日本にも味わせてやる」・・・と。だから日本は、その感情を満足させるために「スムーズにこの問題を処理」せずに、叩かれて叩かれて経済を破壊され、「のたうち回」る状況に陥る必要があるのだと。そうした犠牲を反感抜きで受け入れるために、「昔お世話になった」だの「自由主義社会のリーダーシップ」を握ってもらうためにアメリカを助ける・・・だのという・・・。こういう人達が主導した国が、どういう運命に陥るかは、そして陥ったかは、いまさら言うまでもありますまい。そういう運命に「突き落とす」ための外圧だったのですから。
大前研一氏は言います。「日本が強い」というのは幻想だった。「アメリカのシステムは駄目だ」という「傲慢の罪」の結果だと。しかし、そうした日本強国論は、何のために鼓吹されたのでしょうか。「アメリカがこんなに弱くなった。日本は強いんだから、アメリカを助けるために、どんなに譲歩したって大丈夫」と・・・。渡辺昇一氏曰く。「アメリカの時代は終わる。日本の時代は必然だ。だからアメリカの要求は何でも聞いてやろう」・・・。こうして無茶な出血サービスが正当化され、言いなりになり続け、日本の繁栄は潰されました。
要するに、アメリカの圧力による被害に民族的不満を高まらせる日本人の「民族意識」を麻薬のようにくすぐり、麻痺させ、不満を逸らせるための宣伝だったのです。まさにアメリカの利益のための「日本強国論」だったのです。その幻想を振り撒いた人達は、もちろん非難に値します。だからといって「傲慢な日本の自業自得」というのはお門違いです。ましてや「傲慢な日本にアメリカが怒るのは当然」などと、そもそも日本強国論を必要としたアメリカが、被害者意識を振りかざすに至っては、本末転倒と言うほかはありません。
通産OBの天谷氏は言います。摩擦は感情レベルだから理屈は通用しない。理不尽でも言うことを聞け・・・と。彼に言わせると、アメリカが強くて日本が弱ければ日米関係はハッピー。日本が強くなるとアンハッピーだ。だから日本は弱くなれ・・・と。そして、相手にいかに「与える」か・・・という経済の世界を、相手からいかに奪うか・・・という軍事の世界と混同し、項羽や源義仲を引用して「強くなった日本も同じ運命を辿る」と脅しました。ビジネスでの顧客への奉仕による成功を、あたかも不道徳な軍事支配と混同し、努力によって繁栄する権利そのものを否定する。これが「通産省最大の論客」と呼ばれた人の主張です。
天谷氏の町人国家論の「町人は武士の犠牲になるべきだ」という発想は、彼の言い分では「これが世界の常識だ」という事になるのでしょう。しかし本当に「町人は武士の犠牲になるべきだ」というのが「世界の常識」でしょうか?「日本は市民革命を経ていない」と、欧米人は日本の後進性を主張して言います。その、彼等が「これぞ先進世界のスタンダード」と自賛する、その市民革命とは、一体何でしょうか。それは「犠牲を要求した武士」に対する「町人」の抵抗だったはずではないのでしょうか。つまり「町人国家」として欧米の犠牲たる事を説いた天谷氏の、そして従米派の論は「グローバルスタンダード」でも何でもない、民主国家たる、そしてアメリカの圧力に憤激した現在の日本市民のスタンダードですらない、遥か昔の封建社会のスタンダードでしかないのです。
「戦略論」と称するものの教科書には、大国の横暴への反発をマスコミの世論操作で抑えるのが「戦略」の一つだと、まさに大国の利益に奉仕するような事が書いてあります。民主主義の根本を破壊するような暴論を、堂々とひけらかしてるのだから驚きます。日本の馬鹿な政治家たちが、それを実行したのは疑い無いでしょう。民衆蔑視に凝り固まった彼等には、限りなく甘い響きの主張です。
そして、それがいかに愚かな「戦略」だったかは、事実が証明しました。この妄説を、どういう人が書いたかは、一目瞭然。軍事学の世界は「米を食うと馬鹿になる」とか「鯨は人間の次に賢い」とかいうトンデモ学説をばら撒いた学会より、はるかに権力にとってはコントロールし安いでしょう。何しろ、説を出してる人達が「戦略の実行者」そのものなのですから。
そんなのに騙されて、日本の政治家とマスコミたちは、自国を破壊したのです。その昔、勝海舟が「日本では上に行くほど愚かになる」と言った時と、全く変わっていません。愚かな「上の人達」の外国優先の感覚は、結局はどこにも通用しない封建時代のそれでしかなく、外国に叩頭して自国を害し、外国への抵抗を求めた「賢いヒラの人達」の日本優先の感覚こそが、真のグローバルスタンダードだったのです。
こうした愚かな論理によって通産省は、自殺的ベクトルを向いた「市場管理」を受け入れ、民間企業を縛ったのです。省内の都合では、「強くなり過ぎた民間企業」をコントロール下に引き戻すため、民間の力を「削ぐ」必要があった。「行政指導」と称する不透明な政策強制においては、「お願いするだけ」と称して、露骨な脅しによる圧力を加えて、不合理な行動を強制し、それを「おまえらのためだ」と言いくるめるのが、彼等の常套手段です。
日経89年12月頃の「通産省、管理貿易の誘惑」という記事では、アメリカの対日管理の欲望と結びついて「外圧を利用できる今こそ権限を拡張できるチャンス」という通産省の本音を暴き出しています。そしてこの図式は「民間企業」を日本、「通産省」をアメリカ、「行政指導」を貿易交渉に置き換えると、全く同じ図式になるではあまりせんか。
こうした不当な圧力に対しては、もちろん、アメリカ国内でも反対はありました。曰く「日本の不健全なナショナリズムを誘発する」。理不尽な外圧に対する反発を「不健全」と断じる事を忘れないのが、アメリカ人なのです。しかも、アメリカの真に不健全な感情を擁護しながら・・・。これが、日米のマスコミのスタンスの差です。
アメリカによる覆い隠せない不公正を伝えるに当たって、マスコミは、アメリカに対する「思いやり」を強調しました。「世界一を続けてたんだから、正常な判断が出来なくても仕方ない」・・・。仕方ないでは済まないという事を、誰も言わない。倫理的にどうなのだ・・・とは言わない。日本が不当な被害を受けても「自分達が我慢すれば済むことだ」・・・
私生活なら、それでもいいでしょう。しかし日本人全員に「我が儘なアメリカ」のための不公正に対する我慢を強制する資格が、誰にあるのか。それを従米派は強制したのです。公正を主張する権利を行使する一部の日本人に「右翼」だの「国家主義者」だのというレッテルを貼ることで。「日本の事を心配するなんてダサい。個人として生きてない情けないやつだ」「悪しき日本政府に味方する権力の犬」なんておかしな理屈で、より良い社会を考えるという「日本の主権者」としての義務の放棄を迫ったのです。
中西輝政氏は、戦前の日英間の経済摩擦を引き合いに出して、日本が自国の立場を主張する事自体が「自己中心的で道徳的に敗北」(ボイス90年9月)だなどというとんでもない世界観を振りかざしました。そうまでして自己主張を押さえて「顔の無い不気味な日本」というレッテルを生き延びさせたいのでしょうか?
「世界の事を考えろ。日本を考えるな」という、日本叩き容認を迫るための常套手段は、盛んにヨーロッパ要塞化を引き合いに出しました。EU統合をあたかも「世界統一」のように鼓吹し、ばら色の未来図を描いて理想化したのです。あたかもハーロルンの笛吹き男のように、「バスに乗り遅れるな」的に日本人を「統一世界」という幻想に誘い、そこに至る切符として国益放棄を迫る。そして、誘い込まれた先に何が口を開けて待っていたか・・・
叩かれ、たかられるばかりの立場に縛られるよう陰に陽に画策しながら、名ばかりに「大国の義務」などと持ち上げて、自国の影響力のために巨額のODAを引き出し、自衛隊をアメリカの道具にすべく圧力をかけたのも、終わった筈の戦後処理のやり直しを迫る不当要求への恭順を説いたのも、そうです。アメリカは、言いなりになる代償としてとして日本に、千島返還支持や常任理事国入りをちらつかせました。ところが実際には、その実現のための努力はなし崩し的に破棄されるどころか、それを困難にしたのはアメリカ自身です。ロシアをつけ上がらせるべく「無条件の援助」を要求し、安保理改革交渉で最も固い態度を取ったのもアメリカです。
不思議なのは、少しでもアメリカの要求に理解を示すような「考え」を政府の人間が示すと、それは直ちに「国際公約」と取られて「実現」を要求される事です。これでは、まともな国なら、果てしなき突っ張り合いを演じる事を強制されるのと同じです。ところが日本だけは、唯々諾々と「公約化」を受け入れ、政府もマスコミもその「実現」を、あたかも「国家目的」のように自国を犠牲にしながら奉仕を続けたのです。
日高義樹氏は、湾岸支援にしても海部訪米にしても、アメリカの強面の「まだ足りない」的な要求し続け姿勢に相反する、裏面での「アメリカは大満足」な実態を指摘しました。叩かれ続けても笑って言いなりになる日本・・・、それをいいことに、日本に犠牲を強い続けるアメリカが、「自分達の満足は日本の不満」という状況を作り続けている。だからこそ「こんな事が続く筈が無い」という猜疑心に苛まれ、いつか日本は造反するに違いないと、日本に対する敵視に直結する。その敵意を満足させるために、「敵対不可能」なほどに日本を弱めるために、さらに日本を苛める・・・。利己主義に発した感情の暴走が、日本に一方的な被害を要求する悪のサイクル。
そうしたアメリカの内心での「加害者」としての怯えから来る対日恐怖と攻撃性を指摘したのが岸田秀氏です。ところが、それを「解消」するためにと、岸田氏が主張したのは、「アメリカの疑念を宥めるために、日本は自己を去勢して徹底的な属国になれ」・・・(絶句)。アメリカが勝手に膨らませた猜疑心を、いったいどれだけ日本が叩頭すれば「納得」させられるというのでしょうか。
日本人が人間であり、人間には「知能」があって、叩かれれば叩かれるほど反発するのは当然なのです。だからこそ、日本を叩けば叩くほど、アメリカは猜疑心を膨らませるというのに。岸田氏は日本人に「人間を止めろ」とでも言うのでしょうか。そういう邪悪のサイクルを暴き出し、決着をつけない限り、何も解決しないのではないですか?