グローバリゼーションはユートピアを実現するか?
<2005.08.21>
グローバリゼーションとは、ものごとの規模が国家の枠組みを越え、地球全体に拡大することを意味し「地球規模化」と言い換えられます。
この言葉は、社会的、文化的、商業的、そして経済的活動にあてはまりますが、狭義には、20世紀後半、社会主義計画経済に勝利を収めた資本主義自由経済、特にその中核であった米国が、世界経済の一極化、単一化を計って推し進めている政策を指しています。
自由貿易、自由市場、国際投資などによって全世界の人々の生活水準が向上するとされる市場原理主義【※1】、新自由主義的【※2】な経済のグローバリゼーションが推し進められているのです。
この経済のグローバリゼーションの特徴のひとつは、国家の国内総生産(GDP)をゆうに超える多国籍企業の存在です。世界全体を市場と考え、供給者と購買者を世界中で物色し、高収益を目指し邁進しています。利益の追求を至上命令とする企業集団が、基本的人権や福祉を保障する国家を下位組織とさせながら世界中を席巻しています。
もうひとつは、財やサービスの取引とは無関係な巨額な投機的資金の存在です。
世界に流通しているドルは、日本円に換算すると約4京円。全世界の国々のGDPを合計しても約4000兆円しかありません。実際に貿易に必要なドルは1000兆円以下です。この膨大に膨れ上がった世界規模のマネー(ドル)が利益を求めて世界中を駆けめぐり、あらゆる格差をついて利益チャンスを求め、一国の経済を左右するまでになっています。
この経済のグローバリゼーションを推進している機関は、
国際通貨基金(IMF)、
世界銀行、
世界貿易機関(WTO)、
経済協力開発機構(OECD)、
主要8カ国首脳会議(G8)、
そして多国籍企業と国際金融資本です。
これらの機関が実施する政策の理論的背景には新古典派の経済学者【※3】たちがいます。
しかし、彼らが提唱する
「貿易の自由化をはじめとする規制緩和や民営化こそ経済成長と貧困からの脱出をもたらす」
という理論とは裏腹に、現実は、途上国の債務は増えつづけ、経済格差も拡大しつづけ、歴史上かつてない不平等な時代となっています。
一方、市場原理主義の広まりは、その反動として暴力的な排外主義や原理主義などの潮流を生み出していますが、その背景には、深刻な貧困と飢餓、内戦そして次代を担う青年の絶望等々の社会的土壌があります。
さらに、今や先進国にも貧富の差は現れ、いっそう富裕になる一握りの人たちがいる一方で、失業、ホームレス、貧困などが増え、不安や不平等が拡大していっています。また女性や外国人労働者への低賃金・不安定労働が恒常化され、それが男性や正社員にも波及している状況です。
日本でも、いわゆる「構造改革」としてグローバリゼーションが推し進められ、市場原理・競争原理が導入されようとしています。その結果、多くの企業が倒産し、産業は空洞化、失業者が空前の規模で増大しています。また、公共サービスの民営化、公的支出の削減は社会保障を低下させ、地方や農業が切り捨てられようとしています。
また、グローバル経済が生態系にかける負担はますます増大し、森林の減少、砂漠の拡大、土壌の消失、漁獲量の減少、気温の上昇、氷河の融解、海面の上昇、サンゴ礁の死滅、地下水位の低下、生物多様性の喪失などもとめどなく進行しています。
このような流れは、一般市民である私たちの生活を決して楽にはしないでしょう。もし私たちが本当に民主的で自由な、そして持続可能な世界を望むのならば、自分たちでそれを創造する必要があります。「もうひとつの世界」は可能なのです。
この第二章では、世界的な潮流であるグローバリゼーションが何をもたらしてきたか、誰が何の目的でやっているのか、そして、それは私たちをどこへ運ぼうとしているのかをみていきたいと思います。それを知ることが、この流れから抜け出すヒントになるはずです。
政府の介入を最小限にし、「神の見えざる手」である「市場の自己調整システム」に任せれば、自ずと公益が達成されるとする考え方を至上のものとする姿勢、価値観。
ただし、市場原理に任せれば上手くいくというのは、理論的にも実際にも論証されたことではない。
競争的市場こそが、自由、道徳、繁栄を生み出し、もっとも民主主義的だと考えている。ところが国家政策的には、規制緩和⇒民営化、課税緩和(大企業、富裕層優先)、公共費用(福祉・教育費)の削減を軸とするので、実際上、新自由主義は、公権力からの分離独立というよりも、公権力の市場奉仕と責任放棄との共存関係にあると言える。