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猶太と世界戰爭
U 猶太と世界戰争

七、前世界大戰に於ける猶太の策謀と獨逸の敗戰

限られた紙面に於て課題を詳細に論じ得ないことは自明であるから、この小論では在來の歴史書に於ても見られるやうな表面的な事實の記述を略することにしたい。かくて我々は第一次世界大戰に於ける軍事的情況が大戰の終末に近い頃に於て如何であつたかを見ることから始めよう。さて當時英國の戰時内閣の一員で後に加奈陀首相となつたロバート・ボーデンに依れば、「千九百十八年の春には英國參謀本部は獨逸に降伏する意圖を持つてゐた。聯合國側には、獨逸が早急に崩壞する見込は全く立たなかつたのである。英國は獨逸の戰線の背後で何が起つてゐたかをまだ知らなかつた。獨逸に於て社會民主主義者達が佛蘭西の間諜と共謀して、戰線を背後から撹亂しようとしてゐたこと、また此の祖國への叛逆行爲が佛蘭西から資金の供給を受けてゐたことを、英國はまだ知らなかつた。佛蘭西首相クレマンソーがその間諜の手から、獨逸は秋には革命が起るといふ確かな情報を得るに至つて、巴里と倫敦とは再び勇氣を恢復した。英國參謀本部はこの時になつて降伏の意圖を放棄するに至つた」といふのである。
此の記述は驚くべき事實を暴露してゐるが、之を獨逸に於ける當時の文獻に依つて見ると、
「社會民主黨は大きなストライキのみでは革命が招致されぬのを知つて、別の方途を選ぶことにしたが、之が成功したのである。我々は戰線へ出てゐる同志に脱走を勧め、この脱走兵達を組織化して、僞物の身分證明書と資金と宣傳ビラとを持たせて各方面へ送り、特に戰線へと潛入させ、それに依つて戰線を撹亂し、士氣を阻喪させたのである」と猶太人アルベルト・ファーテルは述べてゐる。また前者と同じく十八年秋の革命の中心人物であるアイスネルが、翌年二月四日にベルン市に開催された社會民主主義者の國際會議で演説した所に依れば、「獨逸に於ける革命は戰線の崩壞の結果起つたのてはなく、不撓不屈の裏面的暗躍の結果であつて、獨逸が戰爭に優勢になつたその瞬間から準備されてゐたのである」といふのである。また社民黨の機關誌「前進」に依れば「我々の堅き決心は、獨逸がその軍旗を勝利を得て持ち歸ることを阻止し、その軍旗を永遠に抹殺し去ることである」といふのである。此の最後のシュタムフェルの文に關して注目すべきことは、前二者が革命後のものであるのに對して、之が革命の約半月前即ち十八年の十月二十日のものであることである。
以上に依つて獨逸敗戰の直接の責任者が赤色社會民主黨にあることは明瞭であらう。勿論、如何に彼等主義者連の策謀があらうとも、獨逸人一般が四年に亙る長期戰にも拘らず精神的に毅然としてゐたとすれば、決して敗戰の憂目は見なかつたであらうことはいふ迄もないことであるが、然し上述の如く眞實の強敵が内部に巣喰うてゐて、銃後より戰線を撹亂するに至つたのであるから、獨逸の敗戰が獨逸人自身にとつて如何に不本意のものであつたかが、容易に理解されるであらう。實に當時の獨逸にとつて致命的であつたのは、その銃後が單なる「獨逸人」から成り立つていなかつたことであつて、宮廷には既にバーリン及びラテナウの如き有力な猶太人が君側の奸として勢を振つてをり、新聞界、金融界の主勢力はいふに及ばず、參謀本部の中に於てすら猶太人が主要なポストを占めてゐたのである。軍需品乃至戰時食糧品の供給もまた猶太人の一手引受であつたことは周知である。また上述の社民黨が全く猶太支配下にあつたことも勿論であつて、前述のファーテルもアイスネルも猶太人であることは、自明の理に屬する。
茲で想起しておきたいのは、第一次世界大戰の數年前である千九百十年九月一日にコペンハーゲンで開催された第八囘第二インターナショナル會議である。その顏觸のうち注目すべきものを拾ふならば、シャイデマン、エーベルト、ダーヴィッド(猶太人)、カウツキー(猶太人)、フランク(猶太人)、シュタットハーゲン(猶太人)、ローザ・ルクセムブルク(猶太人)、クララ・ツェトキン(猶太人)、カルル・リープクネヒト(猶太人)等獨逸人及獨逸系の猶太人の外に、英國からは後の首相ラムゼー・マクドナルド、白耳義からは同じく後の首相ヴァンデンヴェルゲ、そして露西亞としてはボルシェヴィズムの大立物である兩猶太人即ちレーニンとトロツキーがある。後の佛蘭西大統領又は首相のブリアンは事故のため缺席したが、會議へ宛てて鄭重な祝電を寄せてゐる。次に我々は眼を轉じて、十八年十一月の獨逸の赤色社民系革命の主役者の顏觸を見るに、ハーゼ、コーン、アイスネル、ヘルツ、ヒルファーディングを除けば、リープクネヒト、カウツキー、ローザ・ルクセンブルク、シュタットハーゲン等は前記の會議と共通の名である。この著名の九人はすべて猶太人であるか、彼等猶太人を首謀者として成就された革命によつて生れた獨逸共和國には、初代大統領としてニーベルトが選ばれ、首相はシャイデマンであつた。レーニン、トロツキーに關しては今は言葉を費す必要はないであらう。
かくて獨逸の崩壞が主として何者の手によつて遂行されたかは明瞭となつたであらうし、またそれが少なくとも大戰數年前から計畫されてゐたことも、かのコペンハーゲン會議の内容を見るまでもなく明白であらう。

前述のコペンハーゲン會議が社會民主主義の猶太的性格を暗示してゐることは改めて説明するまでもないであらうが、なほそれが我々の重大關心の的とならざるを得ないのは、その會議の場所がフリイ・メイスン祕密結社の一種であるオッド・フェロー祕密結社の會堂であり、出席者の殆ど全部が、フリイ・メイスン結社員であつたことである。換言すれは、社會民主主義は、猶太的であると同時にフリイ・メイスン祕密結社と密接な連絡を持つてゐるのである。これは赤色帝國主義の創始者のマルクス以來の傳統であつて、既に千八百五十一年には、「デモクラシーとはフリイ・メイスン祕密結社の子供である」と結社員フィッシェルが主張してゐるのでも判明する。いま我々はこの祕密結社そのものに就いて詳言する紙面を持たないが、我々の記述の理解に必要なる程度に於て一言するならば、それは表面的には「自由・平等・博愛」をモットーとする相互扶助結社であるがその本質は、このモットーを掲げてなされた佛蘭西革命がフリイ・メイスン革命と稱せられる一事によつても明白なやうに、「世界共和國の建設」を目ざす政治的陰謀結社であつて、「愛」を説く基督教の歴史が「戰爭」の歴史であるのに類似して「自由・平等・博愛」の名の下にテロと戰爭とを手段として用ひるのである。そして少なくとも佛蘭西革命・・猶太解放革命とも稱せられる・・以來は、その上級結社員の大部分が猶太人であることによつて、テロと詐欺とで猶太世界國を創設しようと舊約聖書の日以來努力し續けてゐる猶太の世界支配政策の一機關となつてゐるのである。それ故に歐洲識者の間では、この祕密結社員中の非猶太人は「人爲的猶太人」と稱せられるのが常である。かくて猶太とこの祕密結社との當面の目標は、世界戰爭を繰返すことに依つてその大目標を實現することにあるのであるが、現在の英米に於ての如くに帝王又は大統領の地位までもが猶太の血族によつて占領されてゐる場合以外は、かの「人爲的猶太人」を利用して各國の政界の上層部、財界の中樞部、言論機關の首腦部を占據しようと努めるのである。最も危險なのは、この勢力が軍部の上層部を侵略する場合であつて、この例もさまで珍しくはないことを我々は銘記しなくてはならない。
茲で急いで第一次世界大戰當時の獨逸に眼を轉ずるならば、大戰當初より十七年迄の獨逸首相ベートマン・ホルヴェーヒはかの祕密結社員であつたばかりか、その體内には猶太の血が流れてゐたとさへ言はれてゐる。特に當時優秀であつた獨逸海軍の潛水艦を重用することに極力反對した彼の態度は、結社員としての彼の本質より説く以外には説明の道のない事柄の一つであるとされてゐる。當時宮廷に勢力を持つてゐたバリーン、ラーテナウ等が結社員であつたことは勿論であるから、之等の君側の奸と、かの政治責任者との間の關係を知る時には、戰時下獨逸として不思議に見えた種々の現象も容易に理解し得るものとなるであらう。
次に注目すべき出來事は、開戰間も無く巴里を衝かうとしてゐた獨逸陸軍が何等の軍事的理由なしにマルヌ戰線より後退したことであつて、之は祕密結社員ルードルフ・シュタイネルの策謀の結果とされてゐる。即ち軍司令官モルトケは、シュタイネル崇拜の夫人と、戰線まで出勤して彼を説いたシュタイネル自身との歡告に從つたのである。これがフリイ・メイスン祕密結社に依る軍部侵略の恐るべき一例である。
かやうな實例を基礎として考へる時、當時既に獨逸にも劣らず猶太とフリイ・メイスン結社との支配下にあつた英米佛等の聯合國側が軍事的敗北にも拘らず敗戰の憂目を免れ、軍事的には勝利を得た獨逸が崩潰の悲慘に陷れられるに至つた理由も容易に明瞭になるであらう。即ちそれは、猶太及びかの祕密結社の目標としての世界共和國建設に最も障害となる強力なる帝政としての獨逸帝國の轉覆のために外ならない。從つて名目上の帝政に過ぎぬ英國の場合は、皇室そのものが傳統的に全面的に結社員となるといふ事情も手傳つて、倒壞の目標となることはなかつたのである。記録に依れば、前獨逸皇帝は、かの祕密結社に入會しないといふ理由に依つて、千八百八十八年の即位の年に既にフリイ・メイスン結社によつて死の宣告を受けてゐた。とにかく英米佛の結社員は少なくとも對獨逸關係に於ては、上述の理由から反祖國的となることなしにすむのである。フリイ・メイスン結社の發祥地及び中樞が英國であり、その政治結社化の尖端が巴里であることも、以上の事情を説明するに役立つであらう。
なほフリイ・メイスン祕密結社が第一次世界大戰に於て演じた役割に關して、一二の注目すべき事柄を舉げておかう。その一は當時獨逸と同盟關係にあつた伊太利の背信の問題であるが、これは伊太利フリイ・メイスンの大棟梁で羅馬市長であつたナータン、外務大臣ソンニーノ、大藏大臣ルツァッティの策謀の結果であつて、三人ながら祕密結社員であると同時に、猶太人であつた。第二は日本の場合であつて、時局下の我々に取つては必ずしも愉快な話ではないが、當時の爲政者が國民的感情を無視してまでも日英同盟の義務を果たしたのはフリイ・メイスン結社の暗躍の結果であつたと、この方面の文獻には必ず明記されてゐる。日本人は國内に於て此の結社に入會することは禁止されてゐるさうであるが、外國滯在中にそれに入會することは許されてゐるらしく、特に英國滯在の長期に亙る重要なる個人の場合は結社よりの働きかけが成功することが屡々あるらしい。日英同盟の立役者林子爵が英國のフリイ・メイスン祕密結社の高級社員であつたことは、世界的に有名な事實である。現在の日本に於ても、國民的感情を無視する根強き親英米派なるものがかかる「人爲的人猶太人」でないとは何人も斷言出來ないのは誠に遺憾である。
かくて、敗戰獨逸に共和國が實施されるや、結社員シャイデマンは、「獨逸國民が全面的に勝利を得た」と意味深長な嘘を語り、バーデン國のマクス王子は和蘭の新聞通信員に對して「いま獨逸に行はれてゐることは多年の潛行的準備仕事の結果である」と結社員に相應しい誇示をなし、プロイセン王子レオポルドは、その居城に赤旗を掲揚することさへして、猶太的赤色祕密結社員の本領を發揮したのである。何れの國に於ても無批判なる長袖者流こそ最も容易に猶太と祕密結社の餌食となり易いのであつて、亡國的なる「上よりの民主政」もまた帝政獨逸を崩潰させるのに功があつたのである。
敗戰獨逸の革命後の對外關係の理解に資するために、聯合國側の著名の非猶太人祕密結社員の名を列擧しておかう。英國側ではロイド・ジョージ首相、キッチナー元帥、チャーチル海相(現英首相)、グレイ首相、アスキス首相、リルラン大統領、米國側ではウィルソン大統領。この中に猶太人の名の見えないのは、表面的な最重要ポストには「人爲的猶太人」を立てて世人を欺くのが猶太の常套手段であるがためであつて、その代りに著名人には必ず祕書に猶太人を配するのである。クレマンソーに於けるマンデル(最近まで佛蘭西の植民相であり、今次大戰中は佛蘭西内相であり、佛印援蒋の指令者であつた)、ロイド・ジョージに於けるフィリップ・サスーン、アスキスに於けるモンターギュ、ウィルソンに於けるハウス大佐の如きはその好例である。不思議なことではあるが、某國の今は亡き元老の場合も或意味では例外ではないやうである。

最後に我々は、獨逸敗戰の責任者の第三として政治的カトリック、就中イェズイット結社を擧げたいと思ふ。而してこれもまた事實上猶太と關係深く、教祖基督が猶太人であつたことや、聖書(特に舊約聖書)がその本質に於て猶太民族の世界征服のプログラムであることを除外しても、法王そのものに幾人かの猶太人があり、殊にイェズイット結社は既にその第二代目の統領が猶太であつたのである。この國際的團體は、時としてはフリイ・メイスン結社と激しい鬪爭をすることもあるが、しかし共同の敵のある時には直ちに共同戰線をしき易く、例へばかの著名な千九百二十二年のアーヘン會議の如きはその好例である。從つてプロテスタント國帝政獨逸がその世界政策の障害であることは自明であり、猶太の頭目ラーテナウとイェズイット結社の頭目エルツベルゲルとの間には獨逸分割の協定さへあつたと傳へられてゐる。前者のことは前に論及した通りであるが、後者は猶太人であり、またフリイ・メイスン結社員とイェズイット結社員とを兼ねてゐたのであつた。その彼が佛蘭西との休戰協定の獨逸委員としてコンビエーヌの森へ赴いたことは、後の講和條約に際して獨逸代表としてヴェルサイユへ赴いた連中が全部猶太人であつたのと共に、なかなかに興味深い事柄である。
「我々中央黨が獨逸の革命を遂行したのである」といふのが、革命後の獨逸カトリック政黨たる中央黨の頭首ヴァッケンの語である。
かくてこの中央黨と前述の社民黨とが協同して獨逸の「新體制」は成つたのであるが、その實權が何者の手にあつたかは今改めて説く必要はないであらう。やがて登場して來た獨逸人民黨もまた、その表面的主張にも拘らず、フリイ・メイスン祕密結社員シュトレーゼマンに統率されることによつて、眞の獨逸人民とは關係の薄いものてあつた。かくて實權は猶太の手に歸し、政治はスポート化され、家の子郎黨に至るまで交代に大臣となつて、私益のみをはかり、獨逸をいよいよ泥沼の底に突き落して行つたのである。而して戰線に於て最後まで勇敢であつた軍部も、その統率者達の思想的無能と時代に對する認識不足のために遂に祖國を内敵から救ふ道を知らず、獨逸國民はヒットレルの出現を待つ外に道はなかつた。實に當時は、猶太人ドイチュが陸軍大臣となることさへ可能であつた。而して共和國獨逸に於て如何に猶太人が得意の絶頂にあつたかは、このドイチェの次の語で明示されてゐる。
「ドイツ、ハンガリー、オーストリアには革命が成就し、共和國が樹立された。我々が思考し得るやうになつて以來燃える如き心で夢想し憧憬して來たものが、今や實現したのである。今や我々猶太人は全く上位にゐる。今や我々が主人公なのである。」
同じことをラーテルナウは、「皇帝が白馬に跨つてその股肱と共にブランデンブルグの門を通ることがあるとすれば、世界史はその意義を失ふであらう」とその作品「皇帝」の中で述べ、猶太の世界支配の成就の過程としてのみ世界史には意義のあることを公言してゐる。かくて舊約聖書以來の猶太の夢は、戰敗國獨逸に於ては實現したのである。否、戰勝國英米佛に於ても事情は同一であつて、第一次世界大戰の眞の戰勝者は猶太のみてあつたと稱せられる所以はここにあるのである。
今や第二次世界大戰は二個に分裂して東と西とに於て戰はれてゐる。猶太はそれが亞利加大陸をも含む文字通りの世界大戰に進展する迄はその裏面工作を續けるであらう。そしてその大戰こそは、猶太の世界支配を完全に實現するか、或は根本的に挫折せしめるかの何れかに到達する運命を持つてゐると思はれる。かの純猶太祕密結社員であつた孫逸仙以來「人爲的猶太人」のみが構成して來た重慶政府と戰ひつつある我々は、以上の事情を確認して更に大なる決心を固むべきであらう。(一五・八・七)

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