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サバタイ派フランキストの歴史年表

十七世紀、不可思議なるユダヤ人のメシア、サバタイ・ツヴィが確約したのは、イスラエルの失われた十支族を一体化させ、イスラエルを復元するということであった。サバタイ・ツヴィがオスマン・トルコ帝国に赴いたときに考えたのは、彼の偉大さ、謙譲を知るため、皇帝は彼に謙虚に接するであろうということだった。皇帝は自身よりも明らかに偉大なる人物に見(まみ)えた。サバタイ・ツヴィは帝国での地位を与えられ、世界を支配しようとした。彼は当初、公然とこの目的を達成するつもりであったものの、皇帝は自身の支配権を手放すくらいならば彼を殺すと脅迫したので、サバタイ・ツヴィは彼のメシアとしての活動を地下で行わなければならないと判断した。彼の目的は、秘匿と擬装によって達成しなければならず、その行動は「背教的メシア信仰」とされた。このことによって、彼はほとんどのラビとユダヤ教主流の支持を失ったが、誠実な支持者たちは任務の継続を託された。

サバタイ・ツヴィの死から四十一年、彼の密かなる支持者たちは英国でフリーメーソンを設立した。フリーメーソンは世界支配を成し遂げるという彼の宿願を継続した。イルミニズムと結びついていたフリーメーソンは、事実として、革命と戦争を通じて、世界の君主制を転覆させた。フリーメーソン(イルミニズム)はユダヤ教、カソリック(バチカン)、イスラム世界を支配した。EUを設立することにより、残存していた失われた支族を結びつけた。そしてイスラエルを「復元」した。サバタイ派から脱し、異教徒のラビに属するヨーロッパのユダヤ人の多くは、第二次世界大戦のフリーメーソンのホロコーストによって殺戮された。フリーメーソンたるイスラエルは、フリーメーソンたる国連によって独立が承認された。

1492年スペインにおけるユダヤ人追放。
知られている限りにおいて最初のイルミナティ組織である、アルンブラドス派(光明派)が、(訳者注――スペインにおいて)マラーノと呼ばれた隠れユダヤ人によって設立された。
1494年ユダヤ人追放後のイングランド=チューダー王朝におけるユダヤ人残存の最初の証拠。
1527年イグナチオ・デ・ロヨラはサラマンカで修学している時期に、アルンブラドス派に対する賛同の嫌疑で教会の委員会へと連行されたが、警告だけで処罰は免れた。
1588年改宗ユダヤ人である、へクター・ヌーンズ博士は、スペインの無敵艦隊の出航を警告した最初の人物として賞賛された。(訳者注――無敵とされていたスペインの艦隊が英国軍に大敗した、アルマダの海戦のことである。英国の海賊がスペインの輸送船を襲撃していたことに対して、スペインは英国に抗議したが、その海賊行為にはエリザベス女王が加担していたとされる)
1589年クリストファー・マーロウの反ユダヤ的戯曲「マルタ島のユダヤ人」初演。
1594年エリザベス一世女王の医者で、改宗ユダヤ人であったロデリゴ・ロペス博士は、女王暗殺の策略に関わっていると目された。彼は拷問を受け、裁判にかけられて、冤罪とおぼしき国家反逆罪によって絞首刑にされた。このことで英国系(アングロ)ユダヤ人は低地へ逃がれ、しばしばスペインやポルトガルのカトリック教徒であると身を偽った。
1597年シェークスピアの有名な戯曲「ヴェニスの商人」初演。
1604年マナセ・ベン・イズラエル誕生。
1609年ポルトガル商人はユダヤ人であるとの嫌疑により、ロンドンから追放される。
1620年英国の清教徒、アメリカに渡る。
1626年トルコのスマーナ(現イズミル)で、サバタイ・ツヴィ誕生。彼は、英国の商人と緊密な関係を持っていた父、モルデカイ・ツヴィの子として生まれた。
1639年サバタイ・ツヴィは一三歳になり、バル・ミツヴァー(訳者注――ユダヤ教の法を守る成人男性、および、成人男性となるための成人式のことを指す)を受ける。
1640年:マナセ・ベン・イズラエルは、銀行家のペレイラによって、タルムード学院(イェシーヴァ)の学長に任命され、著作活動に集中した。マナセが深く関心を抱いたのは、メシアの問題についてであった。彼はカバラ主義的な見解にすっかり傾倒していた。マナセはスウェーデン女王であるクリスティーナに、表面上はヘブライ語の勉強であると称して文を交わした。実際の目的は、スウェーデン国内へのユダヤ人移入に関して女王の支持を得る算段であった。だが彼の主たる注目は、英国国内へのユダヤ人再入を確保することに向けられた。

アントニオ・デ・モンテツィノ(旧姓アーロン・レヴィ。ポルトガルで異端宗教裁判を避けた後にユダヤの家系を取り戻した、一七世紀の改宗ユダヤ人)は、アマゾン・インディアンの間で生きていると噂されていた「神聖なる人々」を捜して、ペルーへと赴いた。エクアドルの国境近くの奥深いジャングルの川で、モンテツィノは白い肌のインディアンの一団によって歓迎された。モンテツィノが海を渡ってきた古代イスラエル人であることを知ると、白い原住民たちは、「シェマ・イスラエル」を暗唱して、彼らが(訳者注――失われた支族の一つである)ルベン族の子孫であると語った。アムステルダムへと戻ったモンテツィノは、自身の発見を有名な改宗ユダヤ人のラビであったマナセ・ベン・イズラエルと共有し、マナセは自身の発行する新聞紙上で、聖書の予言は成就したと発信した。彼が予測したのは、ソロモンの神殿を再建し、メシアの時代の到来を告げるため、散逸しているイスラエルの支族はまもなくエルサレムで再結合するということだった。
1647年オリヴァー・クロムウェルは英国のチャールズ一世王を処刑するため、マナセ・ベン・イズラエルの代理人(エージェント)と謀議した。その年の六月六日(訳者注――六月十六日の説もある)、オリヴァー・クロムウェルからエベゼネル・プラット宛ての手紙にはこう書かれている。

「経済支援の見返りに、ユダヤ人の英国への入国を提唱しよう。しかしながら、チャールズが生きている限り、その実行は不可能だ。チャールズの処刑は裁判にかけない限りできないし、今のところ裁判にかける十分な根拠も存在しない。したがって、暗殺されうるとチャールズに忠告しよう。もっとも、暗殺者の手配に関わるつもりは全くない。チャールズの逃亡を手助けするだけだ。」

エベネゼル・プラットからの返事は、同年七月一二日にあった。

「チャールズが除去され、ユダヤ人の入国が認められ次第、経済支援を行う。暗殺は危険すぎる。チャールズに逃亡の機会を与えるだけでよいだろう。その後に捕まえてしまえば、裁判にかけることも、処刑することも可能だ。協力は惜しまないが、裁判が始まらないうちから、金額についての議論をしても意味はない。」

アムステルダムの後援者たちとクロムウェルとの契約はチャールズが処刑されるということであったので、(訳者注――プライドの追放後に構成された、クロムウェルの勢力で構成されていた高等法院による)裁判はクロムウェルによって命じられた。チャールズに対する告発は、アムステルダムからクロムウェル革命を首謀していた一人、マナセ・ベン・イズラエルの代理人である、アイザック・ドリスラウスによって書かれた。
1642年サバタイ・ツヴィは、「セフィロトの梯子を登る」という、カバラ主義を熟慮する訓戒を開始した。
1707年ラビ・モーゼス・ヒャイム・ルツァット誕生。ルツァットは、サバタイ・ツヴィの預言者である、ガザのナータンの著書に影響を受けたことを認めた。彼が主張したのは、サバタイ・ツヴィの教えの積極的な要素が、異端的な要素から切り離されうるということだったが、サバタイ派がユダヤ人コミュニティを席巻するほどの強い勢力を有していたときから、ほとんどのラビはこの意見に同意しなかった。ルツァットの活動と主張の真実性と正当性の是非が、大きな物議を醸した。ルツァットの家宅を捜索した結果、彼が魔術的儀式に参加していたとする証拠は発見されたので、カバラ思想を教えることをやめざるを得なくなった。
1648年ボフダン・フメリニツキーは何千ものユダヤ人を虐殺した。

サバタイ・ツヴィの救世主的使命は、サバタイ派の伝統にのっとり、彼の救世主的展望によって始められた。
1649年 サバタイ・ツヴィは二九歳だった。チャールズ一世は処刑された。クロムウェルは、英国の権力を掌握した。彼は、非ユダヤ人に関するユダヤ人の大使としての役割を果たしていたアムステルダムのラビ、マナセ・ベン・イズラエルの影響を受けていた。
1650年 ユダ・ハカッシドはポーランドで生を受けた。彼はサバタイ・ツヴィの強い影響を受け、実際のところ、サバタイ・ツヴィのことをメシアであると信じ込んでいた。彼はサバタイ・ツヴィの1706年の再来を予想した。
17世紀中頃新しい改宗ユダヤ人の植民地(コロニー)はロンドンで増大した。その植民地を構成したのは、ルーアンとカナリア諸島からの一部の難民であった。
1651年〜1654年サバタイ・ツヴィは徹底的に打ちのめされ、イズミルから追い払われた。しかしそれは、秘密裏に殺される代わりに、イズミルから立ち去るべきだという助言による行動だった。
1655年九月、マナセ・ベン・イズラエルはロンドンに赴いた。そうして十月三一日に、ユダヤ人の英国再入を要求している議会に、全七項目の嘆願書を提出した。クロムウェルは一二月四から十八日のホワイトホール(訳者注――英国政府)会議を招集した。そこでユダヤ人再入の議論を行った。多くの商人はクロムウェルの考えに疑問を抱いたが、クロムウェルはそれに怒り、議会を無視した。かくして英国にユダヤ人の非公式の再入を認可することは決定された。
1656年議会におけるクロムウェルの口約束と承認が許したのは、イングランドの改宗ユダヤ人が公然と彼らの信仰を行うことだった。
1657年ユダヤ人はオランダ、スペイン、ポルトガルから英国に移住して、シナゴーグを開いた。このようにして、英国に新設されることになったユダヤ人の会衆は、ほとんど排他的にセファルディム・ユダヤから構成されていった。英国において初めて高貴な爵位を与えられたユダヤ人は、セファルディム・ユダヤのソロモン・デ・メディナ(1650~1730)と、一八三七年にナイトに叙せられ、一八四六年に准男爵となったモーゼス・モンテフィオーレ卿(1784~1885)であった。

マナセ・ベン・イズラエル死亡。サバタイ・ツヴィは三一歳だった。

サバタイ派の伝統によると、サバタイ・ツヴィはイスラエルの罪を償う。世界を修復するために、新しい法律と新しい戒律を授かったという。
1659年サバタイ・ツヴィはイスタンブールを出発し、スマーナ(イズミル)に戻った。
1662年サバタイ・ツヴィはイズミルからエルサレムへと向かった。
1664年セファルディムの小さな会衆は、スチュアート家の王政復古の後、チャールズ二世王によって公式的に認可された。マナセ・ベン・イズラエルの、メシア降臨のために基礎を置くカバラ主義活動の成就であった。

チャールズ二世は保護を形式的書面にした約定書を発表した。一六七四年と八五年の王の宣言は、その約定を重ねて確証するかのように出された。一六九八年に施行された、神への冒涜行為を抑制するための法は、英国で活動しているユダヤ教の合法性を正当に認めるものとなった。

一六六五年:五月三一日(ユダヤ暦では九月一七日)、サバタイ・ツヴィは三九歳で、ガザのメシアであると自称した。そうして彼はこう宣言した――私はサンバティオン川を進むのだ。失われた支族を呼び戻すために(訳者注――サンバティオン川とは、ラビ文学によると、失われたイスラエル十支族がアッシリア王シャルマネセル五世によって追放された川である)。

サバタイ・ツヴィと預言者ナータンはキリストとの共鳴を感じた。サバタイ派の考えによると、メシアの魂は、イエスを含めてアダムから恐らく十八回生まれ変わったという。伝えられるところによると、サバタイ・ツヴィはかつて声高に言った――何がイエスにこのようなひどい仕打ちを与えたのだ? 私はイエスが預言者の一人として数えられるよう取り計らうつもりだ(やがてサバタイ派は、バチカンの支配権を手中に収めた)。同年一二月三十日、サバタイ・ツヴィは、彼の支持者とともに、スマーナからイスタンブールへと発った。

サバタイ・ツヴィはトルコ帝国に逮捕された。拘禁され、毒矢で脅され、自身の神性を立証するように強要された。サバタイ・ツヴィには、イスラム教に改宗するか、あるいは死ぬかの選択が与えられた。彼はイスラム教に改宗し、生き永らえることを選んだ。彼はユダヤ人であることをやめずにイスラム教徒となった。サバタイ・ツヴィはユダヤ人ともイスラム教徒とも分類できなかった。サバタイがトルコ帝国に譲歩したことが、ユダヤ人世界に衝撃を与えた。そうしてサバタイ・ツヴィは着手した――普遍主義に基づいた、また病痾を根絶し、文明の進歩を促成することに専心する彼の忠実なエリートによって人類が支配される世界の構築を。サバタイ・ツヴィは、一六七三年まで、トルコ帝国(スルタン)の宮殿で役職を与えられていた。
1673年サバタイ・ツヴィはアルバニアに追放された。
1674年第三次英蘭戦争の後のウエストミンスター条約により、ニューヨークとニュージャージーは英国に還された。
1676年サバタイ・ツヴィは死亡し、ドンメー派が組織された。
1690年英国に移住したドイツ系ユダヤ人は、シナゴーグを開いた。この最初のアシュケナジー・ユダヤのコミュニティはロンドンに設けられた。そうしてまもなく、アシュケナジーは英国中に集会所を設立した。一六九〇年までに、およそ四百人のユダヤ人がイングランドで暮らしていた。
1697年ユダ・ハシドはメシアの天啓を待ち受けるため、三一の学者の家族とともにエルサレムへと出発した。
1700年ユダ・ハシドはエルサレムに到着したが、殺害された。
ウィルアム三世は、ソロモン・デ・メディナを(セファルディム)ユダヤ人としては初めて、ナイトに叙した。
1701年6月23日、ベーヴィス・マークス(ロンドン)にて、セファルディム・ユダヤのシナゴーグが開かれる。
1705年ヘブライ語の活字印刷がロンドンで開始される。
1706年ユダ・ハカッシドは信じていた。亡きサバタイ・ツヴィは、事実としてメシアであり、彼の再来はこの年にあると。
1716年バルーカ・ルッソが主張したのは、自分はサバタイ・ツヴィの生まれ変わりであるメシアにして、神の化身であるということだった。

初のグランド・ロッジが創設される前年、知られている限りでは最初のユダヤ人メーソンとなったのは、英国系セファルディムで、ジャコバイト(訳者注――亡命したジェームズ二世の支持者の意)ユダヤ人としても知られていた、フランシス・フランシアだった。彼は国家反逆罪の罪で裁判にかけられたが、後に釈放された。一八七七年の新聞でこの事件が詳述され、フランシアはメーソンと呼ばれた。

1717年フリーメーソンは、タルムードで叙述されていた「ノアの七法」にのっとり英国で、ソロモンの神殿を再建して設立された。
1726年ヤコブ・フランク、(現ウクライナ)ポーランドのガリシアで誕生。
1730年世界的同胞関係を促進していたメーソンのロッジは、ヨーロッパ大陸で出現しはじめた。非ユダヤ人の社会基準に適応できる行動様式を習得したり、彼らの社会に十分な参画ができるよう、何らかの西洋の教育を受けた、新しいタイプのユダヤ人が当時現れていた。こうした新しいユダヤ人が最初に現れたのは、イングランド、オランダ、そしてフランスのセファルディム・ユダヤの間であり、その後に、すべての西欧諸国のアシュケナジーが続いた。一七八〇年代ののち、フリーメーソンに入会したユダヤ人の数から分かるように、彼らはヨーロッパの社会生活様式の不変の特徴となった。
1732年一方で、エドワード・ローズは、ダニエル・デルバイエによってロッジの主宰者として任じられた(デルバイエは一七三二年九月二二日のデイリーポストの報道で、「ユダヤ人の凄腕嗅ぎタバコ売り」と称された。疑いなく、彼は数年ローズよりも先行していて、ロッジマスターの高い地位に着いていた)。さらには、マシアス・レヴィが一八九八年にユダヤ人の新聞で「フリーメーソンとしてのユダヤ人」という表題が付けられた記事において主張したことには、新規入会者の儀式が、ユダヤ人と非ユダヤ人両方の前で執り行われたということだった。出席していた他のユダヤ人は、彼ら自身メーソンであったに違いない。
1734年六千人のユダヤ人が英国に住んでいた。ユダヤ人の上流階級は依然として、ブローカーと外国のトレーダーから構成されていたが、ユダヤ人は徐々にあらゆる社会階層に進入していった。その最初のユダヤ人はセファルディムだった。
1744年2月23日、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、ドイツのフランクフルト・アム・マインにて誕生した。彼は、歴史上もっとも成功したビジネス・ファミリーの一つである、ロスチャイルド金融帝国の始祖である。彼は姓をバウアーからロート・シルト(英語で読むとロスチャイルド)に改めた。彼の父であるモーゼス・バウアーが従事していた家業である、銀行と売春宿のロゴとして、赤い楯が使用されていたからである。アムシェル・ロスチャイルドの有名な言葉がある――国家の通貨支配権を手に入れてしまえば、その後で誰が法律を作ろうと知ったことではない。
1751年ヤコブ・フランクは、自身をメシアであると宣言した。
1752年ヤコブ・フランクは結婚した。
1753年ユダヤ人の帰化法案は、外国で生まれたユダヤ人に対して、現地で生まれたユダヤ人並みの特権を与えるためのものだったが、反ユダヤの扇動によって取り消された。
1755年ヤコブ・フランクはポーランドで、特定の選ばれた人々が道徳律から免れるという思潮を持った派閥を作り出した。この勢力は、ユダヤ神秘主義思潮であるカバラにおいてもっとも重要な活動であるゾハールに基づいた、「より崇高なるトーラー(法)」のためにユダヤ教を捨てた。それゆえ彼らは自身をゾハリスト(ゾハール主義者)と称した。彼らの儀式は、酒池肉林、性的狂宴(オルギア)を含んだ淫乱で出鱈目なものだった。オーストリアの皇帝であったヨーゼフ二世は、ヤコブ・フランクの娘であるエヴァと儀式の間じゅう性交した。(ラビ・M・S・アンテルマン『阿片を根絶するために』一巻、一〇四頁)

一七五六年:ユダヤ人コミュニティは、異教徒であるとして、ヤコブ・フランクと彼の支持者を禁止した。

1759年ヤコブ・フランクがキリスト教に改宗。
1760年カソリックへの偽装改宗と、悪質な異教を流布することの嫌疑によって、ヤコブ・フランクはワルシャワで逮捕された。彼は異教徒の司祭であるとして有罪判決を下され、チェンストホヴァに投獄されたので、彼の支持者と交信を取ることが出来なかった。

バール・シェム・トフは死亡した。(訳者注――本名、イスロエル・ベン・エリエツェル。ラビ)
1769年8月15日、ナポレオン誕生。
1770年ヤコブ・フランクは自身のサバタイ派勢力を、ユダヤ人イエズス会士であったアダム・ヴァイスハウプトが設立したイルミナティに参入できるよう要請するために協定を結んだ(注記…イルミナティはアダム・ヴァイスハウプトが創めた組織ではない。正しくは、古くから存在したイルミナティをヴァイスハウプトが刷新し、改良したものである。知られる限りにおいて初めてのイルミナティ組織は、上述したとおり、一四九二年にスペインのユダヤ人(マラーノと呼ばれた隠れユダヤ人)によって設立されたアルンブラドスである。一四九一年、イグナチオ・デ・ロヨラはスペインのギプスコアで生まれた。彼の両親はマラーノで、家庭はとても裕福だった。若かりし彼は、スペインのイルミナティの一員となった。隠れユダヤ人としての活動を偽装するため、彼は非常に敬虔なカソリック教徒となり、身を偽った。一五三九年、彼はイエズス会を設立することになるローマへと移ったのである)。
1772年8月、チェンストホヴァがロシアに征服されたことで、ヤコブ・フランクは解放された。
1772〜1786年ヤコブ・フランクはブルノのモラビア人街に移った。十三年間をそこで過ごした。彼は王国とカソリックを破壊する一般的な革命について大いに語った。
1776年フリーメーソンによるアメリカの革命が勃発。
1780年ヨーロッパにおけるアジア同胞団は、ドブルシュカと名を変えたヤコブ・フランクによって、ブルノで設立された。その目的は、旧来のメーソンの上にさらなる上位組織を設立するためであった。同胞団の神智学的な教義と儀礼上の規範の基礎としていたのは、ヤコブ・フランクの軍国主義的サバタイ派カバラ思想であった。
1784年セファルディム・ユダヤにしてメーソンである、モーゼス・モンテフィオーレ、イタリアのリヴォルノで誕生。
1786年ヤコブ・フランクは、一時的な財政難に悩まされ、フランクフルトの近く、オッフェンバックへと移り住んだ。そこで彼の金銭問題は後援者たちによって解決された。中でも彼を特に助けたのは、マイヤー・アムシュル・ロスチャイルドであった。
1789年フランス(・メーソンによる)革命。
1791年ヤコブ・フランク、オッフェンバックで死亡。

フリーメーソンであったナポレオンは、フランスのユダヤ人を解放した。ナポレオンから百年後、同じくメーソンである、エドモンド・ド・ロスチャイルド男爵は、イスラエル建国を支持した。
1796〜1797年ナポレオンによるイタリアへの軍事行動。
1799年メーソンの同胞たるナポレオン、フランス共和国の最初の執政となる。
1804年ナポレオン、フランス皇帝になる。
1806年ナポレオンの「サンヘドリン」が開催される。

神聖ローマ帝国はナポレオンの支配下に入る。(ナポレオンの入会していたメーソンは恐らく、スペインのマラーノが起源となっているものと思われる)
1807年フランクフルトのユダヤ人メーソンのロッジは、マイヤー・アムシュル・ロスチャイルドによって設立された。アドラー家、スペイヤー家、ライッゼ家、ズィーヒェル家といった、フランクフルトの旧家はそのロッジを代表する面々だった。フランクフルトにおいてもっとも力のあった、エリソン家、ハナウ家、ゴルドシュミット家も(無論ロスチャイルド家も)含まれていた。後にウィーンに移ることになる、初代ロスチャイルドの次男、サロモン・マイヤーは、このロッジのメンバーになった。
1812年9月19日、マイヤー・アムシュル死亡。
1815年ナポレオンのワーテルローでの敗北による、ネイサン・マイヤー・ロスチャイルドのロンドン証券取引所での大儲け。
1816年エヴァ・フランク死亡。
1829年英国のユダヤ人、公的な平等を得るために声を挙げる。
1833年下院を通過したユダヤ人開放法案は、上院で否決された。この年、ユダヤ人としては初めての法廷弁護士が誕生する。
1835年初のユダヤ人州長官が任命される。
1837年ヴィクトリア女王は、モーゼス・モンテフィオーレをナイトに叙した。
1841年アイザック・ライアン・ゴールドシュミッドは、ユダヤ人としては初めて、世襲制の爵位である、准男爵となった。同年、英国系ユダヤ人の定期刊行新聞が創刊され、今日まで続いている。
1855年デヴィッド・ソロモンは、ユダヤ人としては初めて、ロンドン市長となった。同年、ユダヤ大学(カレッジ)が開校、それは現在、ラビの教養と成人教育を提供するロンドン大学の支部となっている。
1858年全てのユダヤ人の解放と、キリスト教の誓いの変更が、議会の全ての議員に要求された(訳者注――一八五八年まで、ユダヤ人は英国において国会議員になることができなかった。また議員は、キリスト教の誓いを立てなければならなかった)。同年七月二十六日、ユダヤ人の男爵であった、ライオネル・ロスチャイルドは、十一年の議論の末、ユダヤ人国会議員を認めさせ、下院の席に座った。翌年、ユダヤ人貧困者のための福祉団体であるユダヤ保護委員会(現在のユダヤ福祉委員会)が設立された。
1863年ロスチャイルドとアイザック・ゴルドシュミットのアシュケナジー・ユダヤのコミュニティに、モーゼス・モンテフィオーレ卿が、下院ユダヤ人の結束のために参加した。ラビ・ネイサン・マーカス・アドラーはロンドン近辺に存在したアシュケナジーの会衆を結びつけて、連繋したシナゴーグにし、英国のラビの統領職を創設した。
1874年ベンジャミン・ディズレーリは、初めてのユダヤ人首相となった。
1882年4万6千人のユダヤ人が英国で暮らしていた。
1885年モーゼス・モンテフィオーレ卿死亡。
1888年サバタイ・ツヴィの誕生日である7月20日に、ウィーンで、アドルフ・ヒトラーの母クラーラは、アドルフを身篭った。九ヵ月後の4月20日、彼は誕生した。

原文 Sabbatean Frankist-Freemasonic Chronology
http://www.geocities.com/cliff_shack/frankist-freemason-chrono.html

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