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しかしながらマクドナルド教授は、キリスト教徒がユダヤ人を支持する理由をあまりに単純化しすぎるという間違いをしている。ブッシュやラムズフェルドは別として、あるいは立身出世主義者は別として、ユダヤ人を支持する善良な非ユダヤ人たちがいる。ちょうどイサック・ドイチャーの定義による、異端者のユダヤ人や「非ユダヤ的ユダヤ人(non-jewish jews)」がいるのと同様である。これはユダヤ共同体の内部にある遠心的な傾向と求心的な傾向という矛盾した本性のためである。非ユダヤ人と出くわす際の個々人の反応によって、ユダヤ人は遠心ユダヤ人(rim jews)と求心ユダヤ人(core jews)というように分類ができる。遠心ユダヤ人は、結婚することによって、キリスト教や共産主義や他の信条を受け入れることによって、神との霊的な交わりを求めることによって、共同体から去っていこうとする。求心ユダヤ人はゴイムに対する永久の戦争の中で共同体の優越性を宣言する。千年間続く綱引きの中で、キリスト教徒はこの求心性を無効にしようとし、その一方でユダヤは遠心性を破棄しようとする。
それが、どうして2種類の「セム族愛好者」がいるのかの理由である。その一つである善良なキリスト教徒は新しい精神的な安らぎを期待する。彼らは聖書のポジティヴな部分、「汝の隣人を愛せ」に影響を受けている。彼らはユダヤ人たちがかもし出す共同体、所属、伝統の精神を好む。彼らは詩的な本性を魅了する「アウトサイダー」の松明を好む。多くの人々がおり、彼らは自分たちが直接に触れる環境の窒息しそうな退屈さを打破したいと望んでいる。アイルランド人の作家ジェイムズ・ジョイス(james joyce)はブリテン人との血まみれの争いから離れる道としてユダヤ人を見た。マリナ・ツヴェタエワ(marina tsvetaeva)はロシアの詩人で、その安定した中間階層の家族の中で自分自身をアウトサイダーであると感じそして書いた。「この大部分のキリスト教世界において、すべての詩人はユダヤ人である」と。ウッディ・アレンの初期の喜劇に出演する魅力的な女優たちは、この内なる異邦人、ユダヤ人に魅惑されているものである。
このような人々がユダヤ共同体の外周部にいる遠心ユダヤ人と常に会っているのは偶然ではない。ジョイスにとってのユダヤ人はイタリアのユダヤ人作家イタロ・スヴェヴォ(italo svevo)、ツヴェタエワにとってのユダヤ人はロシア共産主義者のスパイ、セルゲイ・エフロン(sergey ephron)であった。ダイアン・キートン(diane keaton)とミア・ファーロウ(mia farrow)にとってのユダヤ人は愉快なアウトサイダーであるウッディ・アレンだった。ユダヤ共同体の外周部は極めて大きく、そこには常により善良な種類のキリスト教徒異端者との混在がある。
同盟の第二のセットは、ユダヤ・イデオロギーの実際的な面の真価を認める熱心な資本家たちによって作られている。彼らはマフィアの思想とカネの追求を好み、モラルと他人の財産や生命にすら必然的にもたらす社会的な結果を無視する。あらゆる人間を敵と見なし人生を終りの無い戦争と見なす人々は、ユダヤ・イデオロギーの中で、見知らぬ人間は誰も「隣人」ではない、と発見する。それが、最も残虐な支配者、領主、王たちが顧問や大臣としてユダヤ人を選んだ理由なのだ。彼らはユダヤ人たちから自分の臣民をどのように無視すれば良いのかを学んだ。ネロやペドロ残酷王(pedro the cruel)、コンラッド・ブラック(conrad black)やマーガレット・サッチャー(margaret thatcher)、マフィアのゴッドファーザーたちと第三世界の独裁者たちは、求心(遠心に敵対する)ユダヤ人たちを好んだ。
【訳注:14世紀のカスティーリャ王であるペドロ残酷王についてはhttp://en.wikipedia.org/wiki/pedro_the_cruel 、コンラッド・ブラックについては http://en.wikipedia.org/wiki/conrad_blackを参照せよ。】
このようにして善良な人々は彼らのユダヤ人と付き合い、邪悪な人々は彼らのユダヤ人と付き合う。ここに問題がある。善良な人々のユダヤ人はアウトサイダーであり、彼らはほとんどユダヤ人として評価されない。一方で邪悪な人々のユダヤ人はパワフルなユダヤ人指導者たちである。そしてこのユダヤ友愛団は構造的に支配階級の団体であり、その権威主義的なリーダーシップに強く影響されている。無自覚のうちにだが、善良なユダヤ人たちは邪悪なユダヤ人たちに利用されてきた。アルバート・アインシュタインはユダヤ共同体を拒絶し、シオニズムに反駁し、決してシナゴーグに行かず、そして彼自身は魅力的な人物だった。しかし彼の研究成果は邪悪なユダヤ人たちによって彼ら自身のコンセプトを推進するのに利用されたのだ。
このようなことは、次の点を理解しようとする人があまり多くないために起こるのである。ユダヤ人は民族でもなく、宗教でもなく、人種でもないのだ、彼らは準宗教的組織(quasi- religious organization)である。ブラウザーとメール発信人がウインドウズの中で一くくりにされるようにカトリック教会がIMFと共に一くくりになっている、それと似たようなものだ。あらゆる種類のカトリックを見出すことができるだろうが、しかし決定はローマで為される。あらゆる種類のユダヤ人が見出されるだろうが、しかし決定はウォール・ストリートで為されるのである。
求心ユダヤ人に対する戦いの間には、遠心ユダヤ人に対するサポートが大切だ。これはキリスト教会の伝統的な手法だった。ユダヤ人(jews)の精神のためにユダヤ(jewry)と戦うのである。ユダヤ・ゼロテ党員【訳注:ここではシオニストを指す】である‘マッド’・ゴールドハーゲン(goldhagen)は彼の本の中で、教会は「アンチ・セミティック」でありその方針がユダヤ・ホロコーストを導いた、と主張した。これほどに誤っていることは無いだろう。教会は精神を正そうと望んだのであって、肉体を殺そうと望んだのではない。実に、ユダヤ人の真の利益とユダヤ人が対立しあっているのだ。
【訳注:ゼロテ党は「熱心党」ともいい、ユダヤの独立を主張して古代ローマ帝国に反抗したユダヤ人集団を指す。またdaniel j. goldhagenについては 次を参照せよ。http://en.wikipedia.org/wiki/daniel_goldhagen】
ユダヤのエリートたちは人々が選択権を与えられるべきであると知っているが、彼らはどれを選んでも確実に誤った選択になるように努めている。そのことが、貨幣神崇拝ユダヤ人がシオニスト・ゼロテ党を支持する理由だ。彼らは我々ユダヤ人に、二つの邪悪のどちらかを選ぶように望んでいるのである。ゼロテ党か、あるいは貨幣神崇拝者か。しかし「第3の哲学」も同じく存在する。その熟達者たちは人類の偉大な友愛団体を信奉しており、ゼロテ党のヘイトと世界支配を目指すパリサイ人の指導のどちらをも拒絶する。彼らは様々な政治的・宗教的な学派に固執して、政治地図の中で左翼になるか右翼になるかでき、キリストやアラー、レーニンやチョムスキー、ニュー・エイジやブッダ、芸術や愛を信じ込むことができる。彼らはイスラエルの半端布(はぎれ)であり、聖パウロによって宣告されたものである。それらが人類に浸透していく中で、キリストの次の言葉が実現されるだろう。一粒の麦は死んで、そして生きる。一粒の麦が生きるなら、それは死ぬのみである。
死と復活の物語は次のような神話的な意味を持っている。死と消滅を恐れてはならない。それが生命へと続く道だからである。ユダヤ人として死んだユダヤ人は生き続けた。スペインでユダヤ共同体が終りを告げた後に、アビラのサンタ・テレサやサン・フアン・デ・ディオスはユダヤ人として死に永久にその生命を残した。【訳注:アビラのサンタ・テレサ1515-1582、サン・フアン・デ・ディオス1495-1550はともに改宗ユダヤ人であり、現在もスペイン・カトリックの中で極めて重要な位置を占める聖人。】アムステルダムやモロッコに行った追放者の名は消え去り忘れられている。彼らはユダヤ人として生き続けた。そして永遠に死んだ。それは1917年にロシアで繰り返された。ユダヤ人として生き残った者達は永遠に死んだ。革命に加わった者達は永遠に生きる。