Anti-Rothschild Alliance

HOME

資料室

HOME>>資料室 TOP>>猶太と世界戰爭 目次>>T 猶太魂の本質【三 猶太の神秘の数を解く】

猶太と世界戰爭
T 猶太魂の本質

三 猶太の神秘の数を解く

−「十五」なる數の猶太祕密力に對して有する意義−
1 + 9 + 1 + 4(年)= 15 第一次世界大戦
1 + 9 + 4 + 1(年)= 15 第二次世界大戦(大東亞戦)

標題の眞意義を解するためには、猶太人が如何なる魂の所有者であるかを了得しなくてはならない。然しこれは相當の難事であつて、一朝一夕には果され得ないことであり、最小限度に於ても、猶太聖典としての旧約全書(特にトーラと稱せられるその最初の五巻)及びタルムードに通暁し、猶太哲学としてのカバラを味識し、それに加へて猶太四千年の歴史を達観することを要求するのである。在來の政治的經濟的方面を中心とする猶太研究は、猶太の魂の本質を明らかにすることによつて補足さるる時に一層完全なるものとなるであらう。殊に思想對策の分野に關しては、猶太の魂の研究によつてのみェ本的な解決の道が發見されるであらう。しかし我々はこの短い論稿に於ては、上述の如き広汎なる問題に及ぶ余裕を持たないので、直接に「十五」なる數に關する問題のみに就いて述べたいと思ふが、もしそれに依つて猶太魂の根本的特質がその片影に於てなりとも明らかにされるなら、筆者の労は充分に酬いらるるのである。
わが國唯一の猶太研究月刊誌「猶太研究」の讀者は、その第一巻第六号に掲載せられた「猶太民族の世界征服綱領」を記憶さるるであらう。その本文は、一八五一年に今は亡國の運命にあるチェッコ國の首都ブラーハに於て開催せられた猶太法師會議の議事録として傳へられてゐるものの主要部分である。然しこの際に集つた十二人の法師がいづれも猶太祕教としてのカバラの行者であつたことは、その集會の場所がカバラ行者として著名であつたシメオン・ベン・エフダ法師の墓場に於てであり、また祕教の行事に相應しく夜闇の中に於てであつたことに依つて證さるる故に、この集會はカバラ行者長老會とも稱せられてゐる。そしてその議題は言ふまでもなく猶太の世界支配の方法とその現況の検討であつて、歐米各地の枢要都市に散在する猶太十二支族の代表者が方策を提出してゐるのである。但し今我々に問題なのは、その策謀の内容そのものではなくて、この長老會議の行はれた年号の示す數字であり、またそれがその前にも約百年毎に行はれてゐたと稱せられてゐる點である。これを年号にて示すならば、第一回長老會議は一四六四年に行はれ、第二回は一五六三年に、第三回は一六五三年に、第四回は一七六一年に催され、そして前記の議事録はその第五回のものであると稱せられてゐる。而して之等の年号の數字をそれぞれ加算する時は、何れも「十五」となるのである。また第六回の長老會議は當然昨年即ち一九四一年に行はるべきであつたと稱せられるが、しかし、今やプラーハ市は独逸の支配下にあるのであるから、この長老會が予定通りに開催され得たか否かは我々の知り得る所ではない。
上述の議事録が、他の猶太系の祕密文書と同じく、その眞偽に關しては正確な證拠とてはないやうであるが、しかしそれにも拘らず、かの諸年号が「十五」であることが猶太祕密力に取つて必ず何等かの重大な意義を有するであらうことを暗示するには足りるであらう。殊に猶太十二支族を代表する法師がすべてカバラの行者であることからして、かかる數に關する信仰がカバラ祕教の中に於て重要なる地位を占めてゐるのではないかといふ推測を生むのは當然であるが、果してその中にはゲマトリア(ギリシャ語に由來し、広義には「數学」を意味するといふ説が有力である)と稱せらるる數に關する神祕が説かれてゐるのである。そしてこのゲマトリアは既にタルムードにも見られるものであり、主として聖書中の難解の語句を解釈する際に用ひられたものであつた。その方法はヘブライ語の字母はそれぞれ數を代表してゐるので、聖書中の語句の有する數値をその語句を形成する字母の代表する數の和によつて示し、同一の數値を有する他の語句は同一の數値を有する他の概念に依つてその語句を解釈するのである。いま我々は聖書中の語句の場合の例を取ることを避けて、現在の我々に關係の深い方面の現象にこれを應用して見よう。
ヘブライ語に於ける「世界戦争」又は「全地球上に於ける戦争」なる語の有する數値は六七五となるが、猶太の年号は普通その千台を略して呼ばれる故に、この數に近來の猶太の年号の千台のものである五千を加へる時は、それは五六七五年となるが、これは西暦の一九一四年に相當するのである。然しこの一九一四年に第一次世界大戦は起つたのである。しかもこの一九一四年の有する數字の総和は「十五」であり、今次大戦が文字通りの世界大戦となつた年は一九四一年であつてまた「十五」なのてある。
かくて問題は、かく事實上重大な意義を持つてゐる「十五」の數が猶太に取つて如何なる意義を有するかである。先づ茲にその結論を述べるならば、この「十五」なる數は猶太民族の守護神エホバの數であつて、この神聖なる數に關係する事柄は猶太に取つてはまた神聖なるものであり、猶太民族の世界征服計画の實行手段としての戦争の如きは、この數の年に於て行はれる時、その守護神エホバの特別の庇護の下に遂行される、といふのである。では、如何にして「十五」がエホバの數であるかといふのに、子音のみによつて綴られるヘブライ語に於てはエホバ(正しくはヤーヴェ)の名はJHWHとなるのであるが、その始めの二字即ちJとHとは十と五なる數値を持ち、合して「十五」となるのである。かつて守護神の名の代表する數がゲマトリアなる數的信仰を有する猶太人に取つて如何に重大なる尊信の對象となるかは、猶太人の魂の宗教的傾向の本質を多少とも知る者には、直ちに理解されるところてある。
しかし或人々は、現代の如き所謂「科学」の時代に於て猶太人に於てもかかる數的迷信を信仰するものはあり得ないであらう、と言ふかも知れないし、また相當數の所謂文化猶太人のうち他國民の間に生活するものは、少なくとも表面的には、かかる信仰を捨てたことを主張してゐる。然しこれを以て直ちにかかる信仰を偉力の否定するのは早計であつて、猶太人以上に文明開化されてゐる筈の一般キリスト教徒の間に於て未だ十三の數が如何なる役割を演じてゐるかを知る者は、「十五」の數の猶太人間に於ける意義を直ちに理解し得るであらう。宗教的権威と政治的権力とを兼ね備へる猶太法師が千年一日の如くタルムード等の猶太聖典をその教會に於て説きつづけてゐる限り、猶太の魂には決して根本的の變革はあり得ないのである。
なほ一言しておきたいのは、「十五」なる數の持つこの意義を明瞭に認識したのは、タルムード乃至カバラ研究の一部専門学者を除いては、ルーデンドルフ将軍であることであつて、之は一九二七年の著「フリイ・メイスン結社の討滅」に於て始めて暴露されたのてある。而してこの暴露が猶太陣營を如何に震撼したかは、将軍に關してその後猶太支配下の自由主義諸新聞が極めて悪質の宣傳をしたことによつても理解される。将軍のこの點に於ける功績は、旧約聖書申命記第二十八章の持つ意義の解明と共に将軍の猶太研究に於ける二大業績であり、その軍事的その功業と共に永く記憶さるべきであらう。實に将軍はその「戦争煽動と諸民族の殲減」に於て既に十數年の昔より一九四一年の危機を説き続けて來たのてある。
かくて、猶太の世界征服計画を知る者は、第一次世界大戦が何故に一九四一年に起り、今次大戦が何故に一九四一年にその世界的規模にまで發展せざるを得なかつたかの理由を會得することが出來るのてある。既に我々の説いた如くに、エホバの年一九四一年に始つた今次大戦は猶太人にとつては「人類殲減戦」なのであつて、彼等に枢軸側の勝利が愉快でないことは勿論であるが、然しまた米英ソ支の敗退もまた猶太系諸新聞の宣傳するが如くには痛手ではない筈である。現在までの經過は、或は猶太陣營の予定のコースを辿つてゐるのかも知れない。従つて猶太の世界支配機關の一翼としてのフリイ・メイスン結社の有力會員たるルーズヴェルト及びチャーチルは、今やアメリカに於て猶太有力者の感謝を受けつつ、内心大なる愉悦に浸つてゐるかも知れないのてある。最近シンガポールより本國帰還を命ぜられた猶太人東洋探題ダフ・クーパーの如きも、その猶太的使命は今や完全に果されたのである。また傳へらるる如くチャーチルが退いてイーデンが首相の印綬を帯びることも決して不可能ではいのであつて、祕密結社系勢力より見ればイーデンの方が猶太陣營に取つては有用であるかも知れないのてあるし、また猶太的世界総赤化策に取つては猶太人リトヴィノフ外相と親戚關係にあるイーデンの方が猶太に取つて一層好都合なことは自明である。又ロータリー・クラブ系の半國際人の間に日本贔屓として名声を博してゐたらしい前日本駐在米國大使が、大東亞戦の宣傳布告を受取るや直ちに或るゴルフ場(このゴルフ場が如何なるものであるかは知る人ぞ知る)に出かてたといふ噂は、彼が如何なる系統の指令下にあるかを明瞭に示すものでなくて何であらうか。
今や我々は米英アングロサクソンの暴慢なる世界搾取を討たんとして正義の戦を戦つてゐるのであるが、忠勇義烈の皇軍の赫々たる戦果を眞に確保せんとするならば、かのアングロサクソンの背後にあつて米英の敗退をも自己の世界征服の具となさんとしてゐる猶太のあることを忘れてはならない。支那事變の敵がフリイ・メイスン祕密結社員蒋であり、更に米英及び猶太祕密力であつた如くに、大東亞戦争の敵は米英であり、更にまた猶太なのである。(一七・一・一四)
附 言
特に超非常時である現代に於ても、「日本に現存するフリイ・メイスンリイ」等といふ書が、「科学」の名を僭稱しつつも、赤化主義者の片言隻語に絶對の信頼をかけて、フリイ・メイスンと猶太とは關係なしといふ如き時代錯誤の主張をしてゐるのであるから、以上の認識は特に重要性を持つのである。かかるフリイ・メイスンリイの解釈は、猶太が絶對的支配権を有する英米に於てさへも稀に見られるものであつて、現代歐洲に於ては前世紀の猶太系宣傳として一人前の判断力を持つ者は誰一人耳をかすことをしない所のものである。「科學」なる語を宣傳に利用した者が主として赤色猶太主義者であつたことを知る者は、今なほ「科學」の名を僭稱する怪物が皇國日本にも出没し得る余地のあることを反省して、猶太祕密力の謀略の深刻さを忘れてはならない。

このページのTOP

 

無題ドキュメント