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コラム

■ 日本の地域通貨は、なぜ流通しない−歴史に学ぶ教訓−

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日本で最初の公的な鋳造貨幣「和同開珎」がつくられたのは和銅元年(708年)でした。和同開珎は当初、銀銭と銅銭のニ種類が発行されましたが、まもなく銀銭が廃止され、銅銭に一本化されます。和同銅銭には1個1文の価値がつけられ、江戸時代末までの約1200年間にわたり日本の貨幣制度のなかで重要な役割を果たしました。当時の律令政府は、中央集権体制の強化を狙いとして、先進国の唐から各種の文物や社会制度を積極的に導入していました。そうした流れのなかで、唐の開元通宝を手本として和同開珎が鋳造されたのです。

正倉院文書は、和同開珎が首都である京都を中心に、その近隣諸国では財物の交換手段として広く利用されていたことを伝えています。しかし、その他の地域では、米、絹などの物による取引が引き続き支配的で、貨幣は必ずしも円滑に流通していなかったようです。このため、律令政府は、田畑の売買などに銭貨の使用を強制したり、多額の銭貨を蓄積した者には位階を授与(蓄銭叙位)したりなど、流通を促進する策をおこないました。

和同開珎はまた、京都に調庸(租税である貢物と労役)を運んできた農民らが労賃などとして持ち帰ったことで地方にも広く伝わりましたが、そうした場合でも、各地方の富裕な豪族や高級官僚により「富貴の象徴」あるいは「富の蓄蔵手段」として利用されるに止まりました。結局、和同開珎の流通性は、それほど高くはなく、交換手段として広く利用されるまでには至らなかったようです。

和同開珎の鋳造以降、律令政府では平安時代中期までの約280年の間に合計12種類の銅貨と2種類の銀貨そして1種類の金貨を発行しました。これらは朝廷が発行した銭貨という意味で「皇朝銭」と呼ばれています。そして、このうち銅銭12種類をとくに「皇朝十二銭」といい、それらはいずれも銅の素材価値ではなく、律令政府が定めた1文という額面価値で流通する計数貨幣(一定の純分と分量とを有し、一定の形状に鋳造した表面に一定の価格が表示された貨幣)として発行されました。

天平宝字4年(760年)、奈良律令政府は、和同開珎に代わる新銭貨として万年通宝を発行します。平城京造営や大仏殿建立など多額の支出で大きく悪化した財政事情を、貨幣鋳造差益(流通価値と素材価値との差額)で補おうとしたのです。このとき、律令政府は万年通宝1枚の価値は和同開珎10枚のそれに等しいと定め、律令政府は新銭1に対し旧銭10という交換比率の適用を強制しました。

しかし、原料である銅の不足もあって、改鋳のたびに皇朝十二銭の素材価値は低下していきました。最後の乾元大宝は鉛銭といっていいほど鉛の含有量が多かったといいます。このため、政府による交換比率の適用強制に対して庶民からの抵抗が強く、実際の商取引においては朝廷の意図にもかかわらず、新・旧銭とも等価として利用されました。また、素材価値の低下は、計数貨幣としての銅銭に対する人々の信頼を失わせ、銅銭の価値を下落させることになります。たとえば、銅銭1文で買える米の量は8世紀はじめには2sでしたが、9世紀中頃にはわずか10〜20gにまで減少しました。

平安時代中期になると、荘園制の発達とともに律令政府の権威も衰え、人々に公的な鋳造貨幣の使用を強制する政治的な力も減退しました。こうした事情が重なり鋳貨に対する信用が著しく失われ、銭貨が交換手段として利用されることがなくなってゆきました。そしてついに永延元年(987年)11月には銭貨の利用停止が宣言され、皇朝十二銭は流通界から姿を消すことになります。そして、一時高まった調庸の銭納も、しだいに物納に逆戻りし、田地の売買代金も再び米や絹で支払われるようになりました。

こうした通貨導入の初期段階におけるプロセスは、地域通貨の初期段階において実践を始めた私たちに大切な教訓を与えてくれていると思います。

まず第1に、新しい制度を導入し、それを普及・浸透させるには時間がかかるという点です。人間は主に習慣や経験則によって生活しているので、マス・メティアや国家による教育等の強力なバックアップでもない限り、新しい制度が受け入れられるのには、非常にゆっくりとした長い時間がかかります。

第2に、お金をつくれば、それが直ちにお金として流通するわけではないという点です。取引する物やサービスがたくさんあり、それを交換する必要性が高まって始めてお金は流通するのです。それがないところで無理に地域通貨を始めても流通はしないでしょう。地域内での物やサービスの取引が自律的に高まってこそ、はじめて地域通貨が必要とされるのです。

第3に、お金は"信用"の上に成り立つものであるという点です。お金の本質は情報であり「それを持ってくれば○○と交換します」という取り決めです。つまり、信用という土壌がない中ではお金はお金として通用してくれません。

第4は、お金の価値に関する問題です。実質的な価値のない名目貨幣(貨幣の素材価値とは無関係に表示してある額面価値で通用する貨幣)は、常に信用不安と価値下落の心配がついてまわります。信用を維持し、価値を安定させるためには、実質的な財・サービスを担保にし、貨幣価値を物価と連動させることが最も容易な方法といえるでしょう。

【2005.9.24】

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