Anti-Rothschild Alliance

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資料室

MONEY AND THE PRICE SYSTEM
日本語訳文 『通貨および価格システム』

ノルウェイ国王H.M.、英国首相H.E.、およびオスロ・マーチャント・クラブの会長およびメンバーに向けた
1935年2月14日のスピーチの凝縮版

C.H.ダグラス著
原文【英語サイト】http://www.globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=6870

我々が危機、失業問題、経済不況と呼ぶところのもの、および現在の状況に対して我々が与える他の呼び方に関して、非常に多くの議論がある。また、通貨システムに対する不慣れからのこの危機発生に対処するために為された様々な提案を取り巻いている誤解もある。

我々は、過ぎ去った幸福な日々において、たとえば、ジョーンズ氏が"お金を作って"いると聞いているか、あるいは聞いた。ジョーンズ氏は靴磨きか、醸造業者か、その類の者か、あるいは自動車の製造業者であった。しかし、その言葉の文字通りの意味において、お金を作っているのは、世界でたった3通りに分類される。たとえば、英国においては、金属貨幣を作っている王立造幣局の職人がいる。小さなプラントを組み立てて、偽造貨幣を作るかあるいは特別な紙片に非常に精巧な偽の署名をする紳士がいる。彼は“お金を作っている”が、その報いとして15年の禁固刑を得る。遥かに表立たず、遥かに物陰にいる第三の者がいる。それは銀行家であり、その言葉の文字通りの意味において、我々が使う現実のお金の90%以上を作っているのが銀行家である。

銀行家がお金を作る方法は巧妙であり、ほとんど全て記帳で成り立っている。すべての銀行貸し出しは預金を生み出し、全ての銀行貸出しの返済は預金を取り崩し、銀行による有価証券の購入は預金を生み出し、銀行による有価証券の売却は預金を取り崩す。これは、お金がどこからやって来るかについて、非常に明確な説明を我々に与えてくれている。近代の状況において我々の誰もがそれなしでは存在できないところのお金の取引のうち、英国においては0.7%を除く全て(すなわち99パーセント以上)は、“銀行預金”の形の中で行われる。そしてその銀行預金”は銀行システムによって現に作られ、銀行システムによって銀行そのものの資産と主張される。これは疑いのないことである。なぜならば、銀行システムはお金を(与えるのではなく)貸すのであり、誰にでも所有権を主張するに十分な証明として受け入れられるような物事の条件を貸しているからである。

それと対照的に、現実の富の製造業者がいる。ここで言う現実の富とは、お金で買うことができる物、衣類、家、自動車、生活の物理的な水準を高めることができる物を意味する。お金を所有することは現実の富に対する請求権を有することである。我々の中にはお金が現実の富であると思い込んでいる人がまだ居る。この優れた聴衆を前にして、お金が現実の富ではないことを強調する必要がないと私は確信している。

近代経済における生産システムは、個々の生産システムでも個々の生産物の交換システムでもない。その生産システムは、動力および近代の科学技術プロセスに圧倒的に支えられている商品とサービス、すべての種類の組織、あなた方に生起する他の構成的な寄与から成る富の中央プール内の統合的な集合体に益々なっている。問題は、その中央プールへの我々個々の構成的な寄与を交換することではない。なぜならば、実体のある経済的な物の通常の意味における中央プールへの我々の寄与は、工業品製造用機械を使用する少人数の人々が全人口の必要とするだけの量を生産できるという事実があるからである。問題は、チケットシステムとして可視化され得るものによって、この富の中央プールから取り出すことである。そして近代の通貨システムは交換の媒介という様相をほとんど毎日失いつつあるのが実際であり、生産物を交換しない人々が富の中央プールから引き出すことができるチケットシステムとしての様相を益々深めている。

お金が交換の媒介物であったとき、すべての人々は生産システムに雇用されていて、価格システムは自己清算的と呼ばれるものであった。もし私が一足の靴を作り、それらに対して10クローネの値を付けたならば、あなたがそれらに対して払った金額は流通されてきた。すなわち、それは個人としての私の手に入り、私は10クローネの値打ちのある物、たとえば5クローネの革製品と5クローネのパンを買うためにその10クローネを使うことが出来る。そのシステムが自己清算的であり、ほぼ無限に機能し続けるという事実は自明である。そしてこれは古典的な経済学者の仮説である。現在の形の経済と金融からなるシステムは、現在の価格システムが自己清算的であるかという論点に命運が掛かっている。 すなわち、たとえ、どのような価格がその品物に対して付けられても、その品物の生産あるいはその品物を買うための他の品物の生産を通して流通するに十分なお金が必ず存在するかどうか、そしてそれ故そのプロセスが無限に続くのを妨げるような固有のものがそのシステムにないかという論点に命運が掛かっている。

そう信じることは真実ではない。(現行の)システムは自己清算的でない。豊かさの中に貧困がある。多量の貴重な食料品、製品などがあり、それに対してどこにでも膨大な需要がある一方で、それに対する購買力が存在していない。工場が半雇用状態にあり、農場が収穫量を抑制していて、米国では生産過剰のために綿花の供給が制限されているという事実それ自体が、設定された売価でそれらの商品を買うのに十分な購買力が存在していないということを示唆している。

この問題に関して、どんな議論をも超越する帰納的な証明があり、それは負債が引き起こす問題である。誰にとっても十分明らかなことに違いないと思うが、もし世界が全体として一貫して際限なく借金漬けになっていくならば、世界は自活できなくなる。そして、自活できなくなるならば、価格システムは実存する以上の購買力を求めているのだということが十分に明白である。大衆は払える限度一杯に払い、全生産物のうち買えるだけの物を買う。それ故、より多く払えないという失敗は、大衆の一部の破滅を強いると同時に借金を停止する。そしてそれは、自己清算的であるためには、購買者は実際に払う以上に払うべきだと言うことを意味している。

もし、私個人がたとえば1年間当り1万クローネの商品を必要とし、1年間当り1万クローネの商品を手に入れる一方で、1年間当り1万クローネの借金をするならば、そのシステムを維持できるようにするために私が払うべき本当の値段は2万クローネであることは明白である。1万クローネを手に入れたが、その結果、追加的に払わねばならない1万クローネを借りているからである。もし、あなたが連続的に借金を続けるならば、自活していない。あなたが日常生活に使用する物を買うために払うことを求められる本当の値段は、あなたが実際に払うものに加えて、そのシステムがあなたに払うべきと言うところのものの合計であり、あなたが払うべきものは借金である。

1694年にイングランド銀行が設立され、そのイングランド銀行の設立の時に不幸にも開始されたシステムは、現在の危機に対して、たぶん他のどんな要因よりも深く関わっている。17世紀において世界の負債は47%増加し、18世紀末までに466%増加し、19世紀末までに公共および民間を含む世界の負債は12,000%増加していた。おびただしい数の負債支払い拒否、すべての倒産における負債の減免、および負債棒引きと再出発のために使われた他の方法があったにも関わらず、そういう状況であった。

そのことは、現在の金融価格システムが、単に自己清算的でないだけではなく自己清算性が漸減するということの議論の余地のない証明である。経済学者によってシステムが自己清算的であることの証明として言及されるにわか景気時における負債の増加速度は、不景気時のそれを上回っているということも我々は知っている。にわか景気のときにおいてさえ、どの交換サイクルにおいても価格システムが自己清算的であると言える正当性はない。

勿論、価格システムが自己清算的でないという考え方に [銀行は抵抗して] 何故にと問うかも知れない。第一の理由は次の通りである。もし、商品を買うために十分な購買力が常に現存するということが本当ならば、お金持ちがお金持ちであるがために、貧しい人々が貧しいということが本当のことであらねばならない。そして、現状に正しく対処するための方法は、お金持ちに税金を課すことによってお金を貧しい人々に与えることであるということになる。

大英帝国に関する限り、税金は世界の他のどの国よりも2倍重いと思う。その税金の半分以上は、国債や戦債といった類のものと関連している。もし、あなたが世界中の国債や戦債の所有者に関して事実を調べるならば、それらが圧倒的に大きな金融機関によって保有されることが分かるでしょう。税金の半分が大きな金融機関が保有する国債の利払いに使われていることを知るならば、重税が課せられねばならない理由を同時に理解するでしょう。それは通常のビジネスの原理として明らかである。これらの負債は、お金を政府に貸すということを通して最初に金融機関によって現実に創造されたものであり、その見返りに金融機関は何をすることもなく国債の利子を得ているということを考えれば、それはより一層明らかである。

あなたは常に購買力の不足があるという事実にも気付くでしょう。多かれ少なかれ不足があるはずであり、その不足を生み出すプロセスは進行し、勿論のことであるが、その不足を負債の創造によって埋め合わせるのが銀行システムの主要業務である。その業務は、すべての国の全体、すなわち工業、負債、機関を金融機関のコントロール下に収めるためのビジネスである。人々は個々に購買力の不足に遭遇する可能性があるが、遅かれ早かれすべてのビジネス関係において起きるに違いないことである。

酷いシステムであり、現状の下ではもっと酷くなり続けるに違いないシステムがある。そして、世界の全歴史がかつて知った中で最も強力な独占、すなわち信用の独占の所有において極悪な既得権利がある。それは、お金に関しての信用創造の独占であり、それに比べたら他のいかなる独占も影が薄くなるほどである。そして、この独占を維持するために、あらゆる手段が決然として使われている。

近代世界においては、たとえどんな物であっても、それが無いと絶対に困るということはほとんど無い。しかし、お金、あるいは遅かれ早かれお金に交換できると確信させてくれる"信用"無しでは、我々の誰も、現実的に24時間過ごせない。通貨システムの支配独占は、現在そうあるように、巨大な最も重要な独占である。そして、この問題に対処することにおいて悟るように、それを悟るならば、単に経済的数値的な側面だけではなく、非常に高度な政策にも浸透する側面でもある。

それを非常に簡潔に説明すると、我々が現在使用しているこの価格・通貨システムにおける欠陥の核心は、銀行の助けなしに“費用”を清算することができないということである。別の説明の仕方をすると、借金を益々増やすしかないということである。この状態を完全に簡単に治療する方法は、借金が増えるだけお金も増やすことである。非常に簡単に言うならば、全ての借金は預金を創造するということであり、もし、天文学的な速度でお金を作るならば、借金もその速度で作られ、そのように作られたお金は借金の清算に充てられ、お金と借金の両方が同時に消えるであろうことが極めて明らかである。そのように、そのプロセスは、何百年もの過去からの話ではないが、無限に実施され得る自己清算プロセスになるであろう。

そのシステムの修正問題が起きたとき、この世界的インフレーションが、銀行家達および銀行家達と利害が一致する人々によって常に引き起こされる。それは、不運にも同時に全ての人を恐れさせる一種のお化けである。悟るべき最初のことは、インフレーションの本当の意味である。インフレーションは購買力の増加ではなく、価格の増加を伴う通貨−紙幣であろうとそれ以外のものであろうとも−の増大である。使えるお金の側と、価格の側の両方で、数値が大きくなるということである。それが本当のインフレーションである。使えるお金と価格の関係を変えることなしでの単なる数字の増加であるが、勿論、貯金に対しては税金である。

使えるお金の増加が価格を上昇させないならば、使えるお金の増加はインフレーションではない。一方、使えるお金の総額、通貨流通量が一定で、価格が下がる場合には、購買力の増加が起こる。 二つの方法の一つで、購買力を増加させることが可能である。そうすることが可能だと仮定すれば、価格を一定にして通貨流通量を増やすことや、あるいは通貨供給量を一定にして価格を下げることができる。更にまた、同時にそれらを成し遂げることも勿論できる。ところで、概して言えば、社会信用論運動で我々が目指している第一のことは、通貨システムが自己清算的になるように購買力だけを増加させることである。そして第二に、私の話の冒頭でヒントを与えたことであるが、工業製品を製造するための設備の制御ボタンを押すのに必要なオペレータの人数が徐々一貫してに減少しているという状態への適合を目指している。

何人もの最優秀な頭脳(科学者など)が180年以上の間、世界を労苦から開放するために努力してきて、それに成功してきたということを悟って下さい。生産、工業生産という用語は、本来、誤用である。すなわち、正確に言うならば、生産に値するものはない。エネルギーおよび質量の保存則は、それに関して正確な意味で生産という言葉を禁止している。人がすることは、人間に役立たない物を役立つような形に変えることであり、その変換のためには必ずエネルギーが用いられる。150年前までにおいては、手に入るだけの食料を食べて、腕力を行使することによって、そのエネルギーとしてきた。蒸気機関が現れて初めて、そのプロセスが時代遅れとなった。物質をある形から別の形に変換するためのエネルギーは、今ではより直接的に太陽から、あるいは水力、蒸気タービン、発電機、作業場のモータなどの形で得られる。

1921年において、オスロでお馴染みの米国製ビュイック車はビュイック工場で1,100人・時間で生産された。10年後の1931年には、多くの素晴らしい改良が加えられた遥かに良い車が90人・時間で生産された。私の友人である飛行船建造業者は、もしこれまでのように大英帝国で事が進むならば、1940年までに 800万人の失業者が生まれるであろうと言っている。大英帝国において1200万人の就労可能人口があるが、必要とされるすべての商品は400万人で生産可能であろうと言われている。

努力の結果としての現状は、あたかも破局であるかのように、失業問題に結び付けられる。それが破局であるかあるいは素晴らしい功績であるかどうかは、我々がどう評価するかに純粋に依存する。なぜならば、最優秀な頭脳が失業問題を大きくする努力を実質している一方で、人々が我々に失業問題を解決するように要求している限り、らちが明かないことは明瞭である。我々の観点、私の見解を共有する人々の観点においては、これは素晴らしい功績である。

いわゆる失業問題は、本当は余暇の問題である。その問題は、第一に、産業システムにおいて必要とされず、必要性が漸減するであろう人々への購買力の分配の問題であり、第二に、全購買力が商品およびサービスの購入のために常に十分になるように保証するという問題である。

目下の最も緊急性の高い必要性は、我々が国民配当と呼ぶものによって満足されると、我々は信じている。これは、新しいお金を作ることによって、−すなわち、銀行システムによって新しいお金が現在作られているのと正確に同じ方法によって、−および全人口に購買力として分配されることによって達成される。これは税の徴収によるものではない。なぜならば、非常に迅速で劇的な税の軽減が絶対に重要だからである。自己尊厳、健康、および体面のある基準をとにかく満足させられ得るだけの配当金を分配することは、現状先ず第一にすべきことである。

国民所得の核心は、仕事がない場合、労働者は“施し物”としてではなく権利として自尊心と生計のために十分な収入を得る権利を有しているという事実を悟ることであろう。もし、更なるステップを踏むことなしに沢山の国民所得を分配するならば、物価が上昇するであろうことは勿論のことである。しかし、物価を下げる目的で、信用に関して更なる核心的なことがなされるべきことを提案する。作られたお金総額の一定割合に相当する部分を物価の低下に充てることを提案する。人々は自分のポケットから価格の一部を払い、残りは国家の信用創造を通して様々な方法で払われるという案である。その案に従えば、生産者や商売人がお金を失うことなく、価格が下がるであろう。人々は国民所得の恩恵を享受し、物価下落から生じる売り上げ高の上昇にも恵まれるであろう。国家の信用創造がなければ、価格を下げることで損をするであろうけれども、それがあれば損をすることはない。

そういう風にすることで、インフレーションと呼ばれる性質のものを発生させることなく、購買力をアップさせると同時に物価を下げることを一度にできるであろうと信じている。その方法は我々が提案しなければならないほとんど全てを原則的にカバーしている。勿論、大きな困難は、この世界中にはびこっている信用の独占に抗すために十分な圧力を得ることは非常に大変だということである。もし、それがなされたならば、誰も損をしないと信じている。私自身は、たとえば、銀行国有化擁護者ではない。これはこの問題に関してよくある誤解の一つだと信じている。というのは、銀行国有化は単に管理上の問題に過ぎないからである。国有化は政策における変化を意味しておらず、単なる管理上の変化によって、この問題に関して如何なる良好な結果も得られないであろう。金融政策の変化は、世界における一銀行の管理形態や所有権をいじることもなく為され得る。おびただしい金融機関を支配する比較的少数の人々−彼らは権力以外に何も失わず、権力を失うだけである−に受け入られるならば、事は成就されるであろう。

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