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イスラエル・ロビーと米国の外交政策

5.主客転倒

i)悪霊として描かれるパレスチナ人

2001 年秋、そして特に2002年の春にブッシュ政権は、イスラエルの占領地域での拡張主義者政策を停止させパレスチナ国家の創設を提唱することにより、アラブ世界の反米感情を減少させてアル=カイーダの様なテロリスト集団への支援を弱体化させようと試みた。ブッシュは反対する者に対する非常に有効な説得の手段を持っていた。彼はイスラエルに対する経済的・外交的な支援を減少させると脅すこともできたし、米国民は恐らく大部分が彼を支持しただろう。2003年5 月の世論調査によれば、米国人の60%以上は紛争を和解せよという米国の圧力にイスラエルが抵抗する場合は援助を保留する事に同意した。その比率は「政治的に活発」である人々の間では70%に上昇した。実際、73%の米国人はどちらの側も好きでないと述べた。

しかし、米国政府はイスラエルの政策を変更させる事に失敗し、結局イスラエルを支援することになった。やがて、米国政府はイスラエル自身の自己正当化論を受け入れ、その結果米国の説明はイスラエルの説明を模倣したものになり始めた。2003年2月には、あるワシントンポスト紙の見出しが状況を要約したものになっていた。「ブッシュとシャロンは中東政策でほとんど一致している」この方向転換の主な理由は、イスラエル系圧力団体だ。

この話は2001年9月の末から始まる。その時、ブッシュはシャロンに占領地域で自制を示す様に説得しはじめていた。ブッシュはアラファトの指導性に非常に批判的であったにも関わらず、シャロンに対してイスラエルの外務大臣であったシモン=ペレスがヤセル=アラファトと会うのを認めるよう圧力をかけた・ブッシュはパレスチナ国家の創設に賛成すると公式の場で発言しさえした。警戒したシャロンはブッシュを「我々の負担でアラブに譲歩すること」を試みていると非難し、イスラエルは「チェコスロバキアにしてはならない」と警告した。

ブッシュはチェンバレン英首相と比較されたことに激怒したと伝えられる。ホワイトハウスの報道担当官はシャロンの発言を「受け入れられない」と言った。シャロンは形だけの謝罪を申し出たが、即座に米国政府と米国民を「米国とイスラエルはテロリズムからの共通の脅威に直面している」と説得しようとするイスラエル系圧力団体に加勢した。イスラエルの担当者とイスラエル系圧力団体の代表は、アラファトとオサマ=ビンラディンの間には実際には差はない、米国とイスラエルはパレスチナ人をの選出した指導者を孤立させるべき、アラファトとは無関係であるべきと主張した。

イスラエル系圧力団体は議会にも働きかけた。11月16日、89名の上院議員がブッシュにアラファトと会っていないことを賞賛しイスラエルがパレスチナ人に報復することを制止しない様要望する手紙を送った。米国政府はイスラエルを後援すると公式に述べるべきだと彼らは書いた。ニューヨークタイムズ紙によれば、その手紙は「米国のユダヤ人共同体の指導者達と重要な上院議員たちの間で2週間前に行われた会合から由来」しており、アメリカ・イスラエル公共問題委員会は「その手紙について助言することに特に熱心」であったと付け加えていた。

11月末には、イスラエル政府と米国政府の関係は見違えるほど改善した。これは部分的にはイスラエル系圧力団体の努力のおかげであるが、米国のアフガニスタンに於ける緒戦での勝利がアル=カイーダに対処する際に必要であると認識されていたアラブの支持の必要性を減少させたことも原因である。シャロンはホワイトハウスを12月初旬に訪問し、ブッシュと友好的な会合を持った。

2002年の4月に再度問題が発生した。イスラエル軍が防衛障壁作戦に着手し、ヨルダン川西岸の主要なパレスチナ人地区のほとんど全てを再び支配し始めたのだ。ブッシュはイスラエルの行動がイスラム世界での米国の評判を損ない、テロに対する戦争を弱体化させる事を理解していた。それ故、ブッシュはシャロンに「侵略を停止して撤退を始める」ことを要求した。ブッシュは2日後にこのメッセージを強調し、イスラエルが「遅れなしに撤退する」ことを望むと発言した。4月7日には当時は国家安全保障担当大統領補佐官であったコンドリーザ=ライスが、報道陣にこう語った。『「遅れなしに」というのは遅れなしと言う意味だ。今、と言うことだ。』 同じ日に、コリン=パウエルは全ての関係者を説得して戦闘を停止させ交渉を開始させるために出発した。

イスラエルとイスラエル系圧力団体は直ちに行動を開始した。ロバーロ=ケーガンやウィリアム=クリストルの様な新保守主義の専門家とともに副大統領の事務所や国防省に在籍する親イスラエルの職員はパウエルに激怒した。彼らはパウエルを「テロリストとテロリストと戦う者の区別をほとんどなくしてしまった」とまで非難した。ブッシュ自身もユダヤ系の指導者とキリスト教福音主義者たちに圧力をかけられた。トム=ディレイとディック=アーメイは特にイスラエルを支援する必要について歯に衣を着せず主張し、ディレイと上院の少数派の指導者であるトレント=ロットはホワイトハウスを訪問してブッシュに退却するよう警告した。

ブッシュの降伏の最初の兆候は4月11日-ブッシュがシャロンに撤兵するよう命令した一週間後-に表れた。大統領官邸の報道官は、大統領はシャロンを「平和の人物」であると信じていると言った。ブッシュはこの声明を、パウエルの失敗に終わった派遣任務からの帰国の時に公式に繰り返した。そして、自分が直ちに全員を撤退させる様に電話した時、シャロンは満足げに返事したと記者に話したのだ。シャロンはそんなことは決してしなかったが、ブッシュはもはやそれを問題視する意志はなかった。

その一方で、議会もまたシャロンを支援するため動いていた。5月2日には大統領の反対を押し切ってイスラエルへの支援を再確認する決議を通過させた(上院の投票は94対2、下院の決議は352対21であった)。この二つの決議は共に米国に「イスラエルと連帯」し、下院決議の文章を引用すると「テロリズムに対する共通の戦いに現在関わっている」と考えるものであった。下院の決議案は更に「ヤセル=アラファトによる、現在進行中のテロに対する支援と連携」を非難していた。そこではアラファトはテロ問題の中心部分として描かれていた。二つの決議は共にイスラエル系圧力団体の支援によって起草された。数日後には、イスラエルでの事実調査の任務に関する超党派的な議会の代議員団が、シャロンはアラファトと交渉すべきと言う米国の圧力に抵抗すべきだと述べた。5月9日には、下院の政府予算小委員会が、テロリズムと戦うためのイスラエルへの2億ドルの追加援助を考慮するために開かれた。パウエルはその政策に反対したが、イスラエル系圧力団体はそれを支持しパウエルは敗北した。

一言で言えば、シャロンとイスラエル系圧力団体は米国大統領と対決して勝利したのだ。イスラエルのマーリフ紙の記者であるヘミ=シャレフは「パウエルの失敗もあり、シャロンの救援は彼らの満足を隠すことは出来なかった」と報道した。シャロンはブッシュ大統領が白目を出し、そして大統領が最初に瞬きした、と彼らは自慢した。しかし、ブッシュを打ち負かすのに重要な役割を果たしたのはシャロンでもイスラエルでもなく、米国内のイスラエルの擁護者であった。

それ以後、状況はほとんど変化していない。ブッシュ政権はそれ以後、アラファトとの取引を行うことを決して二度としなかった。アラファトの死後に米国政府は新たなパレスチナ人の指導者であるマーモウド=アッバスを承認したが、彼を助けることはほとんど行わなかった。シャロンはガザからの「解放」と一体となったヨルダン川西岸での拡張政策の継続に基づき、パレスチナ人に対して一方的な入植地を押しつけるという計画を推進し続けた。 アッ バスとの交渉を拒否し、彼がパレスチナの人々に目に見える利益をもたらすことを不可能にすることによって、シャロンの戦略は直接、選挙でのハマスの勝利を導いた。しかしながら、ハマスが権力の座に就くことで、イスラエルは交渉しないためのもう一つの言い訳ができた。米国政府はシャロン(及びその後継者であるイュード=オルマート)の行動を支持してきた。ブッシュは占領地域での一方的なイスラエルの併合すら承認し、リンドン=ジョンソン以来の全ての大統領の国策を反転させた。

米国政府関係者はイスラエルの行動の幾つかに対して穏やかな批判を行ったが、生存可能なパレスチナ国家の建設を援助することはほとんど行っていない。元国家安全保障担当大統領補佐官であるブレント=スコウクロフト氏は2004年の10月に、シャロンはブッシュを「自分の小さな手のひらで包み込んだ」と語った。もしブッシュが米国とイスラエルの距離をおこうとしたならば、あるいは占領地区でのイスラエルの行為を批判しようとするだけでも、イスラエル系圧力団体と議会にいるその支持者たちを激怒させることは覚悟せねばならない。民主党の大統領候補は人生の現実であると理解している。ジョン=ケリーが2004年に純粋なイスラエルへの支援を誇示することを厭わなかったのも、ヒラリー=クリントンが現在同じ事をしているのも、それが理由である。

イスラエルのパレスチナ人に対する政策への米国の支持を維持することはイスラエル系圧力団体に関する限りは最も重要である。しかし、その野心はそこでは止まらず、イスラエルが支配的な地域大国であり続けることを支援することも米国に求めている。イスラエル政府と米国内の親イスラエル集団は共同で、米国政府の中東の並び替えという壮大な構想はもちろんのこと、イラク、シリア、イランに対する政策をも方向付けるために働いた。

ii)イスラエルとイラク戦争

イスラエルとイスラエル系圧力団体からの圧力は2003年3月のイラク攻撃を決定した唯一の要因ではないが、決定的に重要であった。この戦争は石油のための戦争と信じている米国人もいるが、その主張を支持する直接的な証拠はほとんどない。そうではなく、この戦争はおおかたのところ、イスラエルをより安全にしたいという欲望が動機であった。大統領の外交諜報審議会の元代表であり、911委員会の常任理事であり、今はコンドリーザ=ライスの相談役であるフィリップ=ゼリコフによれば、イラクからの「真の脅威」は米国にとっては脅威ではなかった。この「公表されない脅威」は「イスラエルに対する脅威」であったと、ゼリコフは2002年の9月にバージニア大学で聴衆に向かって述べた。そして、「米国政府は誇張してそれに頼りすぎる事を望んでいない。人気があることではないからだ」と付け加えた。

2002年の8月16日、ディック=チェイニーが対外戦争の退役軍人に強硬派の演説を行って戦争を求める運動を開始する11日前、ワシントンポスト紙は「イスラエルは米国の当局者に対し、イラクのサダム=フセインへの軍事攻撃を遅らせない様に要請している」と報道した。シャロンによれば、この点によってイスラエルと米国の間の戦略的連携は「前例のない次元」に至った。そして、イスラエルの情報機関の当局者は米国政府にイスラエルの大量破壊兵器計画に関する様々な警戒すべき報告を与えた。ある引退したイスラエルの将軍はこう表現した。「イスラエルの情報機関はイラクの非通常兵器能力に関しては、米英の情報機関が提示する実態について完全な仲間である。」

イスラエルの指導者達はブッシュは安保理に戦争の承認を求めると決めた時非常に心配した。サダムが国連の査察官を復活させたときは更に困惑した。「サダム=フセインに反対する運動は無くてはならないものだ。査察や査察官はまともな人にはよいものだが、不誠実な人は容易にそれを切り抜けてしまう。」とシモン=ペレスは2002年9月に記者に述べた。

同じ頃、イュード=バラクはニューヨークタイムズ紙の論説に寄稿して「現在の最大の危険は、行動に移さないことだ」と警告した。彼の前任の首相であるベンヤミン=ネタニヤフもウォールストリートジャーナル紙に「サダム打倒論」と題する同様の記事を書いた。「今サダムの体制を破壊することほど役に立つことはない。私は、イスラエル国民の圧倒的多数がサダムの体制に先制攻撃を加えることに賛成であると信じる。」と宣言した。ハーレツ紙も2003年2月に「イスラエルの軍隊や政治家の指導層はイラクでの戦争を渇望している」と報道した。

しかしながら、ネタニヤフが言ったとおり、戦争への欲求はイスラエルの指導者たちだけには限定されなかった。サダムが1990年に侵略したクウェートを別にすれば、イスラエルは政治家も一般国民もともに戦争を好む唯一の国だった。報道記者のギデオン=リビーは当時イスラエルを「イスラエルはその指導者が遠慮なく戦争を支持し、戦争以外の意見が発言されない西側で唯一の国」であると観察した。事実、イスラエル人は余りに熱狂的であり、米国の同盟軍はその誇張を鎮める様に要求した。さもなくば、この戦争はイスラエルの利益のために行われるかのように見えたことだろう。

iii)イスラエル系圧力団体とイラク戦争

米国国内では、この戦争の推進力は新保守主義者の小さな集団であり、その多くはリクードとの関係があった。しかし、イスラエル系圧力団体の主要組織の指導者たちはこの運動への発言を引き受けた。「ブッシュ大統領がイラクでの戦争を(国民に)受け入れさせようとした時、米国の最も重要なユダヤ系組織は団結して彼を弁護した。共同体の指導者達はサダム=フセインと彼の大量破壊兵器を世界から取り除くことの必要性を強調する声明を次々と発表した。」とフォワード誌は報道した。その論説は「イスラエルの安全への関心は当然なことに、主要なユダヤ系団体の討議という因子に因数分解された。」と続けた。

新保守主義者や他の圧力団体の指導者達はイラク侵略を渇望していたが、米国のユダヤ系共同体全体はそうではなかった。戦争開始直後、サミュエル=フリードマンは「ピュー調査センターが行った全国規模の世論調査によれば、ユダヤ系は国民全体に比べてイラク戦争への支持が52%対62%でより少ない傾向にあった」と報告した。イラクでの戦争の責任を「ユダヤ人の影響」のせいにするのは明らかに間違いだ。むしろ、それはおおむねイスラエル系圧力団体、特にその中の新保守主義者たちの影響力のせいであった。

新保守主義者たちはブッシュが大統領になる以前からサダムを打倒することを決意していた。彼らは早くも1998年にサダムを権力の座から追放することを呼びかける二通の公開書簡をクリントンに送ったことで騒ぎを起こしている。その署名者の多くは安全保障問題ユダヤ研究所やワシントン近東研究所などの親イスラエル団体と親密な繋がりを持つ者であり、エリオット=アブラムス、ジョン=ボルトン、ダグラス=フェイス、ウィリアム=クリストル、バーナード=ルイス、ドナルド=ラムズフェルド、リチャード=パール、ポール=ウォルフウィッツ等を含む。彼らはクリントン政権を説得しサダムを追放するという総合的な目標を容易に採択させた。しかし、彼らはその目的を達成するための戦争を受け入れさせることが出来なかった。彼らはブッシュ政権初期にもイラクに侵略することへの熱狂を作り出すことが出来なかった。彼らは目的を達成するための助けを必要としていた。9/11とともにその助けが到来した。その日に起きた出来事がブッシュとチェイニーに進路を反転させ、予防的戦争の強い支持者にした。

9月15日のブッシュとの重要な会合で、ウォルフウィッツはアフガニスタンの前にイラクを攻撃することを提唱した。サダムが米国への攻撃に関与したという証拠が無く、ビン=ラディンがアフガニスタンにいると分かっていたのにも関わらずである。ブッシュは彼の忠告を拒否し、アブガニスタンの後に回した。しかし、イラクとの戦争は深刻な可能性があると見なされ、9月21日には大統領は軍隊にイラク侵略の具体的計画を作成するよう命令した。

一方、その他の新保守主義者たちは政治権力の中心で働いていた。我々はその完全な内容は知らないが、プリンストン大学のバーナード=ルイスやジョンズ=ホプキンス大学のフォアド・アジャミーのような学者たちが戦争が最良の選択であるとチェイニーを説得するのに重要な役割を果たしたと伝えられる。しかし、チェイニーの部下である新保守主義者たち-エリック= エーデルマン、ジョン=ハンナ、チェイニーの首席補佐官で政権の中で最も有力な者の一人であったスクーター=リビー-もまた彼らの役割を果たした。 2002年の初めにはチェイニーはブッシュを説得していた。そして、ブッシュとチェイニーが乗ったことで戦争は不可避になった。

政権の外部でも、新保守主義の専門家たちは迅速にイラク侵略が対テロ戦争への勝利に必要不可欠であると主張した。彼らの努力は部分的にはブッシュへの圧力を継続するため、あるいは政権内外の戦争反対勢力にうち勝つためであった。9月20日には有力な新保守主義者とその友人の団体が別の書簡を公開した。それは、「米国への攻撃とイラクとの間に直接の関係がないとしても、テロとその後援者を根絶するためのいかなる戦略も、イラクの政権からサダム=フセインを追放するという断固たる努力が必要不可欠だ」というものだ。その書簡はまた、ブッシュに「イスラエルは国際的なテロに対抗するための米国の最も忠実な同盟国であったし、これからもそうであり続ける」ということを思い起こさせた。10月1日には、ウィークリースタンダード誌の記事でケーガンとクリストルはタリバンを米国が打ち破ったらすぐにイラクの政権交代が必要と主張した。同じ日に、チャールズ=クラウトハマーはワシントンポスト紙で米国のアフガニスタンでの作戦が終わったら、シリアが次であり、その後はイランとイラクであり、我々が「世界で最も危険なテロリスト体制を」終結させるとき、「テロに対する戦争はバグダッドで完了」すると論じた。

これはイラク侵略への支持を得るための容赦のない広報活動運動の始まりに過ぎなかった。そして、その決定的に重要な部分はサダムが差し迫った脅威であるかの様にみせかけるという情報操作であった。例えば、リビーは CIAの分析官に対して戦争に賛成する主張を支持する証拠を見いだすよう働きかけ、現在コリン=パウエルの評判を落としている国連安保理での説明の準備を支援した。国防総省内では、反テロリズム政策評価グループがアル=カイーダとイラクの繋がりを見いだすよう命令されが、情報機関はそれに失敗したと思われる。その鍵となる二人の重要人物は、筋金入りの新保守主義者であるデービッド・ワームサーと、パールと親密な絆を持つレバノン系米国人のマイケル=マルーフである。特別計画室と別の国防総省のグループは、戦争を受け入れさせるのに利用できる証拠を発見する職務を与えられた。これはウォルフウィッツと長期間関係を持つ新保守主義者であるエイブラム・シュルスキーが指揮を執り、親イスラエルのシンクタンクから募集された人々が参加していた。両方の組織は 9/11の後に作られ、ダグラス=フェイスに直接報告を行った。

ほぼ全ての新保守主義者と同様に、フェイスもイスラエルに深く関与しているし、リクードとも長期的な関係を有している。彼は1990年代に入植地を支持しイスラエルが占領地区を保持すべきだと主張する記事を書いた。より重要なことは、パールやワームサーと共に1996年にあの有名な「突然の中断」を、当時首相になったばかりのネタニヤフに書いたことである。その中ではネタニヤフに「サダム=フセインをイラクの権力の座から追放することはイスラエル自身の権利において、重要な戦略目標である」と勧めている。更に、中東全体を並び替えることをイスラエルに対して呼びかけている。ネタニヤフは彼らの忠告に従わなかったが、フェイス、パール、ワームサーは間もなくブッシュ政権に対して同じ目標を実行するよう要請していた。ハレーツ紙の特別寄稿者のアキバ・エルダルはフェイスとパールは「米国への忠誠心とイスラエルの国益の間の細い線の上を歩いている」と警告している。

ウォルフウィッツもまた等しくイスラエルに関与している。フォワード誌はかつて彼を「政権の中で最も強硬な親イスラエル派」と描写し、2002年に自覚的にユダヤの現状改革主義を追求する50人の有名人の筆頭に選んだ。同じ頃、安全保障問題ユダヤ研究所はウォルフウィッツにイスラエルと米国の強い友好関係を増進させた事に対してヘンリー・M・ジャクソン殊勲賞を授与した。エルサレムポスト紙は彼を「心から親イスラエル」と評し、2003年の「最も活躍した人物」と名付けた。

最後に、新保守主義者たちの戦争前のアフマド・チャラビへの支持については簡潔な言葉で述べるのが適当だろう。彼はイラク国民会議の代表を務めていた恥知らずの亡命者だった。彼らがチャラビを支持したのは、ユダヤ系米国人の集団と親密な関係を樹立しており、政権を握った暁にはイスラエルとの良好な関係を育むと誓ったからである。これこそまさに、親イスラエルの体制転換擁護者たちが聞きたかったことであった。マシュー=バーガーはユダヤジャーナル誌でこの掘り出し物の真髄に酔っている。「イラク国民会議は関係改善を米国政府とイスラエル政府におけるユダヤ人の影響力への打診を行うための方法と考え、その理由のために支持の増大を喚起している。もしイラク国民会議がサダムフセイン体制の後任に関与した時には、ユダヤ系グループは彼らとしてはイスラエルとイラクの間の良好な関係に道を開くための機会を見つけたのだ。」

新保守主義者たちのイスラエルへの献身、イラクへの執着、彼らのブッシュ政権における影響力を考えると、多くの米国人がこの戦争は更なるイスラエルの国益のために計画されたのではないかと疑うのは驚きでない。昨年3月、米国ユダヤ人委員会のバリー=ヤコブは、イスラエルと新保守主義者たちが共謀して米国を対イラク戦争に持ち込んだという信念が情報機関の中で拡散していることに同意した。しかし、そのことを公式の場で口に出す人はほとんど居なかったし、それを行った人の大部分-アーネスト=ホーリングズ上院議員や-ジェームズ=モーラン下院議員を含む-はその問題を取り上げたことを糾弾された。マイレル=キンスレーは2002年に「イスラエルの役割に関する公的な議論が欠如していることは、部屋の中の象(非常に目立つが、都合上無視される問題)の諺のようだ。」と述べた。彼は、それに関する議論に気が向かない理由は、反セム主義者と呼ばれることへの恐れであると分析した。イスラエルとイスラエル系圧力団体が開戦の決定の大きな要因であることはほとんど疑いの余地がない。彼らの努力なしには、米国がその決定を行う可能性は遙かに小さかったことだろう。

iv)中東地域の体制転換という夢

そして、この戦争は単なる第一段階として予定されていた。開戦直後のウォールストリートジャーナル紙の一面の「大統領の夢:単なる政権転換ではなく、地域の転換:親米的な民主主義地域こそ、イスラエル人と新保守主義者が応援する目標」という見出しが全てを語っている。

親イスラエルの勢力は長年に渡って、米軍を中東にもっと直接的に関与させることに関心を持っていた。しかし、彼らは冷戦期間中には限定的な成果しか挙げられなかった。米国がこの地域ではオフショア=バランサーとして行動していたからである。中東地域に配備された緊急展開部隊の等の部隊は地平線の向こうの安全な所に駐留していた。これは、現地勢力を別れさせ相互に対立させて、米国に好ましい均衡状態を維持するためである。レーガン政権がイランの革命政権に対抗するサダムをイラン・イラク戦争の期間中支援したのもこれが理由である。

この政策は湾岸戦争の後で変更され、クリントン政権は「二重封じ込め政策」を採用した。かなりの量の米国の軍事力がイランとイラクの両方を封じ込めるためにこの地域に駐留し、以前の相互に監視するという政策は放棄された。この二重封じ込め政策を作ったのは他ならぬマーチン=インディクである。彼は1993年5月にワシントン近東研究所 でこの政策を起草し、その後は国家安全保障会議の中東・南アジア地域の責任者として政策を実行したのだ。

1990 年代の半ばには、二重封じ込め政策に対する相当な不満が聞かれるようになった。この政策により米国は相互に憎み会う両国の宿敵となり、米国政府は両方の敵を封じ込めるという重荷を負うことを強いられたからだ。しかし、この戦略はイスラエル系圧力団体にとっては好ましいものであり、彼らは継続するように議会に活発に働きかけた。アメリカ・イスラエル公共問題委員会や他の親イスラエル勢力の圧力を受けて、クリントン大統領は1995年春にこの政策を強化し、禁輸措置を科した。しかし、アメリカ・イスラエル公共問題委員会や他の圧力団体は更なる措置を求めた。その結果が1996年のイラン・リビア制裁法令であり、イランやリビアの石油資源の開発に関して4000万ドル以上の投資を行った外国企業全てに制裁を科すものであった。ハアレツ紙の軍事問題記者であるゼーフ=シフは「イスラエルは大きな構想の中ではほんの小さな要素に過ぎないが、この環状道路の中(訳者注;ワシントンの環状道路の事を指す)でその構想に影響力を及ぼせないと見くびってはならない。」とその時書き留めている。

1990年代末には、新保守主義者たちは二重封じ込め政策では不十分であり、イラクの政権転換が必須だと議論していた。サダムを追放してイラクを力強い民主主義国にすることで、米国は中東全体を転換するという遠大な過程を引き起こすだろうと彼らは主張した。同様の意見の方針は新保守主義者たちがネタニヤフに向けて書いた「突然の中断」でも明らかであった。イラク侵略が最優先であった2002年には、地域全体の転換は新保守主義者の集団の中ではもはや信条となっていた。

チャールズ=クラウトハマーはこの雄大な構想をナタン=シャランスキーの独創的な考えと述べている。しかし、あらゆる政治領域のイスラエル人は、サダムを追放することは中東をイスラエルに有利に変化させることであると信じていた。アルフ=ベン記者はハアレツ紙でこう述べている(2003年2月17日付)。「イスラエル国防軍の高官と、国家安全保障補佐官のエフライム=ハレヴィのようなアリエル=シャロン首相に近い人々は、イスラエルが戦争の後に期待できる素晴らしい未来のバラ色の光景を描く様になった。彼らはサダム=フセイン体制の崩壊に続いて他のイスラエルの敵も崩壊し、これらの指導者と共にテロや大量破壊兵器も消失するというドミノ効果を想像した。」

v)シリアを付け狙う

2003年4 月にイラク政府が崩壊すると、シャロン首相とその副官たちは米国政府に対してシリア政府を標的にするよう催促し始めた。4月16日にはシャロン首相はイエディオット・アハロノット紙(訳者注:イスラエル最大の発行部数のヘブライ語新聞)との会見で、米国に対してシリアに「非常に強い」圧力をかけるように呼びかけている。その一方で、彼の政権の国防大臣であったシャウル・モファズはマアリヴ紙の会見で「我々にはシリアに要求する問題の長い一覧表があり、それは米国人を通じて実行されるのが適切だ。」と語った。エフライム=ハレヴィはワシントン近東研究所で聴衆に向かって「今や、米国にとってシリアに乱暴するのが重要だ」と語った。そして、ワシントンポスト紙は、イスラエルはシリアの大統領であるバッシャール=アサドの行動についての情報報告を米国に与えることで、シリアへの反対運動に「火を注いで」いると報道した。

イスラエル系圧力団体の重要な構成員も同じ主張を行った。ウォルフウィッツは「シリアでの政権転換は必ず行われねばならない」と宣言し、リチャード=パールは記者に「次はお前だ」という「二つの単語からなる短いメッセージ」が他の敵対政権に届くだろうと述べた。4月始めには、ワシントン近東研究所は超党派の報告書を発表し、その中でシリアは「サダム様な無謀で無責任で傲慢な行動を続けるならば、彼と同じ運命を辿ることになるというメッセージを無視すべきでない」と主張した。4月15日にはヨッシー・クライン=ハレヴィ(訳者注:ニューリパブリック誌特派員、エルサレムのシンクタンクであるシャレム・センターのシニアフェロー)はロサンゼルスタイムズ紙に「次はシリアに一層圧迫を加えよう」と題する記事を書き、次の日にはZev Chafets(訳者注:エルサレムポスト紙の特別寄稿者)はニューヨークデイリーニュース紙に「テロと親密なシリアにも変化が必要だ」と題する記事を書いた。ローレンス=カプラン(訳者注:ニュー・リパブリック誌主席編集者)も引けを取らず、ニューリパブリック誌に4月21日に「シリアのアサド大統領は米国にとって深刻な脅威だ」と書いた。

国会議事堂では、下院議員のエリオット=エンジェルが「シリアの実施責任とレバノンの主権回復法」を再提出した。それは、シリアがレバノンから撤退せず、大量破壊兵器保有を諦めず、テロを支援するのを止めない場合は制裁を科すと脅す内容であった。そして、シリアとレバノンに対して、イスラエルと和解するための具体的な方法を採ることを呼びかけていた。この立法はイスラエル系圧力団体、特にアメリカ・イスラエル公共問題委員会の強い支持を受けていた。そして、Jewish Telegraph Agency(訳者注:イスラエルの通信社)によれば、「議会の中のイスラエルの最高の友人たちによって組み立てられて」いた。ブッシュ政権はこれに対し殆ど熱中しなかったが、反シリア法案は圧倒的多数(下院では398対4、上院では89対4)で可決され、ブッシュ大統領が2003年12月12日に署名して法が成立した。

ブッシュ政権自体はシリアを標的にすることの賢明さについて未だに意見が内部で分かれていた。新保守主義者たちはシリア政府に因縁を付けることを渇望していたが、CIAや国務省はこの考えに反対であった。そしてこの新しい法案に署名した後でさえ、ブッシュ大統領はその執行は慎重に行うと強調した。彼のためらいは理解できる。第一に、シリア政府は9/11以後アル・カイーダに関する重要な情報を提供し続けていただけでなく、米国に対してペルシャ湾地域でのテロリストの攻撃計画を米国政府に通報し、9/11のハイジャック犯の一部を採用した疑惑のあるモハメッド=ザマーをCIAの調査官に面接させた。アサド大統領の政権を標的にすることはこれらの貴重な関係を台無しにして、その結果広義の対テロ戦争を損なうものであった。

第二に、シリアはイラク戦争の前は米国政府と不和状態ではなかった (シリアは国連決議第1441号に賛成さえした)し、シリア自体が米国にとって何ら脅威ではなかった。シリアに厳しい処置をとることで、アラブ国家を殴り倒すことへの飽くことのない欲望を持ったいじめっ子と米国が受け取られてしまう。第三に、シリアを敵の一覧表にのせることはイラクで問題を作り出すことへの強い動機をシリア政府に与えることになる。たとえ仮に圧力をかけることを求めていたとしても、まずはイラクでの仕事を終えることが良識というものだ。しかし、議会はシリア政府に焼きを入れることを主張し続けた。それは、主にイスラエル当局者やアメリカ・イスラエル公共問題委員会の様な集団からの圧力への反応であった。もしイスラエル系圧力団体が存在しなかったならば、シリア実施責任法は存在せず、米国のシリア政府に対する政策はもっと米国の国益に合致したものになっていただろう。

vi)イランに照準を合わせる

イスラエル人はあらゆる脅威を最も硬直した言葉で表現するが、イランは彼らにとって最も危険な敵であると広く認識されている。それは、核兵器を持つ可能性が最も高いためである。ほぼ全てのイスラエル人は、核兵器を持った中東のイスラム教国は自分達の生存への脅威であると認識する。「イラクは問題だ・・・しかし、もしあなたが私に質問するのならば、あなたは今日イランはイラクより更に危険であると言うことを理解すべきだ。」と国防大臣のベンジャミン=ベンーエリゼールはイラク戦争の一ヶ月前に述べた。

シャロンは2002年11月に、タイムズ紙の記者会談で米国に対してイランと対決するよう働きかけ始めた。イランを「世界のテロの中心であり、核兵器を保有しようとしている」と述べ、ブッシュ政権はイラクに勝利した後にイランを強奪するべきであると宣言した。2003年4月末、ワシントン駐在のイスラエル外交官はイランの政権交代を求めているとハアレツ紙は報道した。サダム政権の転覆は不十分であり、米国はゴルフのスイングを振り切らねばならない、我々はシリアとイランからの大きな脅威を未だに受けている、と彼は言った。

新保守主義者達もまた、テヘランの政権転覆への主張を直ちに始めた。5月6日国策研究会(AEI)は共にイスラエルを支持する民主主義防衛基金とハドソン研究所と共同でイランについての一日がかりの会議を後援した。演者は皆強硬な親イスラエル派であり、多くは米国に対してイランの政権を転覆して民主主義にするよう求めた。いつもどおり、有力な新保守主義者達の論説の一団がイランを狙うことを主張していた。ウィリアム=クリストルは5月12日にウィークリースタンダード誌に「イラクの解放は中東の未来に向けての最初の大戦争であった。しかし、次の大戦争は?我々は軍隊による戦闘を望まないが-イランに対するものになるだろう。」と書いた。

米国政府はイスラエル系圧力団体の働きかけに対して、イランの核計画を停止させる為に余分に働くことで答えた。しかし、米国は殆ど成功せず、イランは核兵器を製造する決断を行っている様であった。結果として、イスラエル系圧力団体は圧力を増大させた。論説記事やその他の記事は現在、核武装したイランによる差し迫った危険を警告し、「テロリスト」体制へのあらゆる譲歩を戒め、外交交渉が失敗した場合の予防的行動を暗に示唆している。イスラエル系圧力団体は米国議会に対して、現在の制裁を拡張する法律であるイラン自由支援法案を成立させるよう働きかけている。イスラエルの当局者は、もしイランが核の道を進み続けるならば先制攻撃を行う可能性があるとも警告し、一部意図的に米国政府の注意をこの問題に引きつける為に脅迫している。

米国自身にイランの核武装を防ぎたいという理由があるのだから、イスラエルとイスラエル系圧力団体は対イラン政策への大きな影響力を持たないという議論もあるだろう。そこには幾ばくかの真実が含まれている。しかし、イランの核武装は米国への直接的脅威にはならない。米国が核武装したソ連や核武装した中国、更には核武装した北朝鮮とすら共存できたのであれば、米国は核武装したイランとも共存できる。そして、これこそがイスラエル系圧力団体がイラン政府と対決するように政治家に圧力を加え続けねばならない理由である。イスラエル系圧力団体が存在しないならば、イランと米国は同盟国になることはまずありえないが、米国の政策はより穏和なものとなり、予防的戦争は重要な選択枝にはならないであろう。

vii)まとめ

イスラエルと米国のイスラエル支持者がイスラエルの安全に関する全てのあらゆる脅威に対処するように求めるのは驚きではない。米国の政策を方向付けるための彼らの努力が成功するならば、イスラエルの敵は弱体化するかあるいは転覆させられ、イスラエルはパレスチナ人を自由裁量で取り扱う事が出来、米国は戦闘と戦死者と再建と支出の大部分を引き受けることになる。しかし、もし米国が中東の体制転換に失敗して、ますます先鋭化するアラブとイスラム世界との争いに巻き込まれたとしても、イスラエルは結局世界唯一の超大国に保護されることになる。これはイスラエル系圧力団体の視点からは申し分のない結果とは言えないが、米国政府がイスラエルと距離を置く政策、あるいは米国がその影響力を用いてイスラエルにパレスチナと和平を結ぶように強制する政策よりも好ましい事は明らかである。

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