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HOME>>資料室 TOP>>猶太と世界戰爭 目次>>U 猶太と世界戰争【六、日猶事變としての日支事變】
猶太問題を知るために猶太人を知る必要のあることは言ふ迄もないことであらう。しかし、その猶太人を知るためには何よりも先づ猶太教聖典「タルムード」を知る必要のあることは、猶太問題に多少の興味を持つてゐる人も、なほ十分に認識してゐるとは言ひ難いやうである。現代の如くに宗教心の衰へてゐる時代に於ては、或る民族の宗教聖典は、その民族の特性を知る十分な材料とはなり得ないかも知れない。しかし皮肉なことには、宗教排撃の急先鋒である猶太人こそは最も宗教的信仰の強烈な民族であつて、かの反宗教運動の正體なるものも、その主張の元祖としてのマルクスが最も熱心な猶太教徒であつた・・表面上には政略的改宗をしてゐたにも拘らず・・といふ象徴的な場合が證明して余りあるやうに、猶太教以外の宗教の排撃に外ならなかつたのである。この事は、現在の露西亞に於て、猶太教とその教會堂とが革命前と殆ど同樣に保存され助長されてゐる、といふ驚くべき事實によつてもまた證明される。それ故に他の民族の場合はとにかュとするにしても、少なくとも猶太民族の場合には、その宗教聖典は猶太魂の最もよき鏡であるのである。或る民族の特性はその宗教乃至宗教聖典に於て最もよく窺われる、といふ言葉は、猶太民族の場合には文字通りに妥當するのである。
併し猶太聖典「タルムード」は、所謂「トーラ」の解釋とその再解釋とより成立してゐるのであるから、猶太民族の眞の姿を把握するためには、先づ「トーラ」そのものに就かねばならない。そして「トーラ」とは、舊約聖書の最初の五卷を言ふのであつて、これが猶太教の眞の根本聖典なのである。勿論猶太民族を知るためには、「トーラ」と「タルムード」の外に、舊約聖書の殘餘の部分及び新約聖書、なほ古くはマイモニデスの著作、新しくは「シュルハン・アルフ」(「タルムード」の拔粹竝に解釋より成る)、更に新しくは所謂「シオンの議定書」と稱せられる怪文書等をも知ることが絶對的に必要であるが、しかしこれらが總て「トーラ」乃至「タルムード」の解釋、拔粹又は延長であることを考へるならば、「トーラ」と「タルムード」を知ることのみでも大體に於て目的が達せられることがわかるのである。併し我々は、この小論では、この問題のみを論じようとしてゐるのではないから、茲では「トーラ」及び「タルムード」を中心として、最も根本的であると思はれる幾つかの點に關し記述し、以下の考察の序論としたいと思ふ。
そもそも宗教乃至宗教聖典に於て最も重要な點は、その神觀と人間觀とにあることは言ふ迄もないであらう。宗教とは、その根本を神と人間との關係の問題に持つてゐるものだからである。それ故に我々は、「トーラ」からは猶太人の神觀を、「タルムード」からはその人間觀を見ることにしよう。さて「トーラ」に依れば、猶太の神エホバは、一言にして言へば猶太の民族神であつて、例へば新約聖書に於てキリストの説いてゐる如き普遍唯一の宇宙神ではない。從つてその神は、人間的な過誤を犯し、心變りし、不公正であり、復讎心が強く、殘忍であるが、その神が一個の民族神に過ぎないことは、この神が猶太民族に世界支配を約してゐる點に特に明瞭に見られるのである。
「汝は汝の神エホバの汝に付したまはんところの民をことごとく滅し盡すべし、彼等を憫み見るべからず。また彼等の神に事ふるべからず、その事汝の罠となればり。」(申命記七・一六)
「エホバは彼等(異邦人)の王等を汝の手に付したまはん。汝かれらの名を天が下より除き去るべし。汝には抗することを得る者なくして、汝つひに彼等を滅ぼしつくすに至らん。」(申命記七・二四)
我々はいまはこれ以上に「トーラ」より引用することを避けるであらう。しかし以上のみをもつても言ひ得ることは、斯くの如き神は一個の民族神としても決して高等なる種類のものでないといふことである。もし我々をして端的に言はしむるならば、エホバとは即ち一種の妖怪乃至惡魔にすぎないのである。而してこの妖怪乃至惡魔は、その殘忍性を發揮して、異邦人の神を排撃し、非猶太人の王を廢止し、異民族のすべてを滅亡せしめようとするのである。ここに於て我々が思はずも想起するのは、赤色主義者の宗教排撃と君主制乃至王政轉覆の運動であつて、この種の運動が古來猶太人によつて指導されて來た事實を知る者は、共産主義者乃至革命主義者なるものが猶太的傳統の忠實なる遵守者であることをも容易に知ることが出來るのである。然も同一の事は、猶太人をその主體とする國際資本主義に關しても言はれ得るのであつて、猶太資本國の獨裁する所謂デモクラシーなるものも全く同一精神のものであることは今更説明の要はないであらう。而して以上の猶太神觀から得られた認識は、猶太人の人間觀を知るに至るとき、一層の確證を得るのである。
では猶太民族の人間觀は如何なるものであるか。「トーラ」に描かれたる所に依れば、猶太人そのものは既に物質主義者であり、嘘言と詐欺と竊盜とに長じ、性的には無恥で、奸策と詭計とにすぐれ、從つて非社會的であり、また復讎心強く、殘忍性に於ては無比である。然も最も注意すべき點は、「タルムード」(及びその解釋の書としての「シュルハン・アルフ」等)に見られる次の人間觀乃至非猶太人觀である。
「猶太人のみが人間と呼ばれるのであつて、非猶太人は人間とは呼ばれず、動物と呼ばれる。」
猶太民族から見れば、猶太人のみが人間であつて、非猶太人は豚であり、馬であり、動物であり、時としては動物以下のもの(例へば糞尿)であるとさへ言はれるのである。從つて猶太人と非猶太人との間には人間と人間との間に成立する總ての關係は成立しない、といふ結論が生れるのも不思議はないであらう。この人間觀から「トーラ」に描かれている前述の如き猶太人の諸特質は生れて來るのであつて、非猶太人には所有權はなく、猶太人は非猶太人に對しては誓約を守る義務はないといふのである。從つて非猶太人の所有物は當然猶太人のものである許りか、非猶太人のものは元來猶太人のものであるから、如何なる手段によつてもそれを奪取することは、神慮を行ふものであり、なほ一層進んでは、溺れんとする非猶太人を救ふ義務はないのみか、寧ろ彼の溺死を助力することこそ神慮に叶ふといふのである。非猶太女の貞操を蹂躙する位のことが朝飯前のことであるのは、以上述べた事から容易に察せられるであらう。
以上の略述によつても、猶太民族が元來如何なる特性を持つてゐるかは大體に於て理解が出來るであらう。而してこれは、モーゼに率ゐられて埃及を去つた群衆が犯罪者と天刑病者であつたといふ昔の史家の説や、猶太民族が有史以來漂浪して行く處に於ては唯一の例外もなく所謂排猶問題を惹起せざるを得なかつたといふ事實を充分に説明するものではないかと、我々は考へる。猶太人が排猶者を排斥する爲に常に宣傳する「人種的偏見」乃至「少數民族の虐待」などは、事實に於ては全くその逆であることが歴史の事實の證明する所であつて、如何なる民族の如何なる宗教聖典に於ても「トーラ」乃至「タルムード」に見られる程の「人種的偏見」と「少數民族による多數民族の虐待」の例はないのである。排猶とは、人間のイデーを二重の意味に於て救はんがために、キリストの語を借りて言へば、「劍を出す」所の聖業であるのである。即ち、一つには、猶太人に依つて抹殺された非猶太人の人間たる資格を恢復し、今一つには、妖怪乃至惡魔を神として戴くことの迷妄さから猶太人そのものを救はんがためである。併しこの聖業に際しては、相手が上述の神觀と人間觀とを持つた特殊民族であることを充分に考慮して、非猶太人の心理で事に當つてはならない。勿論我々と雖も、猶太人もまた結局人間であるこを否定する者ではないが、しかし上述の如き猶太人がその本來の人間に復歸する迄には、恐らく猶太の過去の歴史四千幾百年に相當する年數が今後必要であるのではないかと考へる。而してその條件としては、彼等がすべての猶太教會を破棄し、「トーラ」と「タルムード」とをすべて燒却することが絶對的のものでなくてはならない。要するに、猶太の歴史を構成すると言つても差支へない「嘘言・詐欺・謀叛・暗殺」が、「トーラ」及び「タルムード」に見られる神觀と人間觀とにその根底を持つてゐることを知ることが、猶太問題研究の最も基本的な要諦である。
併しこの小論の目的は、日猶抗爭としての日支事變であつて、猶太民族そのものに關する評論ではない。しかしそれにも拘らず我々が上述の論をなしたのは、日支事變の眞の意味を明らかにすることは、猶太民族の本質とその根本意欲とを明らかにする所なしには不可能だからである。防共をその最も神聖なる意義の一つとする日支事變は、屡々ラジオ等に於て報ぜられる通りに國民黨と支那共産黨との抗爭が事實であるのみか、深刻でさへあるとすれは、我々としてはその重要目標の幾分かを失ふことになるであらう。即ち共産黨と抗爭する蒋政權は、たとひ排日侮日抗日の非道を犯したとは言へ、此の防共の一點では、今や我々と同一の線上に立つことになるので、この蒋政權を「相手とせず」と主張するのは、少くとも蒋政權の防共的側面を無視することにもなると考えられるからである。無批判になされるラジオ等のかかる通信放送は、それを是正することなく、その侭許しておいて可であらうか。殊に萬が一にも今後益々蒋政權と支那共産黨との軋轢が甚だしくなるか、或は蒋政權及びモスコーが猶太的に共謀してこの種の有名無實の軋轢を捏造して宣傳放送する時、日猶の抗爭としての日支事變の眞相を達觀しえない者は、その日本人たると外國人たるとを問はず、今度の聖戰の意義に關する確信に動搖を來すことが無いであらうか。この惡質の宣傳放送によつて日獨伊の防共陣營に搖ぎが來ようとは思はれないが、しかし世界の大衆は、國内に於ても國外に於ても、常にかかる確信に生くる者のみであるとは限らないのである。また國外は言ふに及ばず國内に於ても、猶太の宣傳ならば何事もそれを眞と信じ、猶太戰線に躍ることを眞理に忠實なる者と考へる程のセンチメンタリストがゐないとは限らないのである。
それ故に精神總動員下に於ける最急務の一つは、日支事變の持つ日猶抗爭としての意味を一般に徹底せしめる事である。猶太人が日本の雜貨を世界に賣捌いて呉れるといふ如き枝葉末節の唯物主義的言説や、日露役に於ける猶太人の資金融通を忘れてはならないといふ如き無暗と恩を着たがる性癖は、それ自身としては正しい要素を含んでゐるかも知れないが、しかしそれらの事柄が事實に於ては我々が乘ぜられ、利用されてゐることを示すに過ぎないといふことは、猶太の歴史を多少なりとも知る者には自明のことであつて、非猶太人の心情をもつて推察したこの種の甘い言説こそは猶太民族に取つては最も好都合のものであり、從つて猶太人は非猶太人のお人好しから出て來るこの種の言説を當てにして、古來その世界政策を遂行して來たのである。ともすれば日本主義雜誌にさへもこの種の新説ならぬ珍説、名論ならぬ迷論が見られるので、聖戰の最後的勝利の確保のためには、この種のお人好しの無批判論説を先づ無くすることを忘れてはならない。殊にかかるセンチメンタリズムの結果として、ナチス獨逸の事業をして眞に永久的價値を獲得せしめてゐる重要要素としての所謂排猶・・その意義は前節に於て論及した通りである・・を邪念をもつて眺め、時としてはそれを過激なる暴政と見做すに至つては、その人が單にマルクス主義の思想的批判の無能力者たることを證する許りでなく、マルクス主義と所謂ファッショとの區別さへも出來ない程度の思想的未熟者であることを證明するので、防共を聖業の一端とする今事變下に於ては、これにまさる痛恨事は少ないのである。萬一にもこの種の人々が今なほ日本にありとすれば、彼等こそ最も猶太が頼みとする徒黨であつて、所謂國内に於ける猶太戰線のうち、彼等こそ最も無害らしく見えながらも最も有害なる容共派であるのである。正面より排日侮日抗日の勢を見せる容共派はこれを防ぐことも容易であらうが、容猶派ナチスの形式で押し寄せる容共派は、ともすればその巧みな明細のために世人が欺かれるからである。殊にこれは、容猶排ナチス主義の當人が、自己の容共主義に無意識である時には一層大きい害毒を齎らすのである。
然らば、日支事變の眞義が日猶の抗爭であることは、如何にして證明され得るであらうか。これに對しては、現在の世界が政治的にも經濟的にも思想的にも極めて複雜であるのに照應して、極めて複雜した方面から囘答がなされ得るのであるが、この小論に於てはそれをあらゆる角度から論ずることは不可能であるので、我々の視野に入つて來る限りに於ける最も重要なる事項を選んで論ずることにしたいと思ふ。
先づ最も注目すべき最近の事項の一つは、猶太人トロツキーの日支事變に關する豫言(?)である。それに依れば、日支事變は、日本のあらゆる戰略上の勝利にも拘らず、結局は日本の敗北を以て終るであらう、といふのである。この預言は、共産主義者トロツキーが猶太人であることを知る人には、それが猶太人の見解又は希望であることが直ちに看取され得るので、別に大した意義のないものであることが判明するのであるが、しかし彼の預言は、以上に續けて、英國は印度を失ふに至るであらう、と言つてゐるので、ここに一段とその意義を増して來るのである。では猶太共産主義者トロツキーは何故に日支事變と關連させて、或は日支事變に關連する預言と同時に、英領印度のことに言及したのであらうか。殊に現在に於ては、英國もまた佛・米・チェッコと同じく所謂デモクラシーの國として完全なる猶太の獨裁下にあることを考慮する時に、日本と共に英國が問題にされるといふことは、大きな矛盾ではないであらうか。殊にトロツキーは、現在では第四インターの頭目であるから、たとひ第三インターが最近に英國に對して攻勢に出ることを決議し、例へば猶太人少佐の率ゐる勞働黨等をお先棒として策動してゐるとしても、トロツキーの英國に關する言説は、少なくともこの連絡に於ては不合理ではないであらうか。併しここに想起しなくれはならないのは「トーラ」の神觀に關する我々の前節の記述であつて、猶太人は、彼が國際資本閥に屬しようと、第三インターに屬しようと、他民族の神と君主とを排撃してそれを破滅に導くことが問題となる限りに於ては、皆直ちに一致するのである。この觀點から見るとき、現在の米國乃至チェッコは猶太人を大統領とし、佛も先には生粹の猶太人(ブルム)を首相としたのみならず、今また猶太女を妻とする者(ダラヂエ)を首相としてをり、ソ聯もまたこの點では同一(スターリン)であるのに反して、英帝國は、それが事實上猶太獨裁下にあるとは言へ、形式的にはその元首はなほ猶太人とはなつてゐないのであるが、これが、猶太民族から見て、「トーラ」に示されてゐる神慮に叛くことは言ふ迄もないことであらう。殊に猶太の有力なる代弁者であつたフリイ・メイスン祕密結社員イーデン外相を退けた英現内閣に對しては、猶太の不滿は各陣營を通じて大なるものがあることは察するに難くないのである。これらの點が、英國に比類なき日本國體に對する猶太の深く激しい呪詛の表明の序に英國をも竝べて論ぜしめるに至つた最大の理由であらう。
ここで我々は當然猶太の血を享ける亡命ソ聯大將リュシコフ問題にも觸れなくてはならないが、先づ我々は、日本の聰明なる新聞記者連が彼との會見に於て最も重大なる二點を充分に明らかにする勞を取らなかつたことに對する遺憾の意を表明したいと思ふ。即ちその第一は、大將がソ聯を脱出した今日に於てもなほボルシェヴィズムの信者であるか否か、といふことであるり、サの第二は、大將と第四インターとの關係如何である。「嘘と詐欺と謀叛と暗殺」との國ソ聯に關して同じく「嘘と詐欺と謀叛と暗殺」とをその歴史の本質とする猶太民族に屬する一人が言ふことは、その人が例外的に善良なる個人である場合にも、なほ我々としては輕々しく直ちに文字通りには信ずることは出來ない。殊に大將と第四インター乃至トロツキーとの關係が明白にされない限りは、大將のソ聯の内情に關して暴露する所も、その侭信ぜられる譯には行かないのは當然であらう。特に我々猶太問題に注目して來た者に取つては、大將がカガノーヴィッチ閨閥の獨裁的地位に關して語らなかつたことが大きな謎として殘るのである。以前に識者の間ではトロツキーとゲー・ペー・ウーとは連絡を持つてゐると信ぜられてゐたが、この説が最近の肅清工作の遂行の示す所によつて或程度まで眞實であることが證明されたやうに見えるにも拘らず、今や猶太・・少なくともパレスティナ共産黨・・はトロツキーに味方して、スターリンを見捨てたといふ噂に對しては、いま直ちに全幅の信頼をおく事は出來ないのである。その理由は、ソ聯をも含めての「持てる國」としての侵略國の旦那衆は、多少の暇があれば互に「私刑」に陷るのは、その唯物論の當然の歸結であるからである。
併し我々は、いま國内に亡命中の大將の件に關しては、上述の諸疑問が明らかにされる迄は論じないことにして、ここでは筆を轉じて、近來行はれた猶太諸會議のうち、特に注目すべき二つを取りあげて、日支事變が日猶事變であることを明らかにすることに進みたいと思ふ。
その一つは、昨昭和十二年十二月二十六日から二十八日にかけて滿洲國ハルピンに於て開催された極東猶太人協會の第一囘會議である。この會議に關しては種々の解釋が下されてゐるやうであるが、その議長がカウフマンであり、副議長がベルコヴィッチであり、顧問としてザイグレーフが擧げられてゐる所から見て、この會議の決議もまたあらゆる他の猶太人會議のものと同じく、その正體が「宣言」でなく「宣傳」であることは、我々の確信する所である。殊に猶太の幾千年の歴史を知り、また猶太が東洋に於て英・佛・露等の名の下に久しきに亙つて何を策謀して來たかを考へる時、その「正義日滿支持」の宣言は、窮地に陷つた場合に禍を轉じて福となさんがために、猶太が非猶太の正直さと正義心とを利用してなす常套的詐欺手段以外の何ものでもないことは直ちに判明する。殊に議長カウフマンが、この會議の前後に於て天津及び香港に赴いて、或は講演に或は會談に於て、亞米利加猶太資本の北支流入を策動したことを知る者には、かの會議そのものの内容が日支事變によつて動搖した猶太の東洋に於ける地位を再確立せんとするものであり、そのまことしやかな決議宣言はそのための宣傳であることが理解されるのである。即ち皇軍に依る北支及び中支の占據のために受けた在支猶太財閥の痛手、排日侮日抗日の暴擧に驅り立てた蒋政權の餘りにも無力さによつて明らかにされた猶太の違算、猶太勢力の表面的形態としてのソ聯・英・米・佛等のわが國に於ける威信の失墜等、直接間接の猶太地盤の動搖のみならず、昨年末の迷彩日本共産黨の檢擧の結果として赤化宣傳の無力化に座視し得ざるは當然であつて、之がかの極東猶太人會議となり、その宣傳的宣言となつたのである。殊にその宣傳文書中注目すべきは、「歐洲數ヶ國及びソ聯によつて猶太人の一切の人權が蹂躙され、猶太教が悉く絶滅され」と書かれている點であるが、これは英・米・佛・チェッコ等の猶太獨裁國は勿論のこと、ソ聯乃至赤色西班牙に於ても事實はその正反對であり、むしろ一切の人權を蹂躙されてゐるのはこれらの諸國の多數民族であり、絶滅されようとしてゐるのは特にソ聯乃至西班牙に於けるキリスト教徒である。それ故にこの部分の眞意は、獨逸・伊太利・防共西班牙に對する毒矢にすぎないのであつて、一言にして言へば防共諸國間の離間がその隱れたる目的であるのである。その際に猶太專制下にあるソ聯を加へたのは、日本とソ聯との緊張した關係を利用して、あはよくば日ソを相戰はしめ、それによつて猶太民族の最近の目標たる第二次世界戰爭を勃發せしめようとしてゐるのである。以上に續いてその宣傳文は、彼等の紋切型の口上である「少數民族の迫害」を持ち出し、それに依つて彼等自身の少數民族に依る世界多數民族の搾取の事實を隱蔽し、更に猶太民族の「道徳的長所」と「一般人類の文化に對する寄與」とを力説することさへもしてゐるが、その「長所と文化に對する寄與」とが表面的形態はともあれ、結局本小論第一節の如き内容を持つものであることを知る者には、その餘りにも猶太的なる厚顏無恥さに文字通り開いた口が塞がらぬのである。然も更に「日滿兩國は猶太民族に取つては唯一の平和郷である」と嘯き、コミンテルンを「世界的罪惡の根源」であると白ばくれ、「大家族主義的家主義」を日滿兩國の使命であると煽動するに至つては、その言辭の尤もさに反比例する内容の猶太的惡逆さを痛感せしめられるので、如何に人の好い我々日本人と雖も、これをその侭信ずる程に甘くある事は出來ないのである。爆撃せんとし又は利用せんとする相手に對してはその相手の長所を煽動する事によつてその目的を果さうとするのは、これ實に猶太の常套手段であつて、非猶太人の心理を以て猶太人を推しはかる限りに於ては、過去現在の人類の歴史に證明してゐる通りに、必ず猶太人をしてその野望を達成せしめる外はないのである。
ここに我々は、この東洋猶太人協會の第一囘會議の決議文と竝んで、同じく昨年の十月二十八日附パレスティナ發行の猶太新聞ハボケル紙上の次の宣言文に世人の注意を喚起したい。
「チェッコは、他國に對する憎惡と壓制及び反猶太主義の旺盛な諸國によつて取圍まれてゐるにも拘らず、それは岩の如く毅然として立ち、眞の自由なる國として模範たることを世界に示してゐる」
チェッコの内情を知る者は、この自由が猶太人の自由を意味することを直ちに知るであらう。大統領始めとして猶太人が樞要な地位を獨占し得てゐるチェッコこそは、他國に對する憎惡と他民族に對する壓制との模範たる國であつて、これはチェッコが極惡非道のソ聯と軍事條約を締結してゐるといふ一事のみからも、論斷され得ることであるが、そのチェッコを眞の自由の國と稱する猶太民族が東洋に於てのみコミンテルンを「世界の罪惡の根源」と主張することが如何に眞實性を持ち得るであらうか。世界大戰の久しき以前に猶太フリイ・メイスン祕密結社は、獨・墺・露の三帝國を壞滅させ、その中間地帶に一國を作つて歐洲撹亂の策源地とすることを決議してゐたことは文獻的にも明らかであるが、その策源地として人爲的に生産されたのがチェッコであることを思へば、そのチェッコが猶太の樂天地であるのは當然であるが、東洋にもまたチェッコを建設しようとする猶太の策動に對しては、我々はその宣傳の侭にそれを受入れることは出來ないのである。
次に考慮したいのは、上述の極東猶太人會議が日滿攻略の搦手戰法であるのに對して、同じ日滿攻略の遠距離間接射撃とも言ふべき國際平和運動聯盟主催の無防備都市空爆反對國際大會(本年七月二十四日巴里にて開催)のことである。現在に於てもあらゆる國際會議が世界唯一の國際民族である猶太の指導下にあることは否定され得ない事實であるが、それと同時に注目されるべきことは、現代に於けるあらゆる平和團體が、事實に於ては猶太の當面の目標としての第二次世界大戰惹起の手段化してゐることであつて、巧妙なる猶太の策動は、かかる團體を用ひて自己の作り出す世界大戰の責を他へ轉嫁することを期してゐるのである。それは例へば、日支事變を勃發せしめたのも結局猶太であるが、しかしその責は專ら日本にあるかの如くに世界の無批判なる大衆に信ぜしめてゐるのと、全く同一筆法である。猶太の息のかかつたもののなす事であれば、ソ聯に於ての如く幾百萬幾千萬の人間を殺戮することも正義であり、英・米・佛に於ける如くに少數國際資本が大多數の民族を搾取しても正義であり、また支那に於ける如く堤防を破壞することによつて幾十萬の自國の民を苦しめても正義であつて、それらに對しては何處よりも一片の抗議も發せられないのであるが、猶太の世界支配の道を阻止するものは、自國を滅亡の淵から救ふことも惡虐非道の暴擧であり、防備都市を爆撃することも人道を無視する行爲と稱せられるのである。巴里に於けるこの國際會議の議決を見ても、この意味は餘りにも明白に露呈されてゐる。殊にこの會議もまた猶太の策動であることは、同大會にメッセージを寄せた者が猶太フリイ・メイスン結社員蒋介石であり、西班牙人民政府ネグリン首相であり、チェッコの猶太フリイ・メイスン結社員ベネッシュ大統領であることによつて明瞭である許りか、その會議からメッセージの送られたのが亞米利加猶太フリイ・メイスン結社員米國大統領であること思へば、思ひ半ばに過ぎるものがあるであらう。この會議に英佛のメッセージのないのは、フリイ・メイスン結社員である佛前空相が司會してゐるためであり、英國猶太人がこの平和聯盟の中樞をなしてゐるがためであらう。
獨伊を除く世界の言論通信機關の大部分を掌握する猶太の動きは、その東の決議を常にその西の決議と連絡せしめ、その赤色系の策謀を常にその資本閥の意圖と連絡せしめるのであつて、このことを知る者には、以上の表裏をなす二會議の決議に現はれたる所のみを見ても、猶太の動向を知るには充分である。この意味に於て、日支事變を誘因として行はれたこの二つの會議は、日支事變そのものが日猶の抗爭であることを充分に證するのである。
上述の猶太の近親遠攻の兩戰法を考慮する時、日支事變の日本に對する所謂世界の輿論の惡化の眞因が直ちに判明するであらう。即ち猶太は、その金力の獨裁下にある世界各國の言論通信機關を總動員して、非事實を事實とし、事實を歪曲して、元來正義心に富む非猶太人を煽動してゐるのである。それ故に日本が正しければ正しい程、強ければ強い程、日本に對する世界の輿論の惡化するのは必然であつて、これは日支事變が日猶事變であることの眞相を掴むことによつてのみ理解されるのである。從つて正義日本の立場は、一部正直なる日本人の考へる如くに、事變の眞相を對外的に宣傳することによつて、正當な理解を得るといふことは、殆ど不可能に屬するのである。否、多くの場合には、日本は宣傳すればするだけ一層世界の輿論の惡化を期待しなくてはならないであらう。この事情は、獨伊の場合と全く事情を同じくするのであつて、この間の事情を明瞭に認識してゐない限り、日本の無批判なる自由主義者が猶太の宣傳を鵜呑みにして眞の獨伊を解しないのに照應して、ともすれば猶太の宣傳のために自國をも見誤る者が生じないとは言へないのである。而してこの銃後の動搖こそは、猶太がその言論通信機關を總動員して世界の輿論を捏造してゐる最大目的の一つでもあるのである。勿論かく言つても、我々は決して宣傳の不必要を説く者ではないのであつて、眞に強力且つ有效なる宣傳は、以上の事實を確認した上でなされない限り、單に無效果に終るのみか、逆效果をさへ生ずることを憂える者であるに過ぎない。第一節に述べた如き神觀と人間觀とを持つ猶太人が同一線上のものとして論ぜられるといふ如き史上稀に見る不公正事さへ平氣で犯されるに至るのである。常に正義を口頭に唱へる北米大統領が、ファッシズムを人類の敵であると宣傳して言へば、猶太の獨裁乃至專制に服さないものは、すべて非人道的の汚名を浴せられるのであつて、この事情の正常な認識がない限りは、例へば所謂「國民使節」乃至「交換教授」などのうちの自由主義者の場合に屡々見られる通りに、事變下に外國に使しても、却つて逆效果を擧げる外に道はないのである。
さて我々は、以上の説が單に我々の想像に止まるものでないことを證明する一つの材料として、在來日本に於ては殆ど問題にされたことのない情報を提出することにしよう。千九百二十八年(昭和三年)は、蒋政權がいよいよその地歩を確立し、排日侮日抗日の政策を表面的に掲げるに至つた年に屬するのであるが、この年の年頭に當つてスヰス國チューリヒ發行の「猶太中央通信」は、その年頭の辭の中で次の如き注目すべき記事を掲載してゐる。
「ヨーゼフとその兄弟達に關するあの聖書に見られる譬喩は、巨大に擴大された姿に於て、この大洋のかなたで演ぜられてゐる。大洋の彼方へと追ひやられた賦役奴隸が世界一の強力な國家の支配者となり、以前の富裕なる彼の兄弟を苦しい困窮から救ふ。この亞米利加移民は、猶太民族全體の爲め礎石となつたのである。
アハスヴェールは夢想しつつ、ハドソン灣のほとりに雲表に聳え立つ無數のバビロン塔の默示録的な姿に見入つてゐる。彼はまた、蜂のやうにこの巨大な蜂房に群り入りまた其處から群り出る所の、またたかだか一世代の間に猶太特別區の住民からあらゆる時代の最大の建築者になつた所の、彼の同族の子孫なるこの大衆の姿に見入り、そして主エホバの御心を認識するのである。
そして彼には、その懸命な支配術を以て五大湖を自己の意の侭に操つてゐる所の、世界を支配してゐる英帝國の正體が分つて來る。彼は外ならぬ其處に、彼の同族の子孫が政治上の人氣ある大家として登場して來るのを見る。そしてこの現象の最後の意味を悟る。
未來の前にかかつてゐる帳が裂ける。アハスヴェールは思ひもかけなかつた幻想を目撃する。即ち、強力な猶太人團が亞細亞の中央に頑張つてゐて、支那といふ巨人・・それが落す影は全世界に伸びてゐる・・の更生を助くる者として贊歎されてゐるのである。
猶太民族は、その散逸にも拘らず、一體となつたのである。イェルーザレムが確かに人類の精神的樞軸となつたのである。精神上の、物質上の、また道徳上の諸力の強力な源泉は、合流してもとの故郷の方へ流れて行く。アハスヴェールは驚愕しつつも偉大なる事件の聯關を納得する。そして新たなる勇氣を以て五千六百九十八年の一里塚を通り過ぎる。彼は以前よりも一層未來の希望に勇んで祝福の祈りを捧げる。」
無國籍漂泊猶太人の象徴であるアハスヴェールの幻想としてここに描かれてゐるものは、猶太の世界支配の過去及び未來の姿である。即ち既に英米の二國は完全なる猶太の支配下にあるが、今や巨大なる支那もまた猶太の指導に入りつつあるといふのである。勿論この點に於ては、英米と等しく或はより完全に猶太の支配の下にあるソ聯乃釜ナ蘭西のことが問題とされてゐないが、これは猶太政策を知る者には自明のことであつて、ソ聯とその半屬國としての佛蘭西が猶太の世界支配のための片腕であることは、猶太としては出來るだけ表面に出したくないのである。しかし現在の我々に特に興味あるのは、この文が引用した部分の第三節に於て支那を問題としてゐることであつて、この象徴的なアハスヴェールの幻想のうちに我々は、その自誇と確信のために不用意にも早期に漏らされた猶太の支那支配の計畫を見ることが出來るのである。
次に我々は、猶太側のこの言説に照應する支那側の材料を一つあげることにしよう。それは、アハスヴェールのこの幻想が描かれた年より三年を經た昭和六年の一月元旦に猶太フリイ・メイスン結社員蒋介石がなした所の年頭講演である。その要旨は、「第二次世界大戰の時期が迫つて來て、之には歐米諸列強も參加するし、日本も無論參加するのである。而して之がために一番多くの犧牲を拂ふものはわが中華民國である。併しこの大犧牲を忍ばなければ、わが國威の囘復は到底見込のないことであるから、我々は今よりその準備に取掛らなくてはならない、」といふのである。さていまこの猶太フリイ・メイスン結社員蒋の年頭演説を考察するのに、最も注目すべき點は確信を以て表明されてゐる第二次世界大戰の豫言である。然もこれは、既に我々が幾度か暗示しておいた通りに、猶太の現在の世界政策の第一の目標であるのであるから、この言辭に見られる蒋の確信は、彼が猶太フリイ・メイスン結社員として猶太の世界政策に呼應してゐるがために外ならない。而して第二次世界大戰の舞臺の中心の一つを支那においてゐることも、猶太の世界政策と完全に一致してゐるのである。ただこの引用の後の部分は、蒋の意圖が中國の國威の囘復にあるかの如くに見えしめるために、正確なる批判力のない者は、我々が既に第二節の冒頭に於て論及した如き錯覺を起させられる事があり得るかも知れない。そしてこれは、これまた既に第二節で論及された如くに、過去にも現在にも蒋政權及びその黒幕としての猶太が目標としてゐる所であつて、その巧みな迷彩によつて猶太フリイ・メイスン結社はその世界支配を完成せんとしてゐるのである。ここに見られる蒋の老獪さは全く猶太一流のそれであつて、蒋の意圖は、印度に於ける國民會議派が國民の名に於て印度をより完全なる猶太の印度としようと努力してゐるのと全く一致してゐるのである。實に蒋政權は、表面的には國民政府と自稱して、國民の眼を欺くために「新生活運動」の如く表面的には支那民衆の利益を計る如くに見せかけながらも、實際に於ては自己の閨閥の利益と猶太の利益とを目標にして政治をなして來たのである。國民政府がその名にも拘らず、一朝事ある時には、ソ聯の猶太共産主義とさへも握手し得るのも、その根底が同一の猶太戰線上のものであるからに過ぎない。
しかし、英・佛・米・ソ聯の猶太戰線の對支援助の理由は、なほ單に以上では盡きないのであつて、日支事變が日猶事變であることは、なほ一層深刻な意味があるのである。即ち蒋政權の猶太との關係は、今迄我々によつて論ぜられまた世上に於ても論ぜられ來つて居る所の利益關係に基く結合關係の外に、今迄極めて稀にしか問題にされなかつた蒋政權の猶太フリイ・メイスン性による連絡があり、なほ一層重要であると共に今迄殆ど全く見逃されてゐたものに、孫逸仙(及び蒋閨閥)が支那猶太人であることに基く民族的血による聯絡が存在してゐるのである。蒋政權が軍事的には見當外れの敗戰に敗戰を重ねて居るにも拘らず、なほ經濟的その他に於て案外のねばり強さを示してゐる眞の理由も、實にこの最後の二點を明らかに認識することによつて、その眞の姿が掴み得られるのである。
三民主義の開祖孫逸仙がフリイ・メイスン祕密結社員であることは、わが國に於ても、苟もフリイ・メイスン結社に關して多少とも知る限りの人に取つては常識である。併し、いま我々に問題であるのは、彼が單にフリイ・メイスン祕密結社員であることではなくて、彼が如何なるフリイ・メイスン祕密結社に屬するかといふことである。恐らくフリイ・メイスン結社に關する研究の諸先輩に取つては既に明白であつたと考へられるが、しかし筆者に取つて誠に重大な發見であつたのは、獨逸の猶太問題研究雜誌「世界鬪爭」がその千九百三十五年の九月號に於て、孫逸仙が在上海のブナイ・ブリス祕密結社の高級社員であることを暴露してゐることである。なほ孫逸仙が同時に支那の祕密結社「天地會」の有力會員であつたことも、舊墺國首都ヴィーンで發行された國際フリイ・メイスン結社百科全書に明記されてゐる。ここで特に注目に値するのは、かのブナイ・ブリス祕密結社が本來は猶太人のみのフリイ・メイスン結社であることと、かの天地會なる祕密結社が、古來祕密結社の跳梁甚だしきこと世界にその比なしとまで言はれる支那に於てさへも最も優勢にして過激なものであり、その儀禮には西歐のフリイ・メイスン結社と深い類似點があることとである。ここで猶太そのものの歴史を囘顧するならば、パレスティナに於ける猶太國の滅亡に當つて、その十二支族の幾つかは東方に移り、その後杳としてその行方を消してしまつたと傳へられてゐるのであるが、少なくともその支族の一つ乃至幾つかは支那に入つてゐるであらうと言はれてゐる。支那の開封には、今なほ所謂支那猶太人が明らかに存在してをり、筆者の手許にその寫眞がある許りでなく、本年獨逸出版の猶太辭典にも、「支那猶太人」なるものの肖像が掲載されてあるからであつて、その服裝が全く支那式である許りか、その容貌もまた大體に於て支那人と見えるのである。ここに於て我々は、西歐に於けるフリイ・メイスン結社の傳統が大部分猶太傳統のものであることを考慮に入れ、またかの天地會の傳統がフリイ・メイスン結社に類似することを考慮する時、孫逸仙は人種的にも純支那人ではなくて、支那猶太人ではないかといふ結論に到達するのである。而してこの大膽にして突飛にも見える結論を肯定してのみ、彼がブナイ・ブリス祕密結社の高級社員であつた理由も判明するであらう。否、それのみではなく、この點よりのみ、彼の謀叛と革命とに對する猶太的熱情及びその三民主義の親猶抗日性もまた充分に理解され得るのである。かくて三民主義とは、猶太フリイ・メイスン主義の支那化に外ならないことが理解され得るし、その三民主義が結局今次の日支事變を導き出して來た理由も理解され得るのである。
次に現在の日支事變の當面の責任者である蒋介石は如何であるかといふに、彼もまたフリイ・メイスン祕密結社員であることは、わが國に於ては孫逸仙の場合ほどには廣く知られてゐないらしい。併し彼もまた三民主義を奉ずる大部分の政略家と同じくフリイ・メイスン祕密結社員であることは、日支事變以來獨逸の猶太人問題研究雜誌が屡々暴露してゐる許りでなく、前にも論及した國際フリイ・メイスン結社百科辭典がそれを證してゐる。即ちそれに依れば、蒋は米國系のフリイ・メイスン祕密結社員であつて、マサチュセッツ州に本部を有する在北京パゴーダ結社に屬するのである。しかしこのパゴーダ結社が、孫逸仙の屬したブナイ・ブリスの如くに純粹の猶太祕密結社であるか否かは、我々には最早重大な問題ではないのであつて、現在に於ける世界のフリイ・メイスン祕密結社が例外なく猶太の支配下にあることを考慮する時、蒋もまた孫の如くに、その行動の根本が猶太フリイ・メイスン結社の綱領に從ふものであることは疑ふ餘地はないのである。
しかしここに誠に興味深い事實は、以前より屡々蒋が支那人ではないとなされることである。これは蒋介石が普通の支那人に見られぬ力強さを持つて事を處して行くことに對する感歎の念より生まれたものであるらしく、時としては彼が日本人に擬せられることさへもあるのである。この世に廣く行はれて來た噂は、それが何等の明確な根據のない噂であるとしても、人間の本能、特に多數の人間の一致した本能なるものが、時としてはあらゆる理性の努力にもまさつて事物の實相を把握するものであることを知る者には、この噂が單なる噂以上の意味を何處かに藏してゐるのではないかといふ疑問が生れて來る。この聯絡に於て筆者が事變以後になつて經驗した大きな驚きは、孫逸仙が猶太フリイ・メイスン祕密結社員であることと共に、蒋介石の顏貌のみならずその全體の身のこなし方に至るまでが、近來ソ聯に於てその肅清工作の犧牲になつて猶太ゲー・ペー・ウーの長官であつたヤゴータと全く同一であるといふことである。筆者は念のためにヤゴータの肖像を多數の人に示したのであるが、一二の例外を除いては、皆その像を蒋であると言ふのであつた。之を換言すれば、蒋の骨相その他は全く典型的な猶太型であるといふことである。
この聯想は、もし猶太ゲー・ペー・ウーの長官ヤゴータと國民政府の實權者蒋介石との間に以上のやうな偶然的相似が見られる許りであるとすれば、一顧の價値もないであらう。しかし我々には、例へば焦土戰術、雜軍整理、督戰隊、河川決潰等に見られる蒋の殘忍性のみならずその藍衣社統率に見られる蒋の陰謀性をも考慮に入れて考察する時、蒋のやり方の根本的特質が全く本小論の第一節に略述された通りの猶太性に外ならないことが判明するので、茲に彼と殺人鬼ヤゴータとの偶然的相似は、その内面的眞實性乃至必要性的根據を得て來るのである。而して蒋と孫との關係も、この點までを把握する時に於てのみ充分な理解を得るであらう。またこの點を捕捉してのみ、三民主義とソ聯との親近性、日支事變下に於ける蒋政權と支那共産黨との共同戰線の眞意も理解され得るであらう。實に蒋政權は、その權力獲得の手段としての國民黨の名やファッシズム的政策の部分的採用にも拘らず、その實質は上述の如き幾重かの意味に於ける猶太戰線であるのである。而してこの點より蒋介石政權のねばり強さの謎も解け、また蒋政權に對する世界の猶太輿論の支持の謎も解けるのである。日支事變は日猶の抗爭であるとの我々の主張は、ここに至つてその最も本質的な意味を明らかにしたであらう。
蒋政權の究極の目的は、少なくとも彼の昭和六年の年頭演説以來彼自身によつても明らかに意識されてゐる通りに、第二の世界大戰の誘發にあるのであつて、これによつて殆ど完成されようとしてゐる猶太フリイ・メイスン結社の世界支配をして、その最後の完成を得せしめようといふのである。例へば蒋介石の去る六月一日の對外聲明の如きも、多少猶太フリイ・メイスン結社問題を知る人には直ちに察せられる通りに、猶太フリイ・メイスン結社員としての蒋が世界の猶太フリイ・メイスン結社に發した救助信號に過ぎないのである。而してそれに應じて表面的に立つたのが赤色系猶太フリイ・メイスン祕密結社であつて、佛蘭西の西沙島占領及びソ聯の張鼓峰占據等は同一の隱れたる指令の下に連絡してなされてゐる對日行動であるに過ぎない。これに對して猶太フリイ・メイスン結社の裏面的對蒋援助工作が今や何處に如何に運ばれてをり、また運ばれるであらうかは、いま我々の明らかにするを得ない所であるが、しかしそれが不日英米佛等の何等かの形式に依る武器供給及び對支借款を以て始まるであらうことは、我々が今日既に豫言し得る所である。(一三・八・五)
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