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猶太と世界戰爭
T 猶太魂の本質

五、猶太聖典及び法典の成立と猶太的「タルムード論理」

猶太問題が單なる宗教問題でないことは言ふ迄もないことであるが、然し猶太民族の場合に於てもその特質がその宗教に於て最も本質的に現はれてゐることは、他の民族の場合と同一であつて、猶太民族の過去・現在・未来を知るためには、何よりも先づその宗教をよく理解しなくてはならない。勿論、或る宗教を眞に理解するためには、その祭式の實際を詳細に知る必要のあることは言ふ迄もないが、しかしそれと同時に、否、それよりも一層重要なのは、その宗教の聖典を充分に検討することである。この意味に於て吾々は、第一に「トーラ」と稱せられる舊約聖書の最初の五巻、次には「タルムード、」次には「シュルハン・アルフ」、そして最後には「シオンの議定書」にまで及ぶ所がなくてはならない。勿論この他にも、舊約聖書の残部、猶太諸法師或はマイモニデスの著作等は考慮されねばならないであらうが、しかし前の四つを問題とすることで、充分ではなくとも、大體に於ては事足りるのである。それ故にここでは、これら三つをその成立と内容とに亙つて極めて簡單に述べて見ることにしよう。殊にわが國に於ける猶太問題研究の最大の缺點は、現在の問題に眼を向けることに急なる結果として、その根據を充分に明らかにせざる所にあり、従つて、屡々餘りにも早急に「八絋為宇」の大理想を持ち出すなどして、猶太に關する相當の知識を有するにも拘らず、極めて容易に猶太の張り巡らす陥穽に陥るのである。無知から来る傲慢さと同じく、原理の確立せぬ知識が如何に危険であるかは、この場合にもよく窺われるのである。
さて「トーラ」であるが、それは「教」を意味するものであつて、猶太教の原典をなしてゐる。舊約聖書の始めの五書がそれであることは・・廣義には舊約全部を指すこともある・・既述の通りであるが、猶太人のそれに對する尊敬の念は極度に深く、それが「意味」の點から神の言葉である許りでなく、その一語一語、その一綴一綴、その一文字一文字が、その侭神の言葉であつて、今傳はつてゐる侭の姿で神より直接にシナイ山上でモーゼに傳へられる前に、更に正確に言へは、この世界が神によつて創造される前に、現在のものと一言一句の相違なしに創造されてあつたといふのである。自分の宗教聖典に對するこの強烈な信仰は宗教的信念の表現としては尊敬すべき熱意を帯びてゐるのであるが、しかしここに既に見られる物質的文字への執着は、猶太民族に於ける唯物主義の深さを暗示してゐないと如何して言へるであらうか。殊に創世紀の宇宙創成史その他の内容が、印度乃至バビロンよりの輸入品であることを考慮し、またその中の神観乃至道徳観がその侭の言葉であるといふ猶太の信仰を問題として考へるならば、かかる言葉をモーゼに傳へ或はそれ以前にそれを創造した神エホバは、決して民族神とさへも言ひ得ない程度の妖怪乃至悪魔と見做されても差支へないのである。
眞の基督教に生きんとする者は、基督教と猶太教の差を知らなくてはならないし、従つて新約と舊約との根本的差異をも知らなくてはならない。舊約の名に欺かれて猶太の世界政策の手先となることは、「われ等の父なる神」の御旨にも叶ふ筈はなく、況んや身を捨てても猶太の不正を矯めんとしたと稱せられる基督その人の意志に副ふ筈はないのである。例へば、米國のブルックリンに本部を有する「萬國聖書研究會」といふ看板の陰謀團體及びそれに類似のものの如きは、何れも、基督教の名に於ける猶太帝國主義の一機關たるに過ぎない。猶太民族自身が「神の選民」たることを主張するのに對して、その歴史が果してそれを證してゐるか否かを見ることもせず、猶太聖書を舊約とする信仰に属することが人を「高等民族」にするといふ如きお目出度い迷信を抱いて、眞の信仰の本質と自己の本質とが何であるかを反省することを忘れる者が如何に多いことであるか! 例へばカンタベリー僧正の如くに猶太教會のみを保存してゐるソ聯を反宗教ならずとして感激し、また米國のブラウン僧正の如く幾百萬弗の遺産を共産黨に寄贈する程度の盲信者はわが國にはないであらうが、しかし「戰争と眞理」といふ如き三歳の童子と雖も正気ではなし得ぬ相關概念を作製する無教會派「人工猶太人」の如きが基督教者であるといふに至つては、基督教のためにも遺憾この上もない事であらう。
ここで猶太聖典そのものに帰らう。さて猶太人の「トーラ」に對するかくの如き唯物主義的盲信は、健全な常識を持つ程度の人に取つたならば「トーラ」の到る處に存することの明らかな無數の矛盾に面しても、猶太人をして矛盾を矛盾として認めるだけの餘裕を許さなかつた。即ち、神の言葉に矛盾があると認めることが神を冒涜することと感ぜられるのは尤であつて、ここに、その成立史から見ても存在し得ない筈の統一をかかる矛盾のうちに認めようとする努力が生れて来る。神の言葉に矛盾が見えるのは、いまだ神の心に徹しないからだといふのである。かくて所謂「解釋」又は「註釋」の必要が生じ、極めて牽強附會な無數の説が生れて来るが、然しこれらの解釋が單なる解釋と認められる限りはそれらに強制力がないので、かかる解釋に従事する猶太法師達は、彼等のなす解釋は單なる解釋ではなくて、モーゼが神より傳授された神の言葉の一部が口傳によつて彼等に傳へられて来たのである、と説くやうになつたのである。かくして成立したのが「解釋」を意味する「ミトラシュ」であるが、時代と共にそれがまた整頓され、解釋されて、やがて「繰返し」を意味する「ミシュナ」が生れた。舊約聖書と並んで猶太人によつて尊崇されてゐる上に、猶太人の本質を知るためには或は舊約よりも一層適切であるかも知れない「タルムード」は、この「ミシュナ」と、更に之に加へられた解釋の集成で「完成」を意味する「ゲマラ」とから成つてゐるのであつて、これは後にも論及したいと考へるが、猶太聖典として重要な「タルムード」は、その成立史から見る時には、解釋の解釋であるのである。この「タルムード」が現在の形に於て完成したのは西暦四百年から五百五十年に至る頃であるが、現在ではパレスティナ系の小部のものと、バビロン系の極めて大部のものとがあり、歐米に於て普通「タルムード」と稱せられるのは後者を指すのである。細字大型書十幾冊と稱せられてゐるから、その大部であることは容易に想像がつくであらう。
然しこの大部の書は、現在の基督教徒の全部があらゆる神父達の書を讀破することはなくA又現代の佛教徒があらゆる佛教經典を通讀することのないのに照應して、決して猶太教信者によつて全部が讀まれることはないのである。然しながら、猶太人が亞細亞の西部から歐州へと黄金を追うて流浪するやうになつてからは、個人的乃至團體的の一々の重大事に際してパレスティナの大法師の裁斷を受ける暇がなくなつたので、ここにより簡便な律法の書を必要とするに至つたのであるが、西暦千年頃に西班牙・佛蘭西・西部獨逸の地方に於て書かれた猶太哲學者マイモニデスの著、ヤコブ・ベン・アシェルの著、及びヨゼフ・カロの著等は、その使命を持つてゐたのである。いづれも「タルムード」を抜粋し、それに猶太的「解釋」を加へたものである。そのうち最後の書が最も廣く讀まれたが、これがまた既に大部の著であつたので、更に著者自身によつて抜粋が作られ、千五百六十四年から翌年へかけて始めてヴェニスで出版されるに至つた。「シュルハン・アルフ」(「用意の出来た食卓」の意)と稱せらるるものがこれであるが、しかし猶太の他のあらゆる場合と同じく、この書もまた直ちに「解釋」を生んで、現在「シュルハン・アルフ」として我々の手に入るものは、クラカウの猶太法師モーゼ・イツセルレスの書いた部分の加へられたものである。かくてこの書もまた相當大部のものとなつてゐるが、この程度ならば實用的であるので、現年も盛んに活用されてゐる。四部から成つてゐて、日常生活の諸般の事を規定した巻、祭事を規定した巻、民法乃至刑法の巻、婚姻の巻となつてゐる。唯物論者マルクスが常に懐中して、人目を避けては讀み耽けつたといふのも、恐らくこの書か、それの抜粋であるらしく、改宗猶太人で表面的には宗教排斥の元祖であるマルクス(本名モルデカイ)に於てすら既に然りであるから、他の猶太教猶太人に於てはこれらの猶太聖典が今に於ても如何なる拘束力を持つてゐるから、到底吾人の想像を許さぬ所である。しかしこの事情は、大部の猶太史の著者猶太人グレッツ教授や日本に於ても一時渇仰随喜の對象となつた猶太的「純粋」派の猶太哲學者コーエン等が、或は著書の中で、或は法廷の前で、猶太教とその聖典とが現在の猶太人に取つても唯一絶對の價値の標準であり、實行の規矩である、と公言してゐるのを見れば充分に明瞭になるであらう。
既に論及したやうに、これらの猶太聖典乃至法典はすべて解釋であり、解釋の解釋であり、そのまた解釋であるが、これは吾々が猶太人の本質を知る場合には極めて興味深い事實を暗示してゐるのであつて、猶太人は「創造的でない」とされるかと思へば、同時に他方では猶太人は「頭がよい」とされるといふ、一見しては矛盾と見える事柄が、決して眞の矛盾でないといふことも、猶太聖典の成立史に見られる上述の事實を知る者には直ちに明らかになるのである。つまり猶太人の「頭のよさ」とは、「トーラ」又は「タルムード」の解釋の場合のやうに、本来の矛盾であるものに統一を見出すことであり、勇猛な詭弁によつて對象を無視しても或種の「解釋」を成立せしめるだけの大胆さを持つといふ事に外ならない。それ故に猶太人の頭のよさとか解釋のうまさは、猶太人の實生活の殆ど全部を形成してゐると稱せられる「嘘言・詐欺・裏切り・暗殺」等の諸傾向が頭の仕事として發現したものに外ならぬことが判明する。「タルムード」の成立そのものが既に「トーラ」に對する嘘言であり、詐欺であり、裏切りである、暗殺であることは、「タルムード」には既に「トーラ」の面影が殆ど全くないと稱せられてゐることによつても判明する。猶太精神の本質が「技術的」であると稱せらるるのも、眞の創造力がなく、解釋のみに終始するがためであらう。一體に解釋的精神は非創造性の一面であつて、之は個人的に見ても、民族の歴史を見ても、よく理解の出来ることである。ゲーテの言ふ創造的批評が如何に稀であり、解釋のうまさといふ技術の點に捉はれない眞の創造的解釋が如何に少ないかといふことが、これを證する。猶太精神の以上の側面を吾々は「猶太的論理」と呼びならはして来てゐるのであるが、この技術的精神が技術の世紀である唯物主義の十九世紀に支配的地位を占め得たのも、蓋し偶然ではないであらう。兎に角、猶太の「トーラ」崇拝は、表面的には宗教的熱意を帯びてゐるが、實際に於ては「トーラ」は、その解釋者、即ち、猶太法師の「頭のよい」解釋によつて、口傳もまた神の言葉なりといふ詭弁の下に、如何とも變更され得ることになつてゐるのである。
宗教聖典に對してさへもかやうな態度であるから、他の解釋の場合が如何であるかは容易に想像し得られるであらう。所謂「純粋法學」、「形式社會學」等と呼ばれる猶太系の思想がすべてそれであつて、例へば猶太法學が國家をも「純粋」化して××機關説に及び、また偉人天才の研究に於ては對象の本體を猶太化し、それによって解釋者の「頭のよさ」を誇示するのも、同じ「嘘・詐欺・裏切り・暗殺」的精神の一表現に外ならない。(一六・五)

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