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ユダヤ人たちの物質的な成功であっても奇跡を使って成し遂げられたものではない。二人のイスラエル人の映画監督であり映画制作者であるメナヘム・ゴラン(menachem golan)とヨラム・グロブス(yoram globus)によってある試験的な説明が為された。映画芸術としての成果という面では明らかにBクラスでしかない貧弱な才能の人々が、ハリウッドで財を成し、そして失敗に苦しむときまで多くの劣悪な映画を作り続ける。彼らの成功の鍵は上下に伸びたネットワークである。ゴランとグロブスはイングランドと連合王国中の映画館を買い、そしてそこで彼らが選んだ映画を上映した。彼らはいつも決まって(まあほとんどだが)駄作を選んだ。趣味が悪く才能も能力も持っていないからだった。彼らは言った。もしあなたが映画館のチェーンを持っているなら映画の質について心配する必要は無い。グローバリゼーションとネットワーク作りが評価による競争を避ける道なのだ。質の良いカフェーを開くのではなく、すべてのカフェーを買い取ってスターバックに変えてしまう方が簡単だ。人々はあなたのカフェーに来ざるを得なくなるだろう、と。
ユダヤ人の成功の、第2の理由は我々のお互いの心理的な融和性である。敵対者たちは通常これをユダヤ「フリーメーソン」と、ほとんど陰謀として描く。しかし同じ物事を好むことはユダヤ人にとっては極めて自然なことなのだ。イングランド人がベーコン・エッグを好むのと同様である。にもかかわらずそれは人類の進歩にとって問題を作り出してしまう。1920年代のプラハで、二人の同じくらいに質の高い、しかし全く異なった傾向の作家がいた。一人は疎外感を感じる抽象派のフランツ・カフカ(frantz kafka)、そして土着のチェコ人の共産主義者であるジャロスラフ・ハシェック(jaroslaw hasek, jaroslav ha?ek)である。二人とも良質であり、二人とも人類の進歩にとって必要である。しかしカフカの才能はユダヤ人たちにとってより好みに合うものである。ユダヤ人の文学の教授や新聞編集者がチェコ人のそれよりもはるかに多いために、当然のごとくカフカは一般的に知られ認められているのだが、一方のハシェックの名前はボヘミヤに残るだけである。ハシェックのことを考えるよりもカフカを真似する作家のほうが多い。結果として人類は、米国人だけではなく、より益々「ユダヤ的」に変わってしまう。作家たちは知っている。彼らはユダヤ人の編集者と教授の好みに合う方法で書かなければならない、と。さもないと彼らは小さな区域でしか成功を期待できなくなるのだ。こうやって、何の陰謀もなく、普通の人間のユダヤ的な傾向が、その美しい多様性を滅ぼすことによって、人類の精神を支配していくのである。
いまこれらの問題が解決される可能性がある。ある程度までの個人的な主導権は良いのだが、ネットワークを作ることは禁止されるべきだ。自分が所有する書店や映画館やカフェーは良い。しかし2軒目に対する買い入れや支配の確立は犯罪として処罰を受けるべきである。
北極地方のジョークなのだが、一人のイヌイットが米国を訪れたとき蒸気機関車にはねられた。彼はその事故で死ぬことはなかったが、しかしそれ以来、彼はヤカンを見ると片端から壊すのである。彼が言うには、それらは小さなうちに芽を摘んでおかねばならないそうである。独占化とは何かを知ってしまった後では、我々はこの賢いイヌイットのアドヴァイスに従うべきだろう。我々にとって100軒のスターバックスよりも100軒の異なったカフェーのある方が良いのだ。
人間の収入は工業での平均賃金の2倍までに上限を付けられるべきである。その金額を超えるものがあるなら、税金が100%を超えるべきだ。役員手当ても同様に厳しく押さえられなければならない。メディアや論壇は広く解放されなければならない。人間の思考の分野ではユダヤ人のバラモン的な傾向を白日に曝し対抗者を与えられるべきである。このバラモン階級は敵ではない。しかしその支配に向かう伝統的な傾向は、より良い透明性と責任の持たせ方によって中和させられねばならない。
我々の統一性を宣言する霊的な交わりが確立されなければならない。それは利益や人種差別への拒絶を含むものである。聖アンブロウズ(ambrose)【訳注:4世紀のミラノの司教であり聖アンブロジウス(ambrosius)とも言う】は申命記23:19への注釈で次のように書いた。『取立ての厳しい高利貸しは死刑に当たる罪ではない。戦争する権利があるというのなら、同様に高利貸しにも権利があるのだ。』[17]兄弟や姉妹たちと霊的な交わりを分かち合う人々が高利貸しを呪うことは無い。しかし、もしその交わりがなくなったならば、高利貸し、際限の無い搾取と奴隷化が登場するだろう。奴隷は北米のカルヴァン主義者とユダヤ人たちによってもたらされた。しかしながら、一つの教会で人々が霊的に一致していた場所では奴隷は知られなかったのである。
そのウィットに富んだcatch-22の中で、ジョセフ・ヘラー(joseph heller)は【訳注:ジョセフ・ヘラー(1923-99)は米国の風刺家でcatch-22は彼の1961年の作品である】不信仰について彼の牧師に一般的な質問をしている。『下士官たちは我々が祈るのと同じ神に祈っているのでしょうか?』これは分かち合われる霊的一致の無い世界についての考えである。タルムードがユダヤ人たちにキリスト教徒と一緒にワインを飲むことを禁じるのは理由の無いことではない。ワインを分かち合うことは霊的な一致だからである。ユダヤの律法の目的がキリスト教徒に対するユダヤ人のゆるやかな戦争を維持することであったため、ユダヤ人は同様にキリスト教徒に対する無利子の貸付を禁止された。霊的な交わりを分かち合うことで、社会はこの困難さを克服するだろう。
こうすることによってユダヤ人の興隆は人類の興隆へと転化させられるだろう。
このユダヤ民族(the jewish people)に関する長い物語は未知の結末に向かっている。それは共有性の拒絶から始まった。そしてそれは再び問いかけられる同じ疑問によって終わる。もしシオニズムとその兄である貨幣神崇拝者たちが世界的に勝利するなら、それは多様性と憐みと精神を取り除くかもしれない。もし共有の精神が勝つなら、昔の予言が実現するだろう。我々は言おう。我々は一つの血に属する。パレスチナの人々、アブラハムと古代イスラエル王国と使徒たちの末裔、パレスチナの正当な住人たち、そしてその近い親戚縁者たち、さ迷えるユダヤの民衆――彼らは父親の土地に戻った放蕩息子のよう帰ってきたのだが。カクン(kakun)とスバ(suba)の、パレスチナの村から追放された息子たちは、戻ってきて廃墟となった町を再建するだろう。二度と滅ぼされることがないように(アモス 9:15)。聖なる地では一つの民族の二つの枝、ユダヤ人とパレスチナ人がまとまり、結婚しあい新しい民を作り出すだろう。ノルマン人たちがイースト・アングリアとシシリーとノルマンディーで行ったようにである。そして二度と世界の平和を乱すことは無いだろう。
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[17] the quote supplied by david pidcock