2009-01-03
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リンカーンが排除された後に両替商達が目指した次の目標はアメリカの貨幣を完全に支配する事です。これは簡単な事ではありませんでした。
アメリカの西部開拓と共に銀が大量に発見されました。それに加えてリンカーンのグリーンバック紙幣は広く受け容れられていました。ヨーロッパの中央銀行のグリーンバック紙幣に対する意図的な攻撃にも拘わらず、グリーンバック紙幣は合衆国で流通を続け、実際に数年前まで出回っていたのです。
歴史家のクレオン・スクーセンは次の様に述べています。
南北戦争の直後にリンカーンが短期的に行った合憲的通貨制度の実験的取り組みに関する論議が盛んに行われました。
ヨーロッパに於ける通貨信託の介入がなければそれは間違いなく確立された制度となっていたでしょう。
クレオン・スクーセン
負債を伴わない自らの紙幣を発行すると言うアメリカの考え方がヨーロッパ中央銀行のエリート達に衝撃的な波紋を投げかけたのは明らかです。彼らはアメリカ国民がより多くのグリーンバック紙幣を発行するよう強く要求しているのを恐怖の目で見詰めていたのです。彼らはリンカーンを殺害しましたが、貨幣についての彼の考えに対する支持は日増しに高まっていました。
リンカーン暗殺の約1年後、1866年4月12日、連邦議会はヨーロッパの中央銀行らの命を受けた仕事に取り掛かりました。流通しているグリーンバック紙幣の一部引き上げを開始する権限を財務省に与え、それによって通貨を収縮する引締法案を可決成立させたのです。
作家のテオドール・ソレンとリチャード・ワーナーは彼らの有名な本の中で、貨幣供給量の削減がもたらした結果について次の様に説明しています
「南北戦争後の困難な時代はグリーンバック紙幣に関して制定された法律がリンカーン大統領の意図した通りに継続されていれば避ける事ができたであろう。しかし、そうしなかった為に我々のいわゆる不況、つまり、一連の金融恐慌が起こり、それが議会に圧力をかけて金融システムを中央管理下に置く法律が制定された。そして、最終的に連邦準備法が1913年12月13日に成立する事となったのである。」
これを言い換えると、両替商達は二つの事を欲していると言う訳です。一つは中央銀行を再び設置して自らの独占的管理下におく事、二つ目はアメリカの通貨を金本位にさせる事です。彼らの戦略も二通りになっていました。第1番目の戦略は一連のパニック状態を創り出してアメリカ人に経済の安定化は貨幣供給の中央管理に拠ってのみもたらされると信じ込ませる事です。そして二番目の戦略は殆どのアメリカ人が銀行家達の事を気に掛ける暇などない、或いは彼らに反対するには余りに弱小な絶望的貧困者とする為に必要な大量の貨幣をその通貨体制の中から取り除いてしまう事です。
西暦年 貨幣量総額 国民一人当たり
1866 18億ドル 50.46ドル
1866年、アメリカ合衆国 で流通していた通貨量は18億ドル、国民一人当たりに直すと約50.46ドルでした。
1867年だけで合衆国の貨幣供給量から5億ドルが除去されました。10年後の1876年に於ける貨幣供給量は僅か6億ドルに縮減されています。つまり、米国の通貨の三分の二が銀行家達によって回収された事になる訳です。
西暦年 貨幣量総額 国民一人当たり
1866 18億ドル 50.46ドル
1867 13億ドル 44.00ドル
1876 6億ドル 14.60ドル
1886 4億ドル 6.67ドル
10年後の貨幣供給は人口が急上昇したと言うのに僅か4億ドルに縮減されたのです。その結果、貨幣の流通量は国民一人当たり僅か6.67ドルに留まり、何と760%の購買力が20年間で失われた事になります。
今日、エコノミスト達は不況や恐慌が彼らの所謂「景気循環」、つまり何か自然的現象の一部であるかの様に思わせようとしています。しかし、その真相は我々の貨幣供給が嘗てそうであり、南北戦争後もそうであったのと同様、今でも相変わらず操られていると言う事なのです。
それは如何にして起きたのでしょうか?貨幣がそんなにも不足したのは何故でしょうか?答えは簡単です。銀行が貸付金を回収し、新たな貸付を行わなかったからなのです。それに加えて銀貨も崩壊させられてしまったのです。
1872年、アーネスト・サイドと言う人物がイングランド銀行から約50万米ドルに相当する10万英国ポンドを握らされて銀を廃貨にする為に必要な議員を買収すべくアメリカに送られて来ました。彼はもしその金額が不十分であれば更に10万ポンドを、もしくは必要なだけ引出すように言われていたのです。
その次の年、議会は1873年の貨幣法案を通貨させ銀のドル貨が突如として鋳造されなくなりました。実際、その法案を議会に提出したサムエル・フーパー下院議員はそれを実際に起草したのがサイド氏であった事を認めています。しかし、事態はより深刻なものとなりました。1874年、サイド自らがその策動の背後にある人物がいる事を認めたのです。
「私が、もし可能であれば、銀を廃貨にする法案の通過を確実なものとするよう委任されてアメリカに来たのは1872〜73年にかけての冬でした。それは私が代理していた本人 −イングランド銀行の理事達− の利益の為にした事です。1873年までに金貨が唯一の鋳造貨幣となりました。」
アーネスト・サイド
しかし、アメリカの貨幣の支配を巡る争いは未だ終っていませんでした。この僅か3年後の1876年にはアメリカの労働者の三分の一が失業状態におかれましたが、人口は弛まず急増を続けていました。人々はリンカーン大統領のグリーンバック紙幣制度や銀貨の復旧、貨幣量をより多くする如何なるものも強く求める様になっていたのです。
その年、議会はこの問題を研究する為に合衆国銀委員会を立ち上げました。この委員会の報告書は通貨の収縮に対する国立銀行の責任を明確に追求しています。
「暗黒時代の厄災は貨幣の削減と価格の低落に起因する… 貨幣がなければ文明の始まりは有り得べくもなく、貨幣の量が減少して行けば文明は間違いなく衰退し、救済されなければ終に滅亡する。」
「キリストの時代に於けるローマ帝国の金属貨幣は18億ドル相当に及ぶものであったが、15世紀の終わりまでに20万ドル未満にまで縮減した… ローマ帝国から暗黒の時代へと移り変わったこの様な悲惨な変遷は歴史にその類を見ない…」
合衆国銀委員会
この銀委員会の報告書にも拘わらず、議会は何ら行動を起こしませんでした。次の年の1877年、ピッツバーグからシカゴに至るまで暴動が発生しました。飢餓に苦しむ暴徒達の松明が空を照らしたのです。銀行家達はそれをどうするか決めるために談合しましたが、その決定たるやそのまま踏み止まると言うものでした。今や支配を取り戻したのであるから、それを諦めるような事はしないと言う訳です。その年に開かれた米国銀行協会の会合で彼らは協会員に対し、彼らの権力で出来る総ての事を行ってグリーンバック紙幣の復帰と言う考え方を扱き下ろすよう駆り立てています。この米銀協(米国銀行協会)の事務局長であったジェームズ・ブエルは協会員に対する書簡をしたため、議会のみならず報道界も堕落させるようあからさまに要求したのです。
「貴方の権力の総てを行使してグリーンバック紙幣の発行に反対する有名な日刊新聞や週刊新聞、特に農業および宗教関係の報道機関への支援はこれを維持し、また、政府による貨幣の発行に反対するのを渋る報道機関への支援は総て与えないとするのが望ましい。
…銀行紙幣を創り出す法律を廃止したり政府が発行する貨幣を再び流通させたりすると人々にお金を提供する事となり、従って、銀行や貸出し業を営む我々の個人的利益に深刻な影響を与える事となる。
直ちに貴方の議員と会い、法律制定の制御に向けた我々の関心に支持を与えるべく確約させるよう求める。」
米国銀行協会ジェームズ・ブエル
議会では変化への政治的圧力が高まり、報道界はアメリカ国民の目を真実から遠ざけようとしました。1878年1月10日付のニューヨーク・トリビューン紙は次の様な報じ方をしています
「我国の議事堂は漸く纏りを得たが、議会がそれでも敢えて分別に反する様な事をするか見ものである。」
3年後の1881年、アメリカ国民はジェームズ・ガーフィールドを大統領に選出しました。ガーフィールドは経済が如何に操られているか解っていました。下院議員だった時に歳出委員会の議長を務めており、また、銀行及び通貨委員会の委員でもあったのです。大統領に就任した後の1881年、彼は両替商達を公然と非難しました
誰であろうと貨幣の量を制御する者は全ての産業と商業の絶対的な主となる…そして最上部にいる一握りの有力者達がシステム全体を何らかの方法で極めて容易にコントロールしているのを知るや、インフレと不況の時期が何に由来するのか、自ずと明白になる。」
ジェームズ・ガーフィールド
残念な事に、この声明を発した数週間後の1881年7月2日にガーフィールド大統領は暗殺されてしまったのです
両替商達は急速にその力を蓄えて行きました。彼らは幾千もの家や農地を二束三文で買い取る事ができる様に経済の好況を創り出し、更に不況がそれに続く様にする彼らの所謂「集団の羊毛を刈り」を開始したのです。1891年、両替商達はアメリカの経済を再び下降させる準備を整えました。そして、殆どの銀行がその会員となっている米銀協、即ち、米国銀行協会が会員に送ったメモの中に彼らのやり口と動機の何たるかが衝撃的な明快さをもって書き記されていました。このメモが3年後のある一定の日に不況を創り出すよう銀行に求めている事に注意して下さい。連邦議会議事録に拠ると、その手紙の一部は次の様に記しています
「1894年9月1日、貸付金の延長については一切考慮しない。
9月1日の時点で全ての貸付金を直ちに返済するよう求める。
我々は担保権を行使して物権を所有する抵当権者となる。
我々はミシシッピー西部の農場の三分の二ならびにミシシッピー東部に於ける何千もの農場を我々自身の決める価格で申し受ける…
そうする事で農民達は英国に於けると同様な小作人となる…」
米銀協 米国銀行協会 1913年4月29日付連邦議会議事録より
それらの不況はアメリカが金本位制を採用していたため操作する事が出来ました。金は希少な物質で、最も操作しやすい商品の一つなのです。国民は金貨による両替商達の締め付けから逃れるために銀貨を再び合法化するよう求めたのでした。人々は当時「73年の犯罪」と呼ばれていたサイド氏が1873年にしでかした行為を覆す為にも銀貨の復帰を要求したのです。
1896年までにはより多くの銀貨の投入と言う問題が大統領選の争点になりました。銀の自由化鋳造を巡る論議を機に民主党から大統領選に出馬したネブラスカ州出身の上院議員であるウィリアム・ジェニングス・ブライアンはシカゴで行われた民主党の全国党大会で指名獲得の契機となった「茨の冠と金の十字架」と題する人々の感情に訴える演説を行いました。当時、ブライアンは僅か36歳の若輩でしたが、その演説はかつて党大会で行われた最も有名な弁舌であると広く認められています。その演説の劇的な結論の中で彼は次の様に述べています。
「我々は金本位制を求める彼らの要求に対しては次の様に応じよう
汝は労働者の額に茨の冠を押し付ける勿れ、汝は人類を金の十字架に張り付ける勿れ。」
ウィリアム・ジェニングス・ブライアン
銀行側は共和党のウィリアム・マッキンリー候補を惜しみなく支持しました。ウィリアム・マッキンリーは金本位制に好意的であった人物だからです。この二人の選挙はアメリカの歴史の中で最も激しく争われた大統領選の一つとなりました。ブライアンが27の州で600を超える演説を行ったのに対し、マッキンリーの選挙運動は製造業者や実業家らに、もしブライアンが大統領になる様な事があれば全ての工場は閉鎖されて仕事がなくなる事を自らの従業員に伝えさせると言うものでした。
この策略は成功しました。マッキンリーが僅差でブライアンを破ったのです。ブライアンは1900年と1908年に再び大統領選に出馬しましたが叶いませんでした。1912年の民主党大会でブライアンは大いにその力を発揮してウッドロウ・ウィルソンが指名されるのを援けています。大統領となったウィルソンはブライアンを国務大臣に起用しました。しかし、ブライアンは、やがて、ウィルソン政権に幻滅します。アメリカを第一次世界大戦に駆り立てる為に使われた極めて疑わしい客船ルシタニア号の沈没を巡って1915年に辞職するまで彼がウィルソン政権に仕えたのは僅か2年でした。ウィリアム・ジェニングス・ブライアンは大統領になる事は決してありませんでしたが、彼の努力によって両替商達は新たな私有中央銀行をアメリカに設けると言う次の目標の達成を17年間遅らされる破目になったのです。
両替商達にとっては今や仕事に戻って新たな私有の中央銀行をアメリカに設置する時となったのです。 1900年代の初頭、JPモルガンの様な人物達がその仕事を受け持つ事となりました。彼らは中央銀行が必要であるかの様に国民に思い知らせる為には最後に今一つの恐慌が必要であるとしました。中央銀行が必要なのは中央銀行のみが銀行の破綻を防ぎ得るからだと言う事をその根拠にしたのです。
モルガンは明らかにアメリカで最も有力な銀行家で、ロスチャイルド家の代理人であると疑われていました。モルガンはジョン・D・ロックフェラーがスダンダードオイル帝国を築く際に資金援助しており、また、エドワード・ハリマンの鉄道やアンドリュー・カーネギーの鉄鋼等、夥しい数の産業を独占する際に資金を拠出しています。
その上、JPモルガンの父であるジュニアス・モルガンはアメリカに於ける英国の財務エージェントでした。その父の死後にJPモルガンは長年にわたりイングランド銀行の理事を務めていたエドワード・グレンフェルを英国のパートナーとして向かい入れています。
実際、モルガンが死亡した時点に於ける彼の財産価値は僅か数百万ドルに過ぎません。殆どの人達が彼のものであると思っていた証券類の大部分は実は他の人物が所有していたものだったのです。1902年、セオドア・ルーズベルトはシャーマンの反トラスト法を駆使してモルガンとその友人達を追い込み、彼らの産業独占を打ち破ろうとしたと言われています。
しかし、実際のところ銀行家達とその代理人らにより増大を続けていたアメリカ産業の独占化を妨げる上でルーズベルトは殆ど何もしていなかったのです。例えば、ルーズベルトはスタンダード石油の独占を打ち破ったと一般に信じられていますが、実際には全く打ち破られてなどいないのです。つまり、それは単に7つの企業に分割されだけで、依然としてロックフェラー家の支配下に置かれていたのです。この事は銀行家達を金銭信託として呼んでいた漫画家のトマス・ネイストのお陰で一般の国民にも知られていました。
ルーズベルトが大統領に再選された翌年の1907年頃になるとモルガンは再び中央銀行の設立に向けて動く時期であると判断しました。モルガンとその友人達は自分らの財力を束ねて秘密裏に株式市場を暴落させる事が出来たのです。何千と言う数の小さな銀行が返済能力を遥かに上回る債務超過となったのです。小額準備金増幅運用方式により、中には準備金が1%未満に過ぎない銀行もありました。
数日間の中に取り付け騒ぎが国中の至る所で見られる様になりました。そしてモルガンは公の舞台に登場する様になり、彼は自分が何もない所から創り出した金を使って銀行を援け、悪化したアメリカの経済を支えるなどと申し出て来たのです。
これは言語道断な申し出であり、小額準備金増幅運用方式よりも遥かに悪辣なのですが、議会は彼にそうさせたのです。かくしてモルガンは準備金など全くない2億ドル相当の民間資金を造り出して業務の支払に充てると共にその一部を彼の銀行支店に送り、利子を付して貸付けたのです。
彼の計画は功を奏しました。国民は概ね貨幣への信頼を取り戻し、通貨の秘蔵を止めたのです。しかし、その結果、銀行の力は更に少数の大銀行の手中に統合されて行く事となったのです。
1908年までに恐慌は終息し、「ウッドロウ・ウィルソン」と言う名のプリンストン大学の学長はモルガンを英雄として絶賛しました。
「もし、我々がJPモルガンのような公共心のある人物から成る6人ないし7人の委員を任命して国事を取り扱わせていればこの様な困難は全て回避する事が出来ていただろう。」
ウッドロウ・ウィルソン
後の経済学の教科書は連邦準備制度の創設が1907年に起きた恐慌の直接の結果であったと説明し、「この異様な銀行破綻の蔓延により国は不安定な民間銀行がもたらす混乱にうんざりした」等と記載する様になりました。
しかしミネソタ州選出の下院議員であり、「ラッキー・リンディー」として知られる有名な飛行士でもあるチャールズ・リンドバーグ二世は後に1907年の恐慌が実は単なる詐欺であった事を説明し、次の様に述べています。
「金銭信託にとって有益でない者は失職の憂き目に会う恐れがあるため、人々は恐れをなして金銭信託が形作る枠組に則して金融や通貨に関する法律を変更するよう強く求めるようになる。」
チャールズ・A・リンドバーグ下院議員(共和党‐ミネソタ)
このように、1963年に国立銀行法が成立して以来、両替商達は一連の好況と不況を創り出す事が出来たのです。その目的はアメリカ国民の財産を刈り取るだけではなく、後日、銀行制度が余りにも不安定であるが故に再び一つの中央銀行に結束させる必要があると主張する為でもあったのです。
経済破綻の後、セオドア・ルーズベルトは1907年恐慌の経験を踏まえて国家通貨委員会と称する機関を設立する法案に署名し、法制化しました。同委員会は金融上の問題を検討し、議会に勧告するものでしたが、この委員会がモルガンの友人達とその取巻き連中でギッシリと構成されていた事は言うまでもありません。
委員会の議長はロードアイランド州出身の上院議員でネルソン・オルドリッチと言う人物です。オルドリッチはアメリカで最も裕福な銀行家達の家族が住むニューポート、ロードアイランドホームズの代表でした。彼の娘はジョン・D・ロックフェラー二世と結婚し、この夫妻には5人の息子達、即ち、ジョン、1974年に副大統領となったネルソン、ローレンス、ウィンスロップ及び外交問題評議会の長でチェース・マンハッタン銀行の前会長でもあったデービッドがいます。
国立通貨委員会が設立されると直ぐにオルドリッチ上院議員は急遽2年間のヨーロッパ旅行に旅立ち、そこで英国、フランス、ドイツの中央銀行家らと長期の会談を行いました。納税者に負担させたその費用は彼の旅費だけで何と30万ドル、当時のお金では天文学的な金額だったのです。
彼が帰国した直後の1910年11月22日の夜、アメリカで最も裕福で最も有力な人物達の団体がオルドリッチ上院議員の自家用軌道車に乗り込み、厳重な極秘裏の内に出立した先は;ジョージア州の沖合いに位置するジェキル島でした。
この団体にはポール・ウォーバーグが同行していました。ウォーバーグはアメリカの民間中央銀行に関する決議案の採択を目指してロビー活動を行っていた人物で、投資会社のクーン・ローブ商会から年間50万ドルの給与を支給されていました。
この会社に於けるウォーバーグのパートナーはジェイコブ・シフと言う名の人物で、彼はドイツのフランクフルトで「緑の盾」の家にロスチャイルド家と一緒に住んでいた人物の孫に当たります。このシフは、後に詳しく説明しますが、ロシア皇帝の転覆に資金を提供するべく20万ドルを出費している最中でした。ヨーロッパのこれら三つの金融ファミリー、即ち、ロスチャイルド家、ウォーバーグ家及びシフ家は、アメリカの金融ファミリーであるモルガン家、ロックフェラー家及びオルドリッチ家と全く同様に、長年に亘る相互結婚を通じて姻戚関係にあったのです。
秘密は極めて厳重に守られ、主要な参加者は使用人らに誰であるか気付かれないよう、家名を伏してファーストネームだけを用いるよう警告されていた程です。数年後、その参加者の一人、ニューヨークのナショナルシティバンクの頭取でロックフェラー家の代理人でもあったフランク・バンダーリップは1935年2月9日付のサタデイー・イブニング・ポスト紙でジェキル島に旅行した事実を認め、次の様に語っています。
「私は人目を避けていました −さも陰謀家らしくコソコソとしていたのです… 発見されれば我々の時間と努力の全てが無駄になり、断じてあってはならないと言う事を我々は知っていました。
我々の特定集団が寄り添って金融法案を執筆した事が発覚すれば議会で通過する見込みが全くなくなるのです。」
フランク・バンダーリップ
参加者達がここに来たのは彼らの主要な問題を如何に解決するか、つまり、私有の中央銀行を如何にして復活させるかと言う問題の答えを見つけ出す為だったのです。しかし、取り組まなければならない問題は他にもありました。
その第一は、大手国立銀行の市場占有率が急速に縮小していた事です。世紀始めの10年間で合衆国に於ける銀行の数は2倍以上の20,000行に達していました。
1913年までに、全銀行のうち、国立銀行が占める割合は僅か29%で、これは預金総額の57%に過ぎませんでした。オルドリッチ上院議員も、後に、ある雑誌の記事の中で次の様に認めています。
「この法律が成立する以前にニューヨークの銀行が制覇できたのはニューヨークの準備金のみだった。
しかし、今や、国全体の銀行準備金を制覇する事ができる。」
ネルソン・オルドリッチ上院議員
それ故、それらの銀行を彼らの支配下に置く為に何かをする必要があったのです。ジョン・D・ロックフェラーは云いました。「競争は罪である」と。
第2に、米国の経済が極めて強力であった為に企業は大銀行から得る巨額の借入金に頼る事なく自ら得た利益を資金に事業を拡大し始めたことです。新たな世紀が始まった最初の10年間に於ける企業資金はその70%が自らの利益から得たものだったのです。換言すると、アメリカの産業は両替商達から独立しつつあり、その様な傾向は何としても停止させる必要があったのです。
それらの問題を打開して有効な解決策を得る事が出来ると言う事は全員の参加者が了解していましたが、彼らの最大の問題は、おそらく、人々にそれをどの様にアピールするか、つまり、新たな銀行の名称を如何にするかと言う問題だったのです。その協議は今日、ジェキル・アイランド・クラブ・ホテルの名で知られている壮大なこのホテルにある多数の会議室の一つ、私が今立っている正にこの部屋で行われました。
オルドリッチは「銀行」と言う語をその名称の表に出してはならないと信じていました。ウォーバーグは法案の呼び名を「国家準備法案」か「連邦準備法案」にしたいと思っていました。何故なら、その名称であれば新しい中央銀行が銀行の取付け騒ぎを終らせる事が目的であるかの様な印象を与え、同時にその独占的性格を隠匿する事になるからです。ところが、殊更に自己中心的な政治家であったオルドリッチはそれを「オルドリッチ法案」とすべきであると主張して押し通したのです。
9日間に及ぶジェキル島での協議を終えた後、グループは解散しました。新しい中央銀行は旧合衆国銀行と酷似していました。合衆国の通貨に対する独占権が与えられ、無からお金を創り出す事となるのです。
連銀は如何にして無からお金を「創出」するのでしょうか?それは4つの段階を経て行われます。しかし、その前に国債について一言。国債は単なる支払いの約束で、政府の借用書です。人々は利率を確保する為に国債を購入します。国債の期限が満了すると政府はそのお金に利子を添えて返済し、国債は破壊されます。現在、約3.6兆ドル分の国債が出回っています。それでは、連邦準備銀行の通貨製造過程を説明しましょう。
第1段階 連邦公開市場委員会が合衆国国債の購入を承認する。
第1段階 連邦公開市場委員会が公開市場に於ける合衆国国債の購入を承認します。
第2段階 連邦準備銀行が国債を購入する。
第2段階 連銀は公開市場で売られている国債をどの様な売り手からも購入します。
第3段階 売主の銀行に電子クレジットで国債を支払を行う。このクレジットの基になっているものは何もない。
第3段階 連銀は売主の銀行に電子クレジットで国債の代金を支払い、それが売主の銀行口座への信用供与となる。この策略の要はそれらのクレジットには何ら根拠がないと言う事実にあります。連銀は単にそれを創り出すだけなのです。
第4段階 銀行はそれらの預金を準備金として活用する。それらの銀行は自らの準備金の10倍以上の金額を、全て利子を付して、新たな借り主に貸し出す事が出来る。
第4段階 各銀行はそれらの預金を準備金として使用します。その準備金額の10倍以上を全て利子を付けて貸し出すのです。
この様にして連銀は、例えば、100万ドル相当の国債を購入すると、それを銀行口座で1000万ドルに増幅するのです。この全く新たなお金の10%は、事実上、連銀が創り出し、そしてその90%は銀行が創り出しているのです。
経済に注ぎ込まれたお金の額を減少させる場合にはこれと丁度反対の事が行われます。つまり、連銀は国債を一般に売り出し、お金が地方の銀行から流出して来ます。お金の貸出額は国債販売額の10倍分少なくなります。つまり、連銀が100万ドル分の国債を売りに出すと経済に注ぎ込まれているお金の1000万ドル分が不足する事になるのです。
では、自らの代表者達をジェキル島に送り込んで談合させた銀行家達にそれはどの様な利益をもたらしたのでしょうか?
一つ目‐銀行改革の方向性を誤らせた。
一つ目は、銀行改革の努力が適切な解決策に向かわず全く間違った方向に行ったことです。
二つ目‐グリーンバック紙幣が復帰するのを防いだ。
二つ目は、リンカーンのグリーンバック紙幣の様に負債を伴わない適切な政府の金融システムが再び復帰して来るのを防げたことです。リンカーンがグリーンバック紙幣を創った後に強制的に押し付けられた国債ベースの政府金融システムは今や固い石の護りを得たのです。
三つ目‐我々の貨幣供給の90%を造る権利の委譲を受けたこと。
三つ目は、銀行家達が小額準備金の増幅運用のみをベースに我々の貨幣供給の90%を創出して、しかも利子を付してそれを貸し出す権利を委譲されたことです。
四つ目‐我国の貨幣供給全体が一握りの人物の手の中で中央管理される事になったこと。
四つ目は、我国の貨幣供給が全体的に一握りの人物の手の中で中央管理される様になったことです。
五つ目‐実質的な政治的支配を受ける事のないよう高度に独立した中央銀行を設立したこと。
五つ目は、実質的な政治的支配から高度に独立した私有の合衆国中央銀行を新たに設立したことです。この創立後間もない1930年代初頭に連銀が通貨の大収縮を行った事に因り世界恐慌が発生、以来、諸種の法律が追加されて中央銀行の独立性が高められたことです。
国民を欺いて政府が依然コントロールしていると思わせるべく、その計画は連邦準備制度が大統領の任命と上院の承認による理事会によって運営される内容になっていました。しかし、自分らの息のかかった人物が必ず理事に任命される様にする事こそ全ての銀行家達がしなければならないことだったのです。それは難しい事ではありませんでした。銀行達はお金を持っており、政治家に対する影響力はそのお金で買えたのですから。
参加者達はジェキル島を発つと直ちに集中的な広報作戦を展開しました。ニューヨークの大銀行が5百万ドルの教育資金を寄せ集めて有名な総合大学の教授達に資金を提供して新たな銀行を支持するように仕向けたのです。プリンストン大学のウッドロウ・ウィルソンはその時流の一番乗りとなった者の一人でした。
しかし、銀行家達の口実は上手く行かず、オルドリッチ法案が金銭信託として知られる様になったものを益するだけの銀行法案である事が忽ち明らかになったのです。チャールズ・A・リンドバーグ下院議員は議会での討論の中でこれを次の様に言い表しています。
「オルドリッチの計画はウォール街の計画である。
それは、必要なら今一つの恐慌を演出して人々を脅かそうと言うものだ。
オルドリッチは、国民を代表し、政府から報酬を得ていながら、
国民の為にではなく金銭信託の為の計画を提言しているのである。」
チャールズ・A・リンドバーグ下院議員(共和党‐ミネソタ)
議会での投票による勝利の見込みがないと見た彼らは共和党の指導部にオルドリッチ法案を投票に付させる事を決してしませんでした。銀行家達は2番目の選択肢、民主党路線へと密かに移動する事にしたのです。
彼らはウッドロウ・ウィルソンに民主党の大統領指名候補として資金を提供し始めました。
高名な歴史家であるジェームズ・パーロフが述べている様に、ウォール街の金融家であるバーナード・バルークがウィルソンの教育を担当したのです。
「バルークは1912年にウィルソンを、紐で縛ったプードル犬の様に先導しながら、
ニューヨークの民主党本部に連れて来ました。
ウィルソンはそこに招集された指導者らによって思想教育を施されたのです。」
ジェームズ・パーロフ
かくして、舞台は整いました。両替商達は自ら私的に所有する中央銀行を再び設置する用意が出来たのです。76年前にアンドリュー・ジャクソン大統領によって被った損害は南北戦争中に国立銀行法が成立した事で部分的に修復されていました。以来、闘いは数十年にわたって盛んに行われて来たのです。ジャクソン主義の人達はグリーンバック紙幣の復興を唱える様になり、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンの熱烈な支持者となりました。ブライアンが非難の先頭に立つに連れて両替商達に反対する人々はバルークの指導を無視、民主党のウッドロウ・ウィルソンを応援する様になったのです。やがて、彼らはブライアンともども裏切られる事となります。