Anti-Rothschild Alliance

資料室

動画『The Money Masters』の翻訳テキスト page.2 (00:31:34〜1:04:03)

2009-01-03

お金を操る者達

国際的銀行家達はどの様にアメリカを掌握したのか

Page.2

00:31:34
7. ロスチャイルド家の台頭

ここはドイツのフランクフルトです。イングランド銀行が運営を開始して50年を経た後の1743年にアムシェル・モーゼス・バウアーと言う細工職人がコインショップ兼会計事務所を開きました。彼がそのドアの上部に紅い盾の上に描かれたローマの鷲を看板として掲げていた事からこの会社は「赤い盾の会社」を意味する「レッドシールド」として知られるようになりました。「ロスチャイルド」はこの「レッドシールド」と言う意味のドイツ語なのです。彼の息子であるアムシェル・メイアー・バウアーがそのビジネスを引継いだ際に彼は自分達の家名をこの「ロスチャイルド」に改名する事としたのです。息子のアムシェルはやがて各個人にお金を貸し付けるよりも政府や王に貸付けたほうかより大きな利益が得られると言う事に気付きました。その方が貸付金の額が大きいだけではなく国の税金によって返済が担保されるからです。このメイアー・ロスチャイルドには5人の息子がおり、彼はそれらの全ての息子にお金を創る手法を教え込み、その後、ヨーロッパの主要な都市に送り込んで家業である銀行業の支店を開かせたのです。彼の長男であったアムシェル・メイアーには故郷フランクフルトの銀行を引き継がせ、次男のソロモンにはウィーンの支店を任せました。三男のネイサンは息子達の中で明らかに最も才気があり、イングランド銀行設立後の100年目に当たる1798年、21歳の時にロンドンに送られました。彼の四男であるカールはナポリに、五男のジェイコブはパリへと向かいました。
1785年、メイアー・ロスチャイルドはシフ家と共同で使用している今までより大きなこの五階建ての住宅に家族全員を引っ越させました。この家は「緑の盾」として一般に知られているものです。ロスチャイルド家とシフ家はその後のヨーロッパ並びにアメリカの金融史上に於いて中心的な役割を演じて来たのです。
ロスチャイルド家はドイツで最も裕福な人物の公邸であるここウィリアムズホールで行われたヨーロッパの王家達との取引に割り込みました。実際、ウィリアム・ヘス・カセル王子はヨーロッパで最も裕福な帝王でした。当初、ロスチャイルド家はウィリアム王子が貴金属硬貨に投資するのを助けただけだったのですが、ナポレオンがウィリアム王子を国外追放に追い遣ろうとした際にウィリアムは55万ポンド(当時、これは今日の何百万ドルにも匹敵する莫大な金額でした)をロンドンのネイサン・ロスチャイルドに送金し、政府の国債を買うよう指示しました。ところが、ロスチャイルドはそのお金を自らの目的の為に使ってしまいました。ナポレオンの敗色が鮮明となった戦時下での投資機会は殆ど無制限にあったのです。

00:34:42

ロスチャイルドはウィリアムのお金を、実際に投資されていたなら支払っていた筈の英国コンソル債の金額分の利子と共に、返金しました。しかし、ロスチャイルドはウィリアムのお金を使って過去に稼いだ利益の全てを保持していました。ネイサン・ロスチャイルドは後に彼が父親から貰った当初2万ペソの出資金を英国に居た12年の間に2,500倍に増やしたと自慢げに話しています。家族内での協力によってロスチャイルド一族は信じられない程に裕福となったのです。1800年代の中頃になると、彼らはヨーロッパの全ての金融業を支配するようになり、確実に世界で最も裕福な一族となりました。彼らはセシルローズに資金を提供して南アフリカのダイヤモンドの産地や金鉱地の独占を可能にしています。アメリカでは鉄道のハリマン、鉄道と報道界のヴァンダービルツ、製鉄産業のカーネギーその他の多くの者達に資金を提供しました。実際のところ、第一次世界大戦中はJPモルガンがアメリカで最も富裕な人物であると思われていました。ところが、その死後に彼はロスチャイルド家の単なる代理人の一人であったに過ぎない事が判ったのです。モルガンの遺言が公開されるやJPモルガン系列の企業に於ける彼の所有割合は19%に過ぎなかった事が明らかになりました。1850年までに一族のフランス支部を受け継いだジェームス・ロスチャイルドの資産価値はフランスの通貨で6億フランに上ると言われており、これはフランスに於ける他の全ての銀行の資産を合計した金額に加えてそれを更に1億5千万フラン上回る程の金額となります。
彼はパリ東部にフェリエールと呼ばれる大邸宅を構築しました。
ウィルヘルム1世はそれを見て、「王達にはこれを買う事が出来ず、ロスチャイルドのものとしかなり得ないのだ!」と絶叫しました。19世紀フランスの評論家はこれを次の様に日表現しています、「ヨーロッパの権力は1つを除いて他になく、それはロスチャイルドである」。
ロスチャイルド家のヨーロッパや世界の金融支配が変化したと言う兆候は全くありません。

00:37:07
8. アメリカ革命

1700年代の中頃までに大英帝国は世界的権力の絶頂期に近づいていました。しかし、民間法人の中央銀行であるイングランド銀行が創立されて以来の英国は多額の費用や犠牲を伴う4つの戦争を闘いました。それらの戦争の費用は大きく、この英国議会は戦費を賄う為にイングランド銀行から膨大な金額を借入れたのです。1700年代の中頃になると英国政府の負債は1億4,000万ポンドにもなり、当時のこの金額は信じがたい程に膨大な金額だったのです。結果、英国政府は銀行に支払う利子を賄うべくアメリカ植民地からの歳入増を試みる計画に乗り出しました。しかし、アメリカは英国とは違っており、民間法人の中央銀行による惨劇は未だ始まっていなかったのです。

00:38:04

これは独立宣言と憲法が調印された場所、フィラデルフィアの独立記念館です。1700年代革命前のアメリカは比較的まだ貧しく、物品の交易に必要な貴金属の硬貨は著しく不足しており、初期の入植者は紙製のお金を地元で実験的に印刷せざるを得ませんでした。
フランクリンは植民地が自らの紙幣を印刷するのを大いに支持する者の一人でした。
このベンジャミン・フランクリンは1757年にロンドンに派遣されましたが、結局、彼はアメリカ革命が始まる頃までの18年間をそこで滞在する結果になりました。その間、アメリカ植民地は独自の紙幣を発行し始めるようになりました。これは植民地票と呼ばれるものですが、この試みは非常に成功しました。
それは信頼できる交換手段となって植民地間に一体感を生じさせる助けともなったのです。
この植民地票が単なる紙のお金で、負債の伴わない、公共の利益の為に印刷されたものであり金や銀に裏打ちされたものではなかったと言う事に注意して下さい。つまり、それは完全に不換紙幣だったのです。

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00:39:17

ある日の事、イングランド銀行の関係者達がフランクリンに対して新たな植民地の繁栄についてどの様に説明するか訊ねました。

それは簡単な事です。植民地で我々は独自のお金を発行しています。
植民地票と呼ばれているものです。
我々は製品が生産者から消費者に容易に通過するように
貿易や産業に於ける需要に応じた適当な割合でそれを発行しております。
この様にして、我々は我々自らの為に独自のお金を創り、その購買力を制御し、
如何なる者にも利子が支払われる事はありません。

ベンジャミン・フランクリン

この事はフランクリンに取っては単なる常識だったのですが、イングランド銀行がこれを聞いてどれほど衝撃を受けたかは容易に想像できます。

00:41:00

その結果、英国議会は1764年の通貨法を慌てて可決させました。この法律により植民地の役人達は独自のお金を発行する事が禁じられ、また、今後に税金を納税する際には金もしくは銀の硬貨によって支払うよう命じられたのです。

「僅か1年で、状況は全く反転して繁栄の時代が終わり、不況が始まったのですが、
その不況は余りに酷いものであった為に植民地の街路は失業者で満ち溢れる程となったのです。」

ベンジャミン・フランクリン

00:41:48

フランクリンはこれがアメリカ革命の基本的原因ですらあったと主張しました。
彼はその自叙伝の中でこの事を次の様に述べています

英国が植民地から彼らの貨幣を取り上げて失業と不満を創り出す様な事をしなかったら、
植民地は茶などの物品に課せられた小さな税金の負担を快諾していたでしょう。
入植者達がジョージ3世と国際的銀行家達の手から
自らお金を発行する権利を永久に取り戻し得なくなったと言う事こそ、
あの独立戦争の最大の理由だったのです。

ベンジャミン・フランクリン

00:42:25

1775年4月19日、マサチューセッツのレキシントンで最初の弾丸が放たれる頃までに、植民地の金や銀の硬貨は英国の徴税によって枯渇してしまっていました。
そのため、大陸行政府は戦争に資金を調達する為に紙幣を印刷するしかなかったのです。その紙製貨幣の供給は革命当初に1,200万ドルでしたが、戦争が終る頃までには概ね5億ドルにもなっていました。その結果、通貨は、事実上、価値のないものとなり、靴の価格は一足500ドルと言った有様でした。植民地票が上手くいったのは交易を容易にするのに丁度必要な量だけ過不足なく発行したためだったのです。ジョージ・ワシントンが嘆いたように「荷馬車一台分のお金をもってしても荷馬車1台分の食料品が帰る事は滅多にない」と言う状況だったのです。

00:43:20

今日、金に裏打ちされた通貨を支持する人々は不換紙幣の弊害を明らかにするのにこの革命の最中の時期を指し示します。しかし、それと同じ紙幣が英国議会によって非合法化される前に非常に上手く機能していた事を思い起こしましょう。

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00:43:40
9. バンク・オブ・ノース・アメリカ

革命の終りごろに大陸会議が行われたこの独立記念館は貨幣の絶望的な雰囲気が漲っていました。彼らは1781年に財務最高責任者としての役割を担っていたロバート・モリスに民間法人の中央銀行を開設する許可を与えました。因みに、このモリスは富裕であり、革命の最中には軍需物資の商取引でさらに裕福になった人物である。

00:44:06

バンク・オブ・ノース・アメリカと呼ばれたこの新たな中央銀行はイングランド銀行をほぼ忠実に再現したもので、小額準備金増幅運用方式の採用、つまり、保有してもいないお金を貸付け、それに利子を徴収する事が許されたのです。

00:44:29

この銀行の設立趣意書は民間の投資家に40万ドル相当の当初資本を投入するよう呼びかけるものでした。しかし、その金額を集め得ない事を知ると、モリスは厚かましくも自らの政治的影響力を行使して政府がフランスから借り入れていた金貨をその銀行に貯蓄させました。

00:44:48

次いで、彼はそのお金をその銀行の株式に再投資するべく彼自身と彼の友人に貸し出したのです。そして、その銀行はイングランド銀行と同様に国家の通貨に係る独占権が与えられました。その危険性はやがて明らかとなり、アメリカの通貨は急落し続けたのです。 かくして、その4年後の1785年、銀行の設立趣意書が改正される事はありませんでした。

00:45:15

銀行の廃止を目指す活動のリーダーであったペンシルバニアのウィリアム・フィンドレイはこの問題を次の様に説明しています

「この機関は、原則を持たず強欲のみを原理としているが故に、目的を変える事は決してない・・・
その目的とは全ての富と権力及び国家に対する影響力を手中に収める事である。」

ウィリアム・フィンドレイ

00:45:38

バンク・オブ・ノース・アメリカの背後にいたアレキサンダー・ハミルトン、ロバート・モリスおよびトマス・ワイリー頭取は諦めませんでした。その僅か6年後、当時の財務長官であったハミルトンとその庇護者であったモリスは新たな民間法人中央銀行を新しい議会を通じて強引に設立させたのです。
この銀行はファースト・バンク・オブ・ユナイテッド・ステイツ(第1合衆国銀行)と呼ばれ、その頭取に就任したのは、やはり、トマス・ワイリーでした。立役者は変わらず銀行の名前だけが替えられたのです。

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00:46:11
10.憲法制定会議

1787年、植民地の領袖達は 不振に喘ぐ連合規約を改正するべくフィラデルフィアに集まりました。前に見たように、トマス・ジェファーソンとジェームス・マディソンは両者共に民間法人の中央銀行に一貫して反対していました。彼はイングランド銀行が引き起こした諸問題を見ていたのです。

00:46:37

ジェファーソンが後に次の様に述べた事からも分かるように、彼らは中央銀行に何の役割も欲してはいなかったのです

「もし、アメリカ国民が最初はインフレにより、次いでデフレによって民間の銀行が
自国通貨の発行を操作するのを許すような事があれば、
彼らの周りで太り行く銀行や企業は人々の有するあらゆる財産を剥奪し続けるだろう。
彼らの子供達が自分達の父が征した大陸の上で遂に家を失った事に目覚めるまで。」

トマス・ジェファーソン

00:47:06

今一人の建国の父であるモリス総裁は、今後の貨幣制度に関する議論の最中に、バンク・オブ・ノース・アメリカのオーナー株主達の動機を激しく非難しています。

00:47:20

モリス総裁は憲法の最終草案を執筆した委員会の長であったが故に銀行側の動機が何であるかよく知っていました。彼の元上司であるロバート・モリスとモリス総裁及びアレキサンダー・ハミルトンらは革命の前年にバンク・オブ・ノース・アメリカの設立に関する原案を大陸会議に上程した本人達なのです。ジェームス・マディソンに宛てた1787年7月2日付けの書簡の中でモリス総裁は実際には何が起こっているのかを明らかにしています

持達は自分達の支配圏を確立し、他の者達を奴隷にしようと目論んでいるのです。
彼らは常にその様にしていたし、また、これからもするのです…
もし、我々が、行政の力によって、彼らをその本領に据え置こうとしないなら、
彼らは他の場所と同様にここでも同じ事をしようとするでしょう。

モリス総裁

00:48:08

モリス総裁が銀行仲間から離脱したにも拘わらず、ハミルトン、ロバート・モリス、トマス・ワイリー及びヨーロッパにいる彼らの後援者達は諦めようとしませんでした。彼らは憲法制定会議を代表する大半の者達に紙幣を独自に発行する権利を議会に与える事のないよう説得したのです。殆どの代表者が革命の際に於ける紙幣の荒れ狂うインフレーションに未だ浮き足立っていたからです。彼らは植民地票が戦争前にどれほど上手く機能していたか忘れていたのですが、イングランド銀行は忘れていませんでした。両替商達はアメリカが彼らの所有物であるお金を再び印刷する事に我慢がならなかったのです。

00:48:51

それで、憲法はこの件について口を閉ざしていると言う訳です。この嘆かわしい欠陥により両替商達は彼らの計画した正にその通りの事が容易く出来るようになったのです。

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00:49:03
11.ファースト・バンク・オブ・ユナイティッドステイツ

1790年、憲法の調印から3年も経ない内に、両替商達は再び襲撃を開始しました。最初の財務長官として新任したアレキサンダー・ハミルトンは新たな私設中央銀行を設立する為の法案を議会に提出したのです。奇しくも、これと時を同じくしてアムシェル・ロスチャイルドはフランクフルトにある彼の主力銀行で次の様に豪語していました

「国の貨幣供給の舵を私に与えよ、さすれば誰が法律を作ろうとも私の構うところではない。」

00:49:40
チャールズ・コリンズ <大統領候補>

アレキサンダー・ハミルトンは国際的銀行家達の道具の一つとなっていたのです。そして彼は合衆国の銀行、バンク・オブ・ユナイティッドステイツを創ろうとし、それを実現したのです。

00:49:52

興味深い事に、ハミルトンが1782年に法科大学を卒業した後の最初の仕事はバンク・オブ・ノース・アメリカの頭取であったロバート・モリスの助役でした。実際、その1年前にハミルトンはモリスに手紙を書き送り、「国家の債務は、それが過剰なものでなければ、我々にとって国家的祝福となりましょう」。一体、誰に対する祝福なのでしょう?

00:50:18

1年に及ぶ激論の末、1791年、議会は法案を通過させ、20年間の特許が与えられたのです。
この新たな銀行は第1合衆国銀行もしくはファースト・バンク・オブ・ユーエスと称されました。

00:50:35

ここはフィラデルフィアに在る第1合衆国銀行です。この銀行はその株式の80%を個人投資家が保有しているにも拘わらず合衆国の紙幣を印刷する独占的権利が与えられました。他の20%の株式は合衆国政府が購入してはいます。しかし、それは政府に1枚加わせる為ではありません。それはその資本を他の80%の所有者に提供する為なのです。

00:51:00

旧バンク・オブ・ノース・アメリカやそれ以前のイングランド銀行と同じで、その銀行の株主達は保有株式の全額を決して支払ってはいないのです。合衆国政府は当初2百万ドルを現金で拠出し、次いで、銀行は古くからの小額準備金増幅運用方式の魔法を使ってその銀行の投資家に金を貸し出し、彼らがこのリスクの全くない投資に必要な残り8百万ドルの資金を提供したのです。

00:51:28

イングランド銀行と同じく、バンク・オブ・ユナイテッド・ステイツ(合衆国銀行)の名前はそれが私的な支配を受けているものである事実を隠す為に慎重に選ばれたものだったのです。そして、やはりイングランド銀行と同様、その銀行に投資している者達の名前は決して公表される事がなかったのです。それから何年も経った後、ロスチャイルド家こそが旧バンク・オブ・ユナイテッド・ステイツを背後から動かしていた力であるとよく言われるようになりました。

00:51:52

銀行が議会に売られたのは金融制度の安定化をもたらし、インフレを取り除く為の一つの方策としてでした。それでどうなったでしょう? 最初の5年間に合衆国政府はバンク・オブ・ユナイテッド・ステイツから820万ドルを借入れました。それと同じ5年間に物価は72%上昇したのです。
ジェファーソンは新任の国務長官としてその借入を横目で見ながら停止させる事が出来ず、悲しみと落胆を込めて次のように述べています

00:52:20

「私は憲法を一つだけ変更して連邦政府の借入能力を取り上げる事が出来れば良かったとつくづく思う。」
トマス・ジェファーソン

00:52:20

今日、何百万ものアメリカ人が同じように感じています。
彼らは連邦政府がアメリカ経済の借入に溺れているのを観てどうする事も出来ずに業を煮やしているのです。このように、それが第一合衆国銀行と呼ばれてはいたものの、この国に私設の中央銀行を創ろうという企みはそれが第一番目のものであった訳ではありません。バンク・オブ・ノース・アメリカと同じ様に政府は銀行の継続運営に必要な現金の殆どを提供し、銀行家達はそのお金を互いに貸し付けて銀行の残余の株式を買い上げていたのです。これは正真正銘の詐欺でした。そして、彼らが永く罰を受けずに済まされる事はないでしょう。しかし、我々は先ずヨーロッパの歴史を振り返り、如何にして一人の単独の人物がナポレオンの最終的敗北の報を得た後に英国全体を操る事が出来たのかを見てみる必要があります。

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00:53:25
12.ナポレオンの政権奪取

ここパリでフランス銀行が設立されたのはイングランド銀行と同じ西暦1800年の事でした。
しかしナポレオンはフランスが借金する事は断固として認めず、フランス銀行を決して信用しませんでした。彼は政府がそのお金を銀行家達に依拠する時、国を掌握するのはそれらの銀行達であって、最早、国ではないと宣言し、次の様に述べています

00:53:52

「与える手は取り上げる手の上位にある。金に母国など関係ない。
金融業者らには愛国心もなければ良識も持ち合わせていないのだ。
彼らの目的は唯一利得あるのみである。」

ナポレオン・ボナパルト

00:54:05

翻って再びアメリカに目を転じると、ナポレオンはそこで予期せぬ助けを得る事となりました。1800年、トマス・ジェファーソンは辛うじてジョン・アダムスを敗北させ、米国第3代大統領となったのです。1803年にはジェファーソンとナポレオンとの間に合意が成立し、合衆国はナポレオンに3百万ドルを金貨で支払ってミシシッピー川流域西側の広大な地域を買い取りました。いわゆるルイジアナ買収です。
その3百万ドルでナポレオンは忽ち軍隊を編成してヨーロッパ全土への進軍を開始し、行く先々を征服しました。しかし、イングランド銀行はナポレオンに対抗するべく直ちに立ち上がりました。彼らは行く先々の国で融資を行い、戦争による莫大な利益を手にしたのです。
プロイセン、オーストリア、そして最後にロシアもナポレオンの進行を止めようとした為に膨大な借金を抱える破目になったのです。その4年後、ナポレオンの主力軍がロシアに駐留している最中、ロスチャイルド家のロンドン事務所を任せられていた30歳のネイサン・ロスチャイルドはウェリントン公爵によるスペインからの攻撃に必要な資金を提供するべく待ち望んでいた金の密輸送を直接フランスを経由させて行うと言う大胆な計画を自ら個人的に主導しました。ネイサンは後にロンドンの晩餐会でそれが嘗て自分の行ったビジネスの中で最も良いものであったと自慢していますが、彼は近い将来それよりも遥かに良いビジネスを行う事になるとは全く予想だにしていなかったのです。
ウェリントンによる南方からの攻撃やその他の敗北によりナポレオンはやがて退位を余儀なくされます。ルイ18世は即位して国王となり、ナポレオンはイタリア沖のエルバ島に流され、その侭、永久にフランスから追放される筈でした。ナポレオンがロスチャイルドの資金援助を得たイギリスによって一時的に敗北し、エルバ島に追放されている間、アメリカもまた、中央銀行の束縛から抜け出そうとしていたのです。

00:56:05
13. ファースト・バンクの終焉

1811年、バンク・オブ・ユナイテッド・ステイツに対する特許を更新する為の法案が議会に提出されました。その審議は白熱し、ペンシルバニアとバージニアの州議会ではその銀行の閉鎖を求める決議案が可決されました。

00:56:30

当時の報道界は銀行を公然と非難しており、「途方もない詐欺」、「ハゲワシ」、「毒蛇」、「コブラ」等と書き立てていたのです。ああ、独立自尊の報道機関よ、再びアメリカに来たれ!

00:56:43

ピー・ビー・ポーターと言う名の下院議員は、議事場から銀行を非難して銀行の特許を更新するのは「議会が憲法の内部に毒蛇を植え付ける様なもので、それは何時の日かこの国の自由を毒針で刺し、その毒液はやがて心臓にまで至るだろう」と述べている。

00:57:01

銀行にとっての見通しはそれほど良いものでなく、著述家の中にはネイサン・ロスチャイルドの警告として銀行の特許が更新されなければ合衆国は最も悲惨な戦争に巻き込まれると主張する者もいました。

00:57:18

しかし、銀行側の反発は十分ではなく、霧が晴れると、特許の更新法案は下院で一票の僅差で否決されて敗北し、上院では行き詰まっていました。

00:57:27

この頃までにアメリカの第4代大統領であるジェームス・マディソンがホワイトハウス入りしていました。マディソンが頑強な銀行の反対者であった事を憶えているでしょうか。彼の副大統領であったジョージ・クリントンは上院との絆を断ち、銀行を忘却の彼方に追い遣ったのです。

00:57:44

それから5ヶ月間も経たないうちに英国はアメリカを攻撃、1812年の米英戦争の幕開けです。しかし、英国は依然ナポレオンとの戦争を続けており、その為、この1812年の戦争は1814年に両国の講和によって終結する事となりました。かくして両替商達は一時的に頓挫したものの、決して手を引く事はありませんでした。彼は僅か2年で自分達の銀行を取り戻し、以前にも増して大きくかつ強力な銀行としたのです。

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00:58:13
14. ワーテルロー

ここで、再びナポレオンの時代を見る事にしましょう。と言うのは、ワーテルローの戦いの後にロスチャイルド家が行ったイギリス株式市場の支配ほど同家の巧妙さを適切に示している例は、歴史上、他にないからです。

00:58:36

1812年に勃発した米英戦争が終結した1年後の1815年の初頭にナポレオンは流刑先のエルバ島から脱出してパリに戻りました。彼を捕捉すべくフランス軍が送り出されましたが、ここでもナポレオンのカリスマ性が発揮され、兵隊達は彼を捉えるどころか、逆に、この嘗てのリーダーの下に結集し、再び彼らの皇帝として迎え入れたのです。

00:58:55

1815年の3月にナポレオンは軍隊を配備しましたが、この軍隊はその後90日も経たないうちにワーテルローで英国のウェリントン公爵により敗北させられました。ポレオンが軍を再編成する為に借り入れた5百万ポンドはイングランド銀行からのものだったと主張する著述家もいますが、その資金はパリのエバルド銀行から得たもののようです。いずれにせよ、これを境に民間主導の中央銀行が戦争当事国の両サイドに資金を提供しても不自然な事であるとは見なされなくなったのです。中央銀行が互いに戦争している交戦国の両方に資金を提供するのでしょうか? それは戦争が借金需要を創り出す最大のものだからです。国家は戦争に勝つ為なら如何なる額の借金も厭いません。敗戦しつつある国には勝利への希望が全く喪失してしまわない程度に金を貸し付け、勝戦国となりつつある国には勝利する為に丁度必要なだけのものを与える。しかも、通常、その様な勝者に対する貸付金には征服された側の負債の支払を保証すると言う条件が付されていたのです。

1:00:08

ここはパリの北東200マイルの、今ではベルギーの領土となっている、ワーテルローの戦いが繰り広げられた舞台です。
ここで、ナポレオンは最後の敗北を喫したのですが、それは何千ものフランスと英国の何千もの男達が自らの命を捧げたあの1815年7月の蒸し暑い夏の前の事ではありません。

1:00:27

1815年の6月18日にここのすぐそこで74, 000のフランス軍が67, 000の英国及び他のヨーロッパ諸国の軍と対峙しました。

1:00:39

その結果は確かに疑わしのです。実際に、ナポレオンの攻撃があと数時間早ければ彼はおそらくその戦闘に勝利していたでしょう。しかし、誰が勝利し或いは敗北するか拘わらず、ロンドンではネイサン・ロスチャイルドが英国の証券市場、そして出来れば、イングランド銀行さえも支配する機会を利用しようと計画していました。

1:01:00

ロスチャイルドは信用しているロスワースと言う男を戦場の北側、イギリス海峡により近い場所に配置しました。

1:01:12

戦闘の開始が決定するやロスワースは海峡に向かって駆け去りました。

1:01:17

彼はウェリントン公の特使より24時間も早くネイサン・ロスチャイルドにそのニュースを伝えたのです。ロスチャイルドは急いで証券取引所に出向き何時もの通り古びた柱の前に立ちました。全員の目が彼に注がれていました。ロスチャイルド家は伝説的な情報網を張り巡らせていたからです。

1:01:36

もしウェリントンが敗北していてナポレオンが大陸で自由に行動していたなら、英国の財政状態は確かに深刻な状況となっていたでしょう。

1:01:48

ロスチャイルドは悲嘆にくれた顔付きを見せていました。身動きもせず視線を下に向けたままにしていたのです。そして、突如、売りに出始めました。ロスチャイルドが売り始めたのを不安で緊張していた他の投資家達が見たのです。

1:01:58

彼らにとってその意味は一つしかなかったのです。ナポレオンが勝ってウェリントンが負けたと言う事なのです。相場は急落しました。全ての人達が英国政府の国債であるコンソル債を売り始め、価格はガタ落ちとなったのです。次いで、その僅か数時間後に、ロスチャイルドは彼の代理人を通じてそれらのコンソル債を実質価格よりも遥かに安い値段で密かに買い上げ始めたのです。

1:02:21

神話だ、伝説だとあなたは言うでしょうか?しかし、その100年後、ニューヨーク・タイムズ紙にネイサンの孫息子がこの証券取引所での話を含む本の出版を抑圧するべく裁判所の差止め命令を得ようとしたと言う記事が掲載されています。ロスチャイルド家はその話は真実ではなく、名誉を毀損するものであると主張したのです。しかし、裁判所はロスチャイルド家の要求を退け、裁判費用の全てを支払うよう命令しました。

1:02:46

この話で更に興味を引くのはその本の執筆者がワーテルローの戦いが終って二日後の僅か数時間のうちにロスチャイルドは証券市場のみならずイングランド銀行さえも席捲する様になったと主張していることです。ロスチャイルド家がヨーロッパの主要国の中でも最初にして、しかも、最も裕福な私設の中央銀行であるイングランド銀行を掌握したか否かに拘わらず、 確かな事が一つあります。それは、1800年代の中頃までにロスチャイルド家が世界に並ぶ者のない最も裕福な一族になったと言う事実です。彼ら新たな国債市場を支配し、そして他の様々な銀行や産業の企業へと枝分かれして行ったのです。

1:03:30

事実、19世紀の残りの時期は「ロスチャイルド家の時代」として知られています。この圧倒的な富にも拘わらず、一族は自らを広くベールで覆う術を培って来ました。一族が多数の産業、商業、鉱業及び観光の様々な事業を行っているにも拘わらず、ロスチャイルドの名を伴う企業はほんの一握りしかありません。ある専門家はロスチャイルド家が19世紀の末頃までに世界の半分の富を支配していたと試算しています。

1:04:03

彼らの広大な富がどの程度であれ、世界の富に占める彼らの割合はそれ以来増大していると推定するのが道理です。しかし、世紀の変わり目以来、ロスチャイルド家は彼らの富が増大し続ける一方で彼らの権力はどう言う訳か減衰してしまったのだと言う観念を上手く育んで来ました。

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