Anti-Rothschild Alliance

HOME

資料室

HOME>>資料室 TOP>>通産省・国売り物語

通産省・国売り物語

通産省・国売り物語(2)馬借

そして制裁へ

その一方でSIAは、がんじがらめに縛られている日本を、九月の発効から僅か二ヶ月しか経たない・・・、当然、商社などが協定前に買った製品が流通している時期の11月18日、「協定違反のダンピングをしている」として制裁要求を開始します。12月9日にはSIAのプロカッシーニが政府に制裁を要請。「日本が安値販売を続けている証拠を掴んだ」と主張。これが単なる「ふかし」であることは、後に出された「証拠」なるものが全く別の、翌年になってから「おとり」で作られたものであることからも明らかでしょう。実際にはその12月時点での日本企業の第三国シェアは四割・五割の激減。ごっそりアメリカ企業に浚われるという実体があったのです。

翌1月8日には、この物言いで始まった通産省の実態調査で、なんと実際に原価割れ生産をやっていたのが、TIを始めとするアメリカ系メーカーだった事実が判明します。アメリカは大恥をかき、交渉を持ったものの文字通り「話しにならない」。にも拘わらず通産省は「アメリカの不満を鎮めるのが先決」と、メーカーの不満・公正取引委員会の批判を押し切って、強引な生産削減・輸出統制を始めます。日本メーカーは操業停止の手前にまで追い込まれていました。当の日本TIは、なんと各日本企業が減産を受け入れていた中で、独り増産に励んで利益を揚げていました。そこにようやく減産指導が及ぶのは、摩擦が爆発した87年3月に至ってのことです。

しかもこの「ダンピング」なるものの基準である「公正価格」なるものは、アメリカ側が一方的に決定するため、アメリカ市場でも2ドル台以下が相場の中で、それ以上に設定されて日本製品が事実上締め出された状態に至ったとのこと。これはその「公正価格」決定のための資料を提出する筈の日本企業が到底納得しない水準であり、彼らの異議申し立ては全て却下されたのだそうです。日本製品が締め出された状態でのアメリカ市場でも2ドル台以下が相場・・・という事実は、彼らの言う「ダンピング」がいかに実の無い出鱈目なものであるかを実証しています。

第三国シェアをごっそり奪ってホクホク状態のアメリカ半導体メーカーに引き換え、品不足で苦しむアメリカ半導体ユーザーはなんと「輸出規制は通産省による嫌がらせ」などと言い出して日本側に責任転嫁する始末。よく自称アメリカ通は「摩擦が荒れるのはアメリカ企業が苦しいからだ。彼らが儲かるようになれば、解決する」などとお気楽かつ、アメリカ人の楽々もうけを保障する虫の良すぎる言い分を吐けるものです。

実は、この半導体摩擦が爆発した3月には、既に市況は好転していたのです。「通産省の内通」という官害に苦しむ日本メーカーは、品不足で顧客から矢の催促を受けて「増産したくても指導が厳しくて出来ない」という不平が出を出しました。ビジネスに汗する民間メーカーに対して、3月半ばに田村通産相は「モラルに欠ける業界を指導する」などと発言しているのは、棚橋氏が官房長を勤める大臣周辺にとっては既に日本企業は「アメリカと共通の敵」になっていたのでしょう。

アメリカ側の横暴は、単に「自分達の儲け」だけじゃない。不公正な政治力によって日本企業の力を「潰す」のが目的であり、それまではけして止めないのは、これを見ても解ります。そして現実にそうなりました。

この状態になってなお「日本メーカーによるダンピング」と言い張り続けるために行われたのが、強引な囮工作でした。既に日本からのまともな輸出では、半導体企業が輸出業者に対する選別を行って管理が厳しくなっていたため、狙われたのは半導体協定成立以前に海外に持ち出され、子会社でストックされていた在庫品でした。そして、根っからの自由市場として生き馬の目を抜くような手練れの商人が行き交い、コントロールなど不可能な香港市場。そしてこれに引っかかったのが沖電気だったのです。

架空の会社を作り、旧型品の半導体を大口契約を餌にした強引な値下げ交渉で「12万個買うから、そのうちとりあえず五千個をこの値段で」と騙して送り状を書かせ、そして商売成立の十数時間後には手ぐすね引いて待っていたアメリカ筋に、報告が伝わります。品物が渡った数時間後、仕組みに気付いた本社がキャンセルを指示しますが、交渉相手は雲隠れ。そして翌20日、この露骨なヤラセをネタに「証拠を掴んだ」と、日本叩きの大合唱が始まったのです。

実際にはこの時に売られた品は協定以前の96/8月から沖電気の香港支店で在庫になっていた旧型品で、輸出規制や減産指導とも無関係な代物だったのですが、そんな事はどうでもいい。この価格カルテルの約束を日本が「守らなかった」として、これを「貿易のパールハーバー」と称して日本を糾弾するという、まさにアメリカならではの奇怪な論理で、政府・議会・マスコミが結束して反日国粋意識を煽りました。骨絡みの対日偏見と「アメリカの力と正義」という自慰史観的思い込みが結合すれば、どんな理不尽な論理も「国家の総意」として支持されるのがアメリカという国です。

ただ、民間レベルでも同じだったかというと、アメリカを弁護する知米派は「日本叩きで盛り上がるのは議会・政府筋だけ」とよく言います。実際この時も「競争力のある日本製品を締め出すのはおかしい」という意見も出ているのです。ところが日本のマスコミは、「日米開戦を思わせる」と、通産官僚が持ち込んだ交渉相手の様子を引用して、官僚の話を受け売りした記事で危機感を煽ります。「日本資産の凍結」という、まさに資本主義経済システムの根幹を棚上げする戦争行為を、アメリカが準備しているかのような噂まで流しました。

実はこれは、日本が米国債購入を止めた時の対応策として検討されたものだったのですが、内政での輸入制限などとは訳が違う。私有財産を棚上げし、経済システムの根幹を揺るがす強硬措置、まさに「戦争行為」です。イラクのような武力による侵略国相手ならいざ知らず、ガット提訴すらされている押し売り貿易協定のために、実質的に戦争を仕掛けるような真似をもしアメリカが強行したら、アメリカの信頼性が被るダメージはどれほどのものか。

だからこの噂は、噂として誰も検証しようとしませんでした。本来なら公式に確認を求めるなり、公の場に出してその不当性を追求するなり「はっきりさせる措置」をするのが政府の義務なのに、ひたすら曖昧なままに放置され、日本人を脅すためだけに機能したのです。

仮に、ここで日本の逆制裁があれば、アメリカはここまでの強気を通すことは無かったはずです。実際、ボトルリッジに対して日本からの逆制裁の可能性を警戒して質問した記者もいました。それに対しはその可能性を全面否定します。「日本が協定を守ればすぐ解決するから」と。勿論、最初から撤回する気など無かった訳で、彼は制裁の継続を前提に「逆らわない通産省」の内実を見通していた事になります。

こうした通産官僚の宣伝に乗せられた親米派は、まっとうな抵抗論に対して「アメリカに逆らえば経済制裁だ」と言います。けれども現実に、台湾のような「本当に中国から守ってもらう必要のある国」ですら、現実にアメリカによる半導体ダンピング制裁に対して逆制裁を行使しているのです。それが国際社会の現実です。日本では、金丸信のような政治家が「アメリカあっての日本」という属国根性に支配され、特に自民党代議士の多くが「アメリカの靴を舐めて可愛がられるのが日本の国益」と公言する始末。

マスコミがアメリカの主張を受け売りして、実体の乏しい「自由貿易のリーダー」というアメリカの看板を、確信犯的に前提扱いし、アメリカが「怒りのポーズ」をちらつかせることで、簡単に震え上がって言いなりになる。だからマスコミ論調は極めてバランスを欠いたものになります。日経などは「日本に対する悪いイメージがある」などというアメリカの感情を振り翳して、「だから短期的な成果を約束しろ」などという無責任な要求で迫るような、ストラウス前USTR代表のインタビューを、あたかも日本の味方の意見であるかのように持ち上げて、無批判に掲載する始末でした。通産省の出来レースを「不手際」として批判することをネタに、あたかも日本側の一方的な負い目であるかのようにアメリカの不当な感情を代弁し、「買える米国製品は少ない」という事実の指摘を脅しで封じる・・・典型的なごまかし強弁をアメリカ利権擁護のために展開したのです。

江波戸哲夫氏は「ドキュメント日本の官僚」で、「日本のメーカーが通産省の指導を守らなかったのが悪い」と、通産の業界支配指向を代弁します。しかし、彼の言う「メーカーがアメリカを甘く見てタカを括った」という主張は、要するに半導体商社が第三国のグレーマーケットに売ったかどうか・・・という話に過ぎないのです。グレーマーケットというのは一種の投機市場で、品不足局面で利益を稼ぎ、物余り局面になると損を出して売り抜けます。そして、海外市場では日本より実勢価格が高く、その舞台となった東南アジアには現地のグレーマーケット商人がいるのです。

さらには、アメリカにはウェスタンマイクロテクノロジー社などのアメリカのディストリビューターがおり、実はアメリカに「質のいい」日本製を安く輸入していた張本人はこのアメリカ人商人だったのです。彼らは90年頃にはアメリカ半導体メーカーの圧力で、日本からの輸入をアメリカ製品に切り替えますが、「日本製品を多く輸入する」というアメリカの流通経路は、多く彼らに依存していました。彼らこそがアメリカが被害者意識を振りかざしていた「安値被害」を担っていたとしたら、まさに一連の騒ぎは「アメリカの責任」と言うしかありません。

だから「価格統制など最初から不可能」というのが多くの論者の一致した見方で、それを承知でこのような協定を結んだのは「通産省がアメリカを甘く見た」からだと江波戸氏は言いますが、霍見芳弘氏などはむしろアメリカの圧力を期待していたのではないか・・・と指摘しています。もちろん、そうした積極的関与を指摘する意見は少数で、公式上の「通産省による激しい抵抗」をアメリカが押し切って日本に強制したのが20%の「約束」であるという前提の基で、この協定は認識されていました。そうした前提の上ですら、「出来ない約束をした通産省が悪い」と、それを強制したアメリカを正当化する主張が横行していたことは、実に奇妙と言わざるを得ません。

当時のマスコミでは、こうした誰が見ても手のつけられない「海外グレーマーケット」の存在を根拠に「アメリカの怒りはもっともだ」と、「日本企業の第三国シェア激減」という実体を無視した外圧正当化論が強弁されてました。けれどもこれは、裏を返せば、第三国経由で輸出すればアメリカが脅しに使っていた「対日ダンピング関税」など、何の意味もなく競争継続が可能・・・という事実が浮かび上がってくるのです。

こんなものを恐れて通産省の八百長交渉に乗せられ、自由経済破壊を呑んで「半導体立国」を放棄してしまった日本の立場は、まさにピエロと言う他はありませんでした。実は日本企業自体は、85年段階で既にアメリカの日本製半導体排斥そのものには、それほどの危機感を持っていなかったという話すらあります。86年1月22日の256KDRAMのダンピング仮決定にも「冷静に受け止めている」と。元々、85年下期からの大幅な円高で、日本の半導体メーカーは「対米輸出はあきらめている」という状態だったそうで、結局、対米関係に固執していたのは、むしろ官僚側といった方が実態のようでした。

実際、85年あたりを中心に、かなり激しい値引き競争はありました。ところが実際にその値引き競争を仕掛けたのは、アメリカ企業でも半導体摩擦の先頭に立って日本を「ダンピング」と攻撃したマイクロン社自身なんですね。だからこのアメリカの言い分は日本企業の多くから「今更何を言ってるんだ」と大顰蹙だったのです。

さらに言えば「アメリカ政府は味方。強硬な議会を押さえるための支援として譲歩を」というのが真っ赤な騙しだという事実は、日本のマスコミは承知済みでした。実際は政府・議会は政治的に一枚岩で「実態を見るとアメリカ通商関係者がかなり議会と打ち合わせながら決めたというのが真相(日経夕刊87−3/28)」と。

「商務省・USTRが裏で議会を動かしている」という話まで出てきます。「日本に譲歩させなければ、議会がもっと過激な法律を作る恐れがある」などと、無茶な要求を突きつけて議会のせいにして、「アメリカ政府は味方」だなどと日本国民を騙して反発を押さえてきた訳ですが、裏ではしっかり繋がっての連携プレーで芝居を打ち、不当な利権をせしめ続けてきた・・・、それを鵜呑みにした情報を垂れ流し、お先棒を担いできた政府・マスコミの罪は万死に値します。

村上薫氏は、この半導体制裁を仕組んだのは、実はペンタゴンだと指摘しています(「ペンタゴンの逆襲」毎日新聞社)。こうした動きがマスコミに載ったのは86年2月でした。産軍複合体関係者を動員した検討作業班を編成して「半導体は戦略物資だ」という理屈で日本製の排斥論議を始めたのです。「半導体は軍事用技術だからアメリカによる優位を続ける必要がある。そのためには日本が邪魔だ」と、関東軍並みに手前勝手な軍国思考特有の支配欲が、経済の土俵で走り出せば、独占のために日本の技術の破壊という意図へと至るのは自然な成り行きでした。それはボトルリッジ商務長官の「日本のハイテク製品そのものがアメリカ国防に対する重大な脅威だ」という発言に明確に現れています。

それが解った時点で、ハイテク立国の成果を守るという日本の国益にとって、アメリカとの妥協など不可能だと解っていた筈です。「ダンピングなど表向き。本当の目的は日本メーカーの開発力を減速させることだ」という当時の通産省首脳の発言は、関係者の一致した認識でした。

しかし通産省では、こうしたアメリカの軍事思考的技術独占に迎合しようという動きが始まっていました。その現れは86年6月からFSXの共同開発への転換という形で、公然化します。際限の無いアメリカの我儘にもめげずに、損を垂れ流して「共同開発路線」に付き合い続けた理由が、ここにあります。「日本は町人国家の身分をわきまえ、利益を度外視して、ノブレスオブリージの武士国家アメリカに協力せよ」(「ミリテクパワー」朝日新聞社刊)。

そう主張したのが、通産省最強の論客と呼ばれた天谷直弘氏の「町人国家論」です。それは「ロン・ヤス」の中曾根や福田といった自民党親米タカ派の発想であり、その福田元総理は、産軍複合体に代表されるアメリカ保守派と対立するカーター大統領から「過去の波」と呼んで攻撃された人物であり、岸元総理の後継者でもあります。当然その感覚は、かつて福田氏の秘書としてのパイプで、裏で自民首脳部と一体化している棚橋氏の感覚でもあった筈です。

なし崩しの屈伏

しかし、この制裁に至って、我慢を重ねてアメリカの言いなりになってきた日本国内の不満は爆発します。コケにされ続けた産業界では「破棄してアメリカから締め出されても、第三国で自由に売るほうがいい」という意見が出、アメリカでもウォールストリートジャーナルに「半導体協定で日本は1杯喰わされた。協定破棄しかない」と論評された現実がありました。これに対して通産省は「我々の努力が無視された」と怒りのポーズを示し、3月26日には「半導体協定の破棄を検討」と表明します。

ところがすぐにボトルリッジの「解決する見通し」を匂わせる発言と呼応して「制裁撤回へ努力」などという甘い期待を振り撒き、抵抗への意識は霧散してしまいます。9日からの次官級協議でのアメリカ側は解決の意思の無い姿勢を露骨に見せつけ(日刊工業4/15)、決裂に至ると、通産省では協定撤廃に代わって「制裁正式決定とともにガット提訴の決定」を発表します。

ところが、輸入禁止に等しい制裁関税が正式決定され、即日に提訴手続きが発表されたにも拘わらず、結局ガット提訴は寸前で先送り。誰かが強硬に反対したわけです。正式決定の日、児玉機情局長等の担当官に官房長の棚橋氏を含む関係官僚の説明を受けた後の田村大臣は、記者会見で「早いうちに撤回されるだろう」などとお気楽な見通しを並べていました。さらに中曾根総理には内需拡大でアメリカの機嫌を取れば解決できるなどと主張。大臣官房主導で「外交的武装解除」が進められている様子が伺えます。

実はこの制裁の半分以上は「シェアが達成されない」事に対するものでした。もしこれが「押売り」という本質をもって語られていたとしたら、到底日本側からの批判をかわし切る事は出来なかった筈です。しかし、ダンピング問題が強調される事で、「押し売りのための制裁」という本質は巧みに隠蔽され、制裁は既成事実として定着していったのです。

そしてこの状況の中で、押し売り20%消化への努力は続きます。アメリカ製品即売のための、2月には100社以上集めての「外国製半導体購入促進大会」。3月には大手10社を呼び出しての輸入拡大指導。4月にはついに財政再建を放棄します。これが現在に至る財政破局の始まりであり、通産省が予てから外圧を梃子にと狙っていた事実は、田原氏のレポートの通りです。

この六兆円もの財政出動を実現させた中心人物こそ、実は官房長の棚橋氏であった事は、91年に彼が次官に上り詰めた時の日刊工業新聞の人物紹介で明かされています。それだけではなく、東芝ココム事件や構造協議等、外圧時における「アメリカの要求を満たす」ための政策の影には、常に彼の活動があったのです。

仕上げは、150社を集めて「輸入拡大要請会議」を開き、中曾根訪米の手土産にと、民間に強制する具体的な押し売り「自主受け入れ」輸入の品目や金額をまとめる・・・という、企業を犠牲にした大盤振る舞いでした。これをアメリカのマスコミは「制裁したから日本は動いた」と、ぬけぬけと言ってのけ、さらなる強硬策まで要求する始末でした。

結局、交渉で抵抗するようなポーズは示しても、実際は何もしなかったのです。ひたすら言いなりになり続ければ「解ってくれる筈だ」と国内をなだめ騙し続け、国内企業は騙されて血を流し続けました。海外からも「日本を叩いて要求した相手に得をさせるようでは、相手は味をしめて要求をエスカレートさせるだけだ」という指摘がありましたが、通産省は一切耳を貸さなかったのです。

日本側が多大な犠牲を捧げて期待した、4月月末の中曾根訪米で、結局制裁解除が実現しない事が明らかになる頃、次第にアメリカ側の圧力の力点は「シェア拡大」へと移って行きました。それによって衆目に晒される筈の、この押し売り協定そのものの不当性に対する論議を、覆い隠す上で効果を発揮したのが、シェア拡大の実現度を量る基準として、アメリカ側の計測データと日本側の計測データにズレがある・・・という技術上の問題をクローズアップすることでした。そのデータを調整の必要がある、出来ればより有利な日本側の数値を認めさせたい・・・という些末な期待へと、日本の利益を憂える人達の目を外らしている間に「シェア拡大」という目標が既成事実化されていきます。

5月25日に再び田村通産相が主要メーカーを集めて購入拡大を要求。6月のサミット頃に解除・・・という触れ込みで国内を宥めつつ「そのためにシェア拡大を」と押売り受け入れへ誘導します。こうして制裁解除近しの甘い期待が振り撒かれる隙にアメリカ側はSIA理事会を東京で開くと称して、業界大物が大挙して来日し、20%シェアの要求を突きつけます。

マスコミで「たいした波乱はなく、拍子抜けだ」のような鎮静化報道で反発が押さえられたものの、この時の日米業界会議においてアメリカ側は、既に需給タイト化で米企業による受注キャンセルすら出ている中で、91年に継続的な20%シェアを実現するまで制裁を継続すると、横暴な要求を突きつけます。こうした横暴に屈する背後には、盛田・ガルビン・棚橋トリオによる毎度の業界調整があった事は間違いないでしょう。

6月8日にようやく実現した「制裁解除」は、ダンピング分の一部に止まります。さらなる強気で威嚇すべく、SIAのフェーダーマン会長が制裁一部解除に不満を表明し、競争に負けた痛手を「被害」と称してこれと同じ損害を与えろと脅しますが、通産省が散々煽った「協調復活」という甘い夢から覚めた日本側では、落胆から怒りを押さえられなくなると、再びガット提訴のポーズ。一両日中に提訴を行うと表明して期待を集め、そして密室の中での先送り。

その一方で外国製半導体の購入指導の強化は続き、使用する半導体の種目まで踏み込んだ個別指導で、メーカーによっては30%まで引き上げようという強引な行政指導を受けます。半導体国際交流センターを使ったセミナーや展示会が相次いで開かれ、日立ではグループ各社を動員した購入促進へと駆り立てられていくのですが、そうした日本メーカーの努力をあざ笑うような、日米交渉でのアメリカ側の実質的議論拒否状態で、日本国内の不満が高まると、またも10月17日、通産省の半導体制裁ガット提訴のポーズと、「解除近し」の通産相筋情報で宥め、アメリカは小出しの部分解除。怒る日本メーカーには「明日ガット提訴します」の予告とお決まりの密室的先送りで煙幕を張り、日本民間メーカーの怒りははぐらかされ続けるのです。

実はこの頃、政府部内で「半導体報復解除をはっきり要求すべき」という日本側の主張を貫徹する事に反対したのは、他ならぬ通産省であった事実が、エコノミスト87−9/29で報じられています。「解除された事が借りを作ることになる」などという、訳の解らない口実で・・・

その一方で、好況に転じた半導体市場と日本の犠牲による政治的減産から生じた厳しい品不足の中で、アメリカ半導体メーカーが自国市場を優先し、日本が輸入を増やそうにも、売ってくれない。これは単なる技術問題ではない。需要の大きな家電用半導体が、安くて利幅が低いからと、アメリカメーカーが手を出さない。つまり純然たるアメリカの「強欲」の産物なのです。

日本メーカーに対する厳しい規制で増産もままならず、「欲しくても売ってくれない」「相手には強引に購買を要求しながら、どうして自分は真面目に売らないのか」という不満が日本に充満します。ところが「シェアアップをサボるアメリカ企業が悪い」という当然の不満は、巧みに「アメリカ企業のシェアアップ」という目標を自己目的化する方向へと向けられ、そして「そのためには、日本メーカーはどんな協力もすべきだ」と・・・。

こうして、日本側ユーザーが参加した官民合同での話し合いの場が制度化されていきます。しかしそれはアメリカ企業が日本側に技術・販売の協力サービスを要求する場としか機能しません。アメリカ企業が儲けるための「アクションプラン」を要求し、自動車制御分野のような特定分野を名指しし、日本企業が「買うべき製品」をアメリカ企業の都合に基いてリストアップ、「ここに売りたいから、ユーザーが汗を流せ」と・・・。

日本側に対してアメリカ側は制裁解除をはぐらかし、供給努力不足への批判をはぐらかし、アメリカ製半導体の欠陥の疑いで、通信衛星CS−3aの打ち上げ延期する事件がおこり、低い信頼性を何とかしろという当然の要求に対してアメリカは「情報操作」と開き直る始末。翌88年1月には、竹下・レーガンの首脳会談で譲歩を垂れ流し、アメリカから税金で買うために、大学・研究機関では日本製締め出しの上でコンピュータなどの高価な機材を買いまくり、置き場所すら無いというみっともない有り様。半導体では、米国製品買い増し方法を探る日米官民共同研究まで始め、企業に対しては、USTRの役人を滞在させて圧力をかけ、ノウハウを一方的に差し出す提携をどんどん進めさせる・・・。

それでもアメリカは、ひたすら「まだシェアが足りないから解除できない」の一点張り。日本国内に募る不満に通産省は2月、またもガット提訴の予告ポーズと、なし崩しの先送り。それに対してSIAは、3月3日には「追加制裁」すら言い出す始末。三菱電機は、アメリカ製購入を増やすために、自社の半導体生産を一部中止するまでの犠牲を払いました。

そうした中で3月6日頃、ガットではついに日本の半導体圧力受け入れを「違反」と判決。ここまで来たら破棄するのが「国際ルール」です。不公正な不利益協定を是正するチャンス。次いで日立の会長がシェア重視を批判。「日米半導体協定自体も白紙に戻すべき(s4東洋経済88−3/19)」という声が高まります。日本企業にとってはまさに「神風」でしたが、通産省にとっては・・・「協定の見直しを含め、厳しい対応を迫られる」と、まるで協定見直しが日本にとってマイナスでもあるかのようなマスコミ報道・・・。何がここまで日本の知性を貶めたのか。

これに対応するため、日米欧三極会談が決まります。日本が国際ルールを受け入れ・欧州と妥協を図るなら、それで困るのは日本を犠牲に1人で不公正協定の果実を貪っていたアメリカです。それを警戒し、日本を協定に縛り続ける「協議」を要求し、4月11日に日米協議。それで合わせた口裏で、4月15日に四極会議を開きます。日本は「アメリカを満足させる」という前提のもとに苦しい交渉を始め、国内向けには「アメリカには制裁解除を要求しますよ」とポーズを取ります。もちろん、そんな要求にアメリカが応じる筈もなく・・・。

日経新聞5月11日にも、世論の強い要求を受けた社説が出ます。「もともと米国の無理無体な要求を受け入れて半導体協定を締結したために、我が国は解決困難な問題に直面したのである。そのことを反省した上で、日本政府がとるべき態度は何か」。どんな正論も、腹に一物の通産省には「馬の耳に念仏」でした。

制裁解除を求めた6月1日の日米業界会談は、20%を「約束」として既成事実化する目論見を丸出しにした「宣言文への明記」に日本側で抵抗し、あっけなく決裂します。ところがその一方で、押し売りアクセスのための「アクションプログラム」だけはしっかり合意。日本の自動車工業会では、押し売り受け入れのための作業部会まで作ります。モトローラと組んだ東芝は最新技術を出血提供し、「だれが見ても東芝側の持ち出し」(「シリコンメジャー」日経産業新聞社)。

12月にTIと16MDRAMの共同開発契約も「共同」とは名ばかりの「日立さんのメリットは何なのかな。完全に日立製作所のTIに対する技術供与でしょう」と周囲をいぶかしがらせるほどの出血サービス。TIと組んだ日電も「何を得るつもりなのか」と疑問の声に包まれます。こうした動きは、この年1月に来日したスミスUSTR次長(後にモトローラに転職)に田村通産相が差し出したプランに基づいて通産省が業界指導で強制したもので、その恩恵に与ったアメリカ企業は有利過ぎる提携に大満足、「理想的な国際協調」とホクホク。

逆に日本企業では、「まともな半導体を作れる」ための努力を惜しんで口先だけ「アメリカ製は高品質」と言い張るアメリカ企業から輸入を増やすためには、日本側の犠牲で向こうの技術レベルを押し上げるため、虎の子の企業秘密でも何でも只で差し出すしかない。

「多少の出血はあっても」摩擦さえ回避されればと、そしてそれが利益なんだと強調するマスコミ。「ライバルと共生していく知恵」と持ち上げて、アメリカの外圧利権は正当化されていきます。こういう「ぶったくり被害」的な提携を、福川元通産次官は「協定をきっかけに日米間の提携が進んだのだから、悪いことだけでない」などと、ぬけぬけと能天気な自画自賛をほざいているのですから、官僚の愚かさには底がありません。

どんな目に遭っても譲歩を止めない日本に、アメリカの増長は募り、そうした中で生まれたのが「スーパー301条」でした。日本を念頭に作られたこの押し売り法に、通産省は「ガット提訴権の留保」を表明しますが、対米ガット提訴のポーズなど、今までの度重なる先送りでもう誰も信用する者はいません。その6月、棚橋氏は機情局長として再び半導体摩擦の直接担当者となります。

協定そのもののガット違反問題や品不足問題に対して、9月にようやく半導体協定の価格監視に関する見直しに目処がつきます。しかし、肝心の20%条項は日本企業の積もりきった怨嗟にも関わらず、見直しのみの字も出ません。10月の日米欧のラウンドテーブルでも、それまで多様なハイテクを独占してきたアメリカの立場を忘れて「半導体メーカーが日本に集中するべからず」と、結果平等主義を振りかざすのは「衛星・航空機メーカーがアメリカに集中する」現実を変えるべく技術努力することを否定したアメリカの行動とは全く逆の論理でした。

日本のみ犠牲を払う「国際協調」が不公正な要求に対して、日本側担当者は反論どころか「今までの貢献」を語る始末。その一方で、セマテックなどで再びハイテク独占へ向けて着々と布石を打っているアメリカは、自分達の研究に日本に対する閉鎖的な防壁作りに血道を上げます。IBMは90年頃、ヨーロッパ企業との半導体共同開発を行います、その協定に「日本企業に技術情報を渡さないこと」。

アメリカで行われた研究大会からは日本人が締め出され、ネットでは多くの研究機関で日本からのアクセスを拒否する。これが「技術の公開」だの「世界への貢献」だのと御大層な羊頭看板を掲げた連中の正体であり、それをありがたく押し頂いて詐欺集団に協力した多くの日本人従米派の愚かさの証明です。

ユーザーと日本企業を犠牲にしたカルテルによる半導体価格の上昇で、アメリカ半導体企業は空前の大儲けをせしめました。ユーザー側は自社生産能力のある日本企業自身が、この協定のために日本市場向けの電算機を作る半導体にすら事欠く有り様。相次いで生産計画の見直しを迫られます。こうした甚大な被害により、日経8/2日社説のように、まともな論文の中では協定廃止を求める多くの声が出ます。しかし、アメリカ様御機嫌大事のマスコミの大勢では「アメリカは軟化した」と協定を持ち上げ、「半導体協定は空文化した(だから正式な撤廃は無用)」などと、国民誰もが求める半導体協定の見直し要求は、妥協的雰囲気の盛り上げによって、はぐらかされ続けました。

そのおためごかしと対照に、交渉現場ではアメリカはなおも「制裁解除」は拒否し続け、あくまで20%達成に固執します。9月のSIA年次報告では、20%シェアを日本に対する利権として主張し、追加制裁すら要求する始末。AMDのサンダース会長などは押売協定存続を擁護する発言の中で、その露骨なカルテルを「守らない」事を犯罪者呼ばわりし、「犯罪が無くなっても刑法は必要」などと放言を吐いて、大顰蹙を買います。

その言い訳が「会長の性格を理解して欲しい」・・・。TI会長は半導体の品不足が半導体協定によるものであるという、誰でも知っている事実を強引に否定してまで「協定存続は必要」などと強弁するなど、協定存続を強要するアメリカ企業の態度は、まさに猖獗を極めたものでした。これがマスコミ粉飾者をして「軟化したアメリカ」と呼ばれたものの実体です。

深刻な品不足によるアメリカユーザーからの矢の催促で、ようやく半導体、特に不足していたメモリーの増産が可能になったことで、日本企業にも価格上昇による利益が出るようになりました。メガビットクラスの高密度メモリーでは、技術の格差により日本企業に依存せざるを得ないためです。それによる利益から「半導体協定は日本企業にもプラスだった」と主張する人もいますが、それは現実にはそれまでの技術的蓄積を食い潰すものでしかなく、あたかも「日本でもこの協定の維持が日本の産業界自身の意思」であったかの如く主張するのは大きな間違いです。こんな日本企業だけを縛った協定など破棄しても、日本企業に何の不都合があるというのでしょうか。

国内企業による投資コントロールによる価格維持が必要だというなら、それは国内だけで可能な筈で、現にそれ以降のそうした「守りの教訓(伊丹敬之氏『なぜ三つの逆転は起こったか』)」に基づいた行動は、伊丹氏の著作を読む限り日本企業どうしの牽制の中で行われているのです。

むしろ半導体協定によって企業としての戦略的行動を縛られ、メモリーで韓国・台湾メーカーによる激しい追い上げを受ける一方で、より安定的で利益の上がるASICやMPUへの注力を強く意図したにも関わらず、アメリカによる激しい警戒発言の圧力と、数少ない「アメリカが売れる」半導体に20%購入努力が集中せざるを得ないために、意図的にアメリカ企業に明け渡された(伊丹氏の言う「部分供与」)という事情から、それらに対する投資にブレーキがかかっていきます。

そして日本が得意な高密度技術が大きな意味を持つメモリー・・・、本来なら「元々の圧力の対象」であった筈の品目であるにも関わらず、日本半導体メーカーは大幅にメモリー依存度を高めざるを得なくなり、この不安定な品目への依存はやがて「メモリの罠」に捕らわれて、没落を早める要因になっていきます。実際にこのDRAMでも、アメリカ企業は日本から盗んだノウハウで256K→1Mと体制を整えていました。早くも翌89年8月頃には1Mで価格競争を仕掛けるようになっていたのです。それをやったのは、摩擦演出の中枢モトローラでした。

11月、ブッシュ大統領候補の当選が決まると、通産省は「現政権下で解決する」と見得を切ります。その幻想とは裏腹に、SIAが強める強硬姿勢にたまりかねた日本電子工業会が9月のSIA年次報告に反論しますが、政治の裏切りを抱える日本にとって、まさに「ごまめの歯ぎしり」でした。そして89年、スーパー301条の季節がやって来ます。

この時期、日本ではリクルート事件で竹下内閣が潰れる騒ぎが起こっていました。浜田和幸氏はこの事件を「アメリカから仕掛けられたふし」がある、アメリカの諜報機関が日本の闇組織を使って影で演出したのだとして、その人物へインタビューまでやっています。「日本の金融・情報産業を押さえるため」だというのですが、元々、竹下派は棚橋氏と近く、85年のプラザ合意で日本を円高地獄に突き落とした張本人でもあります。

首相として「市場開放プラン」とやらを推進し、アメリカにとっては極めて好都合な人物だった筈なのですが、その竹下政権が倒れた後にも宇野総理のゴタゴタが続き、自民党は大きなゆさぶりを受けた事で、自民党全体に外圧を受け付けやすい雰囲気が醸成されていったのは事実なのです。

89年初めごろの総選挙で海部内閣が成立。この時の選挙の間、「選挙への影響を考慮する」とか言われて、摩擦問題が沈静化しました。それをネタに「恩を売ったのだから、選挙が終わったら大きな譲歩を」という協定が出来ていたのです。

このページのTOP

 

無題ドキュメント