Anti-Rothschild Alliance

資料室

動画『The Money Masters』の翻訳テキスト page.3 (1:04:21〜1:31:30)

2009-01-03

お金を操る者達

国際的銀行家達はどの様にアメリカを掌握したのか

Page.3

1:04:21
15. 第二合衆国銀行

ここで、1816年のワシントンに目を転じると、ワーテルローの戦いとロスチャイルド家によるイングランド銀行の乗っ取り疑惑から僅か1年後にアメリカ議会は今ひとつの私設中央銀行の設立を許可する法案を通過させています。

1:04:40

この銀行はセカンド・バンク・オブ・ユナイテッド・ステイツ(第二合衆国銀行)と呼ばれました。この新たな銀行の設立趣意書は以前の銀行の複製版でした。合衆国政府が株式の20%を所有すると言う訳です。政府が所有する株式の支払が合衆国財務省によりこの銀行の金庫の中に前もって入金された事は言うまでもありません。

1:04:57

そして、それは、例の小額準備金増幅貸付の魔法によって、残り80%の株式を購入する個人投資家への貸付金に変貌するのです。

1:05:08

前の中央銀行と同様に主要な株主が誰であるかは秘匿されていました。しかし全体の三分の一を占める株式が外国人に売られている事が知られています。当時の観察者の一人はその事指して第二合衆国銀行の根がアメリカに於けるとの同様にイギリスにも深くその根を下ろしていると言っても決して誇張ではないと言っています。 事程左様に1816年頃迄にロスチャイルド家がイングランド銀行を掌握すると共にアメリカの新たな私設中央銀行を背後から支援したとする著述家もいます。

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1:05:40
16. アンドリュー・ジャクソン

第二合衆国銀行による合衆国の経済の12年に亘る操作はアメリカ国民を辟易させました。この銀行の反対者達はニューオリンズの戦いの英雄であったテネシー州出身の威厳あるアンドリュー・ジャクソンを大統領選の候補として指名しました。

1:06:04

これは彼が隠居生活を送っていた住処跡です。ジャクソンは、当初、誰からも機会が与えられる事はありませんでした。銀行はずっと以前から政治の仕組みを金で左右する術を心得ていたからです。それだけにジャクソンが1828年に圧勝した際には両替商達は驚愕し、狼狽したのです。ジャクソンは機会のあり次第に直ちに銀行を打ち砕く決意を固めていましたが、20年間有効の銀行特許は1836年まで更新される事はありませんでした。その年はジャクソン大統領がその二期目の任期を全うする事となる最終年に当たります。

1:06:43

ジャクソンの第1期目に彼は多くの銀行の手先を官界から根絶する事で満足しました。彼は連邦政府の役人11,000人の中の2,000人を解雇したのです。大統領の再選が行われる1832年が近づくと銀行側は、ジャクソンが議論を巻き起こす事のないよう願いつつ、早期の対抗措置を打ち出しました。第一合衆国銀行の特許更新法案を4年早く可決するよう議会に求めたのです。議会は当然の如くその要求を受け入れ、大統領に署名を求めました。しかし、オールドヒッコリー(ジャクソンのニックネーム)は決して腰抜けではありませんでした。彼は拒否権を行使してその法案を撥ね付けたのです。この拒否権を発動した際の彼のメッセージはアメリカの偉大な公文書の一つとなっており、アメリカ政府の国民に対する責務を貧富の別なく明確に述べています。

1:07:32

政府の恩恵を享受しているのは我々の国民だけではない。
この銀行の8百万を超える株式を外国人が保有している・・・我国との結付きを本質的に殆ど有さない銀行に我々の自由と独立に対する危険は全くないであろうか?

我々の通貨を支配し、公金を受領し、多数の国民を依存状態に据え置く事…は敵の軍事力よりも恐ろしい危険なものとなろう。

もし(政府が)保護の平等に撤し、天が身分や貧富の差を問う事なく雨を降らし、恵みを豊かに注ぐのであれば、それは恩恵の無条件であるべき事を示すものと言えよう。
私の前に出されたこの法案はこれらの正義の原則から広範囲かつ不必要に逸脱するものの様に思われる。

アンドリュー・ジャクソン

1:08:32

その年の1932年7月、議会はジャクソンの拒否権の発動を覆す事は出来ませんでした。そしてジャクソンは大統領の再選に向けた戦いを行う事となります。ジャクソンは彼の主張を直接国民に訴え、合衆国の歴史上初めて街頭で大統領選の選挙運動を行ったのです。それ以前の大統領候補は家にいて如何にも大統領らしく振舞っていたのです。ジャクソンのスローガンは「ジャクソン在りて銀行不要!」でした。国民共和党はヘンリー・クレイ上院議員を立ててジャクソンに対抗しましたが、銀行家達が3百万ドルをクレイの選挙運動に投入したにも拘わらず、ジャクソンは1832年の7月に大差の勝利を果たして再選されました。

1:09:16

大統領選に勝利したとは言え、ジャクソンは戦いが未だ始まりに過ぎない事を知っていました。この新しく選出された大統領は「腐敗と言う怪獣は傷を受けて動けなくなっただけで、まだ死んではいない。」と語ったのです。ジャクソンは新任の財務長官であるルイス・マクレインに第二合衆国銀行に政府預託金を引き出して安全な銀行に預ける作業を開始するよう命令しました。しかしマクレインはそれを拒否した為、ジャクソンは彼を解任してウィリアム・ジェイ・ドゥアンを新たな財務長官に任命したのですが、ドゥアンもまた大統領の要求に応じる事を拒否したため、ジャクソンはやむなく彼も解任したのです。次に財務長官に起用されたのはロジャー・ビー・テネイでした。テネイは1833年10月1日に第二銀行からの引出しを開始しました。ジャクソンは大いに喜び、「私は怪獣を縛り上げる鎖を得た。その牙の全てを抜き取り、次には残根を取り除く為のスクリューと共に準備は整っている。」と述べています。しかし、銀行側の戦いは未だ終っていませんでした。銀行の長であったニコラス・ビドルは上院に対する自らの影響力を行使してテネイの任命を拒否するよう働きかけたのです。そして、ビドルは、稀に見る傲慢さをもって、銀行が再び特許されなければ不況を引き起こすと脅迫したのです。

このお偉い大統領はインディアンの頭皮を剥ぎ、
判事達を投獄した事に気を吐いて
銀行も自分の思い通りに出来ると考えている。彼は間違っている。

ニコラス・ビドル

1:10:41

ビドルは、中央銀行の頭であるとは信じられない程の本音を吐き、議会に銀行の復活を強制するべく貨幣の供給量を激減しようとしている事を認めたのです。

「議会に何らかの効果を及ぼすのは広範囲に及ぶ苦難以外にはない・・・
我々の安全を確保するには確固とした引き締めを着実に続行するしかない‐そして、その様にする事で最終的に通貨と銀行特許を回復させる事が出来ると私は確信している。

ニコラス・ビドル

1:11:10

何たる驚くべき事実の暴露でしょう。ここに純然たる真相が胸の悪くなるような明確さで明らかにされているのです。ビドルは通貨を収縮して金融引締めを行う銀行の力を利用し、アメリカが屈服するまで大規模な不況をもたらそうと企んだのです。残念ながら、この策略は合衆国の歴史を通じて何度も実行され、今日の世界でも行われようとしています。

ニコラス・ビドルはこの脅迫の内容を実行しました。銀行は以前の貸付金を回収すると共に新たな貸付は行わず、貨幣の供給量を急激に引き締めたのです。その結果、金融恐慌が起こり、そして経済不況の深みへと突入していったのです。ビドルは当然の事の様にその破局をジャクソンの責任であるとし、銀行から連邦政府の資金を引き上げた事がその原因であると言い放ちました。

1:11:55

不幸にも、彼の計画は功を奏しました。賃金や物価は下がり、失業者は各種企業の倒産に伴って急上昇したのです。国は忽ち大混乱に陥り、新聞の編集者達はその社説でジャクソンを激しく非難しました。銀行は資金、当時、銀行への支援を得るために主要な政治家に直接手渡し得た資金、の支払い を差し控えると言って脅かしを掛けましたが、その僅か数ヵ月の中に所謂「恐慌議会」が開かれたのです。

1:12:22

銀行から資金を引き上げた6ヶ月後に上院はジャクソン大統領に対する不信任決議を26対20で正式に通過させました。大統領が議会から不信任決議をされたのはこれが始めての例でした。ジャクソンは「君達は毒蛇の巣窟である。私は君達を壊滅させる所存だ、永遠なる神の力によって壊滅させる。」と言い放って銀行を激しく非難しました。アメリカの運命は非常に危険な状態となっていました。もし議会がジャクソンの拒否権を覆すのに十分な票を集め得たなら銀行は更に20年以上にわたって米国の通貨に対する独占権を手にする事となり、既に肥大化した力を更に強固なものとするのに十分な時間を得る事となるのです。

しかし、その後、奇跡が起こりました。ペンシルバニアの知事がジャクソン大統領の支持に立ち上がり、銀行を強く非難したのです。その上、ビドルは銀行が経済を破綻させる計画である事を公然と豪語していたのです。

1:13:16

情勢は突如として一変しました。1834年の4月に下院は134対82の大差で銀行の再特許に反対票を投じたのです。次いで、銀行が果たして経済恐慌を演出したのかを調査する特別委員会設立の可否を決定する投票が行われ、更に一方的な賛成票によって可決されたのです。

調査委員会が帳簿類を精査する召喚令状をもってフィラデルフィアにある銀行の入り口に到着した際、ビドルはそれらの引渡を拒否し、彼が国会議員に対する個人的な貸付金や前払金に関して議員と交わした書簡類の検査にも応じようとはしませんでした。彼は、また、ワシントンの委員会に出席して証言する事すら拒否したのです。

1:13:59

1835年1月8日にジャクソンは国家債務の最終弁済を果たしましたが、これは彼が債務の伴わない財務省証券を単に発行するよりも、各銀行に国債用の通貨を発行できるようにした為に必要となったものです。彼は国家の債務を完遂した唯一の大統領でした。

1:14:19

その数週間後の1835年1月30日、リチャード・ローレンスと言う暗殺者がジャクソンを二丁の拳銃で殺害しようとしましたが神の恩寵により両方とも不発に終りました。ローレンスは精神異常を理由に無罪となりましたが、解き放たれた後の彼は友人らにヨーロッパの有力な人物達が彼にその仕事を行わせ、万一捕らえられても自分達が彼を護ると言った等と自慢気に話しています。
次の年に、第二合衆国銀行はその特許が満了して国の中央銀行としての機能が停止しました。ビドルは後に詐欺罪の罪で逮捕されました。彼は裁判に掛けられ無罪にされはしたものの、その後短期間で、諸種の民事訴訟の係争中に死亡しました。

1:15:04

二期目の大統領の任期を終えたジャクソンはナシュビル郊外のこの住処に隠居してその余生を送りました。彼は銀行を壊滅する決意を固めた人物として未だに記憶されています。実際、彼はとても上手くそれを壊滅させた為に「両替商達」がその損害を修復するのに77年間も費やされたのです。 ジャクソンは彼の最も重要な実績は何であるかと訊ねられた際に、「私は銀行を殺した」と応えました。

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1:15:32
17. エイブ・リンカーン

残念な事に、ジャクソンすらも全体の真相と問題の根本原因を把握していませんでした。ジャクソンは中央銀行を破滅させはしましたが、両替商達の最も邪悪な武器である小額準備金増幅運用方式が特許を得た多数の国立銀行で使用され続けていたのです。この方式が南北戦争の何年も前に経済の不安定性を増幅させていたのです。ともあれ、中央銀行が既になくなっていた事からアメリカは西方への拡大と共に繁栄して行きました。

1:16:07

この期間中に主だった両替商達は失った中央集権的権力を必死に取り戻そうとしましたが、叶いませんでした。そこで、彼らは遂に旧い中央銀行の常套手段、即ち、自分達への借金と依存を余儀なくさせる戦争への道に立ち戻ったのです。もし彼らが他の方法で自分達の中央銀行を取り戻せなければ、第一合衆国銀行の特許が得られなくなった後の1812年に彼らが行ったのと同様、アメリカを内戦に突入させて彼らの膝元に屈服させる魂胆だったのです。

1:16:39

エイブラハム・リンカーンが大統領に就任した1ヶ月後の1861年4月12日、サウスカロライナのここサムター要塞で南北戦争の最初の火蓋が切られました。 奴隷制度がこの戦争の要因の1つであった事は確かですが、主な原因であった訳ではありません。エイブラハム・リンカーンは南の経済が奴隷制度に依拠していた事を承知していて、それ故、戦争前にそれを取り除く意図はなかったのです。それについてリンカーンは1ヶ月前の1861年4月12日に行った就任演説の中で次の様に述べています

「私は合衆国に既に現存している奴隷制度を直接的もしくは間接的に妨げるような目的を何ら有しません。
私はその様にする合法的な権利があるとは思いませんし、そうするつもりもないのです。」

エイブラハム・リンカーン

1:17:30

ここサムター要塞に最初の火蓋が切られた後もリンカーンはその戦争が奴隷制度の問題に関するものではない事を主張し続けていました。

「私の最も重要な目的は合衆国を救う事であって、奴隷制度の保全でも破壊でもない。
もし、奴隷を何ら自由にする事なく合衆国を救い得るなら、私はその様にするだろう。」

エイブラハム・リンカーン

1:17:57

それでは、南北戦争とは一体何だったのでしょうか?そこには数多くの要因があります。北部の産業家達は南部の州がヨーロッパの安い品物を買うのを防ぐために保護関税を使用しましたが、対報復措置としてヨーロッパは南部からの綿輸入を停止したのです。南部の州は生活必需品の殆どが値上がりする一方で綿輸出による収入は激減すると言う二重の経済苦に陥っていました。南部の人々は怒り始めました。しかし、そこには他の要因も作用していたのです。両替商達は25年前に自分達が支配していた資金をアメリカが引き上げた事に未だ愕然としていました。以来、鰻上りを続けるアメリカの経済は国を豊かにしましたが、両替商達にとっては世界の他の国々に対する悪い例だったのです。中央銀行は今やこの豊かな新国家を分割して分裂させ、戦争によって征服する機会であると観たのです。これは当時の荒っぽい陰謀論の類に過ぎないでしょうか?

1:19:02

では、高い地位にあった信頼し得る当時の観察者がその出来事について何と言っているか見てみましょう。彼の名はオットー・フォン・ビスマルク、北ドイツ連邦の宰相で、この数年後にドイツの統一を果たした人物です

「合衆国が同等の力を持つ連邦体の州に分割されたのはヨーロッパの極めて有力な金融関係者達が南北戦争の遥か以前に既に決定していた事である。
これらの銀行家達は合衆国が、そのまま単一のブロック、1つの国家として経済的、財政的な独立を果たし、彼らの世界的な金融支配を困惑させる事になるのを恐れていたのだ。」

オットー・フォン・ビスマルク

1:19:42

ここサムター要塞で最初の火蓋が切られてから1ヶ月も経たないうちに中央銀行はワーテルローを戦ったナポレオンの甥に当たるナポレオン3世にメキシコを占拠して合衆国南部の国境沿いに軍隊を駐留させる為の資金、2億1千万フラン貸付けました。彼らの戦争を利用してモンロー主義を破り、メキシコを再び植民地支配しようとしたのです。

1:20:07

1823.
独立戦争の結末がどうであれ、両替商達に巨額の債務を抱えて弱体化したアメリカは中南米を再びヨーロッパによる支配と植民地化の為に解放する事になるのですが、これはアメリカのモンロー教書で1823年に禁止された正にそのものだったのです。

1:20:25

時を同じく、大英帝国は11,000人の軍隊をカナダに移動、アメリカ北部の国境沿いに威嚇配置しました。英国の艦隊は何時でも緊急介入の要請に応じ得るよう警戒態勢に入りました。

1:20:42

リンカーンは二重の苦境に立たされている事を認識していました。であればこそ彼は「合衆国」の命運に苦悩していたのです。そこには単なる北と南との違い等と言うものではなく、それよりもずっと多くの要因が働いていました。彼が単に南を打ち負かす事だけではなく常に「合衆国」を強調していたのもその為だったのです。1861年にリンカーンとその財務長官であったサルモン・ピー・チェイスは必要な戦費を調達する為にニューヨーク向かいました。合衆国を奉じる北軍の敗北を切望していた両替商達は24〜36%の利率で貸付けると申し出て来ましたが、リンカーンは「ありがとう、だが、結構」と言い残してワシントンに帰ったのです。リンカーンは彼の旧友であるディック・テイラー大佐をシカゴに送り、戦費調達の問題解決に取り組ませました。そのテイラーとの会合の中でリンカーンが彼に何か解決策は見つかったか訊ねたところ彼は次の様に応えています

「何と言う事はない簡単な事でした、リンカーン。議会に100%法貨としての財務省紙幣を印刷する権限を与える法律さえ作らせれば、それで兵士達の給与を払えますし、そのまま踏み込んでやって行けば戦争もそれで勝てます。」

1:21:54

リンカーンが合衆国の国民はそれを果たして受け容れるだろうかと訊ねたのに対してテイラーは次の様に言いました

国民は誰でもあなたが100%の法定通貨であるとしたものを受け容れる以外に選択肢はありません。
それらは政府が無条件に是認するものである事からどの様な貨幣と比較しても何ら変わるところはないのです。
何故なら、議会は憲法第1条の規定によってその様にする権利を明白に与えられているからです。

ディック・テイラー大佐

1:22:17

こんな訳で、リンカーンは全くその通りにしたのでした。1862年から1863年にかけ彼は4億5千万ドルに相当する金額の新たな紙幣を印刷したのです。
それらの財務省紙幣を既に出回っている銀行紙幣と区別する為に彼はその裏側を緑色にインクで印刷しました。それらの財務省紙幣がグリーンバック(緑背)と呼ばれている所以です。この新たなお金でリンカーンは軍の給与を支払い、軍需物資を購入したのです。この戦争の過程で4億5千万ドル近くのグリーンバック紙幣が連邦政府に何らの利子も課せられる事なく印刷されたのです。

1:22:52

リンカーンは実際に糸を引いているのが誰で、アメリカ国民にとって何が危険であるのかを理解していたのです。

政府の支出力と消費者の購買力を満足させる為に必要な通貨と信用の創出、発行及び流通は政府が行うべき事柄である。

通貨の創出と発行に係る特典は政府に属する最高の特権であるのみならず、政府が創造的活動を行う最大の機会でもある。

これらの諸原則を採用する事で納税者達は莫大な金額の利子を支払わずに済むようになる。通貨は人間性の主人たるを止め、それに仕えるものとなるだろう。」

エイブラハム・リンカーン

1:23:33

ロンドンタイムズ紙の実に信じ難い次の社説は中央銀行らがリンカーンのグリーンバック紙幣をどの様に考えていたかを明らかに示しています

もし北アメリカを起源とするこの有害な金融政策をそれが固定的なものとなるまで耐え忍ぶ様な事があれば、政府は自らの通貨を何ら費用をかけずに賄う様になる。
通商交易に必要な通貨を全て自前で持つ事になり、世界の歴史に例を見ない繁栄を遂げる事になる。
全ての国々の頭脳と富が北アメリカに流出するだろう。
あの国は破壊されなければならず、さもなければあの国が地球上のあらゆる君主制度を破壊するだろう。

ロンドンタイムズ

1:24:18

その計画は功を奏し、それが余りにも効果的であった為に北部合衆国軍と南部連合国軍が南北戦争の決戦に向けて総力を結集し始めた次の年、また、財務省がグリーンバック紙幣を増刷発行する為に議会の承認を必要としていた年でもある1863年にリンカーンは銀行家達が国立銀行法の制定に向けた議案を推進するのを許しまったのです。これらの新しい国立銀行群は事実上の非課税法人で、新たな形式の通貨である銀行券を発行する独占的権利を共同で保有したのです。グリーンバック紙幣は継続して流通に付されましたがその数が増やされる事はありませんでした。

1:24:58

しかし、最も重要なのはこの時点を境に合衆国の貨幣供給が合衆国から購入した国債を銀行券の準備金に為に発行していた銀行の借入金をベースに行われていたと言う事です。

合衆国から国債を購入する銀行が銀行紙幣の準備のために創り出す貨幣

南北戦争からかなりの歳月を経た後、連邦政府には大きな黒字が続いていた。
政府は(しかしながら)借金の弁済や証券類の償還を果たし得なかった。
何故なら、それをすると国家の銀行券を裏付ける保証がないと言う事になるからだ。
借金の返済は貨幣供給の崩壊を意味したのである。

ジョン・ケネス・ガルブレイス

1:25:36

1863年の後期にリンカーンはロシアの皇帝であったアレキサンダー2世からある予期せぬ助けを得ました。皇帝は、ドイツのビスマルクの同様に、国際的な両替商達が何を企んでいるのかを知っており、彼らがロシアで中央銀行を設置するのを断固として拒否したのです。もしアメリカが生き延びて彼らの手中から逃れたままで居られれば皇帝の地位も安泰で居られたのです。
銀行家達がまんまとアメリカを分割して中央銀行がコントロールしている英国とフランスに返還する様な事にでもなれば、やがて彼らはロシアを再び脅かす事になります。それ故、皇帝はもし英国やフランスが積極介入してアメリカ南部連合を支援する様な事態になればロシアはそれを宣戦布告であると見なすよう命じたのです。彼はそれを自らの太平洋艦隊の一部から発令し、艦隊をサンフランシスコ港に送り出したのです。
リンカーンは翌年の1864年に再選されました。リンカーンが暗殺されていなければ、戦争中に彼の手元から引き抜かれた国立銀行の独占的紙幣発行権を間違いなく潰していた事でしょう。

「金力は平和な時には国家を捕食し、逆境の時には陰謀を企む。
それは君主よりも横暴であり、独裁者よりも傲慢であり、官僚よりも我儘である。」

エイブラハム・リンカーン

1:27:08

国立銀行法案の可決に向けて私が推進役を務めた事は私の生涯で最も大きな財政上の過ちでした。
それはあらゆる国益を蝕む独占的権利を築き上げてしまったのです。

サルモン・ピー・チェイス

1:27:36

リンカーンが二度目の大統領に就任してから41日後、リー将軍がアポマドックスでグラント将軍に降伏した僅か五日後に当たる1865年の4月14日、リンカーンはフォード劇場でジョン・ウィルクス・ブースの凶弾に倒れました。ドイツの宰相ビスマルクはエイブラハム・リンカーンの死を嘆いて次の様に述べています

「リンカーンの死はキリスト教世界にとって最悪の事態である。
彼ほどに偉大な人物の後任になり得る者は合衆国には最早いない・・・
私は外国の銀行達がずる賢さと捻くれた策を弄して
アメリカに於ける有り余るほどの富の総てを支配すると共に
組織的にそれを使用して現代文明を堕落させる事になるのを恐れる。
彼らは地球を自らの相続財産とする為には何ら躊躇う事なく
キリスト教世界全体を戦争と大混乱の淵に陥れるだろう。

オットー・フォン・ビスマルク

ビスマルクは両替商達の計画を十分解っていたのです。
国際銀行家がリンカーンの暗殺に関与したと言う疑惑は70年後の1934年にカナダで浮上しました。

1:28:27

カナダの著名な法律家であるジェラルド・ジー・マギアーはカナダの庶民院(下院)で行った債務を基にしたカナダの金融システムを糾弾する5時間に及ぶ演説の中で驚愕すべき嫌疑を明らかにしています。
それがカナダでも猛威を振るっていた世界大恐慌の真っ只中にあった1934年であった事に注意しましょう。マギアーは(リンカーンを暗殺した)ジョン・ウィルクス・ブースの裁判に於ける検察局の捜査官達がブースの死後に提供し、後に公文書から削除された証拠類を入手していたのです。マギアーはその証拠書類がブースの国際的銀行家達に仕えていた金目当ての雇われ人であった事を示していると述べています。1934年5月2日付けバンクーバー・サン紙の記事に拠ると、「殉教した奴隷の解放者であるエイブラハム・リンカーンが暗殺されたのは国家的信用供与の野望を抱くアメリカ大統領を恐れていた国際的銀行家達を代表するグループの策謀によるものであった。リンカーンの死を願う何らかの理由を持ったグループは当時一つしかなかった。彼の国家通貨計画に反対し、南北戦争全体を通じて彼のグリーンバック紙幣政策を巡る闘いに明け暮れていた者達がいたのである。」

1:29:53

興味深いのは、マギアーがリンカーンの暗殺は国際的銀行家達がアメリカで中央銀行を再建しようとしていたからだけではなく、アメリカの通貨の基礎を金、彼らがその殆どをコントロールしている金塊に置きたかった為でもあると主張している事です。つまり、アメリカを金本位制にしようと目論んでいたのです。しかし、リンカーンは合衆国の純然たる善意と信用にのみその基礎を置く合衆国証券、グリーンバック紙幣を発行する事によってその企てと真っ向から相反したのです。その新聞記事は、マギアーの言葉として、彼らが金本位制度ならびに世界のあらゆる国々の通貨と信用を管理する銀行家達の権利を確立する事に関心を抱いている人々であると報じています。リンカーンが居なくなった事で、彼らはその計画を合衆国で推し進める事が出来る様になり、実際にその様にしたのです。リンカーンの暗殺後8年も経たない中に合衆国では銀が廃貨となり、金本位の通貨制度が設定されました。

1:30:51

リンカーン以来、負債の伴わない米国紙幣が米国で印刷された試しは一度もありません。1963年に発行され赤いシールが施されたこれらの紙幣はケネディー大統領が新たに発行したものではなく、単に毎年のように再発行されている旧いグリーンバック紙幣なのです。

1:31:10

今ひとつの無知な愚行はリンカーンのグリーンバック紙幣を債務ベースの紙幣と差し替える事を実際に認めた1994年のリーグル法です。つまり、グリーンバック紙幣が米国で流通していたのは1994年迄だったのです。

1:31:30

銀行家にとって銀は悪く、金を良いとするのは何故なのでしょうか?答えは簡単です。銀は合衆国に豊富に存在しているためコントロールするのが非常に難しかったからなのです。金は過去から現在に至るまで常に希少でした。歴史を通して金を独占する事は比較的容易でしたが、銀は歴史的に15倍も豊富に存在していたのです。

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