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通産省・国売り物語

通産省・国売り物語(9)

何が日本を潰したか

最も罪が重いのは、やはり日本のマスコミでしょう。日高義樹氏の言うように「アメリカとのビジネスが最優先」と主張するアメリカのコンサルタントの主張がそのまま「評論」としてまかり通る(ボイス91年6月)のが、日本のマスコミの実態です。こういう従米派マスコミは「何が正当か」という最も基本とすべき論理を、何も考えません。それに対する反対勢力が「進歩的知識人」と称する左翼勢力で、彼等は根っから日本を敵視して、ソ連だの中国だのの利益を代弁するだけなのですから。

マスコミが行う最悪のミスリードのテクニックは、その記事に対する「見出し」のつけ方です。たとえ記事の中ではアメリカ側の主張の理不尽を解説して、よく読めば自由化でも解放でもない単なる「押売」に過ぎない事が解るとしても、その見出しには「自由化を求めるアメリカの市場開放要求」と来る。アメリカの都合で張りつけた羊頭看板をそのまま見出しにするのです。

結局、記事の中身を読まず、表題だけ流し読みにする大部分の人達、ましてや電車の吊り広告は、見出しのイメージだけを垂れ流します。これでは、「ああ、アメリカが要求してるのは市場開放なんだな」と早合点してしまう人が大勢いるのも当然です。おまけに、日本側がそうした圧力に反対する理由を「市場原理を歪める」という本当の理由より、「業界が困るから」などとあたかも特定の業者のエゴであるかのように報道するのですから、アメリカ特定業者のエゴを正当化する雰囲気すら出てしまう事になる。

「アメリカ人は白黒をはっきりさせる透明な文化」だの「論理を優先する理性的民族」だの、果ては「フェアを尊び、利己主義を嫌い、明確なルールを尊重し、二枚舌が大嫌い」・・・。そして止めが「日本人はそれと正反対な邪悪な民族」だからアメリカに嫌われただ・・・などと、あまりにも幼稚で空想的なアメリカ人の自文化礼賛論・・・論と言うにはあまりに実態とかけ離れた、宣伝イメージ依存の自己陶酔的発想を、そのまま無批判で受け入れ、そういうイメージを前提として記事を書き、解説する。大嘘付きとしてこれにまさるものはありますまい!

日米合作のマスコミ操作のシステムが整備されたのは、カーター政権時代のストラウス通商代表の時期だと言われています。「貿易不均衡是正を迫る」という目的に沿って激しい日本叩きのための「米マスコミの情報を完璧に操作」する体制が整ったのだと・・・。そして70年代〜80年代前半、防衛費増額を促進する日米国防族合作の工作の中で、日本のマスコミを巧みに操作するシステムが整った。それが80年代、「経済官庁同士の外圧づくり」に応用されたのだそうです。84年のブロック通商代表による日本の「農産物市場解放プログラム」が、実は通産省の入れ知恵で作られたものだったという「ブロック事件」は有名です(エコノミスト91年9月24日)。

対米奉仕のための市場管理に対して、「市場管理は企業の活力を損ない、没落を早める」という鉄則は、「アメリカ企業自身の没落を早めるだけ」という論調で、この協定に反発する日本人を宥める役割を果たしました。それはまさに「自力での外圧排除」を諦めて「天罰」を待つという、消極的過ぎる抵抗意識でしたが、もちろん現実はそんなに甘くありません。

結局、それまでの「言いがかりダンピング輸入障壁」や「輸出自主規制」は、アメリカの主権によってアメリカ市場を管理するから、被害はアメリカ市場に及びます。ところが半導体協定は、日本市場に対する管理を強制する訳ですから、「規制によって歪められる」のは日本市場です。結局この「天罰」説は「日本が受ける被害」という、事の本質を忘れていたのです。

伊丹氏は、アメリカによる「日本企業はアメリカ市場に依存して儲け、国内を閉じている」という言いがかりをデータによって廃し、半導体市場が元々極めてローカリティの高い性格を持っているのだ・・・という事実を明かしています。だから日本メーカーが本当に依存しているのは実は日本国内市場であり、アメリカに対する輸出というのは、アメリカメーカーが安易な工場移転による不良品増加で自滅した結果に過ぎない。その一方で、国内に強力なライバルのいる日本市場でアメリカメーカーが高いシェアを取れないのは自然です。それを無理に「シェア増加」を要求すれば、無理が生じるのは当然なのです。だからこそ彼等は「日本ユーザーが欲しい品物」を作るのをサボり、そのツケを日本企業に押しつけることで、余計な労力を使わせて出血を強いて日本企業を潰したのです。

霍見芳弘氏は、半導体協定やその他、87年の制裁・屈伏劇に大きく影響した東芝ココム問題での交渉における、通産官僚の非常識な馴れ合い・追従ぶりを痛烈に批判しました。国益を破壊する無茶な要求に対して、ほとんど意図的に言いなりになっているとしか思えない・・・と。もちろん、その官僚の国益破壊を擁護するマスコミの無能に対しても、です。きちんと反論・抵抗することは十分に可能で、それが国際的な常識である・・・と。もちろん、官僚がそうした義務を怠ったのは、彼が言うような、単なる「無能」による追従・・・というよりは、もっと深刻な、意図的な「裏切り」なのだという事は、言うまでもありません。

ただ、霍見氏の論で残念なのはリビジョニスト(と、実はその通産官僚自身)の、ノートリアスMITI論に瓜二つな論調で「悪いのは日本だ」と、結局アメリカを擁護してしまっている点です。「万能の官僚統制」という神話を前提(それが通用しないから、復活させるための摩擦利用)に、「値下げ競争」で負けただけのアメリカ企業の言い分に踊らされ、スパコン摩擦が「入札に参加したいだけ」なんて建て前に踊らされてしまうのは、彼の「親米派」故の限界なのでしょうか。交渉事でアメリカに逆らうのが「あちらの感情」を怒らせるから日本が悪いとか、挙げ句はあの悪名高い反捕鯨ゴネゴネ団体の言いなりにならない事が「世界を怒らせた=日本の国益に反する」とか・・・。

これでは、彼が批判している筈の「非常識な馴れ合い・追従」をまるで奨励しているようなものです。アメリカの圧力に対する当然の反米感情を「ヒステリー気味の大合唱」などと貶め、「回りの国が迷惑するから経済戦争だけは回避せよ」と政府の弱腰を擁護する御用マスコミと同じ事を主張するのはいただけません。これでココム事件の際のノルウェー世論の国益擁護を羨ましがるのだから、筋が通らないのではないでしょうか。アメリカの官民癒着を、市民(摩擦企業)に政府が奉仕する民主主義の鑑・・・などと持ち上げ、日本企業のあるべき戦略・・・とかで、アメリカ中華思想に染まったおかしな発想が、彼の著作には多々ある。

東京一極集中を批判しながら、「日本企業はニューヨークに本社を移して一極集中せよ」とか、「アメリカで英語で世界中の情報が手に入る」・・・というので、それでは日本の情報は、というと、三大紙の英語版を読めば日本の全てが解る・・・などと。その日本のマスコミを、一方では政府の言いなりで信用できないって言ってるんですから、これは笑うしかありませんね。

同様に、貿易黒字悪玉論を批判した野口氏ですが、一方で日本国内の反黒字減らし要求派による対米批判を「自国の貿易黒字を歓迎している」からアメリカの要求と同じなどと書いていますが、これでは実質的に、黒字減らし要求に同意しているのと同じです。「よい外圧もある」などというのは、民主国家としての根源を否定しかねないだけではなく、「赤字か黒字か」しか見ていない視点で、見かけ上アメリカの強欲との違いを強調するだけでしかない赤字転落容認論は、本来の自由貿易論の根拠である「経済合理性」こそが問題の核心である事実を忘却し、そうした合理性を高め、効率的な経済を実現することによる、国際的競争努力の放棄を迫ることになってしまう点で、日本にとっても世界にとっても、到底プラスにはなり得ません。

通産OBの天谷氏は、この醜い日本叩きを「経済を重視し文化を軽視したツケ」と正当化を試みています。では、文化とは何でしょうか。それは、様々な情報を創造し発信するものです。それは、「自ら」の立場を当然反映した好みや価値観の主張から生まれます。アメリカの発信したそれらを「ありがたく押し頂く」自称協調派にとっては、日本人自らの立場の主張など「許されざる傲慢」だった筈です。そういう人達が多数を占め、あろうことか少数の自己主張派を抑圧さえした、天谷氏を代表とした彼等こそが、この日本に文化小国の状況をもたらした張本人ではないのでしょうか。

辛うじて日本が世界をリードする文化を創造できたのは、そういう彼らの欧米を代弁した「大人のくせに電車の中で漫画を読む恥ずかしいやつら」という抑圧の声に、耳を貸さなかった人達だという事実を、彼等はどう弁解するのでしょうか。

彼等は「日本に関心を持つ外国人が増えた。しかし日本人はその外国人に心を開こうとしない」と言い張ります。ではその外国人が、本当に「日本人に対して心を開いた」のか?到底、そうは思えません。日本人が海外に出れば、「日本的行動様式」という看板が「非難理由」になってしまいます。「金持ち日本人から巻き上げるのは当然の権利」などとうそぶき、「平和ボケで警戒しない日本人が悪い」などと、責任を被害者になすりつけて犯罪者を正当化する。彼等が日本に対して求めていたのは、結局「金」であり「技術」であり「成功した秘訣」であって、生身の日本人の姿など、知ろうともしなかったのではありませんか。そのくせ「商品は知ってるけど顔が見えない日本人は誤解されて当然」などと、平然と責任を転嫁する。

「日本は情報を得るだけで出そうとしない」と言いますが、日本は謙虚に「仲よくなりたい」と思うからこそ、外国の情報を自ら得ようとしたのです。彼等は日本の情報を自ら得ようとしたか?マスコミにしても、「相手国情報」の需要があるからこそ、その国のマスコミ資本が伝えるメディアを供給するのです。それを、上げ膳据え膳で日本が情報を持ってきてくれない・・・などというのは、甘すぎる我が儘と言う他はありません。

ナタデココブームの時、日本に高く売れるからと、ココヤシの農場に投資したフィリピン人がいました。ところがブームが去って売れなくなり、借金を返せずに自殺した・・・。まともに日本の情報を求めれば「あんなものはろくでもない」という意見は当時から多かった。続かない事なんか解る筈です。それを日本に対して本気で付き合おうという姿勢もなく、金だけ求めるから、こういう事になる。それを従米派の人が何と言ったか。曰く「ナタデココ殺人」などと、まるで日本に殺された被害者であるかのように、とんでもない言いがかりをつけたのです。

相手に好意を持って耳を傾けるから、「何を欲しているか」を理解でき、それを供給する商売が可能になる。だから日本は成功したのです。仲よくしようともせずに金だけ求めて、或いは奉仕の心を忘れて「成功した秘訣」だけを求めて・・・。そういうのを「インチキ指向」と言います。

日本が何故、経済発展できたのか。アメリカや欧州の資本家・経営者に都合のいい説明では、「働き過ぎの日本人対怠け者のアメリカ労働者」という事になっていました。「蟻のように働く日本人」というのは、あの反日家クレッソンの台詞で、それを受け売りした・・・というより、受け売りする立場にあったのが、日本の「放言政治家」です。中曾根の「知的水準」発言。渡辺の「アッケラカーのカー」。これが「アメリカ人の感情を害して摩擦を深刻にした。

悪いのは日本であってアメリカは悪くない」という反日の言い訳として、アメリカで大々的に利用されましたが、誰でも知ってる筈のその本質を顧みれば、こんなもので被害者意識を振りかざす事の恥は知れる筈です。「アメリカ産業が弱いのは、黒人などの底辺の労働者がサボるから」と見え透いた言い逃れを並べて「だから競争で手を抜いて欲しい」と談合を迫る、アメリカ人資本家の言い分を追認するような政治家は、日本人有権者にとっては「裏切り者」です。実際、彼等は常にアメリカとともにあり、日本人を裏切り続けました。「ロンヤス」を看板にした中曾根にしろ、原爆対日加害を進んで免罪した渡辺にしろ・・・そもそも、半導体協定という「日本産業の死刑執行命令」に直接サインしたのは、彼等なのです。

そうした従米政治家の愚かさは、言うまでもないでしょう。それは彼等の従米というスタンス自体の愚かさなのです。そういう人種偏見を憎むなら、競争を続ける「日本の立場」を支持し、「アメリカ産業の潰すつもりか」などと競争放棄を要求する保護主義要求を堂々と非難すべきだったのです。それを一方では保護主義的日本叩きに荷担しておいて、どの面下げての「放言批判」か!ましてや、それを口実に、外圧利権資本家と肩を並べての日本叩きなど、矛盾も甚だしいと知るべきでしょう。

「日本異質論」の過ちは、90年代に入って大前氏や霍見氏等によって完膚無きまでに暴露されました。それでも、彼等の反日姿勢そのものは擁護しようというごまかし論は生き続けました。「悪いのは日本だ」という論法で。「日本の成功を説明する理由づけ」のために「日本人が自らのユニークさを強調したツケ」として日本文化の特殊性を誇った反動だと・・・。リビジョニストの言いがかりの非を認めつつ、これによってあたかも「自業自得」であるかのように正当化したのです。

実際には、ずっと以前から「菊と刀」に代表される、欧米が言い出した日本特殊論が存在していた事実を、これらの論者は無視しています。例えば「欧米の罪の文化に対して、日本は恥の文化だから倫理性に欠ける」とか、「欧米は論理性の文化で日本は感情の文化だから理性に劣る」だとかの非難と偏見に満ちたものでした。「日本の常識世界の非常識」としてあざけり、「だから日本は欧米の言いつけを守れ」と。

それが「多元文化論」によってマイナスがプラスに転じた結果、「日本はユニーク」という発想が生まれたに過ぎないのです。そのずっと以前から「サムライ・ゲイシャ」の感傷的指向と文明論的軽蔑心の対象としての勝手な日本像を求めてきた彼等が作り上げた幻想が、対等を求める日本人の心をどれほど踏み躙ってきたかを考えるならば、文化摩擦をでっち上げて日本を叩く行為が、どれほど罪深いものであるか・・・彼等は思いを巡らすべきではないでしょうか。

日本が繁栄したのは「人種的に優れていたから」でも「特殊なノウハウを持っていたから」でもない。ましてや「アメリカから繁栄を恵んでもらった」からでも「狡い事をやった」からでもない。顧客に対して謙り、奉仕の心を持って商品を作り、販売したからに他ならないのです。ただこれは、別の事実の裏返しでもあります。そもそも何故「押し売り貿易」が犯罪的かというと、本来なら財・サービス、輸出・国内販売を問わず、商行為で「代価」を貰うということは、相手の求めに対して奉仕した見返りを得るという、顧客に対して謙虚な奉仕の心こそが、日本が輸出経済で成功した理由に他ならないのです。

つまり日本の繁栄は、多くの国に対して謙虚に「奉仕」した当然の果実であり、日本のように繁栄したいなら、同じ事をすればいいだけなのです。それを、市場における消費者を無視して、市場をあたかも資本家が儲けるためのゼロサム的資源か何かのように勘違いして「日本に市場を恵んでやったんだ」という。経済とは「互いに利益を与え合う」ための共生行為に他ならない。政治や軍事のように相手を縛る「パワー」を奪い合うものでは無い。安くて良い品物を輸入するのは、それを使う消費者自身の利益のための権利であって、だから自国市場を閉ざすのは、その「権利を放棄する」に過ぎない。だからこそ「市場開放」は繁栄の元なのです。それを、「輸入してやった」などと被害者意識を振りかざしたり、恩を着せたりするなんてとんでもない心得違いです。

これこそ「経済的成功」を政治的権利拡張と同一視できない、理由です。「経済侵略」だの「経済支配の陰謀」だのと政治的ゼロサム論理を振りかざすのが間違いな理由です。経済大国化した日本の存在そのものを「警戒」して潰す事を意図が批判されるべき理由です。そして、あまつさえ買い手の権利を侵害して、政治力によって強制的に売りつける行為が、許されざる犯罪行為である理由です。

「何故日本は経済的に成功したのか」という、何か日本が特別のことをやったと、出来れば、狡い事をやったと思いたがる人達が、世界には大勢いました。そういう傲慢な対日姿勢こそが、逆に言えばそれまで、彼等が成功出来ない原因ではなかったのでしょうか。彼等にしてみれば絶対認めたくない事なのですから。

逆に、一部の人が言うような、日本が特殊な文化だからでも、人種的に優れているからでもない、外国に対して姿勢を低くし、奉仕の心で摂したからです。日本企業が外国に輸出する物は、常にその国の基準に合わせた。商談には、英語より相手の国の言葉を使い、そういう相手国言語を話せる人たちが、過去、各々の国に駐在する商社にはいたのです。「商社は日本経済の尖兵」だった理由が、これです。

アメリカが日本に対して、例えば左ハンドル車を強引に押しつけるとかというのは、「相手に合わせる」という顧客奉仕の基本原理を無視した暴挙なのです。サイドミラーの衝突吸収機能やヘッドレストに関する義務づけを「非関税障壁」などと言い張るのは、相手国の安全基準を無視した暴挙なのです。しかもアメリカは、EUでの同じ基準には対応した商品を輸出するにも関わらず、日本に対しては対応を拒否しました。日本人顧客に対する差別的な軽視で傲慢な商売を行う彼等に、まともに日本で儲けることなど、そもそも不可能だったのです。

こうした日本人の「奉仕の心」は、戦後の日本の政治的地位の低さ・惨めさと無関係ではないでしょう。「敗戦国」として差別・精神的搾取の対象になり続け、世界中の政治的サンドバックとして叩かれ続け続けたのです。ISバランス論で言う、日本人が貯蓄超過で消費が少ない・・・というのも、「消費者」として心地よくサービスを受ける立場に無い・・・と多くの人が感じているからです。多くの日本人が外国の思いのままに圧力を感じて「自分達はこの国の主人公でない」と知っているからこそ、「国は頼りにならない。お金だけが頼り」と考えて預金を増やすのではないでしょうか。

逆に言えば、その人達の感覚に合った財・サービスが提供されるかどうかは、社会が誰を「主人公」と考えているかに拠ります。消費者としての立場を無視されるのでは、消費が増える筈がないのです。例えばパソコンやインターネットでは、長いこと「やりたきゃ英語を覚えろ」と言われました。それで「はい、そうですか」と英語を始めるのは、ごく一部の人です。「インターネットは英語で」とか言われている間は、インターネットは普及しなかった。

日本語のコンテンツが揃うようになってから、初めて普及したのです。ジョンネスビッスは「英語のプログラム言語を強制するようでは、日本で商売にならないが、やがてアメリカのソフトメーカーもその傲慢に気付くだろう。そうなれば日本市場はアメリカ企業のものだ」と言いました。結局、アメリカのソフトメーカーは日本語のプログラム言語を作るような「覚睡」は果たさなかったのです。「傲慢は死ななきゃ治らない」という事なのでしょうか。

結局、「不均衡」を本当に解消する正道は、日本にとって不幸なそうした地位を回復する事なのです。差別を解消し、対等を実現する他は無いのです。90年代に入って、こうした不公正な対日認識に異議を唱える意見は、日本において目覚ましく増えました。しかし、国際的に承認されなければ、意味がありません。

対等の立場の回復を前提とした賠償付き平和条約を無視して、「日本は戦争責任を果たさなかったから、対等になる資格は無い」という言い訳を垂れ流す事は、最早、許されない。彼らの唯一の言い分は「それでもアジアの感情が」である。そしてその言い訳は、「感情優先の日本文化は論理的理性と契約重視の世界の文化の中では通用しない」という論理が必然的に粉砕します。長年に渡って日本を非難してきた「世界標準」の存在から、日本断罪論の非合理性が逃れる事は不可能です。

逆に、アメリカ人が日本人に「顧客」として奉仕することに不熱心な限り、赤字が無くならないのは当然です。「日本人相手にサービスするなんて屈辱、多額の報酬が無ければ割りに合わない」という傲慢の罪を、こともあろうにお客様たる日本人に転嫁し、彼等は罪を重ねてきました。「日本で売られているアメリカ製品が高い」のだって「多額の報酬が無ければ割りに合わない」という彼等アメリカの輸出業者自身が、値段を吊り上げて大儲けした結果ではありませんか。

不当な赤字削減要求に迎合した、政治家や学者達の度重なる受容発言は、国民と正義を裏切る許し難い無責任行為です。そうした裏切りこそが、実行不可能な「黒字解消発言」です。しかし、それを不当に強要したのはアメリカである事実もまた事実なのです。その、最も肝心な根本を忘れ、「空手形を乱発した報い」などと、あたかもアメリカには責任が無いかのような擁護論をほざく学者もまた、無責任の罪を重ねている自らの醜い姿に気付くべきだったのです。

こうした不当な外圧から、最後に自国を守るのは誰か・・・と言えば、それは結局は国民の世論であり、それを形成するのはマスコミの「言論」です。本来なら国民の声を代弁する筈だったそれは、国民を裏切って隷米政府・官僚が国民を押さえる道具に成り果てていたのです。しかし、マスコミが「ユーザー」である国民を無視できないのも、また事実です。

こういう勢力が国民の声を抑える武器は、大体、パターンが決まっています。それは暗黙のうちに制度化された「タブー」・・・戦前の「天皇批判」のように、神聖不可侵として意識に植え付けられた

今まで日本では、アメリカ批判はまさにタブーでした。「アメリカを怒らせる」からと・・・。喩え「アメリカの主張の過ち」を指摘しても、アメリカに対する批判はするな・・・と。そのタブーを犯すものは「軍国主義者」のレッテルを貼られる訳です。「いつか来た道」とか言って。しかし、主張の過ちを指摘するのは主張に対する批判ではないのか。そして、アメリカの主張を批判する事は、タブー破りのアメリカ批判・・・というのが、どこにでもいるアメリカ擁護者のスタンスなのです。

だから、アメリカの立場を批判する人がいたとしても、より強く日本を批判してバランスを取るか、あるいは、アメリカの立場として半分を認めるとか、あるいは「アメリカのためにならない」という論法を使うとか、あるいは「アメリカ市民の立場は違う」とか、真っ向からの正邪の別をつける事を回避するよう論を工夫する必要に駆られる事になる。

あまつさえ、アメリカでは自国の利益のために口汚く日本を罵り、あからさまな不当利益を要求しているというのに、それを真っ向から批判出来ないとしたら・・・。きちにとした正邪の別に言及できないまま、なし崩しに「アメリカはより正しい」という、論証を要求されない前提で、アメリカは攻勢をかけ、日本の立場は常に守勢に立たされてしまう。「アメリカに利益がある」事が、正当性の根拠となり、「アメリカが主張する」事が正当性の根拠となる。そんな不公正な「共通認識」の元で議論を闘わなければならないとしたら、まともな議論など、望むべくもあのません。

どちらか一方が批判から守られるようなものが、まともな議論と言えるでしょうか。これはものの喩えではありません。現実に私がネットで議論する相手の、特にアメリカの対日要求に対する批判に対して、多くの対立論者が「アメリカ批判である」という事自体を、実際に攻撃の理由にしてきたのです。「アメリカ批判が何故悪い」という論理的な問いに、けっして彼等は答えず、決まり文句が「アメリカと戦争になるぞ」・・・。まさに「俺を怒らせたいのか!」と凄むヤクザと同じです。アメリカだけではなく、ロシアなどに関しても、そうでした。「日本人は外国を批判してはいけない」という、牢固たる不文律が、あるのです。日本人だからと、事実を指摘してはいけないと言うのです。

これが彼等の言う「世界の常識」という訳です。そうした彼等の論理構造を実証すると、彼等は怒ります。事実を指摘されて彼等は怒ります。「お前は俺をヤクザ呼ばわりした。俺を侮辱した」と・・・。全く処置無しでありまして、こうした従外派が「知識人」と称して、延々と日本の対外姿勢を精神的に腐らせてきたのですから「破綻」は必然だったのですね。

古森義久氏は言います。「言いたい事があるならアメリカに行って直接アメリカ人に言え。日本国内でアメリカを批判するな」と・・・。アメリカでもどこの国でも、自国内で自国語で日本を批判します。それを古森氏のような従米ジャーナリストが日本に持ち込んで「対米譲歩要求」を代弁している事実を、彼はどう説明するのか。全くもって無茶苦茶な言い分であり、正当な主張に蓋をするため以外の何物でもありません。どこで言おうと「正しい事は正しく、間違っている事は間違っている」のです。

そして今まで、アメリカ批判が許された唯一の例外が、左派としてのアメリカ批判でした。ロシアや中国の利益のため、自衛隊の「同盟者」としての米軍を批判するため、組合や共産党や市民団体の立場での「資本主義」批判のため・・・。だから、アメリカの横暴を批判したい人が、左翼に集まったりする。それが日本の左派を延命させたりしました。

しかし、彼等にとって、日本も「敵」という事になる。そして戦後処理が終わったにも関わらず「歴史カード」を振りかざして、日本を叩く勢力を肥大化させていく。彼等にとっては「日本政府批判」は=「日本批判」であり、それは必然的に日本人全体を締め上げます。今度は中国や韓国の奴隷として、日本を売り飛ばす側に回る・・・、それが彼等の大前提なのです。

こうして、左右両派が、アメリカと中露の利益を代弁して「日本潰し」を競う。彼等は日本を潰すための車の両輪であり、裏の同盟者なのです。そして今までの日本における「政治勢力」は、そのどちらかだった・・・。それはつまり、日本において「政治的要求の正当な根源」は、日本人ではなく外国の利益だったから・・・。日本人自身の利益に根源を置いても、それは「利己主義」と見なされた。その意味で日本人は、本当の「主権者」としての地位を奪われていたのです。

こう考えると、今までの日本の「体たらく」は、極めて自然な成り行きなのです。しかし、そんな「現実」を認めていいのでしょうか?少なくとも、表の世界では、我々は自由な民主国家の主権者として認められてきた。そして我々を支配してきた勢力は、その我々の地位を、建前上認めることでこそ、その地位を維持してきたのです。我々の「日本の主権者」としての地位は、十分すぎるほどの正当性があるのです。それを惰性的な従外意識によって放棄を続ける事は、知的怠慢以外の何物でもありません。こんな悪習を、子供達に残していい筈がありません。こういう不公正な政治的構造こそが「構造改革」されない限り、真の21世紀は来ないのです。そのためには・・・

これは外国を排斥するとか報復するとか、そういう問題ではありません。先ず、国内でこの不公正を延命させた責任者を引き出し、正当な裁きを与える事が必要でしょう。そして国民個々の自覚を促し、不当な外圧の批判と排除を・・・、日本は日本自身の利益のためにあるという事実を、世界に宣言すること、そしてかつてのアメリカがそうしたように、団結してこの崩壊した経済を再建すべく、失われた競争力を取り戻す必要がある。世界のために」と、不自然に意図して放棄した競争力は、同じく一致した意識によってしか取り戻せません。

しかし、破壊されたこの国のために「団結して努力する」という発想は、若い人達には「ダサい」という発想でしか見れません。そうした「日本なんか潰れていい」「スチャラカにやるのがカッコイイ」という発想に毒された人達を正気に戻し、再び結束を取り戻すには、その根源を正視する事を避けては通れないと思います。

通産省国売り物語(完)

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