Anti-Rothschild Alliance

資料室

動画『The Money Masters』の翻訳テキスト page.6 (2:22:21〜2:49:05)

2009-01-03

お金を操る者達

国際的銀行家達はどの様にアメリカを掌握したのか

Page.6

2.22.21
24.世界大恐慌

第一次世界大戦が終って間もなく、両替商達の政治的計略の全貌が明らかになり始めました。今や彼らは各国家経済の支配を実現し、次の段階で実現しようとしているのはその究極の統合形態、つまり、「世界政府」なのです。この世界政府案こそ第一次世界大戦後に開かれたパリ平和会議に於ける最優先事項でした。それは国際連盟と呼ばれたのです。しかし、平和会議に出席したポール・ウォーバーグとバーナード・バルークが驚いた事に、世界は未だ国境を解消する用意がありませんでした。
愛国的民族自決主義が未だ人々の胸の中で強く脈打っていたからです。
例えば、英国の外務大臣であったカーソン卿は国際連盟の事を、英国政府がそれを国策として支持していたにも拘わらず、面白い冗談であるとして一蹴しています。ウィルソン大統領にとって屈辱的な事に、米国の議会すらも国際連盟を批准しようとしなかったのです。それは多くの国々で批准されたにも拘わらず、米国の国庫から遂に資金が流入せず死滅したのでした。

2:23:29

第一次世界大戦後、アメリカ国民は民主党のウッドロウ・ウィルソンによる国際主義的な政策にうんざりしていました。
1920年の大統領選挙では共和党とウォレン・ハーディングが64%もの票を獲得して圧勝したのです。
ハーディングはボルシェビキ思想と国際連盟の両方に熱烈に敵対していた人物でした。共和党の大統領が12年間にわたってホワイトハウスで執務する先駆けとなったこの選挙は「狂乱の20年代」として知られる繁栄の時代へと向かって行ったのです。

2:24:03

戦争によるアメリカの負債額は南北戦争の時のそれよりも10倍以上の額となりましたが、アメリカの経済はそれでも急上昇したのでした。金はアメリカに流入し、その後も金は止まる事なく流入し続けました。1920年代の初頭、ニューヨークの連邦準備銀行の総裁であったベンジャミン・ストロングと言う人物は秘密主義的で風変わりな人物であるイングランド銀行のモンタギュー・ノーマン総裁と頻繁に会っていました。ノーマンは第一次世界大戦中に英国が米国に対して失った金を元に戻し、イングランド銀行が世界金融に占めていた以前の支配的地位を再び回復する決意を固めていたのです。

それに加え、金を豊富に抱えたアメリカは南北戦争後にそうであったのと同様に再び御し難くなる恐れがあったのです。ハーディングとクーリッジが大統領となったその後の8年間に第一次世界大戦で積み重なった巨大な借金は38%縮減されて160億ドルになりましたが、この負債額の縮減率は合衆国の歴史上最も大きなものとなっています。

2:25:08

1920年の大統領選でウォレン・ハーディングとカルビン・クーリッジは、オハイオ州の知事であったジェームズ・コックスとかつてウィルソン大統領の海軍大臣次官補以上の地位に這い上がった事のない、当時ほとんど知られていなかったフランクリン・ルーズベルトを対立候補として戦いました。ハーディングは大統領に就任するや直ちに内国税を縮小すると共に関税を過去最高の水準にまで引き上げたのです。そして、この税政策は建国の父達の殆どが間違いなく賛成したに違いないものであった事は明らかです。ハーディングは就任後2年目にアメリカ西部に於ける列車での旅行中に突如として死亡しました。死因は解剖が行われなかったにも拘わらず肺炎または食中毒の何れかであるとされました。クーリッジ副大統領がその後を継いで大統領となった際に、彼は所得税を削減する一方で輸入品に高関税を課するハーディングの国内経済政策を継続しました。その結果、経済は依然として歳入増になるほどの勢いで成長したのですが、今度はその政策を停止しなければならなくなりました。つまり、両替商達は、かつて何度も繰り返し行って来た様に、今やアメリカ経済を破綻させる時であるとしたのです。連邦準備銀行は貨幣で溢れる様にし、その供給量を62%も増大させました。通貨は大量に出回る様になって「狂乱の20年代」と呼ばれる所以となりました。

2:26:34

セオドア・ルーズベルト大統領が1919年に死亡する以前に彼はアメリカ国民に対して今何が起こっているのかに関して警鐘を鳴らしていました。1922年3月27日付けのニューヨーク・タイムズ紙の記事によると彼は次の様に述べています。

これら国際的銀行家達並びにロックフェラーとスタンダードオイルの利害関係者らは見えざる政府を構成する腐敗した有力財閥集団の意に従わない官公庁の役人達を強引に服従させ、或いは公職から追放する為に大部分の新聞社とそれらの記事の内容をコントロールしている。」
セオドア・ルーズベルト

2:27:12

ニューヨークの記事が出た僅か1日前にニューヨークの市長であったジョン・ハイラン氏はルーズベルトの言葉に言及し、アメリカの国家、政治機構および報道機関を支配している事に対して激しく非難しています。

「我々の共和国に対する真の脅威は巨大な蛸の細長い足の様に我々の市、州そして国家を覆い尽くしているこの見えざる政府にあり、セオドア・ルーズベルトの警告は、今日、極めて時宜を得ています… それは我々の行政府、我々の立法機関、我々の学校、我々の裁判所、我々の新聞社そして国民を保護する為に設けられたあらゆる機関がその長く強力な触手の中に捕えられているのです…

単なる一般的抽象化を避けて明確に述べると、この蛸の頭に居るのはロックフェラー・スタンダードオイルの利害関係者及び一般に国際的銀行家達と呼称されている有力な銀行の小集団なのです。これら有力な国際的銀行家達の意を受けた仲間達が自らの利己的な目的の為に合衆国政府を事実上運営しているのです。

彼らは両政党を実質的に支配し、その政綱を自ら作成し、政党の首班を手先として利用し、民間組織や団体の指導者達を使って腐敗した大企業の指示に従順な者のみが高位公職の指名候補となるようあらゆる策略を用いるのです…

これらの国際的銀行家達とロックフェラー・スタンダードオイルの利害関係者達はこの国の新聞社と雑誌社の大部分を支配しているのです。」

ジョン・ハイラン ニューヨーク市長 <1922年3月26日付ニューヨーク・タイムズ>

2:28:50

何故人々はかくも強い警告に耳を傾けて1913年に成立した連邦準備法を議会が撤回するよう強く求めなかったのでしょう?当時は1920年代であった事に思いを馳せましょう。銀行のローンは着実に増加し、市場の活況化に役立ったのです。つまり、今日そうであるのと同様、経済が豊かな時に経済的な諸問題について考えようとする人はいないのです。

2:29:11

しかし、この経済の豊かさには全て暗い面があるのです。ビジネスの発展と共に信用取引が拡大し、株式市場の繁栄と共に株式投機が拡大するので、全てが薔薇色に見えるのですが、それは砂造りの城の様なものです。全ての準備が整った1929年の4月、連邦準備制度の父とされるポール・ウォーバーグは経済の崩壊と全国的規模の大恐慌が確実にやってくる事を警告した秘密の勧告書を彼の友人に送り付けました。1929年8月、連銀は金融の引締めを開始したのです。

2:29:43

当時のウォール街の巨人であったジョン・D・ロックフェラー、JPモルガン、ジョセフ・ケネディー、バーナード・バルーク等の全員がその伝記の中で正に経済恐慌の直前に株式市場から撤退し、自らの資産の総てを首尾よく現金や金に換えた事が驚嘆と共に書き記されていますが、それには理由があったのです。

2:30:00
ヘンリー・パスケ <経済学者(兼飛行士)>

私は1970年にベッドフォードのマサチューセツ州ボストンの近くにあるエド・カリゴンと言う名の最年長民間整備士の一人が航空機の検査官として私の為に働いていました。エドはその地域で育ち、彼の父はジョー・ケネディーと同じ教会に通っていたのです。エドが私に話してくれた処に依りますと、1971年のある日、誰かが家のドアをノックする音が聞こえたので、ドアを開けてみると、それはジョー・ケネディーであったと言います。それで、ジョー・ケネディーを家の中に招きいれると彼はエドを挟んでエドの父親と相対して椅子に腰掛けたそうです。それは1929年、1929年の夏の事でした。ジョー・ケネディーはエドの父親に全ての株式を今すぐに売り払うよう勧告したとのことです。質問は一切しないでくれとジョー・ケネディーは言ったそうです。エドはこの事を私に伝え、彼はその時の状況が心の中にまだ鮮明に残っており、ジョーが何故その様な事を言ったのか本当に愕然としたと言っています。それでジョーが立ち去った後、彼の父親は、何も質問する事なく、外出して1929年の夏に全ての株式を売り払ったとのことです。そして、その年の10月に起こった事は我々の全てが知っている通りです。

2:31:06

1929年10月24日、ニューヨークの大手銀行は彼らの24時間体制のブローカーからコールローンの回収に乗り出しました。これは株式ブローカーと顧客の双方が彼らの株式をどの様な低価格にても市場に投売りし、ローンに充てる事を意味します。その結果、株価は暴落し、その日は暗黒の木曜日として知られる様になりました。1929年の「大恐慌」の著者であるジョン・ケネス・ガルブレイスに拠ると、株式が大量に売りに出されていた真っ最中にバーナード・バルークはウィンストン・チャーチルをここニューヨーク証券取引所のビジネスギャラリーに連れて来て、人々の狼狽振りを見せ付けて、この舞台で繰り広げられている狂乱劇を支配する彼の力を印象付けたとの事です。

2:31:49

1920年から1931年にかけて下院金融通貨委員会の委員長を務めていたルイス・マクファデン下院議員は誰が糾弾されるべきかを知っていました。彼は恐慌を画策した連銀と国際銀行家達を次の様に非難したのです。

「それは偶然などではありませんでした。巧妙に仕掛けられた出来事だったのです… 国際銀行家達は我々全ての支配者として浮上すべく我々を絶望的状況に追い遣ろうと画策したのです。」
ルイス・T・マクファデン下院議員(共和党‐ペンシルバニア)

2:32:20

しかし、マクファデンはこの非難に止まりませんでした。彼は彼らがアメリカの金を盗む為に恐慌を引き起こしたのだと公然と糾弾したのです。
1931年の2月、恐慌の只中にあって彼は次の様に述べています。

「ヨーロッパの政治家や金融家達が第一次世界大戦の結果アメリカに対して失った金の保有量を再び迅速に取り戻すべく殆どあらゆる手段を行使する用意がある事は疑うべくもない事実であると思います。」
ルイス・T・マクファデン下院議員(共和党‐ペンシルバニア)

2:32:51

リーマン・ブラザーズのブローカーをしていたカーチス・ドール氏は恐慌の当日、ニューヨーク証券取引所の立会場に居た人物です。彼はその著作、「操られたルーズベルト」の中で、恐慌がニューヨークの金融市場で突如欠乏状態となったコールマネーによって引き起こされたものであると説明しています。

「実のところ、それは世界的金融権力が緻密に計算して行った一般国民の『刈り込み』であり、ニューヨークの金融市場で計画したコールマネーの突然の欠乏を引き金にして起こされたものだったのです。
カーチス・ドール(フランクリン・ルーズベルトの娘婿)

2:33:25

その数週間後には30億ドルの富が恰も造作なく消え去りました。そして1年も経たない中に400億ドルが失われたのです。しかし、それは本当に単に消え去ってしまったのでしょうか?それともより少数の手の中に整理統合されただけなのでしょうか?例えば、1929年当時4百万ドルであったジョセフ・P・ケネディーの財産は1935年には1億ドル以上に膨れ上がっています。
そして連銀は何をしたのでしょう? 迅速に利率を下げる事で経済を刺激し、経済を救出する措置に出るかと思いきや、何と過酷にも貨幣供給を更に引き締め続け、恐慌をより深刻なものとしたのです。1929年から1933年にかけて連銀は貨幣の供給量を更に33%も削減しました。
殆どの米国民は恐慌の原因が連銀であった事実を全く聞かされていませんが、それは経済学者の間ではよく知られている事実なのです。ノーベル賞を受賞したエコノミストで、現在、スタンフォード大学の教授であるミルトン・フリードマン氏も1996年に行われたラジオの公開インタビューの中で同じ様に述べています。

「1929年から1933にかけて流通貨幣の供給量を三分の一削減する事により連邦準備銀行が世界大恐慌を引き起こしたのは明白な事実であります。」
ミルトン・フリードマン(ノーベル賞受賞のエコノミスト)

2:34:50

しかし、大恐慌の際にアメリカ人が失ったお金は単に消え去ったのではありませんでした。
恐慌の直前に抜け出し、不況に備えて我々のお金を守る際に常に安全な拠り所である「金」を購入した者達の手に再分配されたのです。
しかし、アメリカのお金は海外にも渡っています。
実に信じ難いことですが、恐慌の深刻化と共に何百万ものアメリカ人が餓死し、フーバー大統領が銀行やまっとうな事業を救済するべく敢然と戦っている最中に何百万ドルと言うアメリカのお金が第一次世界大戦で損害を受けたドイツの再建の為に使われていたのです。
下院金融通貨委員会の議長であったルイス・マクファデン下院議員は、ヒトラーがポーランドを侵略する8年も前に議会に対してアメリカ人がヒトラーが政権を取るための資金を提供していると警告していました。

「第一次世界大戦後、ドイツはドイツの国際的銀行家達の手に陥りました。
それらの銀行家達はその国を買い取って今や我が物とし、その国の一切合財を手中に収めたのです。
彼らはその国の産業を買収し、その国土を抵当に取り、その国の生産活動を制御し、その国のあらゆる公益企業を支配するに至りました。

国際的なドイツの銀行家達は現在のドイツ政府を助成し、また、アドルフ・ヒトラーがブリューニング首相率いる政府を脅かす選挙運動に使った多額のドル資金の全てを注ぎ込んだのです。

ブリューニングがドイツ国際銀行家達の命令に従わなかった時、ドイツ人を脅かして服従させる為にヒトラーが産み出されました…

連邦準備制度理事会を通じて…
300億ドルを超えるアメリカのお金が…
ドイツに注ぎ込まれました…
それがドイツでどの様に出費されたかは我々の全てが聞き及んでいる通りです…

代的な住居群、その大規模な各種プラネタリウム、その各種体育館、その各種水泳プール、素晴らしい各種公共道路、完璧なる工場群。
これらの全てが我々のお金で造られました。
これらの全てが連邦準備制度理事会を通じてドイツに与えられたのです

連邦準備制度理事会は… 何十億に上る余りに膨大な額のドルをドイツに注ぎ込んだ為に彼らは敢えてその総額を口に出そうとはしません。」

ルイス・マクファデン下院議員(民主党‐ペンシルバニア)

2:37:05

フーバー大統領はその任期の最後に当たる年に経営難に陥った銀行を救済するべく必死になって計画書を練り上げ、提出しました。しかし民主党が多数を占める下院の支持を得なければならず、その見込みはなかったのです。その年に行われた1932年の選挙でフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任しました。
ルーズベルトが就任するや大々的な各種緊急対策が直ちに発表されましたが、それらは貨幣供給に対する連銀の力を更に増進させるもの以外の何ものでもなかったのです。そして、連銀はその時になって漸く財布の紐を緩め、飢えたアメリカ人に新たな貨幣を供したのです。

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2.37.48
25.ルーズベルト大統領と第二次世界大戦

当初、ルーズベルトは両替商達を恐慌の張本人として激しく非難していました。信じ難い事ですが、彼は1933年3月4日の就任演説の際に次の様に述べていたのです。

「破廉恥な両替商達の慣行は世論と言う法廷の場で告発され、人々の心と精神によって断罪されました… 両替商達は我々の文明と言う神殿に彼らが築き上げた高座から逃げ出したのです。」
1933年3月4日のフランクリン・ルーズベルト就任演説より

2:38:18

しかし、その二日後にルーズベルトは銀行の休日宣言を発して全ての銀行を閉店させ、その年の後半には全ての金塊と希少コインを除く全ての金貨の私有を非合法化したのです。一般のアメリカ人が所有していた金の殆どが金貨であり、この新たな法令は事実上の没収を意味しました。この法律に従わない者には10年間の禁固刑と1万ドル、現在の価値に換算すると、10万ドルの罰金が課されたのです。

アメリカの町によってはルーズベルトの大統領令を信じない人達がいました。苦労して得た富の保持と政府の命令に対する義務の狭間で多くの人々が板挟みになっていたのです。金を政府に引渡した人々には公定価格が支払われました。1オンス当たり20.66ドルです。 没収命令が余りにも不評であった為にそれを自分が認めたと名乗り出る政府関係者は誰一人としていませんでした。その様に名乗り出る下院議員もいませんでした。調印式の際にルーズベルト大統領はそれを書いたのは自分ではなく自分はそれを読むことすらしていなかったと出席者全員に対してハッキリと言明したのです。財務長官でさえそれを読んだ事がないと言い、それを欲したのは専門家達であったと語りました。ルーズベルトはアメリカを恐慌から抜け出させる為には国の資源を引出さなければならないとして国民に金保有を諦めるよう説得したのです。彼は合衆国政府が不法に没収した金塊の保管場所を新たに築造するよう意気揚々として命令を下しました。1936年にはケンタッキー州のフォートノックスに金塊貯蔵庫が完成したのです。そして、1937年に金が其処に流入し始め、積年の略奪が開始されたのです。

2:40:12

1935年、金塊の搬入が終るや金の公定価格は突如1オンス当たり35ドルに引き上げられました。しかし、その価格で金を売ることが出来るのは外国人に限るとされたのです。バルークの注意に耳を傾けて恐慌の直前に株式市場から引き上げ、金を20.66ドルの価格で購入してロンドンに船積みした両替商達は今や、一般の米国民が飢えている間に、その金を戻して政府に売りつけ、彼らのお金をほぼ2倍にする事が出来る様になったと言う訳です。

フォートノックス金塊貯蔵庫の現場はケンタッキー州ルーイビルの南西30マイルの所に位置するここフォートノックス軍用地の真っ只中に在ります。下院議員の幾人かが我々の撮影班に内部撮影を許可するよう何年にもわたって書面で依頼していたにも拘わらず、これが我々の貯蔵庫撮影に許された至近距離なのです。

貯蔵庫のビルを取巻く広さ4エーカーの土地は高圧の電流を流した鋼鉄の柵が張り巡らされ、建物の角には随所に迫撃砲が配備され、機関銃を持った警備員が我々を尾行しています。
1937年1月13日に金が到着し始めるや、かつてない厳重な警備が敷かれました。何千人にも及ぶ賓客が招待され、フィラデルフィアから9号編成の列車が武装した兵士、郵政監察官、諜報部員、そして合衆国造幣局からの護衛官達の援護を受けて到着するのを見守ったのです。全くの劇的な光景でした。アメリカで供給されている金の全てが、公共の利益の為と言う建前で国中から引き寄せられ、フォートノックスに仕舞い込まれたのです。そして、この厳重な警備体制の全てがやがて政府自らの手によって破られる事となります。

2:41:54

今や、実に大きな戦争の準備が出来ました。第一次世界大戦の時よりも遥かに大きな借金を累積させる事となる戦争の準備が出来たのです。例えば、1944年だけを見ても、合衆国の国民所得が1830億ドルに過ぎなかったにも拘わらず合衆国の戦費は1030億ドルにもなったのです。これは第一次世界大戦に於ける戦費の30倍にも匹敵する額です。実際、アメリカの納税者は連合軍の戦費総額の55%を負担していました。

しかし、第二次世界大戦に関与した全ての国に於いてその負債額が実質的に増倍していた事も同様に重要な事実です。1940年から1950年にかけての日本の負債額は13.48倍にも膨れ上がりました。フランスの負債額は5.63倍、カナダは4.17倍に急増しました。

2:42:54

戦争が終るや世界は二つの経済圏に分割されました。共産主義は独占資本主義に対峙する経済を称賛して大きな利益をもたらす恒久的な軍拡競争に乗り出したのです。
かくして、中央銀行にとっては、全世界の経済機構を集権して遂に彼らの所謂新世界秩序、つまり、世界政府を打ち立てるべく、今や計画の3段階を本格的に踏襲する時となったのです。計画の3段階とは次の通りです

第1段階
中央銀行に世界の国々の国家経済を支配させる。
第2段階
地域経済の中央集権化
欧州通貨統合や北米自由貿易協定
第3段階
世界経済の中央集権化
世界中央銀行や関税と貿易に関する一般協定

第1段階では世界の国家経済を中央銀行に支配させ、第2段階で地域経済を欧州通貨統合や北米自由貿易協定等の形で中央集権化し、第3段階で世界全体の経済を世界中央銀行や世界通貨を確立し、関税と貿易に関する一般協定の様なあらゆる関税と協定を廃止して国家の独立を終焉させると言うものです。

2:48:53

この第1段階はずっと以前に既に完成しており、第2段階と第3段階もかなり完成して終盤を迎えつつあります。では、金はどうでしょう? 中央銀行の中で最大の金保有高を有しているのは国際通貨基金です。このIMFを含む中央銀行は世界金供給の三分の二を支配しており、金市場を操作する能力を得ています。両替商達の黄金律を思い起こしましょう、云わく「金を持つものこそが規則を定める」と。

2:44:21

しかし、我々の問題の解決策についてお話しする前に、フォートノックスの金がどうなったのかを見てみる事にしましょう。何故なら、もし金が盗まれたのであると言う事を我々が理解していなければ、いざ経済恐慌となった暁に金本位制と言う間違った解決策を採るよう彼らが我々を追い遣るのを許してしまう事になるからです。

2:44:38

大半のアメリカ人は金がこのフォートノックスに在ると言う事を未だに信じています。第二次世界大戦が終った時点でフォートノックスに貯蔵されていた金は7億オンスで、世界中の金の70%と言う信じられない程の量でした。今ではどの位の量の金が残っているのでしょう?それは誰も分からないのです。合衆国の連邦法がフォートノックス金在庫の現物監査を求めているにも拘わらず、財務省は一貫して監査の履行を拒み続けて来ました。実際、アイゼンハワー大統領が1953年に監査を命令して以来、信頼し得る金在庫の監査はこれまでに一度たりとも行われてはいないのです。

2:45:18

フォートノックスのアメリカの金は何処に行ったのでしょう? 長年にわたってヨーロッパの両替商達に1オンス当たり35ドルで売られていたのです。時あたかもアメリカ人がフォートノックスから得る如何なる自国の金の購入も不法行為であるとされていた時代であった事を思い出して下さい。実際、ファイアストーン家がフォートノックスの金を買って、そのまま米国の港を経ずにスイスに保存しようとして一連の架空会社を創ったと言う不名誉な事件も発生していました。彼らは、結局、捕らえられ、首尾よく起訴されています。

2:45:51

1971年頃になると、遂にフォートノックスから全ての純金が密かに取り出され、再びロンドンに排出されてしまいました。
フォートノックスから金が取り除かれるとニクソン大統領はルーズベルトが制定した1954年来の金備蓄法を撤回して金の窓口を閉鎖し、漸く、アメリカ人による金の購入を再び合法化したのです。
当然の事ながら、金の価格は直ちに急上昇し始めました。
9年後に、金の価格は1オンス当たり880ドルで売られる様になり、これはフォートノックスの金が売られた価格の25倍に相当する金額です。

最終的に政府内の誰かが現在行われている謀略を嗅ぎ付けて告発してくれるだろうと思う人がいるかも知れません。何と言っても世界の歴史上最大規模の富が盗まれたのです。この話は我々にジェームス・ボンドの映画、「ゴールドフィンガー」を思い起こさせます。それもその筈で「ジェームス・ボンド」シリーズの作家イアン・フレミングはイギリス情報局保安部、MI5の部長を務めた人物だったのです。諜報関係者の中には彼の小説の多くが、他の多くの小説家の様に、人々を警告する為に書かれたものであると信じる者もいます。
しかし、適法に受け渡しが行われた金をフォートノックスから取り除くが如き行為は合衆国の国庫に対する意図的な襲撃であると言うべきで、この様な行動が長年、つまり、40年間もの長きにわたって行われていたやも知れず、それはフレミングがそれを嗅ぎ付けて防ごうとするようになるまでに必要な十分な時間であったに違いありません。

2:47:19

それにしても、フォートノックスの盗難騒ぎは何故に中切れとなったのでしょうか?事の起こりはニューヨーク・ペリオディカルと言う雑誌に掲載された記事にありました。その記事はロックフェラー家がフォートノックスの金をヨーロッパの身元不明の投資家達に特価で売りつけ、連邦準備銀行を操作していると非難したのです。

2:47:47

その3日後、その話しの消息筋となったルイス・アーカンクラス・ボイアーは彼女のニューヨークのアパートの窓から転落すると言う不可解な死を遂げています。ボイアー夫人は何故フォートノックスの金の強奪にロックフェラーが関与していた事を知っていたのでしょう? 実は、彼女は長年にわたりネルソン・ロックフェラーに秘書として仕えていたのです。

次の14年間、この人物、即ち、オハイオの富裕な実業家であったエド・ドゥレル氏がフォートノックスの金に関する真相を一心に追跡調査しました。彼は金の在庫が実際にどの位あってそれ以外の金は何処に消えてしまったのかを明らかにすべく1000人を超える政府の役人と銀行の役員に宛てて何千通にも上る書簡を作成しています。セオドア・ルーズベルトの孫娘であるエディス・ルーズベルトは1975年3月に発行されたニューハンプシャー・サンデー・ニュース紙に政府の行動について次の様な疑問を投げ掛けています。

「我々のフォートノックス金塊貯蔵庫の金が行方不明であるとの疑惑はヨーロッパの金融界で大きな波紋を呼んでいます。
しかし、不可解な事に、政府は我々の金財宝に関して懸念する理由のない事を急いで明確に結論付けようとはしておりません−政府がその様な結論を早急に示す立場にあるのであれば可笑しな話です。」

エディス・ルーズベルト

2:49:05

残念な事に、エド・ドゥレルがフォートノックスに於ける金在庫の全面監査と言う彼の主な目的を達成する事は遂にありませんでした。
世界最大の財宝が会計や監査に殆ど付されなかったと言うのは実に信じ難い事です。この金はアメリカ国民のものであって連邦準備銀行やその外国人株主のものなのではないのです。一つ確かな事は、政府はその監査を行って報道陣の熱いカメラの下に曝し、広く公開していれば、それらの憶測の全てを数日間のうちに排除する事が出来たと言う事です。しかし、政府はそうしない事としたのです。我々はその様な監査によって明らかにされる真実を彼らが恐れているのだと結論せざるを得ません。政府は、一体、何を恐れているのでしょうか?
その解答がここにあります。

1981年にロナルド・レーガンが大統領に就任した際、彼の保守派の友人達は政府の出費を抑える唯一の手段として金本位制を復帰する事が彼に可能であるか研究するよう強く促しました。その勧告内容が適切な選択肢であるかの様に思われため、レーガン大統領は金委員会と称する人々の一団を任命し、現況を調査して議会に報告するよう求めました。はたして1982年にレーガンの金委員会が議会に報告した内容は合衆国の財務省が全く金を保有していないと言う金に関する新たな衝撃的事実でした。フォートノックスに残った金は今やその全てを民間銀行の一団である連邦準備銀行が国債の担保として所有するものとなっていたのです。これ程に多額のお金が一般国民の手から盗まれて少数の民間投資家からなる一団、即ち、両替商達の手に渡った例は未だ嘗て決してなかったと言うのがその真相なのです。

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