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不況で最も得をしたのは日本銀行だった

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構造改革をするために不況にした
アメリカと日銀の利害が一致
大蔵省を解体し、日銀の天下に

日銀の日本改造論

「構造改革なくてして、景気回復なし!」
小泉首相が叫ぶまでもなく、いまや構造改革の必要性は、社会的コンセンサスとなっている。その背景となっているのが、長引く不況。これまで、うまくいっていた日本的システム(統制型経済)が行き詰まったがゆえに、不況が続いている。だから改革をしなければならない、というわけだ。
では、なぜ日本は、不況から抜け出せないのか。日銀が意図的に信用創造量を減らし、景気回復の芽を潰してきたことは、すでに触れたとおりだ。実は、日銀には不況をつくり出さなければいけないワケがあった。それは、「前川レポート」(※)に潜んでいた。
1986年4月、元日銀総裁の前川春雄が中心となって作成された、通称「前川レポート」が発表された。レポートには、「日本型経済構造も終わり、アメリカ型経済構造が導入される」などの意見が盛り込まれていた。つまり、日本は規制緩和、行政改革などを断行し、「構造改革」しなければならないと提言されていたのだ。当時、日本は対外輸出で世界市場を席巻しており、絶好調な時代。内需を拡大し、国際協調型経済に転換せよとする「前川レポート」は、まるでアメリカ通商代表の要望リストのような内容であった。
※前川レポート
中曽根康弘首相が設置した「国際協調のための経済構造調整研究会」の座長であった前川春雄(元日銀総裁)を中心として作成された報告書。当時、日銀副総裁だった三重野康と営業局長だった福井俊彦も執筆に参加した。前川、三重野、福井はいずれも“プリンス”の系譜に属す人物である。
「前川レポート」の叩き台となっているのが、同じく元日銀総裁である佐々木直が発表した「世界国家への自覚と行動」(通称「佐々木レポート」)である。「佐々木レボート」は、貿易交渉の際、アメリカ側からいい渡された要望書をもとに作成されたという。もちろん佐々木も、“プリンス”と呼ばれた人物。
※アメリカ
日銀の最初のブリンスであった、新木栄吉と、一萬田尚登は占領軍(アメリカ)から選ばれた人物だった。その後継者たちは、ブリンスに忠実な、信念と目標をひとつにする人物が選ばれてきた。佐々木−前川−三重野−福井と歴代のプリンスたちに受け継がれてきた「10年計画」の内容と、アメリカの要求が似ていたのは、決して偶然ではない。
「構造改革」の最も積極的な支持者が、アメリカ政府や首脳であることからも、それがうかがえる。

構造改革のために不況をつくる

「前川レポート」は日銀内では、「10年計画」と呼ばれた。ポイントはレポートが掲げる目標を、どのように遂行するかにあった。
うまくいっていた日本型システムを捨て、構造改革に着手するためにはどうするのか。そこで前川レポートの作成に参加していた、日銀のプリンスである三重野と福井は、バブル経済をつくり出す策を選んだ。窓口指導を利用して、銀行に不動産などへ過剰貸し出しをさせたのである。
バブルは必ず破裂する。銀行は不艮債権を抱え、日本経済はズタズタになった。改革のため危機が必要だった。不況という“危機”により、初めて「構造改革」の必要性が問われ始めた。
日銀は不況をつくり出すことで、もうひとつの目的も達成した。常に目の上のタンコブだった大蔵省を弱体化させ、解体にまで追い込んだ。そして日銀法改圧により、法的な独立という目標も達成。不況による最大の勝利者(※)は、日銀自身でもあったのだ
※最大の勝利者
金融ビッグバンや行政改革、市場の自由化など、「10年計画」が求めてきた目標は、ほぱ達成されつつある。では、そろそろ景気が回復してもいいころではないか。いつ景気が回復するかは、プリンス福井の考え方次第。「メガバンクのひとつが、外資の手に渡ったときが景気回復の始まるときだ」など、そのタイミングについては諸説ある。

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