|HOME|
HOME>>資料室 TOP>>猶太と世界戰爭 目次>>T 猶太魂の本質【二、猶太魂の本質】
お集りの皆様には既に充分お分りの事と存じますが、ユダヤ問題の研究といふことはいろいろな不便を伴つてをります上に、時とすると一部インテリ層の間では誤解を受け易いのであります。ユダヤが自由主義やマルクス主義を利用して久しく煙幕を張つて來てゐますので、この問題の存在することさへ分らない程にお目出度い人が所謂インテリの中には相當あるやうに見受けられるからであります。既に幾度もユダヤ禍のために悩まされた歐米では、一般の人々は、復讐を恐れて口には出しませんでも、この問題の存在や意味位は常識として知つてをりますが、日本は幸か不幸か無經験のために上述のやうな状態にをるのでありますが、さうした無準備のままで現在の非常時局に突入してしまつたのであります。それで今迄はそれでよかつたとしましても、今後はこの世界の舞台裏の祕密力にまで眼を及ぼして、皇國悠久の將來の爲の計を立てねばならないのであります。それに今なほ、ユダヤ問題を研究して批判を加へるのは少數民族の排撃である、などといふ感傷的なユダヤの宣傳が鵜呑みにされてゐることがありますが、一度冷静な批評眼を備へてユダヤ四千年の歴史を見るならば、こんなユダヤの常套的な宣傳にのせられる筈はないのであります。現代のやうな急激に進展して行く時代には、インテリといふものは「本」が讀めるために反つて時代に遅れるといふ皮肉な現象が屡々起るのでありますが、ユダヤ問題の場合はその最もよい例なのであります。
少數民族排撃云々の問題から眼を轉じて、ユダヤ人のゲットー生活の問題を取り上げましても、在來は猶太人の宣傳の結果、ユダヤ人がゲットー内に隔離生活を送らされて來たのは他民族に強要された結果である、といふやうに考へられ勝ちでありました。しかしこれは事實とは大きな差異でありまして、少數の例外の場合を除きましては、かの隔離生活はユダヤ人がみづから選んだ生活形式でありまして、所謂「國家中の國家」を形成するための一方策だつたのであります。そしてその内部に於てユダヤ人特有の陰謀を他人に監視される心配なしに企てて來たのであります。それを「頭の惡い」非ユダヤ人を欺くのに自己に好都合な解釋を加へて宣傳して來ましたので、とかく眞相が隠され勝ちで今まで來てゐるのであります。
以上僅か二つの著しい例を擧げただけでも判明致しますやうに、非ユダヤ人といふものは全體として正直者でありますから、なかなかユダヤの謀略を見抜くことはむつかしいのであります。しかし正直さといふものは、それに伴ふ正來なる批判力のないとき、所謂馬鹿正直となつてしまふのであります。時として世間には、ユダヤ問題の如き世界の裏面の研究をしてゐる時には、萬事に物の裏を想ふ暗い習慣に陥るのではないか、といふ人もあるやうですが、これは大抵の場合ユダヤ系自由主義に染つた人の言葉でありまして、正直にユダヤ問題の研究を拒否するといふ勇気の缺如してゐる結果として、かやうな尤らしい遁辭を設けるのであります。眞の叡智は善も惡も解する能力を與へた良識に立脚するものでなくてはなりません。殊に今や我々の身邊には、一寸油斷をすると家庭の内部にまでユダヤの魔手がなほあらゆる形でのびて來てゐるのでありますから、この度の世界皇化による新秩序の樹立のためには、甘い感傷主義を捨てて何處までも毅然とした態度で進まなくてはならないのであります。
そこで私が本日ここで多少皆様に申上げて見たいと思ひますのは、例へば上述の二つの問題の如きでさへもかほど巧みに眞相を隠すことに成功して來たユダヤ人の「頭のよさ」の基く所が何處にあるか、といふ點に就いてであります。世界ではよくユダヤ人のメシア思想と申しますが、私の本日お話し致したいのは、そのメシヤ思想の拠つて立つ根本の地盤といふものに就いてであります。それを私は本日の演題の「ユダヤ魂の本質」と稱してゐるのであります。所で問題は、それを研究するのには如何なる道を取るべきかといふ事になつて参りますが、これには幾つもの道があるのでありまして、富士に登る道が幾つもあるのと同様に、「ユダヤ魂の本質」を明らかにする道も幾つもあるのであります。先程も論及致しましたやうに、ユダヤの歴史四千年の推移を研究することもその一つでありますし、特に現代に於けるユダヤ人の暗躍振りを跡づけるのもまたその一つであります。しかしこの二つの道ながらにそれ相當の困難が伴つてゐるのでありまして、第一の道の如きは、現在では所謂樞軸國には相當の信頼すべき文獻が存在してをりますが、それ以外では材料の入手が困難なのであります。殊にデモクラシーと稱する金權支配の米英や、プロレタリヤを利用してユダヤの天下を招致しようといふ赤色帝國主義の國に於ては、ユダヤ人に關する研究はユダヤ人そのものの允可を經ないものは公刊の機會が殆どありませんし、たとひ、勇気を振つて公刊しても、決して店頭に取次いでは貰へないのであります。これはヒットラー及びムソリーニ以前の獨逸に於ても事情は同じでありますし、佛蘭西に於てはペダン政府以後も相當程度の舊態を殘してゐるやうであります。從つてわが國に於ては、ユダヤの歴史を見るといひましても書物に依る外はないにも拘らず、その書物がかういふ制限を受けてゐるのですから、この道に依る研究が容易でないことが、お分り願へたかと存じます。次に現在の世界に於けるユダヤの暗躍振りを見るやり方でありますが、樞軸以外の世界の通信機關の殆ど全部を支配してをりますユダヤのことでありますから、なかなか容易にはその正體を見せることはないのであります。
それでこれ等の道によつては研究不可能かと言ひますのに、盟邦獨伊の識者の研究に依ることも出來ますので、現在では割合に容易なのでありますが、しかし獨伊のものも、それが國家的な支持を得て公然と研究し得るやうになつたのは、僅か數年以來のことでありますので、まだ研究が完備してゐるとは申されないのであります。また獨伊には獨伊としての立場もありますので、我々にはその研究を全部そのまま受け容れることの出來ないことのあるのは言ふ迄もありません。
しかし獨伊の研究に教へを受ける場合にしましても、また直接に現在の世界の動きから研究するに致しましても、研究が或點まて達しますと、案外容易に事の眞相が明瞭に把握される時期がやつて參るのであります。之はおそらく誰にも經験のあることと存じますが、或一事に相當に通じますと、それから先は道が容易に開けて來るのであります。例へば上述しましたやうな事情下にある外國電報の如きも、少し許り慣れて參りますと、その出所を知ることによつて直ちにその含有する眞僞性の程度が直感されるやうになるのであります。さうしてこの程度に到達致しますと、獨伊側の研究ではなく、英米側のユダヤ系の宣傳的著作にしましても、その眞僞の割合が正確に把握されるやうになるのであります。そしてここまで到達しないではユダヤ問題は分らないのてありますが、本日私が多少申上げ度いと存じますのは、この點にまで到達するのに役立つ一つの捷径に關してであります。
よく世間では、ユダヤ人は宗教的な民族だと言ひますが、それは全くその通りでございまして、たとへばかの「聖書」の如きがその民族の産んだものであることからも、このことは肯定されるのであります。御存じの通りユダヤ人には國家もなく、定住する國土もないのであります。しかもそのユダヤ人が現在の世界に見られるやうに見事な統一を持つて動いてをりますのは、祕密の指導者の有無は問題外と致しまして、その宗教的訓練の結果なのであります。從つてユダヤ人の場合の宗教は、我々が日常考へて居ります宗教とは異つたものでありまして、それは宗教であると同時に、政治でもあれば、經濟でもあり、法律でもあれば、教育でもあるのであります。之を換言致しますと、ユダヤ人は祭政一致の民族であるとも言ひ得るのであります。そして、この點では上に萬世一系の天皇陛下を奉戴し、いまだ甞て敵に汚されたことのない國土に國家を形成して來てゐるのでありますから、實質的には文字通り天地霄壤の差があるのであります。
この點の差異に就きましては後にまた触れることに致したいと存じますが、とにかく宗教がユダヤ人の生活に如何に大なる意義を持つかは以上でもお分り願へたことと存じます。然もユダヤ教の拠って立つ所は所謂聖書中の舊約聖書であり、また「タルムード」でありますので、私は「ユダヤ魂の本質」を知る捷径は第一にこれらのユダヤ聖典を研究することであると申し上げたいのであります。或著名のユダヤ人は「我々に祖國はないが、ユダヤ聖典こそはその祖國なのであつて、この祖國のある限り我々は亡びることはない」と申してをりますが、ユダヤ人にとつてかく國家と國土との二役を引き受けてゐるユダヤ聖典こそは、我々が、ユダヤを知るために第一に考慮すべきものであらうと思ひます。從つて、本日はユダヤ聖典を中心としてお話し致したいと存じますが、それが舊約聖書と「タルムード」とであることは既に申上げました通りであります。然し舊約聖書と申しましても大部のものでありますので、特にユダヤ人が「トーラ」の名の下に尊崇してをります舊約聖書の初めの五巻を中心として本日はお話し致し度いのであります。
ユダヤ人がこの「トーラ」を尊崇致しますことは非常なものでありまして、「神さへもトーラを研究し給ふ」とさへ言ひ、神そのものよりも「トーラ」を重視致してゐる位なのであります。同じことは今一つのユダヤ聖典「タルムード」に關しても言はれてゐるのでありまして、「神もまた夜間にはタルムードを研究し給ふ」と「タルムード」そのものに記されてをります。ではこの「タルムード」とは何であるかと申しますと、これは先程申上げましたトーラに對する「解釋」の集成をその重要部分としてゐるのであります。その成立は大體西暦五、六世紀の頃といふことになつてをり、既にユダヤ人が特殊の意圖を有してその編纂に當つてゐることが歴然としてゐるのであります。序に茲でかの舊約聖書の成立に就いても一言してをきますならば、それも矢張同じ頃だといふ説がこの頃大分唱へられてをります。從つてこの舊約もまたユダヤ人が或特殊の意圖を以て編纂したものであり、特に「トーラ」の第一巻の始めにある宇宙創造の話は印度からの借物なのださうであります。
ここで話をまた「タルムード」に歸しますか、ユダヤ教の聖典の一つであり、極めて屡々「トーラ」そのものよりも重視せられるこの聖典が上述の如く「解釋」をその本領と致してをりますことは、ユダヤ教の本質を見ようとする者に取つては、極めて重大なことでありまして、獨逸などでよくユダヤ人には獨創はなく、その長所は單に解釋の能力のみであると言はれるのは、恐らくこの點を根拠とした説であらうと思はれます。ユダヤ文化の根源ともいふべき舊約の始めの宇宙創造の話が借物であることをも入れて考へて見ますと、ユダヤ人無獨創説は相當の根拠を有するものと言はねばなりません。しかし事一度「解釋」の領域になりますと、ユダヤ人の獨壇場でありまして、近頃の解釋學的哲學・現象學・形式社會學・純粋法學、その他文學・芸術・音楽の解釋より、相對性理論に至るまで、その精神に貫かれてをらないものは皆無であると言つても過言ではないのであります。この事を別の言葉で申しますと、ユダヤ人は天才的に「嘘がうまい」といふことになるのであります。この事情は、「タルムード」そのものに、「彼はモーゼに律法を與へ給ふたが、それは、同一の事柄をそれぞれ四十九種のやり方で不潔とも清潔とも證明することを許すだけの餘裕のあるものとなつてゐる」とあるのでも充分窺われるのであります。この言葉に就いては後にもう一度論及致したいと思つてをります。
話が多少わき道へそれましたが、ここで我々は、世上往々ユダヤに頼まれたかの如くに次のやうな疑問乃至反對をする人がありますので、さうした疑問や反對は、ユダヤ人の豊富な報酬を當てにする者以外は慎むべきことである、と言つておき度いと存じます。即ち、「トーラ」にせよ、「タルムード」にせよ、何れも、少なくとも千幾百年以前の著作物であるから、近代文化の恩澤に浴してゐるユダヤ人がそんなものを文字通りに信仰してゐる筈はないといふのが、その疑問乃至反對であります。しかしこれはユダヤ魂の本質に盲目であることの證拠である許りでなく、日本の哲學界でも一時は非常に有名でありましたドイツのマルブルグ派のユダヤ哲學者コーエンその人によつて反駁されてゐるのであります。即ち彼は、千八百八十八年に裁判所の宣誓に於て、「タルムードに含まれてゐる信仰並びに慣習に關する諸規則は、ユダヤ人に對して拘束力を有するものである、それらは律法と認められてゐる、」と言つてゐるのであります。勿論ユダヤ人は二千萬近く居るのでありますから、その中には種々の傾向の者も居りますので、所謂モダーンなユダヤ人の中には、「同化ユダヤ人」と稱せられて、ユダヤの慣習を捨てて近代化した者も居るのであります。しかしこの場合の大部分はさう僞裝するのでありまして、ここでもユダヤ人の「頭のよさ」を見なくてはなりません。時として本人自身さう眞面目に信じてをりましても、なほ本能的にはユダヤ根性がいざといふ場合には出て來るのであります。同一事を四十九種にも黒白といひくるめる術を幾千年間修業して來てゐるのでありますから、嘘のうまさ乃至僞裝の巧みさが文字通りに超天才的であることは、前にも申上げた通りなのであります。從つて口先で「タルムード」を否定するユダヤ人こそ反つて生粋のユダヤ魂を持つてゐるのかも知れないのであります。實に「タルムード」とはかやうな精神から生まれ、かやうに精神を育てて來たのてあります。 なほユダヤ魂の本質の研究には、皆様御承知の「シュルハン・アルフ」や「シオンの議定書」などもありますが、本日はこれらには論及する暇はないのであります。前者に就いては、之もまた「タルムード」のやうな解釋の書であること、後者に就いては、それの眞僞はその内面的眞實性を重んずる非唯物論的立場にまで高昇し得る者のみが判斷し得るものである、といふことだけを述べさせていただくにとどめたいと思ひます。
前置が餘り長くなつて參りましたので、この邊で本論へ進む事に致します。さてドイツの詩人ゲーテは、或人が如何なる人であるかはその人の神観を見れば分る、と申してをりますが、私もその意味に於て先づユダヤ人の神観を明らかにし、これによつてユダヤ魂の本質の一斑を把握してみたいと思ふのであります。勿論かう言ひましても、唯物論者等の申しますやうに神の存在を否定するのではないのでありまして、實在する至高の神を如何に感受するかは感受する人間如何によつて異る、といふ意味なのであります。例へば我々日本人の祖先のやうにその神を先づ天御中主神の如くに感受するか、或はユダヤ人の如くにヤーヴェ(エホバ)の如き神として感受するかは、その民族の民族性如何によつて定まるといふのであります。
ではユダヤの神ヤーヴェとは如何なるものでありませうか。然し我々はこの問題に答へる前に、舊約聖書にはヤーヴェの外に、その最初の創世記の巻には別の神があつて、この神が宇宙の創造をする、といふことになつてゐる事を想起したいのでありますが、しかしこの神に關しましては、この創世記が印度方面よりの借物であるといふ説もありますので、我々も今日は直ちにヤーヴェをユダヤの神として論じても差支へなからうと信ずるのであります。
ではヤーヴェとは、通俗的に言ひましてエホバとは、如何なる神でありませうか。これを歴史的に見ますと、ヤーヴェと申しますのはユダヤ人が移住して參りましたカナーン地方の土俗神であつたといふことであります。しかし我々は今日はユダヤ聖典によつてその神観を明らかにしようとしてゐるのでありますから、このやうな意味でのヤーヴェに就いては語ることを避けたいと思うのであります。それから既に前に申しましたやうに、ユダヤ聖典「タルムード」に依れば、神は「トーラ」のみならず、「タルムード」そのものをも研究し給ふといふのでありますが、かやうな属性を持つヤーヴェに就いても今日は語ることを避けたいのであります。とにかくヤーヴェなるユダヤの神は、舊約又は「タルムード」を中心にして見ましても種々の属性を持つてゐるのでありますが、本日はそれらの諸属性を一貫して流れてゐるもの、或はヤーヴェの根本特質とでもいふもののみを研究して見たいと思ふのであります。
今申しましたやうな立場から観察致しますと、舊約全書に見られるヤーヴェといふものはユダヤ人だけの民族神であつて、ユダヤ人のみを偏愛する神であることが明瞭なのであります。例へば創世記の二六には、「我汝の子孫を増して天の星の如くなし、汝の子孫には之等の國を與へん。汝の子孫によりて天下の國民皆福祉を得べし、」とありますし、申命記の二には、「汝の神エホバ地の面の諸の民の中より汝を擇びて己の寶の民となし給へり、」と書かれてをりますし、所謂「トーラ」以外の部分にも例へばレビ記の二〇には、「我は汝等の神エホバにして、汝等を他の民より區別せり、」と記されてゐるのであります。世間でよく言はれるユダヤの選民思想はこれらの言葉を根拠とするものなのでありますが、とにかく以上の引用文から見て明らかなことは、エホバが決して宇宙神ではなく、世界創造の神でもなくて、ユダヤ人を偏愛する民族神に過ぎないといふことであります。
それでこの民族神がユダヤ人を愛するのは當然でありまして、この民族神が民族神として活動するだけで、その本性の埒を出て宇宙神だの世界の創造神だのと僭越なことを言はなければ、我々としても何等の異議はないのであります。たとひ民族に對する愛が偏愛の程度に達してゐる時でも、我々としては辛抱出來るのであります。ところがこの神が、自分こそ世界の唯一の支配者であるとか、唯一神であるとか言つて、自己の相對的な地位を忘れて絶對位を僭稱するやうになりますと、其處に問題が生じて來るのであります。殊にヤーヴェとユダヤ人との關係を一層詳しく調べ、ヤーヴェがユダヤ人に約束することを検討し、就中その命令乃至約束の成就のために奨める所の手段方法にまで眼を及ぼしますと、果してこのヤーヴェは民族神程度としても神の名に値する存在であるか否かさへ、怪しくなつて來るのであります。結論から先に申しますならば、ヤーヴェなるものは如何なる意味に於ても決して神の名に値しないものであり、強ひて名を求めるならば、西洋人の言ふ惡魔か、我々日本人の考へます狐狸の怨霊の類であると考へられるのであります。勿論、舊約又は「タルムード」は大部のものでありますから、ヤーヴェには別な特性もあるのでありますが、しかし他に如何に偉れた属性があつても、以下に紹介しますやうな特性もまた存在してゐます以上は、矢張ヤーヴェは如何にしても餘り高貴の神ではないのであります。
ではまづヤーヴェの民族神としての性格を明らかにするための第一の問題としまして、この神とユダヤ人との關係そのものを見ることに致しませう。そこで先づ考慮したいのは申命記の二八であります。
「汝もし汝の神エホバの言に從ひ、わが今日汝等に命ずるその一切の誡命を守りて行はば、汝の神エホバ汝をして他の諸々の國人の上に立たしめ給ふべし。汝もし汝の神エホバの言に從ふ時は、この諸の福祉汝に臨み汝に及ばん。……汝は入るにも福祉を得、出るにも福祉を得ん。汝の敵起ちて汝を攻むるあらば、エホバ汝をして之を打破らしめ給ふべし。彼等は一条の路より攻め來り、汝の前にて七条の路より逃げ去らん。……汝もし汝の神エホバの誡命を守りてその道に歩まば、エホバ汝に誓ひし如く汝を立てて己の聖民になし給ふべし。然る時は他の民みな汝がエホバの名もて稱へらるるを見て汝を畏れん。エホバが汝に與へんと汝の先祖等に誓ひ賜ひし地に於てエホバその寶の蔵なる天を啓き、雨をその時に從ひて汝の地に降し、汝の手の諸々の行爲に祝福を賜はん。汝は許多の國々の民に貸すことをなすに至らん。借りることなかるべし。エホバ汝をして首とならしめ給はん、尾とならしめ給はじ。汝は只上に居らん。下には居らじ。汝もしわが今日汝に命ずる汝の神エホバの誡命に從ひて之を守り行かば、かならずかくの如くなるべし。」
ヤーヴェとユダヤ人との關係がいま擧げたやうなものだけでありますれば、ヤーヴェが民族神であることから見て、これ位の偏愛や約束は當然のこととも考へられるでありませう。ただ今引用しました中には、「エホバ汝に誓ひし如く」とか「汝等の先祖等に誓ひ賜ひし」などといふ點に、ヤーヴェとユダヤ人との間柄が、眞に民族を愛する民族神とその民との間の關係と見るにしては餘りにも商賣的な契約の感を抱かせる點がありますし、また「汝は許多の國々の民に貸す」といふ言葉がユダヤ人の四千年の歴史を暗示してゐるやうな點もありますし、またもう一つ「汝をして首とならしめ」とか、「汝は只上に居らん」とかいふ言葉でユダヤの世界支配慾を表示してゐるやうな點もありますが、これ等の點に就ては後にもう一度触れることに致しまして、ここではただ、以上だけがヤーヴェとユダヤ人の關係でありますならば、先にも舊約より引用しました際に申しましたやうに、我々他民族も大體に於て異議なく、從つて民族神とその民との關係としてもさう不思議ではないのであります。しかし事情は、今の引用の続きの部分を見ますと、大いに變つて來るのであります。
「汝わが今日汝に命ずるこの言葉をはなれて、右又は左に曲りて、他の神々に仕ふることをすべからず。汝もし汝の神エホバの言に從はずして、わが今日汝に命ずるその一切の誡命と法度とを守り行はずば、此の諸々の呪詛汝に臨み、汝に及ぶべし。汝は邑の内にても詛われ、川野にても詛われん。……汝は入るにも詛われ、出るにも詛われん。エホバ汝をしてその凡ての手をもて爲す所に於て呪詛と恐懼と譴責とを蒙らしめ給ふべければ、汝は滅びて、速かにうせはてん。こは汝惡しき事を行ひて、我を棄つるによりてなり。……汝はエホバの汝を遣はし給ふ國々の人の怪しむ者となり、諺となり、諷刺とならん。汝の中にある他國の人々はますます高くなり行きて、汝の上に出で、汝はますます卑くなり行かん。彼は汝に貸す事をし、汝は彼に貸すことを得じ。彼は首となり、汝は尾とならん。この諸の災禍汝に臨み、汝を追ひ汝に及びて、遂に汝を亡さん。……汝萬の物の豊饒なる中にて心に歓び楽しみて汝の神エホバに仕へざるに因り、汝は飢ゑ渇き、かつ裸になり、萬の物に乏しくて、エホバの汝に攻め來らしめ給ふところの敵に仕ふるに至らん。……エホバ先に汝等を美しくし、汝等を多くすることを喜びし如く、今はエホバ汝等を滅し絶すことを喜び給はん。……エホバ地のこの極よりかの極まで汝等を散し給はん。……」
今引用致しましたのは原文の全部ではないのでありまして、殊に後の威嚇と呪詛の部分は前の部分の約五倍に上つてをり、いま紹介致した程度の内容ではなく、實に最大級最上級の威嚇の呪詛の連續なのであります。即ちもしユダヤ人がヤーヴェの命に叛く時には、凡ゆる不幸と災厄がその身に及び、遂には滅亡し果てるといふのであります。それでこの後の部分に見られるヤーヴェとユダヤ人との關係は、慈愛の深い民族の守護神とその民との關係と見るのには餘りにも峻厳なのであります。深く大きい愛は、迷へる子供をも時至れば許すだけの度量のあるものと思はれますが、ヤーヴェにはその大度はなく、舊約の他の諸部分にも見られるやうに、この神は民族神としても偏愛の神であると共に殘忍性そのものの具體化のやうな神であります。しかしユダヤの四千年の歴史の事實を知つてをります者には、ヤーヴェのこの呪詛と威嚇とはユダヤ人の運命に相當に實現されてゐるやうに見れるのであります。勿論まだ滅亡とまでは行つてはをりませんが、その點を除けば、引用文の示す限りに於ては大部分實現してゐるとさへ見えるのであります。そしてこのヤーヴェの呪詛と威嚇との中に、ユダヤの四千年の歴史を通してずつと流れてゐながらも、他の民族には容易に理解の出來ないユダヤ人の二重人格性の發生の地盤があるのではないかと思はれるのであります。そのユダヤ人の二重人格性とは、別の言葉で言へば、前に言ひました「頭がよい」とか「嘘がうまい」とか言ふこともその中に含まれて來るのであります。之をまた別の方面から言ひますと、ユダヤ人が幾千年間常に二重の標準を以て萬事を處理し、萬事に處して來てゐるのも、その心理的な根拠はここにあるのであります。即ちかのメシヤ思想に基く誇大妄想のユダヤ人自身すらも、自己の四千年の歴史を回顧する時、それが決してヤーヴェの呪詛と威嚇とを全く免れ得るだけのものでないことを承認せざるを得ないので、ここにユダヤ人は神命としての滅亡から自己を救ふためには、手段を選ぶことなく、何等かの間道を求めなくてはならないのであります。然も精神的には眞の獨創がなく、また筋肉労働を神罰の一種として軽蔑し回避する慣習のあるユダヤ人は、かの二重の標準を用ひて、かの「嘘」と「頭のよさ」とを以て、神意としての滅亡から自己を救ひたいと思うやうになつたのであります。それ故にユダヤ人のあらゆる行動には、自由意志に基くといふよりは、一種の憑かれた人とでも言ふべき所が見られるのでありまして、ユダヤ人が世界周知の金儲けその他の場合に普通の人間には理解の出來ないやうな事を平気でやつてのけますのも、この心理状態に基くのであると思はれます。つまりユダヤ人に取つては、普通の人間から見て極惡非道と見えることも、神命としての滅亡から自己を救ふために役立つものは正しいのであり、また神命として彼等に課せられてゐるものとも感ぜられるのであります。
以上述べましたことが理解されますと、「タルムード」の中にあるユダヤ人の神観もまたよく理解されるのであります。そして先づ第一に注目に値するのは、次の言葉であります。
「神ユダヤ人に言ふ、汝等我を世界の唯一の支配者となせり。されば我も汝等を世界の唯一の市配者となさん。」
これは前に舊約より引用致しましたもののうちに幾つか見られたのと同一の種類のものでありまして、ヤーヴェがユダヤ人に世界支配を約束する言葉なのであります。然もその約束をするだけならば、前にも幾度か申しましたやうに、民族の守護神の場合としては別に不都合ではないのでありますが、今度の場合の約束に於ては、神とユダヤ人との關係が相互的又は對等的であり、換言すれば、前の場合に商賣的契約の感があると言つておきましたものが一層判然と現はれてゐる所に問題が生じて來るのであります。即ちヤーヴェとしては、自分は元來は一地方の土族神であるか、或は精々民族神であるのに過ぎないのであるが、その自分をユダヤ人がその「頭のよさ」によつて宇宙神又は創造神に祭り上げて呉れたのであるから、自分の方でもユダヤ人を世界の支配者にしてやらう、と言つてゐるのであります。一言で言ひますと、ユダヤ人とヤーヴェとの關係は一種の取引なのでありまして、我々が考へる如き民族神と民族との關係ではなく、況んや宇宙創造の神と人間との關係ではないのであります。そして前にも述べましたやうな低級な狐狸の怨霊とも言ふべきものが世界の唯一神と思ひ上り、また幾千年の間は、今更繰返して申し上げる必要はないと思はれますので、ここでは直ちに次へと論を進めたいと思ふのであります。
ところがヤーヴェとユダヤとの關係は、單に上述の如き側面に止まるのではないのでありまして、ユダヤ魂の本質を知り、その四千年の「嘘」の歴史を解するためには、今擧げましたものと同様にタルムードの中にある次のやうは言葉の表明するヤーヴェとユダヤ人との關係も非常に重要なものになつて來るのであります。
「神を畏敬する場合にも狡猾でなくてはならぬ。」それからまた、「あつかましくやれば、神も我々の意に從ふ、」といふのもあるのであります。その歴史が始まると共に「嘘」に生きたとも言ふべきユダヤ人は、かやうに神に對してすらも非ユダヤ人のやうに純眞な歸依の心を有するのではなくて、神に對してさへも背負投げの隙はないかとねらつてゐるのであります。そしてこれは、ユダヤ人の神ヤーヴェが脅迫の神であり、威嚇の神であることを想起致します時に、なかなか興味深いユダヤ魂の一面なのであります。即ちユダヤの歴史の證しますやうに、ユダヤの取つた道は決して常にヤーヴェの命ずる所に叶つたとは言ひ難く、むしろ神命に叛いた結果として現在のユダヤの運命が生れて來てゐるとさへも言ひ得るのでありますから、ユダヤ人としては神の威嚇した滅亡を免れるためには、一面に於てあらゆる術策と嘘とを用ひて神命としての世界支配の完成に進まうと努力すると同時に、他方に於てはヤーヴェそのものに對しても身を守らねばならないのであります。この後の方面の必要が前述のやうに神をもペテンにかけようといふ態度となつて發現してゐるのではないかと考へられるのであります。それでユダヤ魂のこの二面は、ただ外見的に矛盾してゐるだけで、内面的には決して矛盾してはゐないのであります。ユダヤ人に於てはあらゆる事に外観的には矛盾する二面が常に存在してゐるのでありまして、このユダヤ魂の二重性乃至二面性が理解されないでは、ユダヤ人の言行は充分には理解されず、從つてその歴史も解釋出來ず、ひいてはユダヤ對策も講ぜられ得ないのであります。かの素朴な先入主に基づく日猶同祖論とか、感傷的な人道主義に基づく似而非八絋一宇説のユダヤ抱擁論とかは、この點の認識不足から出て來る生半可なユタヤ研究家の陥り易い常套的な方向なのであります。
ここで話を轉じまして、何故にヤーヴェがかやうにユダヤ人を威嚇し、脅迫するのであるかといふ問題に移つて考へますのに、之は既に引用致しました聖書、又はタルムードの句にありましたやうに、ユダヤ人をして世界の支配者たらしめようといふのであります。この點に關しましてタルムードからなほ二三引用致しますならば、「世界はただイスラエル人のためにのみ創造されたのである」とか、「ユダヤ人は何處へ行かうとも、その地の王とならねばならぬ」とか、「あらゆるイスラエル人は王者の子供である」とかいふのがあります。しかしこれだけならば、前にも繰返し申しました通りに、如何なる民族にも許さるべき自負心の表現と認めることが出來るのでありますが、問題はその次にあるのでありまして、この世界支配を「如何にして實現するか」といふ點が、重大な問題を含んで來るのであります。それで先づ舊約の方を見ますと、出埃及記の三四には、
「汝慎みて汝が往くところの國の民と契約を結ぶべからず。彼等汝等の中に住む時は、恐らく汝等の民となることあらん。汝等反つて彼等の祭壇を崩し、その偶像を毀ち、その聖柱をきりたふすべし。」とあります。この「契約を結ぶべからず」といふ點に就きましては、後にユダヤ人の人間観を述べまする際に一層明瞭になると考へますので今は論じないことに致しますか、その殘餘の部分は、他民族の宗教を破壊せよといふのでありまして、これはユダヤの世界支配の一方策たるマルクス主義の反宗教運動を想起すれは事情は明瞭となるでありませう。ユダヤ人は自分のユダヤ教に對しましては、前述のヤーヴェとの關係に見られます通りに、極端な信仰又は恐怖を抱いてゐるのですが、他民族からは宗教を奪つてしまひ、それによつて他民族を滅亡させようとするのであります。然もそれがヤーヴェの命令としてなされる點が特に注目に値するのでありますが、この點に就いては既に論じましたことで明らかであらうと思ひます。
次に申命記から引用致したいと思ひますが、その申命記は所謂トーラのうちでも最もユダヤ魂の本質を見るには大切なものでありまして、私の引用も一番多くなると思ひますが、その七には、
「汝は汝の神エホバの汝に付したまはんところの民をことごとく滅しつくすべし。彼等を憫み見るべからず。また彼等の神に事ふるべからず。その事汝の罠となればなり。……汝の神エホバ是等の國人をややに汝の前より逐ひはらひ給はん。汝は急速に彼等を滅しつくすべからず。恐らくは野の獣殖えて汝等に逼らん。汝の神エホバ彼等を汝に付し、大いにこれを惶れ慄かしめて、遂に之を滅し盡し、彼等の王を汝の手に付したまはん。汝彼等の名を天の下より削り去るべし。汝に抗することを得るものなくして、汝遂に彼等を滅しつくすに至らん。」
とあるのであります。またその二〇には、
「汝の神エホバこれを汝の手に付したまふに至らば、刃もてその中の男を盡く撃殺すべし。ただその婦女、子供、家畜及びすべてその邑の中にて汝が奪ひ獲たる物は、盡く己に取るべし。抑汝がその敵より奪ひ獲たる物は汝の神エホバの汝に賜ふものなれば、汝これもて楽しむべし。汝の離るること遠き邑々、即ち是等の國々に属せざる邑々には、すべてかくの如く行ふべし。但し汝の神エホバの汝に與へて産業となさしめ給ふ此の國々の邑に於ては、呼吸する者を一人も生かしおくべからず。」
と、書かれてゐるのであります。即ちヤーヴェはユダヤ人に他民族の殲減を命じてゐるのであります。而してその際に取るべき方策に就ても舊約中に於て、特に申命記に於て、詳細に教へてゐるのでありますが、この引用の部分のみを見ましても、他民族の宗教の破壊とその王者の除去を説いてゐるのであります。なほ實際的な方策としては、急速に他民族殲減をする時には、野の獣が殖えて汝に逼ることもあらうから、その野獣を亡ぼすためには非猶太人を利用せよとか、男は殺しても、婦女子家畜は享楽せよ、などといふやうな點にまで注意が及んでゐるのであります。今はこれ以上の例を擧げてゐる暇はないのでありますが、この種の言説は舊約中には極めて多いのでありまして、一言にして言へば、他民族、他國家、他宗教の殲減がユダヤの世界支配の前提となるのでありまして、この點では世界の各民族各國家をして各々その所を得しめる眞の八絋爲宇の精神とは百八十度、否、三百六十度の差異があり、一見類似するかの如くに見えたユダヤと日本との祭政一致の如きも、その本質を全く異にし、その存在の次元を全く別にしてゐることが判明するのであります。かやうに考へて參りますと、かかる信仰に幾千年を生きて來たユダヤ人に對しては、徹底的な膺懲の外に道のないこともお分りになると存じます。
ここでまた話題を轉じまして、ユダヤ魂の本質を知るための第二の大問題であるユダヤ人の人間観を見る事にしたいと思ひます。然してこれが明瞭になると、前の神観がまた特別な明瞭さを加へると考へられますし、また前の神観からは當然次のやうな人間観の出て來る理由も明らかになつて來るのであります。
前にも申しましたやうに、ユダヤ人にはその二重性格に照應してあらゆる問題に關して二重の標準があるのでありますが、それがこの人間観に於ては特に明瞭に見られるのであります。即ち一口に人間観と言ひましても、ユダヤ人に於てはユダヤ人観と非ユダヤ人観とが根本的に異つてゐるのであります。ではユダヤ人はユダヤ人そのものをどう見て居るかと申しますと、タルムードには、「猶太人は何處へ行かうともその地の王とならねばならぬ」とか、「あらゆるイスラエル人は王者の子供である」とか言ふやうな、既に前にも引用致しましたものの外に、
「ユダヤ人のみが人間と呼ばれるのであつて、非ユダヤ人は動物と呼ばれる。」
「神より生れたものはユダヤ人のみであつて、ユダヤ人以外の民族は惡魔の子である。」
「人間が動物よりも高等であるやうに、ユダヤ人は人間よりも高等である。もしこの世にユダヤ人が居ないならば、如何なる幸福もなく、輝く太陽もなく、人類も到底生存することは出來ない。」
「聖書に隣人と書かれてある場合に、非ユダヤ人はその中に含まれてゐない。」
といふやうなのがあるのであります。これらの言葉に見られる非ユダヤ人観こそユダヤ人の非ユダヤ人に對するあらゆる言行の基礎になつてゐるのでありまして、前の神観と共にこの非ユダヤ人観が充分理解されない時には、ユダヤ人の他民族殲減の謀略の眞相は判明しないのであります。一言にして言へば、ユダヤ人から見れば非ユダヤ人は人間ではないのでありまして、ユダヤ人の非ユダヤ人に對する態度はすべて茲から出發してゐるのであります。そこで次はこの點に關して派生して來る諸問題を少し許り考察して見たいと思ふのであります。
先づ舊約聖書から材料を拾つて行くことに致しませう。既に前に引用しました部分に、「汝慎みて汝の往くところの民と契約を結ぶべがらず」とありましたが、また申命記には、「彼等と契約を結びて和することなく、また彼等を憫み見るべからず」とあるのであります。この契約を結ぶべからずといふ神命と冷酷たれといふ神命とは、ユダヤ人に於ては誠に徹底したものでありまして、契約を結ぶかに見え、また温情を示すかに見える場合は、何れも下心があつての場合と見做してもよいのであります。そしてこの場合にも忘れてはならないないことは、ユダヤ人が非ユダヤ人を「人間」視してゐないことであつて、この點からして、以上のやうな對非ユダヤ人態度もユダヤ人には何等良心の呵責を伴わない許りか、反つて神意に叶ふものとして宗教的意義を持つ敬虔な行事なのであります。即ちユダヤ人に取つては、「隣人」即ちユダヤ人同志の間には責任感はあり得るのですが、他民族に對しては我々が畜類に對する程度ほどの責任感もないやうであります。勿論ユダヤ人にも種々の型がありますので、程度の差異はあるかも知れないのでありますが、しかし注目すべきことは、上述のやうな點はその幾千年の宗教的信仰となつてをりますので、如何なる「善良な」ユダヤ人にも本能として存在してゐるのでありまして、平常はそんな傾向の毫もないやうな所謂開化ユダヤ人も、一旦自己の利害に關した事件等に際會しますと、その本能がむくむくと頭を擡げて來るやうであります。この點の充分の認識がないと、或程度まで悲境に陥つてゐる場合にはユダヤ人は得意の「頭のよさ」で正直な人をたぶらかしてしまふのであります。この點は餘程注意の要するのでありまして、相當程度にユダヤ問題を研究したとうぬぼれてゐる人でも、充分な思想的批判力がなかつたり、甘い感傷主義者であります場合には、屡々直接にユダヤ人に面接するやうになると丸められてしまふのであります。殊に八絋爲宇がどうのかうのとうまい所を突いて來るのて、いい気になつてユダヤ人のお先棒をかつがされる場合もあるので注意が要るのであります。この警告は決して無駄ではなく、外國許りでなく、その例が我々の身邊にさへ幾つもあるのであります。さうした人の場合はその眼を直視すればすぐ分るのでありまして、これはフリイ・メイスン祕密結社員を識別するのには「眼を見よ」と言はれてゐるのと一致するのであります。話が多少わき道へそれて來ましたので、ここでまた舊約からの引用に戻りたいと思ひますが、今後すべての引用も、上に述べました事を根本にして考へますならば、殆ど何の説明もなく理解が出來ると思はれるのであります。
「他の國人よりは汝利息を取るもよし、唯汝の兄弟よりは利息を取るべからず、」と申命記にはありますが、これを同じ申命記の次の部分と結合するとなかなか興味深いのであります。
「汝の神エホバ汝に與へんと誓ひたりし地に汝を導き入れ、汝が建てたるにあらざる大なる美しき品々を得させ、汝が盈せるに非ざる諸々の佳き物を盈せる家を得させ、汝が掘りたるに非ざる井戸を得させ、汝の植ゑたるに非ざる葡萄園、橄欖園を得させ給ふべし。汝は食ひて飽かん。」
序でにもう一つ引用致しますならば、イザヤ書には、「海の富はうつりて汝につき、もろもろの國の財貨は汝に來るべし。……異邦人は汝の石垣を築き、彼等の王等は汝に事へん。……汝の門は常に開きて、夜も閉すことなし。そは人もろもろの國の財貨を汝に携え來り、その王等を率ゐらんがためなり。汝に事へざる國と民とは亡び、その國は全く荒れすたるべし。……汝を苦しめたる者の子等はかがみて汝に來り、汝をさげしめたる者はことごとく汝の足下に伏すべし。……汝前には捨てられ憎まれてその中を過る者なりしが、今はわれ汝をとこしへの華美、代々の歓喜となさん。汝またもろもろの國の乳をすひ、王たちの乳房をすはん。」
このイザヤ書は、トーラに入つては居りませんが、申命記にも比肩すべきものでありまして、その中にはまだまだこの種の資料はあるのですが、引用はこれ位に致しませう。要するにユダヤ人は、自分では労働を避けて、他人をして働かしめ、その生産したものは無償で自己の手に収めるのを得意とするのでありますが、それがまた宗教的信仰に基づくことがこれらの引用から判明するのであります。例へば熱列なユダヤ教徒マルクスの案出しましたマルクス主義の如きも、その代表的なものの一つでありまして、あれはプロレタリヤなるものを利用して非ユダヤ人の資本をユダヤに捲きあげる仕掛になつてをるのであります。それからまた、これらの引用からして、ユダヤ人が何故に金儲けに巧みであり、特に高利貸とか仲買ひとかに堪能であるかといふことも説明なくして明瞭であると思ひます。ただこの際に一言しておきたいと思ひますのは、ユダヤ人の金錢慾の強いといふ點に就いてでありまして、之も成程事實には相違ないのでありますが、しかしこの搾取は、他民族殲減をその根本の目標としてゐるのでありますから、それに役立つと考へる場合には、百年一日の如く營々として貯へた金をも何の惜しげもなく相當程度に投げ出すこともあるのでありまして、これが分らないとまたユダヤ人の謀略にひつかかつてしまふのであります。ユダヤ人の行動の最高方針は神命としての世界支配と、何等假借する所のないその實行とであつて、手段は選ぶことは決してないのであります。
マルクス主義に論及しましたので、ここではそれに關係のある革命とか戰爭とかのことに就いても引用しておきたいと思ひます。昔から革命や戰爭でユダヤ人が裏面に於て策謀しなかつたのはなかつたとさへ言はれてをりますが、實際、程度と意味とは異なつてゐても、何れもユダヤ人の活躍があつたやうであります。しかもそれがまたヤーヴェの命としてユダヤ人に感ぜられてゐるのですから、その根柢の深さが窺はれると思ひます。
「エホバの剣をおさへて血を流さしめざる者は詛はる、」とはエレミヤ記にあるものですが、よく引用致しました申命記にも、「わが箭をおさへて血に酔はしめ、わが剣をして肉を喰はしめん、」とヤーヴェは言つてゐるのであります。
即ちユダヤ人に取つては、他民族を殺戮すればする程ヤーヴェの意に叶ふといふのでありますが、それが今迄述べました他民族動物視等の背景を持つてゐるのですから、如何なる凶惡なものであるべきかは容易に理解されるでありませう。
しかしユダヤ魂の本質は、タルムードに移りますと、これらの諸問題に關しましても一層明瞭に、赤裸々になつて來るのであります。
「非ユダヤ人を掠奪することは許されてゐる。何故ならば、聖書に『汝の隣人より奪ふべからず』とあるからである。」
舊約と合はせて考へますと、非ユダヤを掠奪することの許されてゐるのは、それが神命であるからなのですが、この引用で特に注目に値するのは、「聖書に汝の隣人より物を奪ふべからずとあるからである」といふ掠奪許容の理由であります。前にも言ひましたやうに、ユダヤ人に取つては非ユダヤ人は「人」ではなく、從つてまた「隣人」でもないのであります。從つて非ユダヤ人に對しては「人間」に對する義理とか責任は成立しないのであります。一般に舊約聖書なるものは、それの書かれた意圖通りに、換言すればそれをユダヤ教の經典としてその編纂者ユダヤの解釋に從つて讀む時には、世界にこれに匹敵する怪文書は皆無であると言つても差支へないと思はれるのであります。それを善良な非ユダヤ人はその中の毒をも薬とし、時としてはその無批判のために意識的無意識的に所謂「人爲的ユダヤ人」となることは、ルーデンドルフ將軍の指摘してゐる通りであります。 またタルムードには同じ問題に關して、「非ユダヤ人の財物は主人なき財物に等し。故にそれは最初に手に入れたる者の所有となる」と言ひ、「拾つたものを非ユダヤ人に返却するのは罪惡である」と言つて、非ユダヤ人には所有權を認めないのでありますが、これもかの世界支配を前提とし、非ユダヤ人を動物視するユダヤ人としては當然の態度でありませう。犬が金を所有するといふことが我々に理解できないのと同様に、ユダヤ人に取つては、非ユダヤ人が物を所有するといふことは理解が出來ない許りか、神命としてそれを掠奪せねばならないのであります。
「非ユダヤ人の財産を管理するのはユダヤ人の權利である。」
これも前と殆ど同一の信仰の表明でありますが、特に現代に於て興味深いのは、所謂デモクラシー金權諸國やボルシェヴィズム國に於て、これが種々の金融組織によつて實現されてゐるとこであります。
所がこの言葉に續いて、「またユダヤ人は非ユダヤ人を殺戮する權利を有してゐる」と書かれてゐるのであります。序に同じやうなものをも二、三擧げますと、「邪教徒を自ら手を下して殺害することは許される」とか、「不信者の血を流す者は主に生贄を捧げるのと同じ値のあることをしたのてある」ともあるのであります。
これらの引用句の内容は、非ユダヤ人から見ると信ぜられない程に極惡無道のものでありますが、しかし今まで述べましたことが理解されますならば、恐らく何らの説明なしに理解出來るのではないかと思はれます。前にも申しました通り、ユダヤ人は戰爭と革命とが大好きな民族であり、また史上の所謂テロとか暗殺とかいふものが極めて多くユダヤ人のやつた事であると言はれてゐるのを想起しますと、これらの言葉がよく理解されると存じます。そしていづれもその背景をなすのが宗教的信仰であるといふことは誠に重大でありまして、ユダヤ教は最も狭量な宗教であると稱せられて來てをりますのは、かうした點にもその理由を持つてゐるのであります。一見祭政一致的な體裁を備へながら、正しい八絋爲宇の日本的祭政一致との差が如何に大きいかは、この點からのみも察せられるでありませう。
かやうに他民族の殲減による世界支配の神命は、ユダヤ人に非ユダヤ人殺戮の權利を認めてゐるのでありますが、然もユダヤ聖典はその際に如何なる方針で進むべきかをもまた教えてゐるのであります。
「非ユダヤ人の最上のものを殺戮せよ。」
「偶像崇拝者のうち最も律義なる者を屠れ。」
これらがさうでありまして、之を換言すれば、非ユダヤ人の王者とか大政治家とか大有徳者とはを殺せといふのでありますが、これは他民族の殲減を目標とするユダヤ人としては當然でありませう。ここでユダヤ人の非ユダヤ人に對する態度全般をいま一度別の表現で説明しますと、ユダヤ人なるものは他民族に對して常時戰爭状態にある、とも言ひ得るのであります。そしてそれも既に幾千年以來さうなのであることを我々は銘記しなくてはなりません。從つて非ユダヤ人としても、そのユダヤ人に屈伏することに甘んじ得ないならば、同じ戰爭状態を自覺して對應すべきではありますまいか。後にも触れますが、この點からのみでも甘いセンチメンタリズムに基く同情やユダヤ利用論が文字通りの利敵行爲であり、賣國的行爲であることが判明致すのであります。唯物論を清算し切れず、自由主義に未練のある者には、さうした迷夢が大東亞戰爭下の今なほ抜け切らないとは、實に嘆いてもなほ餘りがあるのであります。それは身命を君國に捧げる皇軍兵士への叛逆行爲に外ならないからであります。
次に以上述べました幾つかの方面を總括したとも言ふべき表現を一つ紹介致しませう。
「互に愛せよ、掠奪を愛せよ、放縦を愛せよ、而して汝の主人を憎み、決して眞理を語る忽れ。」
この場合が誰の物を掠奪するのであり、またその放縦の犠牲となるのが何人であり、その主人が誰であり、眞理を何人の前に語らないのかも、最早説明せずし明らかでありませう。また次のやうなものもここで想起されるのであります。
「密告者は如何なる場合に於ても殺害することを許される。」
これは時としてはユダヤ人間にも當て篏まるのでせうが、しかし主として非ユダヤ人に對して實行されて來たのでありまして、ユダヤ人の統制下にあるフリイ・メイスン祕密結社員の場合などには、この事が文字通りに行はれてゐるやうであります。
「戰爭に行く時には先頭に立たず、最後に行け、そは最初に歸還し得んがためなり。」
これもまたなかなかユダヤ魂の本質を知るのには面白いものでありまして、近い例を見ましても、この前の世界大戰のみならず、今度の大戰でも、ユダヤ人は兵籍にあつても極く稀にしか前線へは出ないのであります。例へば日本の甘いインテリをたぶらかすに成功したモーロアの如きがさうでありまして、自己の身の危険があれば昨日迄の祖國を裏切つて平気な許りか、暴露文で金儲けさへするのであります。勿論身分の低いユダヤ人のうちには他民族の目を晦ますために犠牲として戰線へ駆り立てられる者もありますが、現世の事には何事にも例外があるのですから、取り立てて言ふには當らないのであります。ここではさうした少數の例外を問題としてゐるのではないのでありまして、ユダヤ魂の本質を象徴的に表明するやうな例を述べてゐるのであります。
それからまたユダヤ聖典は、ユダヤ人特有の僞裝とかカムフラージュに就ても教へてゐるのでありまして、例へば「時が微笑む者に結びつくべし」と書かれてをります。時局に便乗してマルクス主義者が國體論をしたり、大東亞新秩序を臆面もなく呼號してをりますが、ユダヤ的なマルクス宗を信ずるだけでもこれ程にユダヤ的に僞裝が巧妙になるのですから、本物のユダヤ人が如何に僞裝に巧みであるかは申すまでもないでありませう。熱狂的なユダヤ教徒であつたマルクスがマルクス主義を説いたといふ一事を以てしましても、ユダヤ人の「頭のよさ」と「嘘のうまさ」に基くカムフラージュの天才的なことは理解出來るのであります。
また次のやうなものもあります。
「團體が長を選ぶ時には蛆虫にて一杯になった袋を背負つた者を選べ。そして彼が命令に從順でなくなる時には直ちにその背中を見よ、と言へ。」とあるのであります。世間でよく言はれて居りますやうに、ユダヤ人は非ユダヤ人第一線主義を取るのでありますが、この言葉はその場合の方便を表明したものでありまして、ユダヤ支配下の國では、大統領とか首相とか大臣とかには相當にこの種のやり方が實行されてゐるのであります。以前の例ではフランスのブリアン大統領、米國のウィルソン等はその著しい例でありまして、何れも前に婦人關係とかの破廉恥罪があつたのださうであります。現在でもチャーチルは前大戰の時に海軍大臣の職を利用してユダヤ人と共謀して金儲けをした事實があると言はれてゐます。恐らくルーズヴェルトも例外ではないと察せられます。スターリンの如きはユダヤ人リトヴィノフと銀行預金の強奪をしたギャングの一味なのであります。
最後にもう一つタルムードから紹介致しておきたいと思ひますのは、「神はモーゼに律法を與へ給ふたが、それは同一の事を四十九種にも不潔とも清潔とも證明するだけの餘裕のあるものとなつてゐる、」といふ言葉であります。これは前にも論及しました通りにユダヤ人の「頭のよさ」の根拠を示す語でありまして、その「頭のよさ」が「嘘のうまさ」であると言つておきました意味が、このタルムードの語を知る時に實に明瞭となるのであります。即ちユダヤ人は神の與へた律法に對しても、それを文字通りに信仰するといふよりは、それに解釋を加へて、同一の事を四十九種にも白とも黒とも言ふ術を心得てゐるのでありますから、ユダヤ人があれ程恐れ戰いてその命に服してゐるヤーヴェの律法ならぬものに對して、ユダヤ式の口吻を用ひて言ひますならば、百種にも二百種にも白とも黒とも言ふことをするに違ひないのであります。これがユダヤ人の「頭のよさ」の眞相でありまして、神に對する眞の畏敬と人間に對する眞の責任感とを持つ者は到底さうした態度を取り得ない筈でありますが、神をもペテンにかけんとし、非ユダヤ人を動物視するユダヤ人に取つては、以上のやうな態度は當然なのであります。この點から度々論及しましたユダヤ人の「解釋のうまさ」とか、カムフラージュの巧みさとかも理解出來るのであります。また高利貸や取引所の仕事に巧みなのも同様でありませう。
舊約やタルムードからの引用が大分長くなりましたので、これ位でこれを止めまして、ここに多少總括論を述べさしていただき、時間が許しますならば、かやうな立場からの現下の問題に對して特に心を致すべき點の二三に就ても申述べて見たいと思ふのであります。
獨逸の哲學者ニーチェの言葉に「あらゆる價値の改價」といふのがありますが、これがユダヤ人に於ては文字通りに行はれてゐるのであります。詰りあらゆる價値とか批判とかの標準が人類一般の場合と全く異つてゐるのであります。この事は以上述べました幾つかの場合の例でお分り願へたと存じますが、あらゆることはユダヤ人の手にかかると反對の意味となつて來るのであります。この點はユダヤ問題の研究には實に大切であります。
ユダヤ人の特性を説明致しますには種々のやり方があると存じますが、ユダヤ人は惡の權化であり、よこしまなものの具體化であるとも言へるのであります。從つてユダヤ人が非ユダヤ人を人間に非ずと稱しますのは、邪惡の立場を自己のものとする者の見方としては當然なのでありませう。勿論かう言ひまても、我々は決して、ユダヤ人を眞似てユダヤ人は人間に非ずと言ふのではないのでありまして、ユダヤ人もまた人間であるには相違はないが、しかし人間の中にあつても然も人間を人間たらしむるためには當然抑制されねばならないマイナス的な否定的な原理の具體化したものがユダヤ人である、と我々は申したいのであります。では人間の中にあつて人間を人間たらしむるためには當然抑制さるべきものとは何であるかと申しますと、それは卑しい本能、即ち利己心、不信、物質慾等がそれなのでありますが、詰りユダヤ人はこれらの本能が具象化したものであると言ふことが出來るのであります。
それではこのユダヤ人を駆り立てるヤーヴェとは何であるかと申しますと、之は先にユダヤ人の本性だと申しました邪惡乃至否定の原理が具象化されたものであるといふ外はなく、言ひ換へますと、ヤーヴェとは惡と否定の具象化であるユダヤ人がその理想とする所を神格化したものなのであります。從つて我々が神として感受致しますものと比較しますと、ユダヤの神としてのヤーヴェは決して神の名に値しない怪物なのであります。
かやうな次第で、ユダヤ人と我々とは住んでゐる世界が違ふと言はねばならないのであり、或はもつと適切に言ひますと、我々とユダヤ人とは存在の次元が違ふのであります。從つてユダヤ人と我々との間には、神観に於ても世界観に於ても人生観に於ても、單に百八十度の差があるのではなく、ぐるりと一廻りして三百六十度の差があるのであります。この點は既に前にも申しましたが、之を私は底面を合はした二つのピラミッドを使つて比喩に説明するのを常としてゐるのであります。即ち二つの底面の合する所が人間の中にあつて人間をして人間たらしめる所の人間の属性の最底面をなしてをり、これより上方へ向つたピラミッドが普通の人間の存在を象徴し、底面より下へ出てゐるピラミッドがユダヤ人及びその同類の人間を象徴してゐると考へるのであります。
以上でたとひ日本とユダヤとが或點に於て似てゐるやうな事がありましても、それが決して本質的に然りであり得ない事は、これ以上の説明なしで明瞭になつた事と信じます。現人神を上にいただく我々はかの上方のピラミッドの尖端に位置するのでありますが、ユダヤはかの下向のピラミッドの下方の尖端に位置してゐるのであります。何れもピラミッドの尖端でありますから、皮相な観察眼を以てしますならば、種々の類似點を生ずる如くに見えるのでありますが、しかし實際に於ては、形式的に類似すればする程差異の大なる事の證拠となるのであります。これは日本とユダヤとの歴史、國體、民族性等を正當な批評眼を以て見る人には自明すぎる事でありませう。
ではユダヤ人は何故に上述のやうな次元に住む民族になつたのでありませうか。この問題は實に困難な問題でありまして、容易に解決は出來ないのであります。以上のやうに神観も人間観も違つてゐるからさうなつたのだとも言へるのでありますが、しかしさうした神観や人間観が出て來るのは、ユダヤ人が非ユダヤ人とは別な次元に住んでゐるからであるとも言えますので、神観や人生観が先かユダヤ人そのものが先かといふ問題は、卵が先か鶏が先かといふのと同じく、結局は解決の出來ない哲學上の問題となつてしまひますので、ここではそんな複雑な問題に論及することは差控へまして、現代の我々に取つても將來のために重大な參考となる點と關係させて、ただ一つの點に就いてのみ述べておきたいと思ふのであります。
それは實に所謂民族混淆の問題でありまして、ユダヤ人はその四千年の歴史の當初の頃に於ては、放浪生活の結果として到る處で他の民族と混淆した事が傳はつてをりますが、それがユダヤ人をしてかかる低い次元の存在たらしめた一つの重大な理由だとされるのであります。歴史的に見ますと、ユダヤ民族は、舊約に出て來るネヘミヤ及びエズラの頃には、他民族との混血の結果として將に滅亡に瀕してゐたのださうでありますが、之を上述の二人の指導者が出て、ユダヤ民族を滅亡から救ふために他民族との混淆を厳禁したのであります。その結果として現在に至る迄もユダヤの血は絶えずに續き、國土を失ひ政治的中心を失つたかに見えましても、なほその逞しい生存力を保持してゐるのであります。かくてその後のユダヤの血は純粋なのでありますが、しかしその血は既に混血の極に達してゐた血でありますので、換言すれば退化した血をそのまま純粋に保存して來たのでありますので、善良なる血を純粋に保存して來た場合と反對に、マイナス的な要素が却つて強化される結果を生んだとも言へるのであります。この點からユダヤ的存在の低次元性は或程度まで説明出來ると存じますが、なほ一歩進めて何故に混血現象が民族を滅亡させるに至るかと言ひますのに、それは現實の世界にその例を取つてお考へになりますれば直ちに判明致しますやうに、混血児には諸種の人生問題の解決に當つて何れに就くべきかに迷ふことが多く、結局は自己の利益に從ふ外はなくなるのであります。換言しますと、混血人には志操がなく、義務観念がなく、犠牲的精神がなくなるのであります。從つてこの點からもユダヤ魂の本質として我々の論じたやうな利己主義の出て來ることは説明がつくでありませう。もう少し哲學的に申しますと、各民族にはそれそれ神の指示した特性と使命とがあり、從つて各民族はそれそれ特異な理念的存在でありますがら、それの混淆はその存在の理念を曖昧にするのであります。從つてさうした民族は滅亡するか、或はユダヤ的な次元に、轉落する外はないとも言へると思ふのであります。 以上のことは、十九世紀則な唯物論が人種の混淆を人種改良と申したこともありますので、支那事變以來、特に大東亞戰以來、諸種の民族と接触することの多くなつた我々と致しましては、充分考慮すべき點ではないかと考へましたので、一言論及したのであります。
さてここでまた話を轉じまして、ユダヤ人の世界支配計画は現在に於ては如何なる段階にまで到達してゐるかといふ點に就て少しく考へ、以て時局の參考に致し度いのであります。結論から先に申しますと、神命によるユダヤの世界支配の段階は、今次の世界戰爭によつて世界革命を誘致し、それによつてその世界支配を完成しようといふ所まで來てゐるのであります。さう言ひましても、之は事實その通りに運んでゐるといふのではないのでありまして、ユダヤ人の希望的観察からはさうなつて來てゐるといふのであります。しかしまたよく歴史的に考察して見ますと、ユダヤ人がさう信じてゐるのも全然理由がないとは言へないのでありまして、非ユダヤ人の善良さがこの侭で相變らず正しい批判力を伴はぬと致しますと、場合によつてはユダヤ人の希望的観察が實現するのではないかとさへ我々は危まずには居られないのであります。勿論我々は、わが國體に對する絶對の信念がありますので、結局に於て惡の勝利が來るとは思へないのでありますが、しかしなほ眞の八絋爲宇が世界に實現されるに至るまでに無意義な犠牲の多からんことを思つては、出來得べくんば善良なる非ユダヤ人の蒙を啓いて、かの無意義なる犠牲を最小限度に止めたいと念願してゐるのであります。
ではどうして現在が、ユダヤ人の希望的観察からにもせよ、かやうな段階に達してゐるかと申しますと、それはフランス革命以來の世界の動きがユダヤ人の方策通りに動いて來てゐるかに見えるからであります。本日はこの點を詳述致してをる暇はないのでありますが、「自由・平等・博愛」なるフリイ・メイスン祕密結社のモットーを表看板としてなされましたこの革命は、この結社が精神的にも政治的にもユダヤ勢力の支配下にあるのにふさはしく、結局はユダヤ人の解放といふことをその最大の結果として生んだのであります。つまりこの惡平等思想は、ユダヤ人を在來のゲットー生活から解放するに至つたのでありますが、元來ゲットーはユダヤ人が自發的に形成して來たものでありますから、それよりの解放は、ユダヤ人に取つては却つて迷惑であるか、或はユダヤ人に取つて特に有利を齎すものであつたといふことになりますが、それはこの革命によつて、ユダヤ人が今迄ゲットーに隠れてする必要のあつたことを今や公然と非ユダヤ人の間に混じてなし得るやうになつたといふことを意味するのであります。從つてフランス革命は、ユダヤ人に取つては大きな特權の獲得であつて、よく世間で言はれるやうな同權程度のものの獲得ではなかつたのであります。
それから種々の小段階を經まして、第一次世界大戰となり、ここに永く準備された金權方面の世界支配はほぼ確立されたのであります。衆愚政治としての政黨政治の支配する所謂デモクラシー諸國又はその亞流の諸國は、この時以後殆ど完全にユダヤの經濟的制覇の下に入つたのでありまして、わが國の如きも、この分野におきましては大差のない状況にあつたやうであります。
然も一方に於てユダヤの政治上の完全な支配は、世界的規模にまではまだ到達することが出來ないで、ロシヤ人の無智文盲を利用してロシヤに於て先づ見本的に成就されたのでありました。この革命が人的要素から見ても資本的見地から見ても、ユダヤの仕事であつたことは、今は多少事情に通じた人には常識なのであります。從つてここに於てかの先づ他民族殲減の見本を實行し、幾百萬の人を殺戮したのであります。そして茲を根城として、ユダヤの資本力と宣傳力とを利用して、ユダヤ的な我慾に長じた非ユダヤ人をたぶらかし、コミンテルンとして各國を撹乱し、各民族を先づ内部的に弱體化することによつてその殲減を期しつつあるのであります。
併し先程申しましたやうに、ユダヤの現在の世界支配策の段階は世界戰爭に依る世界革命の誘發であるのでありまして、これが今次の第二次世界戰爭の眞因なのであります。そして之に依つて殘された政治的方面の世界支配を完成するならば、神命としての世界戰爭は文字通りに完成するといふのでありまして、そのためには今次の世界戰爭を長期戰化し、樞軸國を弱體化して内部的に革命を起させようとすると同時に、所謂デモクラシー國をも再起不可能にまで荒廃させて、同じく内部的に革命に導き、それによつて文字通りに他民族を殲減しようといふのであります。勿論他民族の殲減といつても、文字通りに一人殘らず殺戮することは不可能でありまして、これは象徴的にさうするといふのであります。ルーズヴェルトは「今モーゼ」と稱せられてユダヤの尊崇を一身に集めてゐるさうですが、之は彼が恐らくオランダから移住して來たユダヤ人の血を享けてゐるといふ事の外に、世界戰爭を擴大し長期化しようといふユダヤの方策に從つて忠實に働いてゐるからでありまして、彼を先頭に祕密結社員チャーチル、イーデン、ハルや、ユダヤ人リトヴィノフ、ホア・ペリシヤ等の演じてゐる八百長芝居は、單に樞軸打倒では割切れない要素を多分に含有してゐるのでありまして、米英人そのものをも含む他民族殲減のユダヤの政略を考慮しない限りは、ルーズヴェルト、チャーチルの赤化迎合政策に見られる反祖國的傾向は理解が出來ないのてあります。米英合邦とか、米英の赤化とか稱せられてゐることは、形式と時季とは不明であると致しても、早晩實現することでありませう。否、既にもう實質的には實現されてゐると言つても差支へないのではありますまいか。
ここで大急ぎで以上のやうな観點よりする時局對處策に就いて、貧しい結論ではありますが一言させていただきたいと思ひます。
上述のやうなユダヤ的原理は、既に論じましたことからも判明致しますやうに、我々自身のうちにも決して全く存在しないものではないのでありまして、人間の中にあつて人間をして人間たらしむるに足らぬものでありますから、もし我々が自己の中にあるかの卑しむべき我慾的本能に屈從致しますならば、我々もまたユダヤと變りはない存在に堕するのであります。之は悲しむべき事でありますが、自己の身邊にもしばしば見うけられるのでありますから、我々は決して気を許してはならないのであります。東洋に在住した或るユダヤの指導的な地位の金持はいよいよ大東亞戰が近接して來て上海を去るべく餘儀なくされるに至つた時、「人間に惡のある限りユダヤは亡びず」といふ捨科白を殘して米國へ去つたと或る人から聞いたことがありますが、ユダヤには平常これだけの覺悟と自覺があるのであります。之をもう少し一般的な思想史上の言葉で表現致しますと、我々は唯物論の凡ゆる形式のものをこの際徹底的に克服しなくてはならないのであります。漠然と米英思想の撃滅などと言つても變な話でありまして、もつと正確に、もつと勇敢にその本拠をつかなくてはならないのであります。勝つて兜の緒を締めよといふ意味は特にここにあるのであります。防謀の本義がここにあることも言ふまでもありません。
以上は一般論でありますが、ここになほ戰時下に特に注目すべきユダヤ勢力の侵寇でありますが、それが米英のみならず中立國等を利用してのわが國銃後撹乱策であることは申し上げる迄もありません。しかしかやうな一般の場合はこの講演の使命外であると考へますので、私としてはそんな點は論じないことに致したいと存じます。また占領地等に於て、例の「時が微笑むものには結びつくべし」といふ指示に從つて幾千年の訓練を得たユダヤ式の僞裝によつて協力を粧つて來るものがありませうが、これはフリイ・メイスン祕密結社の厳重な検察その他によつて峻厳すぎる程峻厳な處置を講じても決して行き過ぎではないのであります。國内に於ても最近の共産派の検擧によつても判明致しますやうに、ユダヤ的原理は僞裝をその本領とするとも言へるのでありますから、なかなか油斷がならないのてあります。
しかし戰線方向のことは當局に信頼致すことに致しまして、我々ユダヤ問題研究者として特に銃後の問題として注意致さねばならないのは、前からその蠢動はありながらも、最近に至つて特に著しく地下的動きを示しつつあるかに見える日猶同祖説であると存じます。これは小谷部とか酒井とかいふ一見日本主義的側面を有するかに見せる親猶主義者、否、拝猶主義者、及びその亞流が意識的及び無意識的に説いたのが代表的なものでありまして、その日本主義的僞裝にたぶらかされて、無批判且つ軽薄な日本主義者の一部分にも歸依者を有するやうでありますが、何れも何等かの連絡でユダヤと近接關係にある者のユダヤ的僞裝術にひつかかつてゐるのでありまして、時としては不敬罪をも犯して平然たる所のある非國民が多いのであります。英國が現在のやうにその貴族の血に至るまでがユダヤの血によつて汚されるに至つた原因の一つは、たしかにかの英猶同祖説のためでありまして、この點に就ては他日研究を發表致し度いと思ひますが、ユダヤの他民族侵寇の手の一つがこの×猶同祖説なのであります。遠大なユダヤの策略は、時としては唯物主義的、自然科學的研究のみを事實として承認する類似ユダヤ主義者を迷わせて舊約の風俗その他を利用させたり、或は空想以上に無根拠な言霊學などを盲信して、日猶同祖説を説くやうなことをさせるかも知れないのでありますが、それは人間の眼が二個である限り、また人間の聲音機關が日本人に於てもユダヤ人に於ても大差のない限りは、先入主を以つて類似點のみを探査する場合にはあらゆる場合に成立する同祖關係論でありまして、この種の親猶主義者に特徴的であるのは、類似さへあれば爪の垢ほどのことも重大視しながら、差異のある點は如何に重大であつても決して考慮に入れないことであります。誠に情ないほどの幼稚な無批判さでありますが、先入主の力は實に大きいものでありますので、我々としては特にユダヤ魂の本質を明らかにしなくてはならないのであります。如何に末葉のことが類似してゐましても、上述のやうな次元に住むユダヤ人が我々と同祖である筈はないのであります。或は全人類創成の頃に遡って申しますならば、或は日猶も同祖でありませう。然しこれは全人類が同祖であるといふことに外ならないのでありまして、そのうち特に日猶關係のみを取り上げる理由はないのであります。ユダヤ問題に正確な批判を持つためには、些細な事實に拘泥する唯物論的實證主義の立場のみに止まらないで、正しい理想と正しい思想とを持ち、眞の日本的自覺に立たねばならないのであります。
以上で外部からの侵寇の問題を終り、内からの侵寇の問題に移りたいと思ひます。否、よく考へて見ますと、既に同祖説が證しますやうに、實際に於ては侵寇には内外部の差はないのでありまして、これから注意致しますことも勿論單なる内部的問題ではないのでありまして、ただ策謀の根源が主として内部にあると言ふにすぎません。その第一として申し上げ度いのは、ユダヤ利用説でありまして、占領地の開發その他にユダヤの金力を利用しようといふのがその代表的なものであり、唯物論的な物の見長を卒業出來ない十九世紀主義者には極めてしばしば見られる議論であります。しかしユダヤの金が本質的に見て如何にして蓄積された富であるかを我々の説いた所から了察する事の出來る人は、かかる汚らはしき金を利用することが我々としては死に値する屈辱であり恥辱であるのを直ちに感得するのが出來ると思ふのであります。唯物思想に毒せられて、「武士は食はねど高楊枝」といふ言葉を軽蔑したことも我々の過去にはありますが、今や我々はかかるユダヤ的米英的立場を根本的に超克して、正しい日本武士道の傳統に歸らねばならないのであります。
次に一言致し度いのは既に論及したこともある通りの時局便乗の徒に就いてであります。殊に注目すべきことは、僞裝をその本領とするマルクス主義者の國内のみならず、戰線へまでの進出及び跋扈でありまして、これは支那事變最初から屡々見られました通りに、なかなか油斷の出來ないことなのであります。元來赤色系であつた言論機關が名目も當事者も何の變更もなく存在してをりますのを見るにつけましても、この點は大いに警戒を要するのではないかと思ひます。殊に米英資本主義國を倒すがに見える今次大戰の外面的相貌は、ユダヤ・マルクス主義者にも立働く領域を殘してをりますから、一層彼等の僞裝時局便乗は巧妙に行はれるのであります。しかし今次の大戰がかやうな赤化主義的な意圖を以つて戰はれるとすれば、それは全く無意義なのでありまして、この點は以上申上げましたことからも、恐らく御了察願へたかと思ふのであります。長くなりましたので、之で失礼致します。(一七・二)