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HOME>>資料室 TOP>>猶太と世界戰爭 目次>>T 猶太魂の本質【六、「シオン議定書」の成立、傳播、眞僞】

猶太と世界戰爭
T 猶太魂の本質

六、「シオン議定書」の成立、傳播、眞僞

「シオンの議定書」は、古今東西を通じての最大の怪文書と呼ばるべきものであって、内容的にさうである許りでなく、その著者、その成立史、その傳播の径路等から見てもまた然りなのである。即ち、この書は、内容的には世界革命と世界制覇とのプログラムであって、現在の世界の動きがそれを實證してゐるのであるが、それにも拘わらず、その僞作であることが問題とされる許りか、著者も成立史も傳播史も深い闇に覆はれてゐるのである。然しこの書は、千九百一年以來公刊されてゐた露西亜の國境を世界大戦後に超えて獨逸(千九百十九年)その他で公刊されてからは、その怪文書たるに全くふさはしい速力をもつて世界に普及されて行つたのである。またあらゆる猶太人側の否定にも拘らず、千九百五年の露西亜語版(後述するニールス版)が大英博物館に翌年納入されてをり、その分類番號まで明らかになつてゐることも、この書の怪文書性を減ずることはないのである。
とにかく猶太は、獨逸に於けるゴットフリート・ツール・ベークの譯及び米國に於ける自動車王フォードの著書に依つて、この書が急速に世界に傳播されて行くのを見て、極度に狼狽し、買占め又は威嚇乃至買収等によつてそれの普及を妨げようとしたが、その方法が失敗に終ると、今度はそれが非猶太人の僞作であることを主張するやうになつた。そしてその試みは、千九百二十一年になつて、計画的組織的なものとなり、米・佛・英の順序による三段構への對策となつて現れるに至つた。それ故に我々は、多少長きに失する憂ひはあるが、その三つの策謀の内容を略述して見たいと思ふ。現代の我々に取つては、この書の方が「トーラ」又は「タルムード」よりも直接の關係を持つてゐるとさへ言ひ得るのである。但し我々は、猶太問題全般の研究に取つても「議定書」の方が「トーラ」又は「タルムード」より重要であると主張するのではない。
さて、その第一は、當時紐育に在住したカタリーナ・ラートツィヴィルと稱する露西亜女を利用したものであつて、北米に於ける有力な猶太雑誌「アメリカン・ヒブリュー」の三月二十五日の誌上には彼女と猶太人アイザーク・ラントマンとの會見記が發表された。それに依れば、「議定書」は日露戦争後の千九百五年に僞造されたものであつて、當時巴里に居た彼女が、露西亜諜報官ゴロヴィンスキーの口から、在巴里露西亜謀報部長ラチュコフスキーから猶太人の革命陰謀者を僞造するやうに依頼された、といふ話を聞いた許りか、彼女は既に完成してゐたその原稿を見せて貰ふことさへした、といふのである。そして彼女は、その原稿の表紙には大きな青インキの斑點があつたとも述べてゐる。
我々はこの會見記の批刊は後に譲ることにして、猶太側の第二の策謀を述べることにしよう。それはアルマン・テュ・シエラといふ佛蘭西の伯爵を使つたものであつて、在佛亡命露西亜人の機關誌ボスリエニドエ・ノヴォスティに五月十二日から翌日にかけて伯爵自身が論文を發表してゐるのである。千九百九年に露西亜で「議定書」の出版者であるニールスに面會したが、その時見せられた原稿には青インキの大きな斑點があつたし、「議定書」の入手の径路に關しては、ラチェコフスキーからその筆冩したものを貰つたK夫人から手に入れた、とニールス自身が言つたといふのがその論旨である。
この第二説が第一説と連絡して巧妙に仕組まれた芝居であることは、青インキの大きな斑點といふやうなわざとらしい詭計によつても判明するのであるが、とにかく猶太側がこの二重の對策では満足し得ず、第一策と第二策との間の時日の隔りと全く同じ程の日数によつて第二策と隔つてゐる八月には、十六、十七、十八の三日間に亙つて、今度は國も新聞の種類も全く變更して、英國の有力紙「タイムス」を動かして第三の策謀に移つてゐるのである。當時の事情から見ても、現在の事情から見ても、猶太側の「議定書」爆撃が米・佛・英といふ所謂三大デモクラシー國に於てなされた事は注目に値するのであつて、デモクラシーとは事實上猶太支配の別名に外ならないことは、この簡単な一例によつても判明するのである。
本論に帰つて第三策を見るのに、それはタイムスのコンスタンチノープル特派員フィリップ・グレイヴスの文章であつて、佛蘭西の弁護士モーリス・ジョリーが前世紀の半ばにブリュッセルで出版した「マキァヴェリとモンテスキューとの冥府に於ける談話」を彼が同地へ亡命してゐた露西亜地主から貰つたが、地主はそれが「議定書」の種本であると言つた、というのがその内容である。
グレイヴスの文がこれだけで終つてゐるとすれば、それは或程度まで間違ひないのであるが、我々をしてこの一文を猶太政策の一つと認めしめないでおかないのは、筆者が以上の事實から次の如き結論を引出してゐるからである。即ちグレイヴスは、「議定書」がジョリーを種本としてゐるのではそれは非猶太人の僞作である、と主張するのであるが、これは猶太側が結論を急ぎ過ぎたがための失敗であつて、それは、非猶太側がジョリーを種本として無根拠な世界政策を捏造することが可能であるとすれば、猶太側の方でも同じジョリーを種本としてその世界革命のプログラムを作ることが可能である、といふことさへ考慮しなかつた軽率な結論である。
「議定書」とジョリーとの關係は、獨逸の半月刊猶太問題専門情報誌「ヴェルト・ディーンスト」のフライシュハウエルが平行的に印刷して比較研究してゐるのでも明らかなやうに、多くの内面的一致のみならず、文章上の表現に於ても一致してゐる點があるので、ジョリーが直接の種本であるか、或は両者が共通の粉本を持つてゐるのかは明らかでないとしても、両者の密接な連關は疑ふべくもないのである。しかしこの事情は、猶太「タルムード」論理に依つて結論を急がない限りは、却つて「議定書」が猶太側の革命陰謀者であることを、少なくとも内面的眞實性の點では、證明する事になるのである。即ち、ジョリーはその自傳に於て、父はスペイン人であり、母はイタリヤ人であると言つてゐるが、確かな調査によれば両親とも國籍をそれぞれ両國に持つてゐた猶太人なのであるし、なほ特に注目に値することは、ジョリー自身猶太フリイ・メイスン祕密結社の會員である許りか、佛蘭西に於る有力な猶太人結社「イスラエル世界同盟」の創設者クレミューの親友であり、千八百七十年の共産系暴動にみづから参加してゐるのである。ジョリーのこの経歴を考慮する時、それだけで「議定書」が猶太系フリイ・メイスン祕密結社の世界支配のプログラムであることを信じても、グレイヴス等猶太側の態度に比して決して軽率であるとは云ひ得ないのである。
とにかく猶太側は「議定書」が僞作であり剽窃であるといふ程度の外面的な拒否をするだけで、それの内容にまで説き及んで反駁することはないのであるが、之は非猶太人には注目すべき點であつて、内容に触れて論ずることは「議定書」の内容を一層世上に廣布することになるのみか、十九世紀末以來の世界の動きを多少とも猶太の宣傳を盲信しないで見る人には、その眞實であることが直ちに感得されるといふことを、猶太側自身充分知つてゐるからである。しかし「議定書」の露西亜に於ける出版者ニールスが非實在の人物であるとか、「議定書」そのものが世界大戦後の英國に於ける僞作であるとかいふ程度の迷論・・日本の自由主義的猶太戦線の志願兵には、猶太人自身さへも最早捨てて顧みない之等の古い一時の浮説を宣説する者さへある・・よりは、なほ猶太側の上述の三説の方がまさつてゐることは認むべきであらう。

千九百二十一年の三段構への努力にも拘らず「議定書」が廣布して行き、また一方そのプログラムに従つて猶太の世界政策が進展して行くのにつれて、猶太の策謀に気の附く人が次第に多くなり、特に獨逸に於てヒットレル政府が次第に確立して行くのを見ては、今まで猶太側の新聞その他による宣傳に躍らされてゐた人も、或程度までは反省の機會を與へられるやうになつて來たので、猶太側でもこの情勢を黙視することが出來ず、他の反獨的な種々の政治工作と共に、議定書に關しても二十一年に比較して一層有効と見える對策を購ずる決心をしたのであった。これが千九百三十三年から三十五年に亙る瑞西國ベルンに於ける「議定書」訴訟である。
猶太がこの年とこの地を選んだのは単なる偶然ではないのであつて、その一般的理由は上述の社會情勢にあることは言ふ迄もないが、然しその直接の動機は、一方では、前に論及したラチュコフスキーやニールスが既にこの世にない上に、露西亜に於ける「議定書」のもう一人の出版者ブートミ、獨逸に於ける第一の出版者ツール・ベーク、獨逸に於ける第二の出版者で有力な反猶太主義者であるフリッチュ等も死んでおり、更に、後述する通りに議定書の著者と推定さるるアハト・ハーム、シオニズムの元祖ヘルツルもまたあの世の人となつてゐたがためであり、他方では、このベルン市には卑猥文學を禁止する法令がある許りか、猶太マルクス主義を奉ずる裁判官マイエルが居たためであつた。また瑞西は猶太的フリイ・メイスン祕密結社の優勢な土地・・佛蘭西及び和蘭と並んで公然たる猶太人保護法がある・・であるので、これも猶太側には有利な條件であつた。かつて三十三年六月二十一日には「瑞西イスラエル同盟」と「ベルン猶太文化協會」の名に於て、「議定書」は卑猥な文學である故に發賣禁止となるべきであるといふ訴訟を提起したのであつた。(これに聯關して、「議定書」を頒布した憂國主義者が訴へられてゐるのであるが、この點は現在の我々に直接の關係がないので、叙述を簡単にするために、今後とも「議定書」のみに問題を限つて論じたいと思ふ。)そして一年を経過したが、事情が自己、に有利であると見た猶太當事者は、この時になつて「議定書」の眞僞の問題を追訴するに至つた。さて事件の専門的鑑定家としては、猶太原告側にベルンの刑法教授バウムガルテンが選ばれ、非猶太側には前述のフライシュハウエルが推挙され、上席鑑定家としては、前身に暗い所のある親猶太文筆業者のロースリーが任命された。前身に暗い所のある名士を利用するのは、猶太の「タルムード」が教へる所の常套手段であつて、猶太の世界政策機關である國際聯盟設立の主唱者であつた米國大統領ウィルソン、その聯盟に於ける長期の活躍家佛蘭西大統領ブリアンの如きもその過去には破廉恥罪があつたのである。かくて猶太側と裁判官マイエルの謀議によつて、猶太側の證人のみが喚問されることになり、三十五年五月十四日にはロースリーの上申書に従つて判決が下され、猶太原告側の全部的勝利となつたのであつた。
然らばロースリーは、その申告書に於て、何を主として彼の結論の拠り所としたかといふに、それはかの二十一年の猶太對策の第一、第二のものであつた。それ故に我々は、いまここでその二つに關してその眞僞を述べることにしよう。
ラートツィギルの説が根拠のないものであることは、後述する通りに、議定書が既に千八百九十五年には露西亜でズホーティン及びステパノフ等の手に、千九百一年にはニールスの手にあつたことや、千九百三年にはスナミア紙上に發表されてゐたことからも明らかであるし、またラチュコフスキーもゴロヴィンスキーも千九百五年に巴里に居なかつたことが證明されてゐることからも明らかである。ロースリーはこの千九百五年を何の理由もなしに千八百九十五年に改めている。なほラートツィヴィルその者の人物を調査した結果は、彼女が露西亜公妃と稱してゐるのは不當であつて、十四年以前に離婚してをり、その後コルプ及びドウヴィンと更に二度の結婚をしてゐた者である許りでなく、文書僞造や為替僞造で十八ケ月の禁錮の経歴を持ち、二十一年には紐育で無銭飲食の廉で逮捕されたことさへあるのである。なほ彼女は問題の會見に對し、純猶太フリイ・メイスン祕密結社ブナイ・ブリスの會員ルイ・マーシャルから五百弗の報酬を受けたといふことである。
シエラ伯爵の場合は、彼がベルンの法廷に於ても自説の正しいことを誓言したに拘らず、その後前記の「ヴェルト・ディーンスト」の調査に依れば、三十六年三月二十四日附のニールスの息子の手紙では、彼の母はKを頭文字とする名前の人ではなく、ラチュコフスキーと知合でなかつた許りか、父が「議定書」の冩しを貰ったのはズホーティンであつて、彼もその際に居合はしたが、その原稿には青インクの大きな斑點はなかつた、というのである。なほシエラ伯爵個人の人物は、反ボルシェヴィストであるヴランゲル将軍の陣營にありながらもボルシェヴィストに通牒したといふ憎むべき経歴を持つ者であることが、三十六年四月三十日ペトロヴィッチ・ギルチッツの手紙で暴露された。ギルチッツ自身はシエラ伯と同時にヴランゲル将軍の麾下にあつた人である。
なほ第一、第二の場合共に問題となるラチュコフスキーに關しては、その息子の三十六年七月十三日の手紙に依れば、彼は寧ろ親猶太主義者であつて、千九百五年頃の彼の祕書は猶太人ゴルシュマンであつたのであるし、遺稿その他を詳細に調べて見ても、彼と「議定書」とが關係があつたといふ證拠は皆無であり、又その知合にK夫人のなかつたことも疑ひはないのである。
これらの調査が出來たためか、三十七年七月二十七日からの控訴審に於ては猶太側に不利な形勢となり、十一月一日に下された判決では前審が取消されて、「議定書」は卑猥文學ではなく、単に政治的闘争書であると認められ、またその眞僞の問題は法廷に於て決せらるべきものではなく、學術的に決定せらるべきものである、といふことになつた。
かくて猶太の策動は画餅に帰し、その非猶太人に依る僞作であるとの説は確認されず、發賣禁止もまた行われないことになつたのであるが、それが東洋に於ては日支事變に於て實質的に猶太の誤算と敗北とが次第に進捗しつつあつた頃であることを思ふとき、この訴訟事件が猶太に與へた精神的の打撃は誠に大であつたことと推察されるのである。その後獨逸合邦、チェッコ問題の反猶太的解決などもあり、この「議定書」の全部的實現がその一歩手前で失敗に歸しつつあることが次第に明らかになつて來てゐるが、欧州戦争誘致乃至日米通商條約廃棄通告等最近の米・英・佛に於ける猶太側の過激な手段の由つて來る所は、このベルンの訴訟に始まる正義派の勝利に對する猶太の絶望的なあがきなのである。この意味に於てベルンの訴訟の持つ象徴的意義は大であると言はねばならない。

今や我々の課題は、前に論及しておいた通りに、「議定書」がその世界大戦前に於ける唯一の傳播國である露西亜に於て既に千八百九十五年にズホーティン及びステパノフ等の手にあつた、といふことを明らかにすることである。この點に關しては、「水、東へ流る」又は「われらの主猶太人」等の著書によつて「議定書」問題及び一般猶太人問題に關して功績のある亜米利加の女流文筆家フライ夫人が、甞てモスコーの宗教會議の代表者であつたフィリップ・ペトロヴィッチ・ステパノフから千九百二十七年四月十七日に貰った手紙の内容であるとして發表している所が最も確實な資料となつてゐる。その手紙に依れば、ステパノフは千八百九十五年にアレキシス・ニコラエヴィッチ・ズホーティンから「議定書」の冩しを貰ひ、自分でもまたその冩しを作つて人に頒つた、といふのである。そしてこの説が単なる作為でないことは、「議定書」の出版者ニールス自身も、彼がそれを手に入れたのはズホーティンからである、と言つてゐることからも判明する。ただ前説との差は、ニールスがズホーティンから貰ったのは千九百一年であるという點である。またズホーティンが如何にしてそれを入手したかに關しては、彼自身ステパノフ及びニールスの二人に對して、巴里の一婦人からである、とのみしか語らなかつたとのことである。 なほこの九十五年説が正しいことは、三十七年に「猶太人の世界陰謀計画」なる小冊子に於て「議定書」問題に關する最新の研究の成果を纏めてゐるベルクマイスルが、三十六年十二月十三日附でズホーティンの娘アントニーナ・ポルフィルエウナ・マニコフスキーから受取つたといふ手紙の内容を見ても明白である。彼女はその中で、彼女が千八百九十五年に父を訪問した際、妹や姪が「議定書」の冩しを作つてゐるのを目撃した、と書いてゐるのである。
九十五年説には、北米デトロイト市で出版されている「フリー・プレス」關係の猶太人ベルンシュタインが自動車王フォードの書記カメロンに向つて、九十五年にオデッサで、ヘブライ語の「議定書」を見た、と語つたのも、間接的ではあるが、一つの好都合な材料となるであらう。但し、この點に就ては今一度後に触れることにして、茲では論を本筋に戻したいと思ふ。
かくて問題は、ズホーティンが如何なる径路によつて千八百九十五年又はそれ以前に「議定書」を入手したかといふことになるのであるが、この點に關しては、フライ夫人の次の説がある。彼女に依れば、「議定書」の佛蘭西語譯が巴里のフリイ・メイスン祕密結社にあつたが、其處の會員ジョセフ・ショルストなるものがユスティナ・グリンカといふ女にその冩しを賣り、その女がそれをズホーティンに傳へたのである、といふのである。然しこのフライ夫人の説が何處まで正しいかは、今なほその後の證拠がないので、確かなことはわからない。
序に、その後の露西亜に於ける傳播の状況を略述しておかう。先づ千九百三年には前述の如くスナミア紙に掲載され、次には「議定書」の出版者として最も有名なニールスによつてその著「小事のうちの大事]の第二版に於て五年に出版されたのである。なほニールスの息子の前述の手紙に依れば、露西亜に於ける最初の公表は二年から三年へかけての冬に於けるモスコフスキヤ・ヴィドモスティ紙上であるとのことである。別にブートミは、その著「人類の敵」の中で、六年に出版してゐる。そしてニールスもブートミも、ボルシェヴィズム革命迄はその版を幾度か重ねて行つた。
かく露西亜に於ける傳播の歴史を見ても、ズホーティンが如何なる径路で「議定書」を入手したかは、依然として謎として残るのである。然らば、この謎は今後解決され得る見込があるかと言ふのに、現在ではそれを単に所有するだけでも死刑に處せられるソ聯に於ては、恐らく現在の猶太政府が存在する限り、その見込はないであらう。否、或は永久にその見込はないかも知れないのであつて、それには次のやうな「議定書」式が経緯があるのである。即ち、前露西亜代議士男爵エンゲハルト大佐が「ヴェルト・ティーンスト」に寄せた通信に依れば、千九百十七年にフリイ・メイスン祕密結社員ルボオフ公が暫定内閣を組織した時、猶太問題關係の文書の全部が内務省及び警視廳から持ち出されて猶太人政治家でフリイ・メイスン結社員であるヴィナヴェルに引渡されてしまつたといふのである。

「議定書」の著者に關しては、その内面的眞實さの點では、前述の問題よりも確實であるにも拘らず、その外面的證拠は一層その確實性が欠けてゐる。この點に於ても現在では、フライ夫人の説が最も多く容認されてゐるのであつて、夫人に依れば、彼女がフォードの財政的援助によつて露西亜で調査した結果は、大体に於てアハト・ハームことアシェル・ギンスベルクがその著者であるといふのである。彼の名は非猶太人の間では余り著名ではないが、猶太人間には尊崇の的となつてをり、幼時から天才的で、千八百八十四年からはオデッサに住み、千九百五年の露西亜革命に活躍したが、後にはパレスチナに移り、衆望を荷ひつつ死んだのであつた。その學識は實に古今に通じ、語學もまた猶太人らしく堪能であつたと言はれてゐる。そしてこの彼が千八百八十九年にオデッサでベネ・モシェ(「モーゼの子等」の意)と稱する猶太的フリイ・メイスン祕密結社を設立したが、「議定書」は彼が其處で講演した猶太の世界征服政策のプログラムであるといふのが、今では一般に信ぜられてゐる説である。前に論及した猶太人ベルンザインの説は、アハト・ハームの此のプログラムのことを指すものであるらしく、それがヘブライ語で書かれてゐたといふのは、猶太人祕密結社内の習慣であると見做しても差支へないであらう。それ故に、フライ夫人の説いてゐるやうに、これが佛蘭西の猶太的フリイ・メイスン結社で用ひられてゐたといふことも可能であり、其處からその佛蘭西語譯が露西亜へ入つたといふことも考へられるのである。その理由は、フリイ・メイソン祕密結社は、純粋に猶太的であると否とに拘らず、殆どその創立以來全く猶太の支配下にあり、また、全世界の此の結社は相互に密接な聯絡を持つてゐるからである。なほニールスが入手した「議定書」の冩しには、最後の部分に「第三十三階級のシオンの代表者達によつて署名されてある」との書入れがあつたといふことである。この點から考へても、「議定書」がフリイ・メイスン祕密結社中でも純粋に猶太的であるものの世界政策のプログラムであることがわかるのである。換言すれば、アハト・ハームが設立したベネ・モシェの親結社とも見らるべき純猶太祕密結社ブナイブリスの世界征服のプログラムに外ならないのである。
ここで我々は、近來に到るまで「議定書」がいわゆるシオニズムの世界政策のプログラムで、千八百九十七年の第一回バーゼル會議に於てそれは決定されたのである、と信ぜられてゐたことに關しても一言しておきたい。勿論、或る意味に於てそれがシオニズムのプログラムであるといふのは正しいのであるが、然しシオニズムには二種あつて、普通シオニズムと稱せられてゐるものは、ヘルツル等の主張する「實際的シオニスム」又は「政治的シオニズム」と呼ばれるものであり、アハト・ハームの創設したベネ・モシェ或はかの凶悪なブナイ・ブリス祕密結社の如きは「象徴的シオニスム」又は「精神的シオニズム」と稱せられてゐるのである。そして前者は、シオンの恢復を文字通りに實行しようとするものであつて、猶太人のパレスティナへの復歸を目標としてゐるが、後者は、シオンへの復歸を象徴的に行はうとするものであつて、現在の如くに世界の諸國に寄生虫として存在しながらも、その世界征服を完成しようとするのである。「議定書」が議決されたといふ九十七年の第一回シオン會議は、少なくとも表面的には「實際シオニズム」の會議であつたのであるから、種々の調査にも拘らずその會議關係の記録に「議定書」に關する事が少しも見當らないのは當然であらう。
我々は然しこの「實際的シオニズム」もまた猶太の世界征服政策の一つの手段であつて、「象徴的シオニスム」の一つの僞装であるに過ぎないとさへ考へる者であるが、この點に關しては今は詳述することを差控えることにして、ただ一つ次の事實だけをここに記して世人の注意を促しておきたいと思ふ。即ち、かの「實際的シオニズム」の會議に當つては、同時に必ず純猶太フリイ・メイスン祕密結社であるブナイ・ブリス結社の會議が開催されるのであつて、この意味に於ては、議定書が九十七年にバーゼルで議題となり得たといふことは可能なのである。然し、それはかのシオン會議そのものに於てではなく、同時に開催されたブナイ・ブリス結社の會議に於てであることは言ふ迄もない。アハト・ハームもこのシオン會議に出席してゐたことは當時の冩眞でも明らかになつてゐるから、その彼が「議定書」をブナイ・ブリス結社の會議の方に提出したであらうことは、決して不思議でも不可能でもないのである。

以上述べたところで「議定書」の眞僞の問題に對する解答は大体は完了したと考へられる。即ちショリーと此書との内面的連絡から言へば、「議定書」が、猶太側の主張する如くに、萬一にも非猶太人の僞作であるとしても、それは猶太の世界征服のプログラムたる資格を消失しないのであるし、また著者アハト・ハーム説が成立しない場合にも、後に引用するトレービチュの説に眞實性があるとすれば、これが猶太人の作であり、従つてその内容が猶太の世界支配のプログラムであることは肯定され得るのである。なほまたこれらの説の全部が成立しないとしても、少なくともジョリーの著者の出版された千八百六十四年頃以後の世界の動きは、この書が猶太の世界政策のプログラムとしての内面的眞實性を明證してゐるのである。いまこの點に就いて我々は一々例示することを差控へたいと考へるが、近時の世相を多少とも世界的に達観し得る人には、この「議定書」が余りにも眞實であることが直ちに理解されるのである。
然しなほ我々は念のために、議定書の眞僞に關しては、ベルンの訴訟を契機として主として獨逸の「ヴェルト・ディーンスト」が調査し、前にも論及したベルクマイステルが前述の小冊子で述べてゐる材料を紹介するだけの勞を取りたいと思ふ。そしてそれは三つあるが、特に注目に値するのは、三つながらに猶太法師のなした證言であることてあつて、猶太法師が猶太人の世界に於て如何なる地位を占めるかを知つてゐる者には、このことは誠に重大な意義があるのである。「トーラ」よりも時としては「タルムード」が尊重されることはよく言はれることであるが、猶太法師の言説は、極めてしばしば、その「タルムード」よりも尊重されるのである。
その第一のものは、波蘭領ショッケン市に於て千九百一年頃に猶太法師フライシュマンがその友人副検事ノスコヴィッツに對してなした證言である。三十四年十一月三十日の「ヴェルト・ディンースト」宛のノスコヴィッツの手紙に依れば、フライシュマンが自分の許嫁が猶太法師ヴァイルヒェンフォルトによつて暴行されたことを訴へながら、猶太人の内情を暴露し、「議定書」は猶太人の手になつたもので、決して僞作ではないことを確言した、といふのである。
第二のものは、同じくノスコヴィッツの手紙にあるものであつて、彼が千九百六年に波蘭のスウルツェツの猶太法師グリューンフエルトに「議定書」の眞僞を確かめたところ、法師は「貴方は餘り好奇心が過ぎ、餘りの大事を知らうとなされる。この件に就いて、私共は語ることを許されてをりません。私は語るを得ませんし、貴方はお知りになつてはいけないのです。何卒慎重にやつて下さい。でないと、生命にかかはりますよ、」と返事したといふことである。
第三のものはエフロンなる人物をめぐるものであつて、第一、第二に比して複雑であり、その證言は三重又は四重になつてゐる。彼エフロンは露西亜系猶太人であつて、詳しくはサヴェー・コンスタンティノヴィッチ・エフロンといひ、青年時代には猶太法師であつたが、後に基督教に改宗し、ペーテルブルグの鑛山技師にもなつた人であるが、また文筆の才もあつてリトヴィンといふ筆名で「密輸入者」その他の戯曲を書き、猶太人に對して時折辛辣な批評を加へたりしたので、猶太的ボルシェヴィズム革命の後は生命の危険を免れるために所々に亡命して回つたが、終にセルヴィアのシヤバッツ県ペトヴィッツ近傍の修道院に救われ、二十六年にここで歿したのであつた。
さてエフロンに關する最初のものは、露國騎兵大尉ゲオルク・M(特に名が祕されてゐる)が二十二年二月に彼に「議定書」は本物であるかと訊いた時のエフロンの答であつて、「自分はそれが基督教側の新聞に公表される数年前からその内容をよく知つてゐた」といふのであるが、これは大尉自身が二十八年十月巴里の露西亜教會の司祭長の前でその眞實であることを誓言したものである。
次の二つは前出のベルクマイステルの調査したものであつて、彼はこのエフロンの場合に非常な興味を感じ、エフロンを知つてゐる者を何とかして探し出したいと思つて努力をするうち、二人を發見するのに成功したのであつた。その一人はワシリー・アンドレエーヴィッチ・スミルノフであつて、ベルクマイステルはこの者から、エフロン自身が或る機會に書いたといふ露語の一文を受取つたさうであるが、我々はその文章の動機及び内容に触れることを差控へて、スミルノフが三十六年十二月十五日に「議定書」に關してエフロンと交はした會話中、「議定書は原本そのままではなく、原本の壓縮した抜粋であるが、その原本の由來と存在に就いては、全世界で自分を含めても十人しかそれを知つてゐる者はない。もし君が時々私の所にやつて來るならば、この祕密を漏らしてあげてもよい、」とエフロンが言つた事だけは彼が今なほ記憶してゐる、と書いてゐるのを傳へておかう。但しスミルノフはその後間もなく職を得てベルグラードに去つたので、遂にエフロンからその祕密を聞くことは出來なかつたといふことである。もう一人はペトヴィッツ在住のワシリー・メチャイロヴィッチ・コロシェンコであつて、エフロンが修道院に収容されてゐた頃、其處の官房主事を勤めてゐた者であるが、彼の三十七年二月三日附の手紙に依れば、彼は或る時エフロンから「議定書」を貰ったが、その時エフロンは、「これは本物であつて、その中に書いてあることはすっかり眞實である」と言つたし、また別の時には、「猶太人は祕密文書を持つてゐるが、それは内情に通じた人以外には誰にも見せることはない」とも言つた、といふことである。
名著「猶太帝國主義」の著者シュヴァルツ・ポストゥニチュは、その著書中で、彼もまたエフロンに千九百二十一年にベルグラードで會つたが、その時エフロンは、「議定書が本物であることを説く人に共通の誤りは、それを議定書と呼ぶことであつて、實際にはそれはプログラムである」と言つた、と記してゐる。
既に「議定書」の内面的眞實性を確信する者に取つては、以上三つ乃至五つの外面的證拠の有無は大して意義はないのであるが、しかしこれらの證言もまた實證的には可成り重要視さるべきものであることは言ふ迄もない。

ここで我々は、前に一言しておいた猶太人アルトゥール・トレービチュの言を引用しておくことにしよう。

「著者の如くに、かの祕密文書に表明されてゐる全思想・目標・意圖を我々の全経済的・政治的・精神的生活から既に以前に豫感を以つて観取し、聴取し、読取つてゐた者は、この文書が世界支配を目標とする精神の正眞正銘な發露であるといふ説に決然と賛成することが出來るのである。アーリヤ人の頭脳ならば、反猶太的憎悪が如何にそれを僞造と誹謗とに駆り立てようとも、これらの闘争方法、これらの謀略、これらの奸計と詐欺とを考へ出すことは到底出來ないであらう。」

トレービチュの「獨逸精神か猶太精神か」の中からの引用に次いで、我々は、「議定書」に關する第二審の判決以前にその眞僞に關して独・伊・英・米・佛・墺太利・ハンカリー・波蘭・ベルギー・和蘭・デンマーク・フィンランド・希臘・ユーゴースラヴィア・加奈陀・レットランド・ノルウェー・スェーデン・瑞西・スペイン・南阿・チェッコ・露西亜(亡命者)の代表が獨逸エルフルトに集合して行つた「決議」を紹介し、この「議定書」に關する小論を閉ぢたいと思ふ。
「千九百三十七年九月二日より五日に亙つてエルフルトで開催されたヴェルト・ディーンストの國際會議は、二十ヶ國以上から参集した数多き學者・著作家・政治家がそれに参加したのであるが、議定書の眞僞に關して次の如き決議をした。
ベルン裁判所によつて千九百三十五年五月十四日に下された判決は議定書を僞作であるとしてゐるが、これは過誤判決であつて、この結果に立ち到つたのは一に次の事情のためである。即ち、それは、裁判官が誤つて、猶太側から推薦された瑞西の専門家ロースリーとバウムガルテン教授との意見書のみをその判定の基礎としたためであり、またその上に、猶太側原告が提議した十六證人のみを尋問して、非猶太被告側から提議した四十人の反對證人を只の一人も召喚しなかつたがためである。ベルンの判決は議定書の本物であることを揺がせるものではない。その本物であることは、他の種の事情がそれを證明してゐる許りでなく、猶太人自身がそのあらゆる政治的・社會的・宗教的領域に於ける行動に於てこの議定書の規定に従つてゐるといふ議論の余地の無い事實によつて證明される。かくてシオンの議定書は、猶太の世界政策の眞正なるプログラムである。」(一六・五)

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