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猶太と世界戰爭
T 猶太魂の本質

一、猶太問題研究の精神史的意義

かつて「猶太禍の迷妄」を説き、またフリイ・メイスン祕密結社を人道主義的團體なりとして擁護することによつて猶太に忠勤を勵んだ「人爲的猶太人」の一群があつたが、その傳統は今は、猶太問題は猶太人に國土又は國家を與ふれば解決するといふ「志願シオニスト」の一團となつてゐる。二つに共通の非日本的なる倣岸不遜さは、無知に基づく生兵法の結果とのみ片づけられないエホバ的妖気を帯びてをり、怪奇なる日猶同祖説とその猶太性に於ては大差のない陰惨なる背景を感ぜしめる。本第一部はかかる妖気を退散せしめんがための破邪顕正の筆剣である。

一、猶太問題研究の精神史的意義

あらゆる人間的行爲に前提があるやうに、すべての學術にもまた前提がある。十九世紀の歐洲に於て「無前提性」を標榜したところの學問も、實際に於ては決して無前提ではなかつたのであつて、唯物論的實證主義こそその前提だつたのである。多少逆説的に言ふならば「無前提性」の説かれる場合こそ反つて強烈な前提が存在してゐるのである。この意味に於て猶太問題研究にも亦明らかに前提が存在してゐるのであるが、それが如何なるものであるかはおのづゥら明瞭であるにも拘らず、ここでは直ちに猶太問題そのものの持つ意味を見ることに移りたいと思ふ。

猶太問題もまた、あらゆる人間界の重大問題と同じく、單なる部分的人生問題ではない。即ち、それは、在來屡々歐洲に於ても考へられたやうな單なる宗教問題ではなく、實に英國宰相ビーコンスフィールド卿事猶太人ディスレイリも言つてゐるやうに、先づ第一に民族の問題であり、また猶太人が過去に於ても現在に於ても「國家中の國家」を形成してゐる點に於ては重大なる國家問題であり、世界の富の七割乃至八割を少數民族として獨占してゐるといふ意味に於ては注目すべき經濟問題であり、更にまた、殆どあらゆる極左的思想の創案乃至宣傳者であるといふ關係に於ては由々しき思想問題であり、全體としては國家と民族との存立如何に多大の關係を有する危険なる社会問題である。

猶太問題の全貌がかやうな廣範なものであるとすれば、それの研究はまた同様に廣範なものとならねばならない。從つてかやうな研究は、その對象の性質の然らしむる所として、研究者の側に於ける態度決定の如何によつて全く相反した結果をも生ずることは自明であらう。ここに吾々が既に論及しておいた學術の前提が再び問題となつて來るのであるが、この場合にも吾々はそれがやがておのづから明瞭になることを信ずるので、先づ現在の世界の諸國に於て猶太問題が如何なる様相を示してゐるかを端的に述べることにしたいと思ふ。

何人にも明白な事實は、現年の世界が大體に於て二つのイデオロギー的陣營に分れてゐることである。これは恐らく世界の常識に属してゐると考へられるが、現在の世界の對立が、二つと言はれて三つと稱せられてゐない點は特に注目に値するのであつて、現在の世界の猶太問題の考察に當つても、このことは重要な意味を持つて來るのである。この事情を精神史的に言へば、世界の一方にはいまだ十九世紀的唯物思想にその存在の根拠をおいてゐる所謂デモクラシー諸國があり、他方には、それらの諸國からは有名無實の惡評を浴せかけられてゐる二十世紀新興勢力としての所謂ファッシズム諸國が對立的に存在してゐるのである。然るに十九世紀と言へば、フリイ・メイスン祕密結社のモットーである「自由・平等・博愛」を看板として遂行された猶太解放革命としての佛蘭西革命に始まる世紀であつて、その本質は合理主義・個體主義・相對主義・唯物主義等の特質を持つ惡平等思想の支配した時代であるに過ぎず、またその猶太解放は實質的には猶太の世界支配の容認にすぎなかつたので、十九世紀は即ち猶太の世界支配の確立の世紀に外ならないとさへ言ひ得るのである。而してかのデモクラシーとは、實質は猶太獨裁の別名に外ならない。現在のデモクラシー國家なるものは、それが今なほデモクラシー的本質を残存してゐる程度に正比例して、猶太獨裁に服してゐるのである。これに反して所謂ファッシズム諸國に於ては、それが全體主義でありまた民族主義である程度に正比例して、猶太獨裁は清算されてゐるのである。

然しここに或人は、ボルシェヴィズムのソ聯は如何であるかの問題を提出するであらう。然しこれは單にボルシェヴィズムの仇敵がファッシズムであつた一事のみからも極めて明瞭である通りに、ボルシェヴィズムも自由主義も本質的には何等の相違はないのである。これを近來の著名の語で言へば、自由主義は共産主義の温床である、といふのである。言葉を變へて言ふならば、前者は後者の頽廃的段階たるのである。從つて両者は、共同の敵としての新興勢力が擡頭する場合には、例へば日支事變に於ける英・米・佛・ソ聯の仲のよさが證明して餘りあるやうに、直ちに共同戰線を張るに至るのである。自由主義の地盤としての資本主義も、ボルシェヴィズムの地盤としての共産主義も、共に何れも合理主義であり、相對主義であり、個體主義であり、就中、拝物宗であるからである。これを吾々の當面の問である猶太問題から見る時には、この二つの國際主義の代表者であり、支持者であり、宣傳者であり、統一者である所のものは、同一の猶太に外ならないのである。ソ聯なるものは、その成立より見るも、スターリンを第一線に立たしめて督戰してゐるカガーノヴィッチ閨閥の支配状況から見るも、米國フリイ・メイスン系金融猶太人の投資の一形式であると言つても決して過言ではないのである。それ故にソ聯の眞相を掴まふとする者は、時折演出されるその内部に於ける内輪喧嘩を過大に評價して、既に全猶太がソ聯を見捨てたと誤信してはならない。パレスチナ系乃至トロツキーの第四インターナショナル系の猶太人がスタリーリンに不満であることが萬一にも事實であるとしても、米國猶太は巨額の投資をさう容易に斷念し得る筈はないのである。最近カガノーヴィッチ閨閥に異状があつたと稱せられるが、これか事實ならば或はソ聯の動向にも何等かの根本的變化があるかも知れないが、今それを論ずることは早急に過ぎるであらう。 而してこれら諸國に於ける猶太問題の扱ひ方は、それらの國に於て占むる猶太勢力の大きさに正比例した結果を示してゐる。即ち、かの所謂デモクラシー國家に於ては、それが仮令全くの禁止を喰うてはゐないにもせよ、この問題の特志研究家は身邊にあらゆる意味の迫害を受ける。この事情は、活眼をもつてそれら諸國の動静を見るならば、容易に明瞭となるのである。而して國際共産主義國として完全なる猶太獨裁下にあるソ聯に於ては、猶太問題の論議乃至研究は生命にかけて厳禁されてゐるのである。勿論一般民衆間の反猶太主義は極めて根深く、早晩それが爆發點に達することは歴史の論理であるが、しかし千九百三十六年十一月の佛蘭西の「ル・ジュルナル」誌の報ずる如くにスターリンもまたその母より猶太の血を承けてゐるとすれば、露西亞人の露西亞の出現は容易なことではないであらう。

最後に、ファッシズム諸國の場合であるが、これらの國に於て猶太問題が、當然かくあるべき處置を受け、また受けつつあることは、今更詳記の要はないであらう。

以上見たやうに、現代は正に新舊二つのイデオロギーの對立時代であるが、これは單に國家の性格が示してゐるだけのものではなくて、何れの國家の内部に於てもまたより小規模に於て認められ得る世相である。然して今や世界の重要な一環である所のわが國に於ても、事情は決して例外ではないのであつて、全國力を挙げての日支事變下の現在に於ても實に然りなのである。この事實は、一部のお人好しや爲にする所のある連中からは否定されるか、或は黙視乃至看過なるべきであると主張されるのが常であつて、「わが國は大和の國である、」等といふ空疎極りなき擬裝的言説さへ叫ばれる事もあるが、これは世界の現状と、歴史の本質と、現在日本の世界的地位とを知らぬ低能者流の寝言であるか、或は事變中又は事變後の或る時期を待ち設けて策動せんとする人民戰線残黨の仕事であるに過ぎない。世界がイデオロギー的に分裂してゐるのに照應して、悠久幾千年の光輝ある歴史を有する皇國日本もまた今やその内部に同じイデオロギー的對立を藏してゐるのである。從つて現在の世界に於てボルシェヴィズムを尖端とする自由主義が全くの「反動」であるのに照應して、皇國日本に於てもその系統に属する思想の信奉者はいつも反動化してゐる。勿論吾々は、皇國の将來に關してはいささかの不安も感じないものであるが、しかしこれらの反動主義を放置することは、所謂自由主義的「文化」主義者・・現代の所謂映画に「文化」ありとする程度の・・の場合であらうと、赤化主義的「科學」主義者・・十九世紀的唯物論に「科學」ありとする程度の・・の場合であらうと、彼等の持つ猶太戰線性のために幾多の犠牲を生ずることを憂えざるを得ないので、それらの犠牲を最小限に止めるために適切な英斷的處置を切に期待する者である。犠牲は既に救出し難く泥沼の深みに陥没してゐる彼等のみで充分であつて、幾多の若人をその道連として泥沼に陥没せしめる必要はないのである。殊に興味深く且つ残念なのは、特に満洲事變以後日本インテリの祖國戰線より猶太戰線への落伍の状況であつて、その事變以來の内の一事件毎に彼等は・・所謂「日本主義者」の場合もまた例外ではない・・落第して行つたのである。そしてその最後の大試練が現在の日支事變であつて、辛うじて今まで及第して來た者の中にも、「二十世紀入學試験」とも言ふべき今度の事變に際しては、遂に落第の憂目を見た者が可成り數へられるのである。此度の歐洲戰争がこの事情を促進しつつあることは言ふ迄もない。然も彼等は、世の落第生に共通の僻みと嫉妬と陰険さとをもつて、所謂文化主義と科學主義との華やかなりし昔を偲ぶといふ程度の許さるべき回顧のみに満足することが出來ず、國民精神總動員下の問題に乗じては、皇國をその本來の姿に還さうと身命を賭して努力しつつある精英に對して、彼等が精英であり、また日本的であり、行爲的であるとの理由からのみして、事毎にその毒息をふきかけようとしてゐる。そして國際的に見てデモクラシーとボルシェヴィズムとが「お手々つないで」を實習して教へてゐる範例に從つて、ここ國内に於ても、赤色と桃色とはお手々をつないで、猶太戰線に躍り躍らされてゐるのである。

この猶太戰線の志願戰士と猶太問題との關係は如何であるかといふのに、この點に於ても事情は世界の大勢と合致してゐる。即ち、かの所謂桃色文化主義者連はしばしはその怠惰のために、そしてまた多くの場合には彼等の十九世紀的思想のために、換言すれば、その合理主義・個體主義・唯物主義・相對主義のために、本來猶太的傾向を帯びてしまってゐるので、たとひ日常生活の各瞬間に猶太問題を想起せしめるやうな事件が續發しても、それには気がつかないのである。そして時たま気のつく者があるとしても、それの批判が直ちに自巳の存在の根本への批判となることを感ずるので、時にヘ本能的に、時には意識的に、かかる問題を取りあげる事の非人道的であることを主張する。そして「自由・平等・博愛」といふ如き惡平等思想に基づくヒューマニズムが生きた世界には存在しないことさへ知らないのである。この二種の桃色主義者は、猶太が金力によつて思ふままに支配してゐる世界の通信網と言論機關とが黙殺し隠蔽するところのものはすべて一般に存在しないと思惟し、或はまた日本人以外の者乃至猶太人ならば、如何に少數者が多數を搾取しようと、虐待しようと、大量殺人をしようと、少しも人道に背反する所はない、と考へるのである。これは實に所謂「先進文明」を取入れるに急であつた明治時代の舶來上等イデオロギーの残滓にすぎないのであつて、横文字で説かれ、片仮名で書かれてあるものならば、ただもうそれだけで有難いのである。從つて彼等は、赤色派となるだけの勇気はないが、しかし人間性から見ても、歴史的に觀察しても、その創造者の意圖とその利用者の何人種であるかより見るも、決して「科學的」でも「進歩的」でもなく、單に猶太的であるにすぎないマルクス主義に對してさへも批判がなく、マルクスの理論は正しいが、現在の日本の政策と合致しないから自分はそれを取らない、といふ程度の羨むべき心境にあるのである。殊に顰蹙すべきは、プラトーン、カント、ヘーゲルに重大關心を示しながら、また或者は基督教の信者であると誇稱しながら、拝物宗の批判さへ不可能な者の場合である。然しこの種の哲學の徒や基督の徒に取つては、哲學することは單なる頭の遊戯であり、基督教徒たることは、自分が高等民族に仲間入りした事を誇示するためであるに過ぎないのであるから、十九世紀的地盤上に最後の流行として榮えたものに對する批判に及び得ないのは當然である。實に彼等は、カントの「タルムード」的解釋を哲學として尊敬したり、舊約聖書と新約聖書との差を認識し得ぬ程度の盲目人種に過ぎない。從つて彼等は、一方に於てはイデアを現實に生かす道を知らず、猶太民族神としてのエホバと唯一最高神との區別にも思ひ到らぬのである。然しこの人種の特質は、自己の利益に關係のない事には極めて冷淡であつて、國家の安泰の如きは屡々交際上の話の種としての價値さへもないのである。然し事一度自己の利益に關する時には、國を売るだけの勇気はないとしても、友を売り師に背いて何等の良心の苦痛を感ぜず、例外なくエゴツェントリストとなるのである。なほ猶太問題を否定する者のうちには、この問題の研究の結果が餘りに整然たるの故に信じ得ずとなす者がある。もし此の論者の主張が、現實は深くして單なる合理主義にては解釋し得ない、といふのであれば尊敬すべき識見であるが、しかしこの拒否も多くの場合は拒否のための口實に過ぎないのであつて、彼等の多くは、自由主義には「自由」があるとか、マルクス神話には「理論」があるとか言つて随喜の涙を流す程度の者であるのである。所謂「物のわかる」「頭のよい」彼等に取つては、意識乃至無意識猶太戰線の一兵士として、その戰線と自己の地盤を搖がすものは「括弧に入れ」て「判斷中止」をするのが得意の手であるのである。

國際場裏のボルシェヴィズムに照應する國内の志願猶太戰線が猶太問題に對してボルシェヴィズム的態度で反應することは、今更説明の要はないであらう。否、この志願兵の群は更に百尺竿頭を進めて、これこそ正眞正銘の「タルムード理論」を以て巧みに僞裝的轉向をし、積極的に金儲けに從事するのである。勿論事變下に於ては昔日の如き儲けはないであらうが、然し彼等は僞裝の點に於てもまた猶太の先師に學ぶことを忘れず、今なほ相變らず相當の金儲けに從事してゐる如く見受けられる。而してボルシェヴィズムとデモクラシーの馴れ合いの模範は、その縮圖としてこの場合にも繰返されてゐることは言ふ迄もない事であつて、桃色主義者が一歩前進し、赤色主義者が一歩後退した現代に於ては、舞台を世界に取らうと、或一國に取らうと両者の間には既に本來の同一性が實證されてゐる。

事變下の現在に於て日本的日本人の最も關心すべきことは、これらの憎むべきまた憐れむべき猶太的國籍喪失者がその無恥にして巧妙なる偽裝の下に暗躍して、直接又は間接に猶太の世界支配を助長するであらうことに對して、祖國日本の悠久の生命のために對策を講ずることである。(一六・五)

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