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猶太と世界戰爭
T 猶太魂の本質

七、國際猶太祕密力の世界新聞統制(譯補)

  1. 新聞の使命
  2. 新聞檢閲の歴史
  3. 新聞の商業化
  4. 新聞の買收
  5. 虚報の勝利
  6. 大戰の通信状態とその後
  7. 佛蘭西新聞界
  8. 英國の新聞
  9. 合衆國の新聞
  10. 言論の自由
  11. 新聞と戰爭
  12. 國際聯盟の惡業と猶太人
  13. 新聞組織の改革
新聞の使命

新聞は言ふ迄もなくあらゆる國民の言葉の擴聲機であり、世界の眼乃至耳であり、また所謂輿論の擔ひ手であり、世界に於ける出來事の焦點を成すのみでなく、空間を超へて人間と人間の間を仲介する役目をもつ。それは政治的地平線にかかつてゐる雲の動きを記すと共に、諸國民の日光を録するが故に、一つの大きな權力と認められねばならない。新聞は單に國民生活に於てばかりでなく、國際的生活に於ても亦前代未聞の有力な政治的機關と認められざるを得ない。總ての大事件に對する諸國民の政見は、新聞を通じて發表されるので、今日ではそれは、世界政治界のバロメーターと呼ばれることが妥當であらう。即ち之なくては全然政治を行ひ得ないし、このバロメーターの針位と振幅とは、世界中の最近二、三十年に亙るあらゆる内閣に對して、世人のよく察知し得ない程に大きな影響を及ぼして來たのである。
抑も世界の政治家の中で新聞界から出た者が如何に多いことか! また今日新聞を讀まない政治家が何處にあるか? 果して彼等のうちで新聞の影響を脱し得るものが幾人あるであらうか? 今日新聞の持つ意義は、人が欲すると欲せざるとに拘らず、どうしてもそれを認め且つ尊重せざるを得ない所にあり、また新聞自身もこの點を大いに誇としてゐるのである。
然し乍ら新聞がこの意義ある地位を保ち續け得るのは、言ふまでもなくそれが、自分自身面目を汚さず、また醜汚な仕事によつて自己の名譽を損傷しない時に限るのである。それ故に新聞は、何よりも先づ眞實の報道を以てその生命としなくてはならない。不眞實は常に必ず新聞の最大の恥辱である。新聞の力は一にかかつて眞實といふ地盤の強弱に存するのである。
所が新聞に與へられてゐるこの力こそは、實はそれに極めて困難な責任を課してゐるのであつて、その故は、この眞實といひ眞理といふものが決して善惡の彼岸にあるものではないからである。この力は必ず國民の安寧と幸福及び人類の福祉のために利用さるべきものであり、萬一にも間違つて用ひられるならば、忽ち國民と人類との不幸と破滅とを招來する恐るべき力に變ずるのである。從つて私的のものであれ、超國家的なものであれ、或る祕密力が、ジャーナリズムの精神的威嚴を支配するに至るや、新聞はそれに應じて世界の危險物となり、一國民人民の内政生活のみならず、結局の所、世界平和にとつても一大危險物と化するのである。
新聞がそのうちに内藏してゐるこの危險は、實に今日に於ては世界政治的意義を有する大問題と化しつつあり、その解決が遲れれば遲れる程、この危險も増大して來る。成程之迄でも責任感ある政治家や新聞人が、この危險に就いて多く書いたり語つたりしなかつた譯ではない。然し遺憾乍ら彼等の聲は聞き逃され、單なる沙漠の説教に終つたのである。世界新聞界はこの問題になると多くは沈默を守るし、「輿論の政府」と自稱する民主主義國家も新聞の有するこの危險に對して戰を挑む勇氣は持たないのである。それは新聞界そのものが或國際的祕密力に依つて支配されてゐる上に、所謂デモクラシー國家に於ては政府自身がその新聞界に依存してゐるからである。かく見て來ると、これら諸國の政府及びこれら新聞の讀者は、少くともこれ迄の所では、眞の平和の敵でありまた現代に於て最も危險な戰爭煽動者でありまた世界輿論の毒藥處方者である所の新聞背後の祕密力といふものに對しては、全然盲目であつたと言はれねばならないのである。
我々もまたかかる危險力に對して口を緘すべきであらうか? 否、世界新聞界の破壞力が人類の災厄となつた今日に於ては、我々はこの暴状に對して敢然と戰はねばならない。そしてそれは單に國民又は平和のためのみではなくて、責任感を持つ新聞とその當事者とに途を拓き與へ、その勇氣と道義力とを鼓舞し、且つ一般に眞理の傳播を容易ならしめんがためである。然しもこの困難な課題を解決し得るのは、あらゆる猶太及びフリイ・メイスン祕密結社の迫害に抗しつつ人類の新時代のために戰ひつつある防共諸國のみである。防共とは實に反猶の別名であり、排フリイ・メイスン結社の異名であるからである。
上述の事情は、言ふまでもなく、日本に於ては多少とも異つた所がある。然し現代に於ては、通信交通機關の發達の結果としてわが國の新聞界が世界のそれと全く絶縁状態にあることは不可能である。殊に日本の新聞にも、毎日外國電報が現はれるのであるから、眞に國を思ふ者は、新聞當事者たると否とを問わず、充分の反省と自覺が必要であると思はれる。

新聞檢閲の歴史

千四百七十九年と言へば、かのグーテンベルグが印刷機械を發明してから間もなくのことであるが、この年にケルンの大僧正は羅馬法王に申請して、一定の出版物の發行人・印刷者・著者及び讀者に對して教會上の刑罰及びその他適當の方法によつて干渉を加へる特權を得た。更に千四百八十六年にはマインツのベルトホルト大僧正が自分の教區を取締る特別の檢閲委員を任命したし、千五百一年には、法王アレキサンデル第六世が、爾後「嚴格なる信仰に背馳し、神をなみし、人心を怒らす如き」言葉を印刷に附することを禁止するといふ布告を出した。かくて新聞の檢閲なるものは、初めは俗界からではなく教會側から提起されたのであり、之が俗界側の政治的檢閲に法律的根據を齎したのは、千五百二十四年のニュルンベルグの國會の時のそれを以て嚆矢とする。そしてその條文には、「當局は必要に應じて印刷物その他を檢査し、爾後誹謗文及び誹謗畫等を悉く驅逐し、その傳播弘布を抑止すべし、」とある。
古い文書に徴すると、既に土耳古戰爭の頃無道な物語作家の類が跋扈し、毒筆を揮つて既成秩序の破壞を企てたので、彼等は町から町に逃げ廻らねばならなくなつたさうであるが、その際には教會團體は何れも密告者の役を引受けてゐたらしい。フリードリヒ大王が「新聞紙は面白きものたる限り、妨害されてはならぬ、」と言つた言葉はよく、彼の自由主義を示す材料として引かれるが、然し同じ大王が、その三年後即ち千七百四十三年七月九日に、新聞の自由を内閣條令によつて撤囘したことはもつと重大に取扱はれねばならないであらう。その條例には、「ベルリン諸新聞の發行者達は、檢閲用見本刷を要せずといふ自由權を惡用し、諸種の虚報を載せ、外國に不快の感を與へたるを以て、王は命を下して、檢閲用見本刷なしに新聞を印刷する自由を撤廢し、豫め有識の權威者をして檢閲をなさしめ、その裁可を經ざれば發行するを得ざらしめんとし給ふ、」と書かれてゐるのである。
之に依れば、フリードリヒ大王は如何に巧に新聞を行政のために利用し、又それに干渉を加えたかが察知せられる。大王は、千七百六十七年伯林市に新しく戰爭の噂が流布した時、伯林の新聞に命じて、ポツダムを襲うた強烈な暴風雨に就いて次の如き報道をなさしめてゐる。
「ベルリン特報、木曜、千七百六十七年三月五日。ポツダムより左の報あり。二月二十七日夕刻、空は眞暗にして、雷雨を孕める雲によつて全地平線は蔽はれたり。雷光凄まじく、雷鳴ありて、人智の考へ及ばざる勢にて雹降れり。農夫が車に繋いで町に引き行ける牡牛二頭の中、一頭は立所に即死、街上の町民達は負傷し、農夫はまたそのために腕を折れり。屋根は雹の重量によりて破壞せられ、この暴風雨を運びし風に向へる窗は皆損傷を受けたり。街上にては南瓜程の雹塊の認めらるるあり、その溶けるに二時間以上を要せしといふ。この特別なる現象は頗る大なる印象を與へたり。自然科學者の言に依れは、空氣は抑もかかる氷塊を運ぶ力なき由なり。その眞否はともあれ、かかる出來事が極めて稀なる事に屬し、殆ど類例なきことは確かなり。」
實際の所、ポツダムでは風も吹かず、雹も降らなかつた。そして伯林人は兔に角新しい噂の種を得て戰爭の恐怖を忘れてしまつた。
とにかく老フリードリヒ大王は、上掲の内閣條令によつても解るやうに、言論の自由に就いては苦い經驗を持つてゐたのである。千七百七十二年四月七日に彼は佛蘭西人ダラムベールに宛てて次の如くに書いた。
「言論の自由はその不可避の結果として誹謗書を生む故に、常に濫用され易きかかる自由に對しては強制的防壓手段の必要なることを余は確信す。」
所が、かく新聞に批判的態度をもつて當つたのはフリードリヒ大王だけではなく、當時の有名な國法學者クリスティン・フリートリッヒ・ダニエル・シューバルトの如きも言論の自由(彼によればむしろ言論の厚顏無恥)の濫用に反對した一人である。彼は屡々報道の信用し難き點と矛盾を難じ、所謂「……なる由」なる言葉を嘲笑して、それはつまり風評と虚僞との境目が明かでなくなつたとき新聞記者が縋り付く尻尾であり、百口ある怪物に他ならない、と言つてゐる。また新聞の虚僞は物語の國に篭つてゐる眞黒な渡り鳥にも比すべきである、と彼は言ひ、和蘭のパンフレットや小册子や新聞雜誌がこの國に起つた暴動に大きな關聯を持つことを指摘し、更には、巴里の書籍檢閲が頗る嚴重に行はれてゐるのを喜んで、次の如くに總括してゐる。
「國家・宗教・良俗・良民等が思ふさまに傷けられる惧れのある國は、追剥と殺人者の棲む森である」
以上二人の言葉によつて我々の知り得ることは、デモクラシーが聲を大にして、人類の神聖な財であり又新聞の發展のためのかけがへのない原動力であるとして讚美する「言論の自由」なるものが、しばしば事實に於ては有恥有害なる空辭の最たるものであり、自由なる美名の下にかくれて輿論を毒する恐るべき害物であることである。
而してこの言論の自由の出發點は、千七百八十九年の佛蘭西革命に外ならない。同年八月二十六日の所謂「人權宣言」の第六條には、
「自分の思想及び意見を發言する權利は、それが新聞による時であれ、或は他の方法に依る場合であれ、決して禁止されてはならぬ、」
と書かれてゐる。
同樣の考は少しく制限を受けてゐるが、千七百九十一年の佛蘭西法第十二條にも規定されてゐる。
「思想及び意見の自由なる發表は、最も貴重なる人權の一つである。從つて國民は皆何れも自由に語り、書き、印刷することが出來る。ただ各人はこの自由に法律が加へる制限を顧慮すれば足りる。」
このやうな立派な公告があるにも拘はらず、佛國では、法律上言論の自由が保證されてゐた時代に、政治的權力者の嫌ふ新聞には重い壓迫が加へられた事實がある。千七百八十九年にマレー・デュ・パンはその主宰する「メルキュール・ド・フランス」誌に次の如く書いてゐる。
「我々が檢閲の閾から逃れて來た瞬間に、もう我々は苛酷な殺人劍に曝されてゐた。」
千七百九十三年三月八日の憲法會議で一人の議員が、「ジャーナリストには決して全權を與へてはいけない、彼等は立法者が仕事をする空氣を毒するだけである」と主張したことがあるが、之が言論の自由の本場と稱せられる佛蘭西の出來事である。更に四年後巴里で起つた補欠選擧では、ジャーナリストは候補者となり得ない、とされたその時の憲法會議で或る演説家は、「世人は須らくジャーナリストを淫賣婦と同視すべきであつて、その故は、彼等はこの女達と同じく周旋人を有し、買手を探すために道路を驅け拔け、また公の健康を毒するからである。」と言つてゐる。
それ故にナポレオンが、クーデターをやつた後に出版界にも手を下したのは、別に怪しむに足りないことであらう。
「若し余が新聞の手綱を弛めておけば、余は僅か三月の間も權力を保ち得ないであらう。」
「敵意ある新聞が四つあることは、戰場の兵士十萬人よりも危險である。」
彼がセント・ヘレナ島で最後を遂げる直前に語つた後人への戒めには、「新聞をそのままにして置くことは、危險の側で寢を取るにも等しい、」といふ語があつたといはれてゐる。
然し彼の時代はこの戒めを余り省みなかつた。新聞は政治的立憲主義と工業的經濟の進歩とにつれて大きな躍進をとげ、遂にその黄金時代に達したのであつた。
かくて新聞が無限な經濟的自由をモットーとして、正規の取引業に發展するに至つたので、ことに猶太人は民衆の安寧のために戰ふといふ假面の下にかくれて大役を演じるに至つた。新聞は政治的黨派の奴隸、その背後に隱れてゐる黒幕たる祕密力の奴隸に墮してしまつた。編輯部には今や、一番多くの報酬を呉れる者のために筆を用ひる器用な多筆家が登場し來り、佛國政治家ネットマンの如きは既に前世紀の始めにあたつて次の如く難じてゐる程である。
「言論の自由は萬人に告知された。然し優勢にして革命的な黨派は、物を見るに獨特の方法を持つてゐる。彼等が萬人の自由を公然と説く時、それは只主義を裏切つたとの非難を避けたいがために外ならぬ。然し一旦この主義を奉ずることを示し得さへすれば、實行上にはもうそんな主義はどうでもよいのであつて、ただ敵に對してはこの自由の享受を許さないのが可成り一般的なやり方になつてゐる。」
千八百三十五年八月二十二日に佛人ラマルティーヌは下院で論じて曰く、
「新聞は、少數の例外を除いては、國に害を與ふることが大きい。四年以來それは各行に憎惡と誹謗と汚穢とを撒きちらせて來たし、またそれは暴動と無政府を喚起した。」
文豪バルザックはもつと鋭犀に當時の新聞界の状況を描いてゐる。
「本來聖物たるべき新聞は、當派の手段になつてしまつてゐる。また一つの手段から一つの商賣になつてゐる。どの新聞でも大衆の欲しい色彩の言葉を賣つてやる露店に化してゐる。」
また佛蘭西の新聞人エミル・ドゥ・ジラルダンは千八百二十七年に、彼の新聞「ル・ヴォルール」の發刊を豫告した文の中で、率直に次のやうに書いてゐる。「我々は暴利時代に生きてゐる。宗教や諸々の自由には相場があるし、良心にも定價が附いてゐる。」
以上は何れも當時の人々が、所謂言論の自由に就いて懷いてゐた見解を竝べて見たものである。

新聞の商業化

新聞の商業化といふ現象は猶太人の仕事として十八世紀の末から十九世紀の初頭にかけて始まつて來たのであるが、その結果として新聞は二重の役目を演ずることになり、精神的政治的要素であると同時に一種の商品と化したのであるが、この事情は、新聞をして諸國民を結合する力としての位置から轉落せしめて、人類の災厄にまで下落せしめるに至つたのである。
近代新聞の動向を規定するのは報道と廣告との二つである。そしてこの二つの入口から、かの恐るべき猶太及びフリイ・メイスン結社の祕密力が「言論の自由」なる假面を被つて侵入し來り、世界新聞界をば今日の如き精神的竝びに道徳的危機に追ひ込むに至つたのである。前世紀の中葉に於て廣告税と公用廣告機關が撤廢せられた結果として、殆ど凡ての國に於て政治新聞に廣告を載せ得るやうになつたし、從つて國民の商業的關心と精神的政治的要求とを新聞によつて結合しようといふ傾向が著しくなつて來た。また廣告依頼者の信用を得るために讀者層を増大しようとしてあらゆる手段が講ぜられ、新聞の購讀料は印刷代以下に引下げられるに至つた。千八百三十六年七月一日に佛人ジラルダンは「ラ・プレス」紙を發刊したが、その購讀料はその當時の相場の半値であつた。では、かくして出て來る欠損が如何にして埋められるかと言ふに、それは廣告を殖やす他に道はないのである。
ジェームス・ゴルドン・ベネットは千八百三十五年に米國に於て「紐育ヘラルド」紙を創刊したが、彼はそれを只の一ペニで賣つた。しかし實際には、一部三ペンス乃至四ペンスかかつてゐたのである。英國では千八百五十五年に、新聞税と廣告税との撤廢後のこと、ヨーゼフ・モーゼス・レヴィが最初の「一ペニ新聞」たる倫敦「デーリー・テレグラフ」を發刊したが、他方ヴィーン市でも既に千八百四十八年にアウグスト・ツァングが「ディ・プレッセ」紙を發刊して、ジラルダンの例に倣つて、相場の半値で賣つた。
爾後新聞の讀者は印刷用紙代だけも支拂つてゐないことになり、從つて文字通りの不拂所得として贈られる通信や報道の部分は、匿名の金主が新聞を支へてくれるのでなければ、廣告代によつて經濟的に補填される外に道はないのであつた。

新聞の買收

かくて遂には色々の方面から買收の可能性が生じて來たが、これはかの國際猶太人及びその支配下にあるフリイ・メイスン結社に取つては誠にお誂向きの活躍舞臺であつた。
猶太人の破壞力が新聞に侵入した第二の門は近代の通信機關の發展である。新聞が資本主義に從屬するに至つたがために輿論もまた金力で動かされ得るものとなり、通信組織は濫用されて、新聞のデマ記事が國民生活の中に喰ひ入るやうになつた。現代に於ける世界通信網の歴史を辿つて見る時、我々は驚くべき連絡と組織とに當面するのである。
現代の新聞通信機關の起源はかの猶太人の取引所であるから、現代の組織化された虚報通達による新聞の惡用といふものはすべて猶太人の商賣根性の發現したものである。現代の通信組織は、自分に都合のよい通知によつて競爭者や顧客から出來るだけ物質的な利益を搾取しようとする商業本位の猶太人の手に握られてゐる實驗室である。
その好例をあげれば、倫敦の猶太人ネイサン・ロスチャイルドのあの歴史的な「ワーテルローの勝利」である。彼は正に現代新聞虚報の父である。彼の父でフランクフルトにゐたマイエル・アムシェル・ロートシエルトもまた相當の腕前があつたらしく、郵便局を買收して取引上の敵の手紙を祕かに手に入れ、それを儲仕事に利用したさうであるから、その息子ネイサンのやり方はつまり父親のやり方を現代化したに過ぎないとも言へないことはない。とにかくネイサンは傳書鳩郵便を使つたり、船長や旅行者を手數料で買收して色々な報道を集めるに役立てた。そしてこの世界中から集まつた報知を勝手に利用したり、祕密にしたり、ほのめかして、兔に角彼の取引事業に都合よいやうに細工したのであつた。彼の「ワーテルローの勝利」もまたその一例であつた。彼は逸早く誰も知らぬうちにワーテルローの決戰の結果を知つてゐて、丁度倫敦では未だ一般に半信半疑でゐたのを奇貨として、英國及び普魯西がナポレオンに敗戰したとの虚報を傳へた。相場はがたがた落ちた。ロスチィイルドは仲買人を使つて出來るだけ株を買込ませたので、ワーテルロー戰勝の正しい報知が倫敦に到着した時には、彼はもう巨大な金を儲けてゐたのであつた。

虚報の勝利

猶太的資本主義的貪欲に奉仕する新聞虚報は、世界通信網を握つてゐる政治的電線工夫の手にかかると忽ち諸國民の平和を脅かすものに化する。
最近百年間に亙つて戰時平時共に世界通信網を牛耳つてゐる歐羅巴の通信社は殆ど皆猶太人の創立である。先づ大きい所でアヴァス通信社は千八百三十五年にロイ・アヴァスの創立に係るが、その父は葡萄牙から佛蘭西に移住した猶太人である。彼は千八百三十二年に獨逸系猶太人ベルンシュタインの「色刷通信」紙を買取つて、之を改組した。彼には二人の共働者ベルンハルト・ヴォルフとヨザファト・ベールとがゐたが、この兩猶太人は千八百四十八年にアヴァス社を去つてヴォルフの方は伯林に自分の通信社を開き、カッセル出の猶太僧の子なるベールの方は五十年代に英國に渡り、ロイテルと改稱して英國の大通信社となつた。
この三大猶太系通信社は數十年來、全歐州新聞通信界を支配してゐたのみではなくて、殆ど全世界の報道陣を占領してゐた。獨逸も前大戰前に於ては言ふ迄もなくこの三社獨占から殆ど逃れることが出來ず、獨逸系の通信社が僅かに北方諸國を通信で繋いでゐる間に、アヴァスやロイテルは全世界を分割して支配してゐたのであつた。

大戰の通信状態とその後

かくして世界大戰が千九百十四年に勃發するや、恐るべき結果が招集され、全世界は佛英通信社のデマ宣傳で塗りつぶされてしまひ、獨逸は僅かに近隣中立國數國に眞實の叫びを聞いて貰へたに過ぎない。デマ宣傳がどんなに有效だとしても、それがアヴァスやロイテル等の國際的通信組織の力を借りなかつたならば、決して獨逸をたたき伏せる程の力を持つことは出來なかつたであらう。
ナチス獨逸は政權掌握後ヴォルフ通信社と電通聯合社とを統合して「獨逸通信社」を創設して、地球上樞要の各地に自派の代理者による自己の世界通信網を設置したが、獨逸は歴史上此處に始めて他の先進大通信社に劣らぬ近代科學の粹を盡した客觀的且つ急速果敢な通信網を全世界に敷くことを得たのである。大通信社が何れもその背後の祕密力の庇護を受けてゐることは上述した通りであるが、その結果として、國際通信組織が藏してゐる巨大なる危險は時とともに増大し、新聞の虚報は益々危險な隱蔽方法を考案して、大通信社の看板を下してまでも惡質のデマを飛ばすやうになつた。多くの場合には誰も責任を負はぬ報知を虚構するのが主眼であり、誰が委託したか、誰が背後にゐるのかを全く氣附かれないやうに仕組むのである。虚構は又次々に他の新聞にも引用されて尾鰭が附き、また互に引用し合つたりなどしてゐるうちに何れが元のものか解らなくなつてしまふ。之等通信社のモットーは、新聞虚報が常にその取消よりも迅速に廣まること、一度書かれた以上、結局何かが後に殘るといふことである。假令取消その他のいざこざがあつても、報道の迅速と競爭といふ理由のために事件の眞僞を確める暇はないので、自由主義的な新聞は無批判に之等の通信社の通信を掲載してしまふ。また多くの場合には、外國新聞中に見られる虚報、傾向的通信の類は、新聞自身の通信員から出るのではなくて、却つて新聞の編輯部員自身が通信員に傾向的なものや新聞社の政治的經濟的從屬關係に沿ふやうな報道を強制するのである。通信員の意圖などは全く顧みられることはない。かくて「言論の自由」といふ看板を掲げて新聞を支配してゐるのは、決して精神でも眞理でもなく、金錢であり、それを拂う人である。立派なジャーナリストと雖も此處では自主權を持たない。立派な新聞を毎日檢閲する匿名の背後人達は、厚顏にも常に「自由」を叫び乍ら、この空辭に隱れて諸國民を毒する贋作をどしどし擴めようとしてゐる。「自由」なる語は西歐民主主義國家に於ては頗る高く謳歌されてゐるので、「自由」を踏付けにするためにインチキ者流に用ひられるやうな場合でも「自由」とさへ言へば喝采を博するのは、眞の「自由」のためにも歎かはしいことである。

佛蘭西新聞界

佛蘭西衆議院議員エルネスト・ベゼは、佛蘭西の宣傳力増大のために議院内に特殊の一派を結成してゐる人であるが、彼は千九百三十五年にその著「世界の眼の下に」に於て次の要求を漏らした。「所謂自由を標榜する新聞の僞瞞を取除くため・・實はこれらの新聞は強力な利欲によつて結ばれてゐるのだが・・には、國家は思ひ切つて強制條令を施行すべきであらう。そして巴里の新聞界が再び名譽ある業績を示すに至る曉には、この強制條令は終に目的を達し、巴里新聞界は、外國資本や利害關係を持つ保護者乃至はシンディケートの干渉又は祕密資金等によつて屡々誘ひ込まれた奴隸状態から救ひ出されることになるであらう。」
佛國の有名な出版者ヴラヂミール・ドルメソンは千九百二十八年に「獨逸への信頼」なる書で言つてゐる。
「我々が苦しんでゐる困難の十分の九までは、傾向的報道に原因を持つてゐる。國民と國民又は政府と政府との關係を毒する不信といふものは、事實自身によるよりも、その事實を傳へる敍述の仕方によつて惹起される方が多いのである。」
佛國掌璽官アンリ・シェロンは千九百三十四年十一月十三日に新聞について次の如く語つた。
「……此國に於ては誹謗が横暴な支配者として君臨してゐる。日々の過激な言辭は輿論を無力にしてゐる。一定の經濟團體或は財團はその意見に從つて自分に從屬する人間を勝手に亡ぼすことが出來る。かかる雰圍氣にあつて人はもはや何人と雖も身の安全を保證されることを得ない。」
以上は何れも佛蘭西人自身の告白であつて、之は疑ふ余地のない資料であるが、序に佛國新聞が大戰前に於てそれ程迄に買收し易いものになつてゐたかを示す材料を一つあげて見よう。それは當時露西亞財務大臣の巴里駐在代理として佛國新聞を親露派に傾けようといふ任務を帶びてゐた樞密顧問官ラファロヴィンチュの手紙である。彼は、千九百四年八月三十日に當時の露西亞財務大臣ココヴィッツェフに宛てた手紙の中で、買收金の分割法に關じて次のやうに報知してゐる。
「豫算年度の最初十ヶ月の間に佛蘭西新聞の買收には六十萬フランの多額を費した。然もこれには銀行シンディケートを買收するに要した費用三十萬フランは含まれてゐない。」
今日の何の國でも、政治と商賣とを新聞で結合する企てが、佛蘭西に於ける程にうまく行つてゐる國はない。即ちこの國では、佛蘭西新聞全體の生命線をアヴァス通信社が獨占してゐるのである。この通信社は各新聞に報道を供給するだけでなく、同時にその廣告及び販賣にも手を出すのである。この先頭に立つて一切を切り廻してゐるのは、アヴァス社の總取締にして最大の廣告社の社長でもあるレオン・ルニエルである。なほ彼は、佛國新聞全體の販賣組織であるアシェト社の監査役をも兼ねてゐる。また巴里のロスチャイルドと竝んで財界に有力な地位を占めてゐる猶太人ホラース・フィナリイがこの全能なアヴァス社の首席監査役におさまつてゐることを見れば、實状が尚ほ一さうよく解る。如何なる新聞もこの全能な通信社に刃向かふ勇氣と力を持ちえないのは當然ではなからうか。
かく佛蘭西の新聞界に於ては政治と商業とが混和してゐるので、經濟團體や財團の類が新聞の一年の豫算を支拂つてやる代りに、その新聞の本欄全部を買切ることも出來る。編輯者の意見に從つて、背後の全權者の供給する通信や論説がそのまま新聞に載せられることも大して珍しい現象ではない。それ故に、如何に良い意志を持つてゐる記者も、この事情を如何ともし得ない程であり、かのヴラヂミール・ドルメソンは此點に關して次のやうな意見を述べてゐる。
「一再ならず余は個人的に話を交へて見て知つたのだが、新聞記者のうちには前日新聞で發表したのとは全く別の政治上の意見を持つてゐる者があるのである。『それは矛盾ではないか』と指摘すると、彼等は物倦いやうに手を動かして、『何ですつて、我々はあの人々の欲するやうにしなければならないのですよ』と答へるのである。實際、新聞の實權を握つてゐるのは五、六人のジャーナリストや政治家や賣文業者であつて、彼等はその機關である新聞によつて一定の政治、一定の産業、一定の野心を支持してゐるのである。」

英國の新聞

佛蘭西新聞の方は多少に拘らず決まつた精神的竝びに經濟政策上の潮流に從ひ、特定の黨派乃至財閥とか言つたものに仕へてゐるが、英國の新聞の方は、少數の例外を除けば、殆どその全部が大衆のセンセイション慾を滿たすことを主眼としてゐる。英國新聞の完全なる商賣化をジェラルド・バリーはよく描いてゐるが、千九百三十二年二月十九日の「余は新聞を訴へる」に於ては次のやうに言つてゐる。
「彼等は新聞を、立派な言論機關としてではなく、ありふれた財産獲得の手段として取扱ひ、丁度石鹸とか賣藥とか或はまた他の商品と同じく、速かに富裕になつて貴族の地位に昇り得るための手段と見てゐる。かやうな連中の間では、就中民衆又は國家に對する責任感といふものは逸早く消失してしまつた。その代りに出て來たのは商賣と廣告取りと部數増大との神々である。」
今日英國ではロード・ロザーメーア・コンツェルン、ビーヴァブルック・コンツェルン、ベリ團、ウェストミンスター團、スティーマー團、オガームス團等の他には、極く少數の新聞が存するだけである。中でも獨逸を比較的客觀的に見てゐるのはロード・ロザーメーア位のものである。
英國では言論の自由といふことが、傳統的になつてゐるが、その實施はなかなか困難である。かかる自由は公衆の眼を蔽ふ目隱しであり、目潰しの砂に過ぎない。この事實をよく喝破した人に「タイムス」の主筆ケネディがあり、「十九世紀とその夜」誌の千九百三十七年八月號にかう書いてゐる。
「發行人及び支配人等の側に於ける專横な行爲は、眞の自由とは全くの反對物であるにも拘らず、その大部分は我々の得意とする言論の自由の外被に隱れて行はれてゐる。我々英國人、英國程民主主義を尊ばない國々に於て行はれる嚴重な檢閲に對して、よく批評がましいことを言ふ。然し乍ら通信機關が何れも背後の匿名財閥の命による獨自の政策と道徳とを有してゐるとき、一體我々はこの『言論の自由』などを讚美する權利があるだらうか。その主なる役目は、大衆のセンセーション慾を助勢することであり、主筆や通信員が國際的融和及び世界平和にとつて重大な意義を持つ問題に一、二役を割かうとするのに對してさへも壓迫を加へようとするのである。」
このやうな批判をやつてゐるのは敢えてケネディだけに止まらず、大英新聞聯盟長ハムフレイは千九百三十七年三月二十二日に總會の席上次の如き言をなした。「世の中には、通信の生命をセンセーショナルな點にありとし、註釋の註釋たるはそれが破壞的なときに限る、とする人がまだ夥しくある。讀者買收といふ古い手段によつて部數増加を圖る方法が死點に達してしまふと、そこには新しい標語が競爭場裡に生み出されて來た。かくて今や如何なる價を拂つてもニュースを作らねばならないのである。然しそのために拂はれる價が人間の不幸を利用することであり、またジャーナリストが市民として爲すべからざることを爲すというふことであるとすれば、我々はかかる發展を停止しなけれはならぬ。言論の自由とは決して放縱なる自由を意味しない。」
千九百三十四年五月九日にに故總理大臣マクドナルドは「英國新聞聯盟」の前で左の演説をなし、大衆新聞の無軌道振りを責めてゐる。
「もし新聞全體がその權力を利用して、自己の欲する所を公のものと稱し、萬事に自分の欲するままの色彩を與へ、また風評を事實に化し、事實を無と化するに至れば、その危險は幾何であらう。かかることは相應に儲かるかも知れぬが、我が國民の精神機構を弱めることが大きい。諸君は注意して言評の自由が言評の放縱に陷らざるやうに心してくれ給へ。」

合衆國の新聞

北米合衆國の新聞界を掌握してゐる大物は、ウィリアム・ランドルフ・ハーストであり、自分のインタナショナル・ニュース・サーヴィス(I・N・S)とユニヴァーサル・サーヴィスといふ二大通信社の他にも無數の自社系新聞を支配して、全國發行部數の三分の一を占めてゐる。その殘りはアソシエィテッド・プレス(A・P)とユナイテッド・プレス(U・P)が分有してゐる。然し乍らこんなに有力なハーストの如きでも、一度猶太人の顧客達が彼の主要新聞「ニューヨーク・アメリカン」に廣告依頼を拒み、ハーストの共産主義排除と蘇聯攻撃とを封じようとした時には、止むなくこの新聞を廢刊せざるを得なかつた程である。他の新聞王と雖も同樣の支配から脱れ得ない。
例へば千九百三十九年四月十七日附「ウァールド・プレス・ニュース」の論文で、ラムゼイ・ムイルといふ人がこの事を言つてゐる。
「理論では新聞は自由であるが、實際ではその自由は金力によつて制限されてゐる。」
新聞組織の中央集權、その商業化、廣告大衆のセンセーション慾とによる制約等は、合衆國に於ては極端に發達してゐる。或る有力な發行者が千九百二十九年に七百人程の一流商人を前にして米國新聞を論じたが、その中にはかういふ言葉がある。
「新聞が一般的關心の代表者であるやうにいふ主張は、斷然と排撃されねばならない。新聞はそれ所か利得のために毎日發行される印刷物であり、公生活に働きかけて金錢を作ることだけを目指す一つの組織に他ならない。」
ある米國發行人は、個人的には獨逸總統ヒットラーを崇拜してゐるに拘らず、その新聞では總統の惡口をする文章や繪畫を平氣で載せてゐるので、それを或人が難詰すると、かう言つてゐる。
「私は米國人で、金を儲け、自分と家族を養ふために商賣をやつてゐる。私が毎年廣告料として百萬弗を貰つてゐる人々(多くは猶太系廣告主)の御機嫌を取らうととしたとて、どうしていけないことがあらうか。」
既に千九百十三年にジョン・スウィントンは、「アメリカン・プレス・アソシエイション」の總會席上でかう言つてゐる。
「米國には、田舍町の小新聞を別にすると、獨立自由な新聞といふものは存しない。こんな事は誰でも知つてゐるが、誰も敢てそれを口にする勇氣はないのである。またもし諸君がこの意見を發表しようとしても、それは印刷して貰へないであらう。我々は精神上の公娼婦である。私は自分が寄稿する新聞から自分自身の意見を撤囘するに一週百五十弗貰つてゐる。諸君も亦同じ風にすれば、その位は貰へるだらう。それでも狂氣のあまり自分の意見を無理にも書かうとする人は、間もなく街上に投出されてしまふだらう。紐育の新聞記者たるものは、嘘言を吐いて金の神の足下に身を屈する義務を有する。パンのためには國も同胞も賣らねばならない。我々は背後に潛む富者の道具であり、臣下である。我々は人形なのだ。彼等が綱を引けば我々は躍り出す。我々の時代、我々の才能、我々の生命、我々の能力、これみな彼等富者に屬してゐる。

言論の自由

スウィントンの指摘してゐる通りが、所謂「言論の自由」の正體である。かくて「言論の自由」はそれを所有してゐると自稱する人々自身の言葉によつて正體を暴露されたか、新聞はその成立の當初から今日に至るまで、決して一度も眞の自由を所有したことがなかつたのであつて、自由が最も讚美された時代こそ最も悲慘な時代であり、最も多く金力と權力とによつて壓迫され買收された時代であつたのである。「言論の自由」とは要するに歴史上最も巧緻な細工を施した僞造概念であり、諸國民の道徳も、政治的良心も、輿論も、このインチキ概念の背後に於て凌辱され、破廉恥極まる商賣に惡用されるのである。
新聞は本來から言つて諸國民の生活に於ける一つの權力であるから、之は充分に支持されるべきものである。之を愛さうが憎まうがそれは人の勝手であるが、但しどうしても無くては濟まされない機關である。前佛國大使ガブリエル・アノトウが言つたやうに、新聞は「ヱソップが最善にして最惡のものと言つた舌」に他ならない。その最善な點とは、新聞がその眞の功績によつて獲得した讀者の盲目的信頼であつて、これは新聞に眞實の報道の責任を負はせるものである。またその最惡の點とは、それば僞の「言論の自由」を押しつける無恥である。この言論の自由こそは現代の盜賊達や、戰爭煽動者達や、人類の掠奪者達がその背後に隱れてゐる假面である。彼等は一般的利益の公共施設たる新聞を下劣な本能の競爭場と化し、「眞理よりは虚僞の方が容易に金錢を儲けさせる」といふ主義を以て輿論を毒してゐる。
ファッシズム及びナチズムは今日に於てかかる「言論の自由」を撤廢し、新聞をばかの虚僞の「自由」から「自由」にしてやつたのは、實に精神史上に於ける一大事業であると言はなければならぬ。日本に於ける新聞雜誌統制も端緒に就いてはゐるが、前途は今なほ遼遠の感がある。我々は速かに從來の危險なる「自由」の崇拜から醒めて、眞實に眞理に立脚する言論出版の國を建設せねばならぬ。

新聞と戰爭

世界の新聞は今日實際に於て戰爭と平和の鍵を手中に握つてゐるのであつて、この事は最近數十年の歴史を繙けば直に判明するのである。實に無數の戰爭は、かの新聞の作つた業であつた。弱力な政府が戰爭を煽る新聞に容易に屈していまふことは、かの第二佛蘭西帝國が如實に示してゐる。ビスマルクは千八百七十年に繰返して新聞の強力なること及び新聞の與へる損害を大なることを述べてゐる。千八百六十四年、千八百六十六年、千八百七十年の三戰役を惹起したのも新聞である。千八百九十八年から千九百三年迄續いて合衆國のキューバ島保護統治を以て終を告げた西米戰爭は、明かに米國の二大新聞聯盟の競爭から起つたのである。千九百十二年から十三年に亙る第二バルカン戰役、即ち土耳古征服者相互の戰爭は、もし新聞が絶えず煽動しなかつたならば、爆發しなかつたであらう。
米國大統領リンカーンは、「筆は劍よりも強し」と言つた。かの世界大戰で獨逸は武力で負けたのてはなくて、結局世界の新聞の虚僞宣傳に敗れたのであつて、リンカーンの言葉の眞實なることを獨逸は身を以て體驗したのである。國際新聞界とその背後勢力とが世界大戰を惹起したことは好個の研究材料である。無數の政治家の言葉によつてもこの事實は闡明せられる。聯合軍側の筆陣の本部は巴里では「メイゾン・ド・ラ・プレス」、倫敦では「クルー・ハウス」にあつて、盛にデマ宣傳を飛ばしたのであつた。
アルトゥール・ボンゾンビイはその著「大戰時の虚言」に於て國際デマ宣傳の實状を述べてゐるが、その中から一例を引いて見る。千九百十四年にアントワープ市が占領された後に、「ケルン新報」は左の如く報じた。
「アントワープの占領が周知となるや、教會の鐘が鳴つた。」
所が佛國新聞「ル・マタン」はこの報知を次の如くに受取つてゐる。
「ケルン新聞によれは、アントワープの僧侶達は城塞占領後教會の鐘を打つやうに強制された。」
更に「タイムス」には翌日になつてかう出た。
「ル・マタン紙がケルンから聞いた所によると、アントワープ占領後鐘を打てとの命令を拒んだ僧侶達はその職を追はれた。」
それが伊太利の「コリーレ・デラ・セラ」紙にはかう載つた。
「タイムス紙が巴里を經てケルンから聞いた所によると、アントワープ占領後鐘を打つことを拒んだ憐なベルギー僧侶達は強制勞働を課せられた。」
「ル・マタン」紙は更にこの虚報リレーに結末をつけて、全然のデマを書いてゐる。
「コリーレ・デラ・セラ紙が倫敦を經てケルンから聞知した所によると、アントワープの野蠻な占領者は、教會の鐘を打つ命令を拒んだ憐なベルギー僧侶達の英雄的行爲を罰するため、彼等を生きた鐘鐸として頭を下に鐘に吊り下げた。」
千九百三十七年十一月二日の「ニュース・クロニクル」で政治的宣傳の問題に觸れたカミングスは、戰時デマ宣傳の競爭に於ては英國が第一位を占めたと書いてゐる。
またド・マルシァルはその著「良心の動員」中で、平和が危險に陷るのは外交家の手に依るよりも良心のない新聞に依る方が大である、と語つてゐるし、佛國ジャーナリストのウルバン・ゴイエも次のやうに言つてゐる。
「世界平和は、世界の新聞が金力の奴隸である限り許されるであらう。」
前英國内務大臣ウィリアムス・ジョンソン・ヒックスは、千九百二十七年十月二十九日に「記者協會」倫敦支部總會の席上、新聞人に向つて語つた。
「諸君は内閣の運命を規定する。諸君は政府を作つたり、滅したりする。諸君は政府を強ひて宣戰布告でも平和宣言でも勝手に出さしめる力を有する。それ故にこそ諸君は常に諸君の重大な責任を銘記してゐなけれはならない。」
前佛蘭西首相カイヨーも次の如く公言した。
「平和を脅かす危險は新聞にある・・次の戰爭は新聞によつて布告される。」

國際聯盟の惡業と猶太人

このやうにして世界平和の眞の大敵が新聞であることが解つたが、實際、國際新聞が協同して惡宣傳をするならば、どんなに強固な平和工作も立所に崩れてしまふのであつて、その惡業たるや誠に恐るべきものがある。その例としては我々に直接の關係のある日支事變に於ける各國の新聞乃至通信社の惡意に滿ちた無責任なデマのことは問題にしないとしても、例へばかのスペイン問題に關係して獨逸が蒙つた惡宣傳の如きも著しいものがある。
獨逸が如何にも占領の意圖を以てモロッコに上陸をなしたかの如く書いたのは巴里新聞の大部分であつたし、又英國はバスク地方のゲルニカ市で獨逸人が大虐殺をやつたと惡宣傳をしたが、實はボルシェヴィスト達が故意にあの殺戮を犯して罪を獨逸人に稼したに過ぎないのである。それから獨逸の飛行機や戰艦が非行を犯したやうな宣傳も無數にあるが、之もまたボルシェヴィストが意識的に世界を第二の大戰に追ひ込まうとした手段なのである。それから獨逸合併問題に關するデマも相當にひどいものかあり、また獨逸はヒットラー總統自身の選拔にかかる特殊訓練修了の男子五百人を倫敦に送つて英國の軍備計畫を探索せんとしてゐる、といふ記事さへも新聞によつて作られたのである。かやうな例はいくらあげても際限がないが、然し此處で深く注目すべきことは、之等のデマ宣傳、惡宣傳の背後には常に、猶太人乃至猶太人支配下のフリイ・メイスン祕密結社の手が動いてゐることである。
世界各國の大都市に所在するモスカウの出店には猶太移民とその買收された記者達が出入して、盛にナチズムやファッシズム打倒のための惡宣傳の指令を受けてゐる。世界新聞界に及ぼす猶太人の影響といふものは實に巨大なものであり、彼等が完全に實權を掌握してゐるソヴィエト新聞では、彼等の思うことで行はれないことはないのである。他の新聞界で猶太人がどれ程の勢力を扶植してゐるかを示す一例をあげるとすれば、最近出た千九百三十七年度洪牙利新聞年鑑に依れば、洪牙利の新聞編輯者總體の五十六パーセントが猶太人であると言はれる。「言論の自由」を振りかざしてゐる所謂民主主義の國々の事情がこれ以上であることは自明のことである。而して前述した惡宣傳の要素が猶太人が世界新聞に振つてゐる影響力の大小に比例して増減することは言ふまでもない。
世界猶太王國の政治的中心たるモスカウから新聞の戰爭煽動は發火せられ、それか紐育、倫敦、巴里等のジャーナリズム的贋造所で見透しのつかないデマ通信の衣を着せられ、其處から地球上のありとあらゆる電線を傳はつて、最後の政治的センセーションとして新聞讀者の眼前に擴げられ、わが國土の中へさへも堂々と傳はつて來て來るのである。數日後になつて嘘がばれたとて、それが何にならうか。惡宣傳の筆者は何時も背景に隱れてゐるし、取消記事が退屈で面白くない一方では、新しいデマが次々と出て來るので、取消は全く無效である。
かくて政治的虚言は思ふままに暴威を振ひ、國民生活と國際關係を崩してしまふ。世界の輿論は責任ある政治家の手から滑り落ちて、國民の知らぬ間に恐ろしい結末に國民を追ひ込んでしまふ。目を醒ましたときは、もう後の祭りであることが極めて多い。

新聞組織の改革

ヒットラー總統は既に千九百三十六年五月に全世界に向つて聲明を見して、世界輿論の無責任なる要素による害毒を先づ十分に除かぬ限り、世界の國際的緊張は決して解消され得ないと言つたが、伊太利のムッソリーニも亦同樣の考へを發表して次の如く言つた。
「印刷インクの暴風と濁つたインクの洪水と氾濫こそは、あらゆる平和とあらゆる歐州協同作業の眞の敵である。」
猶太勢割の支配下にあると稱せられる佛蘭西のアルベール・ルブランでさへも、千九百三十七年二月九日の巴里共和主義ジャーナリスト大會に於て、言論の自由が利己的憎惡の私情に引廻されるとき大きな危險を惹起する、と戒めた。
ヒットラー總統は同年正月三十日にも更めてこの問題に觸れ、左の如く言つた。
「國際的な無責任極まる井戸投毒者及び言論贋造者の群による間斷なき煽動を禁遏せざる限り、諸國民の眞の平和を達成することは不可能である……」
然し今日迄世界の民主主義國家は一つとして人類の紙上敵を迎へ討つ準備をしてゐないで、徒に國際協調とか國際的連帶關係を以て平和保持の手段と考へてゐる。そして世界平和の最も近道である新聞改革の問題には目を向けてゐない。それには何よりも先づ猶太人と不潔なる無國籍的な商賣人を新聞界から追放しなければならない。新聞に於ても猶太人は、過去に於ては恐るべき癌腫であつたし、現在及び將來に於てもさうである。この癌を除去すれば、其處には眞に責任ある「言論の自由」が打ち樹てられるであらうし、眞の世界平和も拓かれるに至るであらう。安價なる猶太同情論が、わが國に於てさへも、ともすればジャーナリズムその他の方面から出現し易いのは、その直接の原因が奈邊にあるかは兔に角として、猶太の新聞界に於ける強力さを意味深く物語るもと考へられる。それ故に以上主として歐米の事情を中心として述べられたことは、決して單に他所事ではないのである。國際資本主義・國際共産主義・國際的祕密結社・國際的言論通信機關・誠に猶太の張り巡らす十重二十重の世界支配の網は精緻にして堅固である。幾千年の訓練を經たタルムード的詭辯と虚僞の精神の結實であるとは言へ、實に驚歎すべきものではないか。(一四・八)

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