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資料室

What Do We Mean By Real Social Credit? Above political parties
『本当の社会信用とは何を意味するのか?政党ではなく』

目次

ルイ・エバン
原文【英語サイト】http://www.michaeljournal.org/realsc1.htm

カナダでは政党との見解が広く知れ渡っているが、社会信用は政党とは全然異なる。

社会信用は1918年に、少佐にして技術者であるC.H.ダグラスによって初めて述べられた一連の原理からなる学説である。これらの原理を履行するならば、社会・経済組織体は人間の必要性への奉仕という本来の目的に効果的に到達するであろう。

社会信用は商品や需要を作り出すものではなく、それらの間、生産と消費の間、穀物倉庫内の小麦とテーブル上のパンの間のどのような人為的障害も取り除くであろう。今日の障害は、少なくとも先進国においてであるが、純粋に金融制度に起因するもので、お金に関する障害である。そもそも、金融システムは神が与えたものではなく、自然に発生したものでもない。人間によって樹立されたものであり、人間に奉仕し、人間に問題を引き起こさないように修正され得る。

この目的のために、社会信用は具体的な提案をしている。これらの提案は非常に単純であるけれども、それでも本物の革命を前提としている。もし、文明というものが人間関係と生活条件を改善して人々の個性の開花を助長するものだとするならば、社会信用は新しい文明の展望をもたらしてくれるものである。 

社会信用システムの下では、厳密に金融的な問題で、政府、公共団体、家族を絶えず悩ませ、人間関係を毒する問題で苦労することがなくなるであろう。金融は単なる会計システムとなり、そのシステムは商品およびサービスの相対的な価値を数字で表し、流通を容易にし、最終製品に向けての各段階での生産に必要なエネルギーを釣り合わせ、提供されているかあるいは直ぐに生産できる商品の中から好きなものを自由に個別に選択できる手段を全ての消費者に分配する。

歴史上初めて、制限条件無しで、完全な経済的保障が各人および万民に保障されるであろう。物質的貧困は過去のものになるであろう。明日の物質的心配は消えるであろう。万民のために十分なパンを作るのに十分な小麦がある限り、万民のためにパンが確保されるであろう。

現代の生産の支配的因子である莫大な共同体資本の、生きている間における使用権者である共同体の一員として、各市民は生得権としての経済的保障をプレゼントされます。この資本は、数ある中で特に、共同体の財産である自然資源、その結果として生じて増加する社会の人々、過去の世代からの常に増加する世襲財産であるところの発見、発明、技術革新の総計から成る。

非常に生産的なこの共有資本は、その共同所有者である各市民に、揺りかごから墓場まで定期的な配当を与えます。そして、共有資産に起因する生産高を考えると、各人への配当は少なくとも基本的な生活必需品をカバーできるだけ十分であるべきである。この配当は、労賃、給料、および報酬の他の形に不利益を与えることなく、生産に個別に従事している人々にも与えられます。

たとえ非雇用者であっても各人に付属する収入が存在するので、各人は他の人間によって搾取されることから守られる。基本的な生活必需品が保障されるので、人は貧困に陥る可能性は少なくなり、希望する職業を選択し易くなる。

差し迫った物質的悩みから解放されて、人々は命じられた仕事よりも創造的な自由な活動に従事できるようになり、純粋に経済的な活動に勝る人間的な活動をすることにより自己実現に向けて励むかも知れない。毎日のパンを手に入れるために、自分の人生を消費する必要がなくなるであろう。

しかし、論理的で社会的で人間に対して敬意を払うものであるけれども、社会信用の提案は、一般に受け入れられ、具体的および非具体的に考えれている概念を根本的に打ち払うものである。

それが、単純な政権与党の交代で社会信用が生じ得ない理由である。選挙によって新しい文明を強いることは無理である。先ず、それを全住民に知らしめ、望ませ、願い求めさせねばならない。そして、これが社会信用文明の問題であるが、先ず社会信用思考を育て、社会信用の提示する展望が好ましいものであることを人々に知らしめねばならないと言わざるを得ない。

それ故、問題は政党を後援することではなく、社会信用を周知させ、愛すべきもので望ましいものだと納得させることである。

また、政党というまさにその概念は、社会信用の哲学と矛盾している。政党は政権を得ようと努める存在であり、政権争いがあるときのみ活発に活動する。社会信用はと言うと、それは権力を社会の全構成員に出来るだけ広く分配するものである。経済力については各人に保障された購買力を分配するものであり、政治的権力については議員を選挙人の本当の代表にし、最早政党の召使にならないようにするものである。 

有権者にとって、いつでも彼らの共通の願いを述べることを学ぶことは不可欠である。国民生活に影響する決定は、選挙と次の選挙の間になされる。政党の候補者に投票することで満足し、決定による損失に耐えねばならない人々からの助言を訊かないで決定されたことを何でも受動的に受け入れることは、政治的な幼稚性である。

政党は壁を作る
(1957年1月1日“Vers Demain”誌) 

社会信用の原理を知り、消化するために、社会問題を取り扱うことは、いずれのグループや運動組織にとっても興味深いことであろう。

どの政党であろうと個人として選ばれた人々の代表者は誰であろうとも公共善を推進することを本当に欲するならば、個人の自由、個人の資産、私企業に関して、富の適正な分配を求めることを躊躇してはいけない。それは、国をより良く運営できるであろう政党に留まっている間に彼が出来ることである。

しかし、人々は、ある点で政党に閉じ込められているため、政党を超越していて我々全てを裕福にするであろう社会信用のような名人芸的な概念を理解できないでいる。社会信用は普遍的なものである。政党は一部分で断片である。政党を“社会信用”と称することは、普遍的実在を限定的に奴隷化することを欲することに等しい。

政党を社会信用党と名付けたら、他の政党のメンバーが社会信用を支持すると宣言する可能性をたちまち排除します。他の政党員は社会信用に反対する者となるでしょう。彼の所属する政党と社会信用党を同時に支持できないので、反対するでしょう。 

そしてもし、全住民が“社会信用”という言葉を聞いて政党を思い浮かべることに慣れたならば、他の政党を支持する聴衆に社会信用を紹介したいとき、たとえその片耳がまだ塞がれていないとしても、片耳しか向けてくれないという不遇に付きまとわれる。

政党の目的は、それが既に権力を保持しているならば、その権力の座に居座ることで、まだ保持していないならば権力を得ようと努めることである。それ故、政党間には必ず闘争がある。各政党はお互いに敵対している。政党を“社会信用”と称することは、他の全ての政党員を社会信用という名称を持つものから遠ざけることになる。

そしてその上、真実は投票に屈服するものではない。社会信用を投票にさらすことは、失敗のあと、「人々の大半は社会信用に反対する側に投票したので、それはあなたが言うほど良くないことをあなたは理解できる」と告げられるのを余儀なくされることになるであろう。

たぶん、「政権政党が社会信用党でないならば、どのようにして社会信用法を成立させられるのですか?」と訊く人々がいるであろう。

社会信用が全住民自身の心に十分受け入れられ、全住民に希求されるようになったとき、社会信用は至る所に、与党であれ野党であれ政党内にさえ普及するであろうと信じている。これは聖ミカエルの巡礼者が没頭するところのものである。そして、社会信用の概念を政党の概念に結び付けて見られたくないのは、正に、社会信用と人々の間に壁を築かないようにということである。というのは、人々は政治というものを政党の見地でのみ考えるのにまだ慣れ過ぎているからである。

社会信用入門

富は物であり、お金は象徴である。
その象徴は物を反映すべきである。

お金と信用を支配する人々が我々の生活の支配者になって来た。
誰も彼らの意志に逆らって生きようとする勇気がない(ピウス11世)。

銀行家はお金の創造者であり、かつその消滅者である。
お金を創造することは主権者の行為であり、銀行に関連付けられてはならない。

世界にやってくる新しいお金は、国民自身、全国民に帰属し、
価格の割引や社会配当の形で彼らに手渡されねばならない。

商品および必要性

食欲、および衣類、避難所、暖房、医療の必要性は、人がこの世にいる限り逃れられない現世の要求である。人々にこれらの必要性を与えたのは創造主自身である。人々をこの世に存在させたのも彼である。したがって、彼はこれらの必要性を満足させるための手段をこの世の何処かに置いたに違いない。
これらの必要性を満たすのに役立つ有益な物は、商品、現世の商品である。食料、衣類、薪、毛布、台所用具、医薬品は商品である。人は、これらの現世の商品によって、現世の必要性を満たさねばならない。
人の経済活動の目的は、正に、必要性を満たすために商品を手に入れることである。もし、経済システムがこれをするならば、それはその目的を成し遂げている。もし、商品と必要性が河を挟んで離れたままならば、完全な失敗である。我が国の経済システムは完全に失敗である。というのは、食べ物があるにも関わらず空腹で、木材があるにも関わらずホームレスで暖がとれず、薬があるにも関わらず服用できない人々が多数だからである。

欠けているもの

国民の現世での必要性を満足するためのもので、我が国において不足しているものがあるのか? 誰もが満腹になれるだけの食料がないのか? 靴や衣類は不足しているのか? 必要なだけ作ることができないのか? 鉄道や他の輸送手段が不足しているのか? 全家族のために良い家を作るための木材や石が不足しているのか? 建設業者、製造業者、あるいは他の労働者が不足しているのか? 機械が不足しているのか?
いいえ、我々はこれら全てをたっぷり持っている。小売業者は、需要を満たすのに十分な商品を手に入れられないと、決して不平を言っていない。穀物倉庫ははち切れんばかりである。仕事を求めている強壮な男達が大勢いる。休止中の機械も多数ある。
にもかかわらず、大勢が苦しんでいる。商品が家庭へ辿り着くための道を見つけていないだけである。
国で生産されるものが国民の家庭に辿り着かない。売り場に並べられたままで、国民のテーブルの上に現れない。
母親は、ウインドーショッピングし、新聞で商品の広告を読み、ラジオで良い製品の説明を聴き、あるいは全ての種類の夥しいセールスマンの売り口上を聴くだけに過ぎず、子供達を食べさせられず、靴や衣服を与えられない。
欠けているものは、これらの商品に手を伸ばすことを可能にする有効な手段である。それらを盗むことは出来ない。それらを手に入れるためには、それらの対価を払わねばならず、お金が必要である。
我が国には沢山の良い物があるけれども、これらの商品を必要とする多くの個人および家族は、それらを所有する権利、それらを手に入れる許可を欠いている。
お金以外に欠けているものがあるか? 製品を売り場から家庭へ移動させるための購買力以外に欠けているものがあるか?

満杯の商品保管庫、製造業者の苦難。
商品保管庫が満杯なのに、
何百万もの人々が死ぬほど飢えている。
その原因:悪い通貨システム

お金と富

これは、お金自体が富ではないという意味である。お金は現世の必要性を満足できるこの世の物ではない。
お金を食べて生命を維持できない。衣類を身に着けるために、ドル紙幣を縫い合わせて、衣服やストッキングを作ることができない。お金をベッド代わりには出来ない。患部にお金を貼っても病気は治らない。頭にお金をかぶっても教育できない。
お金は本当の富ではない。本当の富は人間の必要性を満たす全ての有益なものから成る。
パン、肉、魚、木綿、木材、石炭、良い道路上の車、病人を訪問診療する医者、科学知識―これらが本当の富である。
しかし、現代世界では、一人の人間が全てのものを生産する訳ではない。人々はお互いから買わねばならない。お金は売ったものに対するお返しを得る権利の象徴・標しである。別の人から欲しいものをお返しに得る権利の象徴である。
富は物であり、お金はその物の象徴である。その象徴は物を反映すべきである。
もし、国に沢山の商品があるならば、それを消費できるだけの十分なお金があるべきである。人々と商品が多ければ多いほど、循環するお金も多く必要である。そうでなければ、全ては止まってしまう。
今日、欠けているのは正にこのバランスである。応用科学、新発見、完璧な機器設備の御蔭で、望み通り沢山の商品が生産できる。失業している人々さえ多数居るが、これは商品をもっと生産できる潜在力の存在を意味している。無益で有害でさえある職業も存在している。目的が破壊だけだという生産活動がある。
お金は人と人の間での商品移動を可能にするために創造された。それなのに何故、流れ作業における商品の流れと同じ手段で、商品を人々の手に届ける方法が見付からないのであろうか?

お金はどこかで始まる

神を除いて、全てのものには始まりがある。お金は神ではないが故に、それには始まりがある。お金はどこかで始まっている。 
人は、食料、衣類、靴、本のような有益な日用品の出発点を知っている。労働者、機械設備、それらに加えて天然資源が、我々が必要とす富・商品を生産するが、それらは不足していない。
しかしそれでは、お金の出発点はどこか? 欠けていない商品を買うために欠けているお金の出発点は?
それを現実には思い描いていないけれども、我々の心の中に存在し続ける第一の考えは、一定量のお金が存在し、その量は変わり得ないということである。あたかも太陽や雨や気候のように。この考えは全く間違っている。お金があるのは、どこかで作られたからである。もし、足りないとしたら、それを作る人々が十分作っていないということである。
また、お金の出発点についての別のよく見られる考えは、政府がそれを作っているということである。これも正しくない。今日の政府はお金を作っておらず、それが不足していることについて絶えず不満を抱いている。もし、政府がお金の源泉ならば、お金が足らないことを前にして10年間もぼさっとして来たことになるであろう。(そして、たとえばカナダにおいて、5,000億$もの国の負債は発生していないであろう。) 政府はお金を取ったり借りたりするが、お金は作らない。
さて、お金はどこからやって来て、どこで消えるか説明しよう。お金の生死を支配する者達はお金の量も規制している。彼らが多くのお金を作り、ほとんど消滅させないならば、お金はより多くある。お金の消滅速度が生成速度よりも速ければ、お金の量は減少する。
お金が欠けている国における生活水準は、生産される商品の量で規制されるのではなく、それらの商品を買うために費やされるお金の量で規制される。それ故、お金の量を支配する者達は生活水準を統制する。“お金と信用を支配する者達が我々の人生の支配者になった・・・・誰も彼らの意志に逆らって生きようとする勇気がない”(教皇ピウス11世、回勅書状クァドラジェジモ・アンノ)

2種類のお金

お金は払うため、買うために奉仕するもので、商品やサービスの交換のために受け取られるものである。
お金の原材料が何かは重要ではない。過去において、お金は、時には、貝殻、革、木、鉄、銀、金、銅、紙などであった。
カナダでは現在2種類のお金がある。一つはポケットマネーと呼ぶもので、金属または紙製である。もう一つはブックマネーと呼ぶもので、帳簿の数値でなっている。ポケットマネーは重要でなく、ブックマネーが最重要である。
ブックマネーは銀行口座である。ビジネスは銀行口座を介して行われる。ポケットマネーが循環するかどうかはビジネスの状態に依存する。しかし、ビジネスはポケットマネーに依存しない。ビジネスはビジネスマンの銀行口座に依存し続ける。
銀行口座によって、人は貨幣や紙幣を使うことなしに、支払ったり購入したりする。人は数値によって買う訳である。
私が銀行口座に4万$持っていると想定しよう。私は1万$の車を買う。私はそれを小切手で買う。自動車販売人はそれに裏書して、彼の取引先銀行に預ける。
そして、銀行家は2つの口座に変更を加える。先ず、自動車販売人の口座において1万$増やし、次に私の口座において1万$減らす。自動車販売人の口座は50万$だったので、今や51万$と記録されている。私の銀行口座は4万$だったので、今や3万$である。
紙幣は、この取引のため国内で移動しなかった。私は自動車販売人に数値を与えただけで、数値で支払った訳である。全てのビジネスの90%以上がこのように行われる。それは、ブックマネー、すなわち数値で作られたお金であり、それは現代のお金である。それは最も豊富なお金であり、その量は紙幣や貨幣の10倍である。それは他方に翼を与えるので、上位のお金である。それは、誰も盗むことができない最も安全な種類のお金である。

貯蓄と借用

他のタイプのお金と同様、ブックマネーには出発点がある。ブックマネーは銀行口座なので、それは銀行口座が開設されたときに存在するようになる。それに伴って、どこかでお金が減少したり、他の銀行口座や誰かのポケットの中でお金が減少することはない。
銀行口座における額は二通りで増加され得る。貯蓄と借用の二通りである。他の方法もあるが、それらは借用として分類され得る。
貯蓄口座はお金の変容である。私がいくらかのポケットマネーを銀行家のところへ持っていくと、彼は私の口座をその分だけ増やす。私は最早そのポケットマネーを持っていない。私は自由に使用できるブックマネーを持っている。私は私の口座のブックマネーを減らすことによって、ポケットマネーを取り戻すことができる。それはお金の単なる変容である。
しかし、どのようにしてお金が存在するようになるかを理解しようと努めているので、お金の単なる変容である貯蓄口座はここでは興味がない。
借用(融資)口座は銀行家によって借り手に貸し出す口座である。私がビジネスマンであるとしよう。私は新しい工場を建てたい。私が必要とする全てはお金である。私は銀行に行き、担保の下に10万$を借りる。銀行家は私に利子付きで返済するという約束状に署名させる。それから彼は私に10万$貸し出す。
彼は10万$を紙幣で私に手渡すであろうか? 私はそれを望まない。第一に危険である。更にまた、私は小切手という媒介を用いて広く分散した異なる場所で物を買うビジネスマンである。私が欲するものは、私がビジネスを行うのを容易にしてくれるであろう10万$の銀行口座である。
したがって、銀行家は私に10万$の口座を貸すでしょう。彼は、私があたかもその銀行にその金額を持ち込んだかのように、私の口座に10万$を振り込むであろう。しかし、私はそれを持って来なかった。それを手に入れに来たのである。
それは私が開いた貯蓄口座なのか? それは、私のために銀行家自体が作った借用口座である。

お金の創造者

この10万$の口座は私が作ったものではなく、銀行家が作ったものである。彼はどのようにそれをしたのか? 銀行家が私に10万$を貸したとき、銀行のお金は減ったのだろうか? さて、銀行家に訊いてみよう。
 −銀行家さん、私に10万$貸したあと、金庫のお金は減りましたか?
 −金庫内に立ち入らなかったです。
 −他の人々の口座が減額しましたか?
 −全く元のままです。
 −それなら、何が銀行内で減ったのですか?
 −何も減っていません。
 −けれども、私の口座は増加しました。あなたが私に貸したお金はどこから来たのでしょうか?
 −それはどこからも来ていません。
 −私が銀行に来たとき、それはどこにあったのですか?
 −それは存在しませんでした。
 −そしてそれが私の口座にあるのだから、それは存在します。だから、それは創造されたと言って良いですね。
 −確かにその通りです。
 −誰がそれをどのように創造したのですか?
 −私が私のペンと一滴のインクでしました。あなたの要求で、私があなたの借用口座に10万$と記入したときです。
 −それならあなたがお金を創造したのですか?
 −銀行は、数値だけのお金であるブックマネーを創造します。それは、ビジネスを絶えず活動させることによって他のタイプのお金を循環させる現代のお金です。
銀行家は、借り手、個人、あるいは政府に口座を貸すときに、ブックマネーすなわち帳簿上のお金を製造する。私が銀行を去るとき、この国には新しい小切手の源泉が存在するであろう。そして、それは以前には存在しなかったものである。国内の全口座の総額は10万$増加した。この新しいお金によって、私は労働者に支払いをし、原材料や機器設備を購入する。つまり私の新しい工場を建てる。そのとき、誰がお金を創造するのか?−銀行家達だ!

お金の破壊者

銀行家が、そして銀行家だけがこの種のお金、すなわち、手書きのお金、あるいは銀行のお金と称され、ビジネスを活性化させ続けるお金を作る。しかし、彼らは彼らが創造したお金を寄付しない。彼らはそれを貸す。彼らはそれをある期間だけ貸し、そのあと彼らに戻されなければならない。銀行家は返済されねばならない。
銀行家は彼らが創造したこのお金に対して利子を請求する。私の場合、銀行家は多分一度に1万$の利子を要求するであろう。私が1年後に10万$返済するという約束状に署名したら、銀行家は融資からその利子を差し引いて、私の口座には9万$を振り込むであろう。 
私の工場を建てるにおいて、私は労働者に支払い、物を買い、そのようにして国中に私の9万$の口座預金をばら撒くであろう。
しかし、1年以内に、私は私の商品を売って利益を上げて、少なくとも10万$以上を口座に振り込まなければならない。
その年の終わりに、私は10万$の小切手を切って、その借金を返済するであろう。銀行家はその時、私の口座の借り方に10万$を記入し、それによって私が私の商品を売ることで国中から引き出したその10万$を私から取ります。彼はこのお金を誰の口座にも振り込みません。誰もこの10万$に対して小切手を切ることができないでしょう。それは死んだお金です。
借り入れはお金を生み出す。返済はそのお金を消滅させる。銀行家は貸し付けるときにお金を存在するようにする。銀行家はお金が返済されたときにお金を墓に送る。それ故、銀行家はお金の破壊者でもある。
そして、そのシステムでは返済額は元本より多くなる。死ぬ数値は誕生する数値を上回っている。破壊は創造を超えている。
これは不可能なように思え、総合的に不可能である。もし、私が返済に成功したならば、誰か他の人が破産するに違いない。なぜならば、我々は全体として、あった以上のお金を返済することができないからである。銀行家は元本しか創造しない。誰も利子を補うために必要なものを創造しない。なぜなら、銀行家以外には誰もお金を創造しないからである。そしてそれにも関わらず、銀行家は元本と利子の両方を請求する。そのようなシステムは、不断無く増加し続ける借金の流れがない限り存続できない。それ故、借金のシステムであり、銀行家の支配力を強化するシステムである。

国の借金

政府はお金を創造しない。お金の欠乏のため、最早、個人から徴税したり、個人から借りたりできないとき、政府は銀行から借りる。
その操作は、私の場合と全く同じである。国全体が担保である。返済の約束状は担保付である。お金の融資は、1本のペンと数滴のインクで作られる口座上の数値である。
かくして、1939年10月に戦争の初期費用を工面するために、銀行に800億$の融資を求めた。銀行は誰からも1セントも奪うことなく、政府の口座に800億$を融資し、政府は800億$分の小切手を切るための新しい根拠を手にした。
しかし、1941年10月に政府は元本と利子を含めて832億$返済しなければならなかった。
徴税を通して、政府は使っただけのお金を国から取り除かねばならなかった。しかし、その上、国から更に30億$引き出さねばならなかった。その30億$は、銀行家によっても、あるいは誰か他の者によっても作られていなかったお金である。
政府は存在するお金を見つけることができるのだということをせいぜい真実だと認めるとしても、創造されなかったお金をどのようにして見付けられるのであろうか?
明白な事実は、政府がそれを見付けていないということである。それは単に国の負債に追加されている。これは、国の発展がより多くのお金を必要とするにつれて、それだけ国の借金が増える理由を説明している。全ての新しいお金は銀行家を通して負債として世に出て、銀行家は実際に発行した以上のお金の返済を要求する。
そして、国の全住民は、集合的に為した生産に対して、集合的に借金しているのを知る。戦時生産の場合、そうである。平時生産、すなわち道路、橋、給水設備、学校、教会などの生産の場合も、そうである。

通貨の欠陥

その状況は、この信じ難い事に辿り着く。流通している全てのお金が銀行だけからやって来る。通貨や紙幣さえ、銀行によって放出される場合だけ流通する。
さて、銀行は利子付きでお金を貸し出すことだけで、お金を流通させる。これは、流通する全てのお金は銀行から出て行き、いずれの日にか利子分だけ増やして銀行に返済されねばならないことを意味する。
銀行はお金の所有者のままである。我々は借り手に過ぎない。 もし、ある人々が長期間あるいは永遠にそのお金を手放さないで済んだならば、他の人々は金融上の約束を果たすことが確実に出来ない。
多数の個人および企業の破産、積み重なる抵当、および増大し続ける公共の負債は、そのようなシステムにとっての自然な果実である。
お金が存在するようになるときに利子を請求することは、非合法で道理に合わないし、反社会的であり、正しい算術にも反している。それ故、通貨の欠陥は、社会的欠陥であるのと同程度に技術的欠陥でもある。
国が人口においても生産高においても発展しているとき、より多くのお金が必要とされる。借用契約無しで、新しいお金を手に入れることが不可能であり、それは集合的に返済不可なのである。
そのようにして、我々は二者選択を迫られる。成長を断念するか、借金をするか。大量失業を受け入れるか、返済不能な借金漬けになるか。そして、全ての国で議論されているのは、正にこの板ばさみである。
アリストテレス、およびその次に聖トーマス・アキナスが、お金はより多くのお金を生まないと書いている。しかし、銀行家は、お金がより多くのお金を生むという条件でのみ、お金を存在するようにしている。政府も個人もお金を創造しないので、誰も銀行家によって請求される利子を創造しない。たとえ、合法的であろうとも、この発行形態は不道徳で無礼である。

衰退および退廃

政府と個人に借金を強いる、国のお金のこの作り方によって、政府および個人に対して等しく現実的な独裁制が樹立される。
独立した政府は、小集団の不当利得者への借金の署名者になっている。何百万人もの男、女、子供の代表者である大臣が返済不可の借金に署名している。利益と権力にだけ関心のある徒党の代表者である銀行家が国のお金を作っている。
これは国力衰退の目だった特徴の一つであり、それについて、教皇ピウス11世は次のように話している。政府はその高貴な機能を譲り渡し、私的な関係者の召使になっている。
国を導くことをしないで、政府は単なる徴税者になっている。国税庁に徴収された税金の大部分が、犯すべからざる税金が、何の議論もされず、当然のことのように国の借金の利子返済に回されている。
更に、取り分け、人々から税を徴収することや、至る所で自由を制限するために、法律が制定されている。
お金の創造者が返済されることを保証するための法律はあるが、人が極度の貧困で死ぬことを防止するための法律はない。
個人はというと、お金の不足が狼の精神を発達させる。沢山の商品を前にして、一般的には不足しているお金を持っている人々だけがその沢山の商品に手を伸ばす権利を有する。それ故、競争、“ボス”の専制、家庭内の争いなどが生じる。
少数の人々が他の全ての人々を餌食としている。大多数の人々がうめき苦しんでいて、多くの人々が最も侮辱的な貧困の中にある。
病人は世話をされない。子供達は貧しく栄養不足である。才能は発達しない。若者は仕事が見付からず、家庭や家族を持てない。農夫は農場を失う。生産業者は破産する。家族は困難でもがく。これら全ては、お金が不足しているということ以外に説明しようがない。銀行家のペンは、人々に貧窮を課し、政府を奴隷状態に陥らせる。

お金の社会的な統制

“王の第一の義務は、臣民の健全な経済生活に必要なときにお金を鋳造することである”と言ったのは、フランスの聖ルイ国王である。
銀行の廃止や国有化は、全然必要ではなく、推奨されるべきことでもない。銀行家は会計と投資の専門家である。銀行家は預金を受け取り、利益を得るために投資し、利益の分け前を貰って良いであろう。しかし、お金の創造は主権者が為すべき行為であり、銀行家の手に残されるべきではない。主権は銀行家の手から取り戻し、国に戻されねばならない。
ブックマネーは適切な現代的な発明であり、存続されるべきである。しかし、お金として使われる数値は、私的なペンによって借金の形で生じるのではなく、国家機関のペンによって人々に奉仕する運命を与えられたお金という形で作られるべきである。
したがって、所有権や投資の分野において、上下逆さになるようなことは何も起こらない。現在のお金を廃止し、他の種類のお金に置き換える必要はない。必要とされる全ては、社会的な通貨組織が、既に存在するお金に対して、国の実現可能性および人々の必要性に応じて、十分な量の同じ種類のお金を追加するということである。
全ての家庭に慰めをもたらすために必要なものが国内に全てあるときに、人は欠乏に苦しむのを止めなければならない。お金の量は、実現可能で有益な商品に対する消費者の要求に応じて、均衡させるべきである。
したがって、必要性の見地で生産をする際に新しいお金の量を決定すべきなのは、生産者と消費者の全体、すなわち社会全体である。その新しいお金は、社会の名の下に活動する組織によって、国の発展速度と調和して、折々、発行流通されるべきである。
このようにして、国の資源および現代生産の大いなる可能性に一致する完全な生活を送る権利を回復するであろう。

誰がその新しいお金を所有するか?

したがって、お金は生産の速度に応じて、また分配の必要性が命じるに応じて、流通させられるべきである。
しかし、それが国内に流通するとき、この新しいお金は誰に帰属するのか? ―このお金は国民自身に帰属する。政府に帰属するのではない。政府は国の所有者ではなく、公益の保護者に過ぎない。また、国の通貨組織の会計士に帰属するのでもない。彼らは、裁判官と同様に、社会的な役割を実行し、彼らの奉仕に対して社会によって法で定められた対価を支払われる。
どの国民に?―全国民にである。このお金は給料ではない。それは、人々が商品を手に入れることができるように、公衆に注入される新しいお金である。商品は既に作られたものだけではなく、十分な購買力さえあればいつでも生産できるという意味で、容易に実現可能なものも含む。
社会組織から理由もなくやって来る新しいお金が、特に一個人または少数の個人だけに帰属するということを、人は一瞬の間、想像できない。
この新しいお金を公平に流通させるということにおいて、全ての国民に例外なく等しく分配すること以外の方法はない。そのような配分をすることで、国の隅々まで届くので、そのお金から最大の利益を引き出すこともできる。
国の名の下に働く会計士が、国の最新の需要に見合うためにもう10億$発行する必要があると分かったとしよう。このお金の発行は、銀行家が今日しているように、帳簿に数字を書き込むことにより生まれるブックマネーの形をとるかも知れない。
3100万人のカナダ人に対して10億$の分配金があるので、国民は一人当たり32.25$手に入れることになる。よって、会計士は各国民の口座に32.25$を振り込むであろう。そのような個人の口座への振込みは、地方の郵便局や国の所有する支店や銀行によっても、容易に為されるであろう。
これは国の配当である。各国民の口座にあった元の預金に、新しく作られた32.25$が追加される。このお金は、国会の法律によってこの目的のために特に設立された国の通貨組織によって、創造され流通されるであろう。

各人への配当

国のお金を増やす必要性が生じたらいつでも、男女および子供は年齢に関わらず、新しいお金を必要とさせる進歩の新しい段階の分け前を手に入れるであろう。
これは為された仕事に対する支払いではなく、公共資本における分け前としての各人への配当である。個人の資産があるならば、万民が同じように所有する共同体の資産もある。
ここに、身体を覆うためのボロしか持って居ない男がいる。彼の前に食料はなく、彼のポケットには1ペニーもない。次のように、私は彼に言うことが出来る。
“おい、君。君は貧乏だと思っているけれども、私や総理大臣と同様に、非常に多くのものを所有している資本家の一人だよ。国の滝や森林は私の物であるのと同様、君の物でもあるのさ。それらによって、君は毎年収入を得られるんだよ。
“人の労働がほとんど不要でも生産を倍増できるようにしてくれた科学は、各世代に受け継がれてきた遺産であり、絶えず成長している遺産なのだよ。そして、君は私と同様にこの世代の一員なので、正に私がしているように、君もこの遺産の分け前を貰うべきなんだ。
“我が友よ、君が貧乏で裸ならば、君の分け前は君から盗まれて、どこかに厳重に保管されているのだ。食べ物を持っていないとしても、金持ちが全ての穀物を食べているということではなく、君の分け前がまだ穀物倉庫内に眠っているということだよ。君はその穀物を手に入れるための手段に恵まれなかったのだ。
“社会信用配当は、君が君の分け前、あるいは少なくともその大部分を手に入れることを保証するでしょう。金融業者の影響から解放されて、これらの搾取者と対抗できるより良き政府が、君が休息を手に入れる世話をしてくれるでしょう。
“君を人類の一員として認めるのもまた、この配当なのだ。その御蔭で、君はこの世界の商品の分け前を得る資格を与えられ、その分け前によって君は少なくとも生きる権利を行使できるのだ。”

価格調整

給料や他の収入源に加えられた配当が購買力を作ることになる。
しかし、購入のために全てのお金を使う必要がなく、そのうちのいくらかを貯蓄したり投資したりする方を好む人々がいる。これは、実効的な総体購買力を下げる。買うために使われるお金だけが即時で実効的な購買力を作る。
この理由などのために、万民への配当だけでは価格と購買力の間の均衡は達成されない。しかし、社会信用は調整メカニズムによってその均衡を達成する。そのメカニズムは、各人の自由を尊重しながら、金持ちの貯蓄を万民に有益とすると同時に、価格のいかなるインフレーションも防ぐものである。
このメカニズムは調整価格である(しかし、決して固定価格ではない)。それは、代償される価格あるいは代償される小売価格割引とも称される。それについて人為的なものや独断的なものは何もない。それは、現実の富の生産と消費を正確に反映する。
もし、たとえば、国の収支において、年間の全生産高が300億$の価値に相当していて、その同じ期間での(原価償却を含む)全消費が240億$であったならば、どう結論することができるだろうか? 国が消費または減価償却を通して240億$の富を消滅させている間に、300億$の富を生産したと結論できる。だから、300億$の富の生産の原価は、本当は集合的に240億$だけだと見積もられる。
本当の価格は会計上の価格よりも低い。全住民がその仕事の果実を残らず収穫するためには、60億$割り引かれるべき、すなわち帳簿価格が300億$のものを240億$に値下げされねばならない。
この目的のために、国の通貨組織は次の期間の全ての小売価格に対して20%の割引を宣告するであろう。もし、私が10$という値札の付いた品物を買うならば、私は8$だけ支払うであろう。
しかし、ビジネスに留まるためには、小売業者や生産者は彼らが費やした全費用を回収しなければならない。この理由のため、同一の通貨組織が必要な額のお金を創造することによって小売業者を補償するであろう。10$の品物に対して、私は8$だけ支払った。彼は国の組織の地方支部に売上証拠書類を提示することによって、割り引かれた2$を手に入れるであろう。
このようにして、消費者はこの手続きがなかったら売れ残ったであろう生産品を手に入れる。小売業者は彼らの価格通りのお金を手に入れる。そして、このお金の創造によってインフレーションは生じない。というのは、そのお金の創造によって、全ての価格が買い手のために値下げされたのだから。
また、買い手と同様に小売業者にも喜ばれるこの代償システムには、適切な方法によって、仕入原価を完全に考慮するだけではなく、各ビジネス部門毎に予め合意された割合の販売利益も含めるという協定が付属するであろう。

異議:ゴールド

―しかし、我々はお金の根拠としてゴールドを持たねばなりません。
―お金は生産能力と相互信頼からその価値を手に入れます。カナダ内の全ての有益な生産を空にしたら、本当に不毛になるでしょう。お金はたとえそれがゴールドであってさえ何の役に立つのでしょうか? 逆に、カナダの全ての種類の生産能力をフル稼動させて、紙幣あるいは単なる帳簿上の数値をその生産量に相応しいだけカナダに与えたならば、そのお金はどこででも間違いなく受け入れられ、如何なる有益なものをも買うのに使われるでしょう。
―しかし、それなら金本位制についてはどうなんでしょうか?
―金本位制は、異なる国の通貨間の比較を可能にするために定式化された各国の通貨単位の定義です。もし、カナダ$が金40グレイン(訳注:1グレイン=0.0648グラム)に相当するならば、1カナダ$で40グレインの金、またはそれと等価な商品を手に入れられることを意味します。たとえ、金が無かったとしても、商品があるならば、1$でその商品を手に入れられるのです。
―しかし、お金がゴールドによって裏付けられない場合、海外に対してもOKなんでしょうか?
―お金は国の問題です。カナダの$はフランスで流通しませんし、フランスのフランがカナダで流通することもありません。フランスの買い手や小売業者にとって、カナダでどれだけの$が流通しているかはどうでも良いことです。彼らが関心を持つのは、1$でどれだけ買えるかということです。もし、カナダの生産高が2倍になり、それと同時に流通するお金の総額が倍になったら、それ以前と同様、1$で厳密に同じだけ買えませんか? それは、$の購買力の安定性を維持するための唯一の方法でさえあり、その安定性維持は国際貿易において非常に重要な因子です。
1940年5月1日以降、カナダ銀行は銀行紙幣の価値を裏付けるためのゴールドを最早保有していません。1940年4月30日以前と比較して、$の価値は下がっていますか?
そのゴールド神話は、お金と信用の支配者が彼らの計画をより容易に実行するために生きながらえさせている盲目的崇拝です。手に入る食料の量よりもむしろ存在するゴールドの量によって、人の食べる権利を条件化することは相当に愚かしいことではないでしょうか? そして、食料以外に他の商品についても同じことが言えます。

異議:怠惰

―社会信用は人々を怠け者にするでしょう。
―何故ですか?
―何故ならば、社会信用はお金の量を増やすことを欲し、お金は人々を怠け者にします。
―商品が売れるのは、勿論、流通しているお金があるときです。そして、産業界が雇用を提供するのは、商品が売れているときです。人を怠け者にしがちなのは、仕事ではなく、不活動への非難です。
また、怠惰は悪徳であり、7つの大罪の一つです。人が悪徳を罰するのは、金融的手段を通してではありません。教育、倫理、礼拝、洗礼、宗教の代わりをすることは金融の役割ではありません。
―はい、しかし、何もしなくてお金が誰にでも保証されるなんて!
―それは理由のないお金ではないです。誰にでも属している資本からの収入です。そして、入手可能な商品を買うためのお金です。
最低限の収入を保証することは、人を怠惰にするのではなく、好みと能力に一致した種類の仕事を選ぶことができる余裕を与えます。その結果、共同体にとっても良い結果に繋がります。
好きな仕事、自分で選んだ仕事、重労働ではなく、指図がましく課せられた職業ではなく、自由に選んだ仕事をしている人々以上に恵まれた労働者はいません。
配当によって、生産品を買うための購買力が作られます。それ故、この需要を満たすために、労働や機器設備が必要です。生産がストップしたら、買うべきものが生産されないのだから、お金がいくらあってもそれは購買力と看做しえないことは明白です。そのような状況の下でのお金の創造は現実の反映には全然なっていません。社会信用は現実に応じて機能します。
万民への配当は、労働者の労賃や給料と同様に、生産高の増加とともに増額されるので、生産を促す効果があります。
万民への配当は、生産従事者の労賃と給料を廃止するものではありません。配当だけの人と、配当と給料を貰っている人の間には、同じように収入差が残ります。

異議:共産主義

―全ての人に同額のお金を与えることは、全ての人に等しい足場を用意するのでしょうから、それは共産主義ですよね!
―配当は富を均一にしません。ペーターは10万$持っています。ポールは100$持っています。もし、彼らに40$ずつ与えたら、彼らは同等に富裕でしょうか? 両者はいずれも40$貰う前よりも金回りが良いですが、貧しい人の方がより改善されたと感じていますよね。
―何もしないのに何か得られるなんて、やっぱり共産主義ですよ!
―全然違います。共産主義は何を望みますか? 共産主義が万民に対して等しい経済的運命を要求するとき、それは間違いです。神が人類全体のために物質的な財産を創造したのだから、人間それぞれのために生活必需品を手に入れる権利を我々が要求するとき、それは共産主義ではなくキリスト教的社会学です。すべての人間に現世の富を使用する権利があると述べているのは、“ウーサス・コムニス”の法律です。もし、それを忘れている世界に対して、共産主義者が思い出させるならば、彼らは正しいです。他の法律、すなわち私有財産に対する法律も正当であり、資本家がそれを保持することは正しいです。共産主義者がそれを否定するのは間違いです。
社会信用は教会と同様に、両方の法律の認知を望みます。社会信用はそれの万民への配当によって、万民のために創造された財産の最小限の分け前を各人に法的に保証する方法を示唆します。総体的な購買力を価格と均衡させることによって、社会信用は生産物がより容易に売れるようにし、そうすることで私有財産を強固にします。
社会主義は、誰もを国の奴隷にすることを望みます。社会信用は、万民に生きていく上での最小限もものを保証することによって、才能に応じて仕事を見つけることを許します。生産による利益を優先することによって、自由を阻害する国の干渉や承認に絶えず頼ることから国民を解放します。
また、ケベックの司教によって任命された神学者委員会は1939年に社会信用を勉強し、社会信用は共産主義でもなく社会主義でもないことを教会は認めるということで満場一致している。その報告書において、教皇ピウス11世の回勅と社会信用の通貨に関わる提案との興味深い比較さえしている。

異議:どこで、何故

社会信用に反対する人々がいますか? はい、いかにも。これらの反対者にはタイプがあります。
銀行および銀行に関係の深い信託会社の指導的地位にある大物が社会信用に反対しています。彼らは社会信用の中に、彼らの掛け替えのない独占と公衆の搾取への終末を見ます。
彼らの政治的な召使は、公益よりも選挙資金に関心が強いので、銀行家の反対を支持します。社会信用を綱領に含めている政党はまだありません。その理由は、政党は政治資金を提供してくれる人々の声しか聴かず、教養不足の大多数の国民の声を聴かないからであることに間違いない。
保護を分配する人達は一般的に社会信用に反対します。もし、大衆がお金を持ったら、彼らは今の重要な地位を失うでしょう。
成金のうちの幾人かは、何も持っていない人々を翳らすことで目立つのを好むので、社会信用に反対します。一度、大衆が生きる権利のために這いずる必要がなくなったら、財布の厚みではなく、倫理観によって人の価値が判断されるようになるということを彼らは恐れます。
様々なタイプの無知な人々が社会信用に反対します。社会信用について全く何も知らないくせに、愚かさと偏見によって社会信用を非難する人々がいます。誤って解釈して、財産を没収されると想像する人々もいます。行儀良く振舞うためには貧乏でなければならないと信じる人々もいます。彼らは、彼ら自身はお金を適切に使う能力が完璧にあると認めますが、隣人はプロの罪人であると看做し、銀行家はその隣人を貧しいままにしておくことで魂の救済を与えるのに役立っていると考えます。お気に入りの信念に執着し過ぎていて、プライドあるいは狭い心のために、これらの信念が何らかの価値を持ち得ると信じるのを拒絶する人々もいます。
反対者は断言したり否定したりしますが、反証していないことに留意して下さい。さもなくば、彼らは社会信用を攻撃できるように曲解することによって反証します。彼らの一人である元ドミニコ教会員トーマス・ラマルチェは原文を歪めて翻訳するまでのことをした。これは最早無知のためではなく、不正行為である。

結果:秩序の回復

我々の言うところによれば、社会信用の効果はどういうことでしょうか?
先ず第一に、一般論として、お金の領域での秩序が回復し、その結果、経済的な秩序も回復し、政治的および社会的分野への反響があるでしょう。
人間は、創造物の中での優越性の順番において、神およびその天使の直ぐ後に位置します。他の聡明さの無い物と同様、お金は人間の下位に位置し、人間に従わねばなりません。
今日、お金は人間のしている借金として帳簿の中に存在する形です。お金はその誕生において主人です。一方、人間は金融的に借金した状況で誕生します。人間はお金の奴隷としてこの世に生を受けます。
社会信用システムの下では、お金は相変わらず帳簿にその起源を持ちますが、各国民に奉仕する点で異なります。子供は配当に対する権利を持って生まれるので、お金は直ちにその子供に奉仕します。
経済秩序は回復します。経済活動を導くのは目的、ゴールです。商品は必要性を満足するために作られるでしょう。お金の蓄積は、産業を指揮する目的であることを止めるでしょう。
生活水準は入手可能な商品の量によって規制されるでしょう。というのは、お金の量が商品の量によって統制されるからです。
お金はそれがあるべきものになるでしょう。個人に対して権力を授ける武器ではなく、生産品を売るための手段となるでしょう。
富を表す象徴および商品を要求する権利になるならば、お金は富、すなわち手に入る有益な物を正確に反映するものになるでしょう。その瞬間から、需要に合致した生産が厳密に安定的に実現されるでしょう。人間の労働が必要とされるところでは、労賃や給料としてお金が支払われるでしょう。楽な生産に対しては楽な生産として相応しいお金が、大量生産に対しては大量生産としてのお金が、自動生産に対しては自動生産yとしてのお金が。組織化された社会という要因を通しての共同資産によって増加した生産に対しては、社会の源泉から発行され、各人・万人に分配されるお金が。
国の発展度はもはや借金の多さで表されず、万人に分配される共同資産の増加によって表されるでしょう。

結果:安全性

現世的見地で人間が最初に探すものは、安全性、生命の保全である。仲間を作ることは、野獣、空腹、寒さという敵に対して、より安全性を確保するのに有利である。
人は、少なくとも経済的安全性の最小限を手に入れるためには、ある程度の自由を犠牲にすることさえ進んでする。
今日、経済的安全性を阻害するものは何だろうか? 何が人を明日に対しての、高齢化に対しての恐れを抱かせるのだろうか? 再び、カナダについて考えよう。明日、あるいは数年後、全住民の空腹を満足させるために十分な穀類・食料を生産できなくなるであろうと恐れるようなカナダ人は一人でも居るだろうか? 十分な衣類、靴、構造材、まき、石炭などが供給されなくなると、誰か恐れているだろうか?
いいえ、我々が明日に対する安全を感じるのを妨げているのは、それらの物の十分な分け前を買うのに十分な収入・お金を持たないという恐れである。今日、何ものもこの安全性を与えていない。
もし、お金が生産と歩調を合わせて流通し、かつ法律の保障に従って各人が貧困を避けるに十分なだけのお金が分配されるとしたならば、何も欠けていない国における経済上の安全性の誕生を直ちに目撃するであろう。
さて、例外なく、各人・万民にその安全性を保障するのが社会信用の通貨システムである。
全ての商品を売り切るのに十分なお金があることになる。万民に保障された最小限の収入と、各人の生産への寄与度で決定される追加の収入がある。その最小限の社会的収入・分け前は、機器設備、応用科学、発明、技術的進歩が生産を維持するために必要な労働力を低減するにつれて増加するであろう。

結果:自由

この本物の安全性の結果として自由を獲得できる。人間にとって非常に貴重な自由であって、一度生活必需品が保証されたならば、より多くの慰めを求めて這いずり回るよりもむしろ自由を享受し、威厳を保つのを好むであろう。
もし、自由を利用するためには飢餓に晒されなければならないのならば、その自由は空虚な言葉以外の何ものでもない。
物質的な奴隷は自由を持たない。金銭奴隷のシステムは最早自由を与えない。“しばしば暴力あるいは良心の呵責欠如のために”金持ちになる人々でさえ、成功を自由に享受できない。なぜならば、本当の自由に不可欠な心の平和は、彼が為す兄弟殺しのような行為と両立しないからである。それ以上に、物質的な財の自由な享受は、余りにも多くの仲間が不公平さで傷付いている世界において、正直な成功と両立することさえない。
お金を通しての権力を行使する人々による束縛から、人は初めて自由になるであろう。もし、この救出自体が本当の自由を与えないならば、その人は自由を享受できるように自身の生活を統制しさえすれば良い。
自分の考えを表明する自由を得るであろう。その自由は、今日原則として認められているが、政府や従業員を怯えさす権力を使う会社に頼っているために、ほとんど無力になってしまっている。
お金の欠乏のために扉が閉ざされるということが最早ない世界となり、職業選択の自由を得るであろう。
生活必需品と、正常な方法で仕事を見つける可能性が保証されので、人は結婚し、家庭・家族を持つ自由を得るであろう。
子供が出来たら生活費が増加するけれども、家族の人数に応じて定期的な配当があるので、子供を作る自由が得られるであろう。
進歩によって、雇用が創造されるのではなく、収入の減少なしにレジャーを楽しむことができる世界になるので、才能を伸ばし、創造的なエネルギーを使う自由が得られるであろう。

結果:行政機関

もし、今日の行政機関が実際は統治していないならば、それは民間企業の召使になっているからである。行政機関はお金を作っている銀行家に借金を負っている。行政機関の手綱を取っている最も有能な人々でさえ、借金の創造者に抵抗できる力はない。
行政機関は、国の本当の可能性に従って国を統治するのではなく、お金が欠乏しているという原則に基づく政治体制で統治しなければならない。国の操縦士は手錠を掛けられた操舵装置の前に立っている。
市役所のような人々に最も近い行政機関は、何もないところでお金を探そうと努めるという問題で途方に暮れている。彼らは、サービスを向上させないで、国の負債や課税を増加させることによってのみ、金融問題のためにお金を用意することができる。
行政機関の最高組織は、その下の様々な組織―階層的に縦方向に並んだ組織―を監視し、調整すること以外に仕事はなく、それが最も自然な形ではあるが、現実の国家の形である。しかし、なんとまあ、これらの社会組織、法人、それら全てのうちの最も基本的なものでさえ、生気の無い廃墟になっている。そういうことなので、行政機関がまだ少しは持っている人々からひったくろうとしているペニーを巡って、個人、家族、グループが押し合ったり、口論したりしているだけの有様である。
社会信用は、行政機関の本来の機能を回復させる。“経済生活の生き血”であるお金の流通を取り戻す。個人は自由にグループを作れる。これらのグループ、これらの様々な法人は、管轄範囲内の問題を金融的に解決可能となり、かくして高次の行政組織の仕事をより容易にする。
解決不能の経理上の悪夢から自由になり、通貨の支配者から独立したならば、行政機関は、社会秩序の安全性が破壊工作員(あるいはそれは金持ち達でさえあり得る)によって脅かされたときにいつでも、介入し易いもっと良い立場になるであろう。

社会信用運動

何人かの偉大な精神が、人類に不十分に奉仕する通貨システムを批判してきた。しかし、社会信用と称されるシステムを1918年に初めて定式化したのはスコットランドの技術者であるダグラス少佐であった。その社会信用は、現代の進歩と調和し、最も民主的で、お金を人類の直接のしもべとする唯一のものであり、家族の人数が増えたら自動的に家族の収入を増加させる唯一のものでもある。
このシステムの研究はその実施を要求する運動を招いた。社会信用運動は全ての英語圏に拡がり、オーストラリアやニュージーランドまで拡がったが、特にカナダにおいて、その中では最初に根を下ろしたアルバータで一番盛んになった。その後、フランス人の気質とカトリック教会の哲学を伴って、ケベック州に広まり、そこからフランス語圏カナダに拡散した。
ケベック州およびフランス語圏カナダのすべての地域において、1935年に始まった社会信用運動は、人目を引く割合まで発展し、大衆に勉強する習慣を教え込んだ。
ケベックから放射状に拡がった社会信用運動は聖ミカエルの巡礼者によって指導された。1953年に、英語を話す人々に届けるために、彼らは“社会信用”という英語で書かれた定期刊行物を出版した。1974年以降、この定期刊行物は“ミカエル”と呼ばれるようになり、隔月で発行されるようになった。聖ミカエルの巡礼者はフランス語で書かれた“ヴェルス・デメイン”もまた出版し、流通させている他、フランス語および英語の何冊かの書籍や小冊子(更に、最近では、ポーランド語やスペイン語の雑誌)も手がけている。彼らは国民を啓発し、油断しないように心掛けさせ、政治において成果を得られるような好ましいやり方を提案することで人々を団結させようとしている。
特にケベック州は、社会信用が主唱する金融改革を要求し、必要ならば、その改革をするために最も重要な役割を担っていると我々は信じている。この州は天然資源に大いに恵まれていて、何らの外的な干渉にも煩わされること無くやって行けるという非常に好ましい状況にある。ケベック州の住民は、そのカトリック教育の御蔭で、お金が人類に奉仕しなければならないことを理解し、ローマ法王が相当数のキリスト教徒の救済を困難にするものとして非難しているところの経済システムを敢えて変化させるのに絶好である。

教育の使徒職

社会信用を獲得するための方法は、それを成功裡に要求するように公衆を十分啓発し、動機付けることであることは明白である。よって、選挙運動の問題ではなく、むしろ教育運動の問題である。 
これは社会信用の未来にとって最良の保証である。博識の国民のみが、破廉恥かあるいは無能な政治家によって企てられる妨害工作に対して公益を守るために必要な用心をすることができる。
社会信用システムの下では、金融上の問題は存在せず、存在するのは教育、進路指導、適切な評価の問題だけである。あなたは、これらの問題について、物質的な欲望という不快な現実にしがみついたり、奴隷の群れとしての精神に慣れた人々と議論できない。だから、その勉強と勉強の習慣の広範囲な伝播が社会信用を獲得するために不可欠になると同時に、新しい問題に直面し、対処する精神力も不可欠である。
大衆へのこの勉強を伝播させるためには、自己の権利放棄および犠牲を厭わない多数の使徒の献身的な努力を必要とする。そしてそれはやはり整然としている。現在の無秩序は、全ての種類の身勝手さ、社会的な感覚や誇りの退化、知識階級の偽善性、大衆の無関心・無感動の結果である。これ全てが償われ訂正されねばならない。
よって、社会信用の主張を前進させる最も確実で唯一の方法は、勉強と献身を発展させるような方法である。そのようなものが、“ヴェルス・デメイン”誌や“ミカエル”誌の発行を伴う、聖ミカエルの巡礼者によって採用されている方法である。
これらの雑誌は、政治学、経済学、社会学、更には哲学において、非常に高尚な考えを普及している。聖ミカエルの巡礼者は、彼らのメンバーの献身によって、彼らの雑誌および他の社会信用に関する書き物を家族の中に広めている。
聖ミカエルの巡礼者は、人々を集会に招集し、万民に開かれた勉強会を開催し、個人の指導力や責任感を身に付けさせ、公益の追求のために他の人々と協力することを教えている。
注記:これらの批評は銀行従業員に向けてのものと取られるべきではない。銀行の支配人や監査役に向けてでさえない。彼らも我々と同様にただの労働者であり、複雑な精密さ、申し分の無い誠実さ、適切な服装、不変の礼儀、および完全な従順さを要求されている。間違っているのはシステムであり、その成り行きに苦悩している第一の人々は銀行の従業員である。

社会信用は政党ではない
ルイ・エバン著 

政党に頼ることは間違った考えである。
(1958年、1月15日の“ヴェルス・デメイン”から)

社会信用を採用するならば、本当の民主主義が実現できる。各消費者が国の生産能力から生活必需品を注文入手できるようになるので、経済的な民主主義が実現できる。人々は彼らが選んだ代表者や政府に何を期待しているか、どういう成果を要求しているかを明らかにできるのだから、政治的な民主主義も実現できる。(市民、人々;支配、統治するため―民主主義:人々の統治権) 
たとえ、知識をまだ十分身に付けていないとしても、どんな社会信用論者でも、今日における最高の権力は人々でも政府でもなく、金融界の徒党が掌握していることを非常に良く知っている。政治家のウィルソン・グラッドストーンや他の多くの人々はそれをはっきりと公言している。マッケンジー・キングは、金融権力と人々の間にいつも最大の戦いがあると、1935年に断言していた。その戦いに彼は参加していなかったが、それは金融権力が強過ぎて人々が弱過ぎると彼が考えていたためであることに疑いない。
人々は実際に弱い。先ず第一に人々は公共の事柄や舞台裏で進行していることについて何も知らないので、彼らは弱いことがうなずける。また、第二に、彼らにそれらのことを教えないで、お互いに闘争している政党に彼らを分裂させようとする扇動者がいることも問題である。人々が力を取り戻せるような団結を作るために、もう一つの政党を結成することは良策ではない。それは、むしろ、分裂を増やして、人々を更に弱くする。

社会信用という偉大な真実を発見したのは、一人の天才C.H.ダグラスである。社会信用スクールを作ったのが彼である。彼は、故国の少数の人々よりも、民主主義に関する限り、社会信用が何を意味するかについて間違いなくより良く知っていた。権力を得るためのレースの道具として、あるいは国会の議席を狙って跳ね回るためのプラットフォームとして社会信用を利用したかっただけの者達よりも良く知っていた。
さて、ダグラスは1937年3月19日のキューカッスルでの講演で、イングランドにおける本当の民主主義に対して二つの大きな障害があり、その障害のうちの最初のものが政党システムだと断言している。
カナダの場合も同じであり、解決策は、政党システムを育てるのではなく、それを弱めることにある。すなわち、人々を新たに分裂させず、それどころか政党の垣根を越えて全国民を団結させ、国会議員が誰であろうとも、どの政党色であろうとも、国会議員に共通の意志を表明することによって、存在する政党を無害化することである。政治家の運命が問題になっている選挙期間中よりも、国民の運命が問題になっている選挙と選挙の間に何が起こっているかを最重視すべきである。

国民を団結させること。そして、このために先ず全員が同じ基本的な物を欲しがっていることを理解させ、次に全員が欲しいものを手に入れることを一緒に主張することによって、必然的にそれを手に入れるであろうことを確信させること。
別の機会であるが、1936年10月30日、リバプールで次のように言ったのも、ダグラス少佐である。
“人々の統治権、すなわち注文をするのに実際に役立つ能力は、全員が一致することで増大するであろう。そして、もし、全員が同一の結果を望むならば、政党は存在意義を失くし、人々の要求への抵抗は無くなるであろう。”
それは非常に良い行動方針であり、常識に完全に合うと我々には思われる。 
誰についても同じ候補者に投票させることは決して出来ないであろう。しかし、普遍性と緊急性に関わる問題、すなわち、経済的保証、今日十分な商品が手に入り、明日も保障されること、職業や生活様式を選ぶ各人の自由という問題に絞るならば、政治に要求すべき結果について、全ての人々の合意を得ることができるだろう。誰もがそれらのものを望み、ダグラスが指摘するように、他人のためにそれらを望まない人々でさえ、自分のためには望むのである。

それならば、何故、注意を集中して、投票箱へ、すなわち分割させるものへ活動を向けるのか? 誰もが同意できる要求に関して人々を団結させることに専念しないで。
新しい政党を結成することで重要な改革が為されたことはない。ほとんどの場合、政党は第一党をとるために結成され、選挙で失敗したら解散する。もし、偶然、与党になったならば、非常に多くの障害に直面し、最終的にはただ単に政権に踏みとどまること以外の目的を持たなくなるであろう。そして、前の与党がした以上のこともできないであろう。障害を克服するためには、政党は力を欠いている。すなわち、十分に啓発され、政治的分野で団結した人々の力を欠いている。
また、改革は選挙から生まれることはない。改革は、自然な民主主義的な方法から、十分洗練された重要な概念の成熟から、共通意志を創造する多数の人々の容認と要求から生じる。なお、その意志は選挙結果という偶然に縛られること無く表明されるべきである。

社会信用を全ての政党が歓迎すると断言できるほど、社会一般的な要求対象になったらその時、社会信用は国の法律に取り入れられる出あろう。社会信用を政党内に閉じ込めることは、その政党の運命をその党員の運命に結び付けることである。そして、それは前進ではなく後進を意味する。ニュージーランドにおいて、“社会信用”と称する政党が1954年の選挙で11%の投票率を獲得したが、次の選挙では7%しか獲得しなかった。この転落については多くの説明がきっと有り得るだろう。それらの説明は、社会信用の運命を投票箱に託すことが社会信用の主張を非常に信頼できる列車に乗せることにならないことを証明するのに役立つだけであろう。
新概念は宣伝活動によって広まり、勉強によって根付く。その概念が斬新的でその影響が大きいほど、宣伝して教え込むにはより多くの努力が必要で、より多くの時間が通常必要で、多大な忍耐力が不可欠である。この概念を普及するためには、国会議員の数よりも(この概念に関する)宣教師の数の方が遥かに重要である。 
国の外を眺める必要はなく、古い歴史を振り返る必要もなく、改善・改革を思い抱いて失敗した政党のことなど受け流せば良い。ケベック州において、一世代未満の間に数例がある。

これら全ての冒険において、創設者は迅速な選挙での成功に頼った。人々の政治的な教育は、ほとんどあるいは全然問題とされなかった。人々に投票することを求めたことが全てであった。そして、選挙で期待した成功が得られなかったため、彼らは全ての活動を停止した。
それが“国民自由行動(党)”の運命だった。それが“民衆議員連合”の運命だった。それ以外にも2〜3の試みがあったけれども、いずれも重要性はより低い。それらの創始者の精神に見る所はあったとしても。
新しい政党の扇動者は、もし、彼らが人々の政治的教育について熟考したと仮定するならば、その教育には時間が掛かり過ぎると考えたということに疑いはない。手っ取り早い方法は投票で多数を獲得することだと思ったのだろう。その結果、これらの亡き政党を支援した人々によって参られることさえない墓石を残した。その後、多数の紳士達は、かつて雄弁に非難していたにもかかわらず、その伝統的な政党の翼の下に心地良く安住している。
政府に対する国民の重みが金融権力の力を凌駕するように、国民の力を強化しなければならない。国民の力を強化するのは、国会においてではない。国民がいるところは国会の外である。そして、そこが本当の社会信用運動の場である。

選挙を前にしての社会信用
(1958年3月1日の“ヴェルス・デメイン”から)

我々が取り扱っていることの重要性と比較して、選挙の重要性はどうなんでしょうか?
我々、聖ミカエルの巡礼者は、一年中せかせかと動き回っていて、大衆の状況を改善するのに忙しくしているが、成果を得ています。そして、政治家の支援がなくても、政治家によって落胆させられても、我々はそれをしなければなりません。選挙の時が来たら、政治家の運命に対処するために、時間の一部をさいたり、1ペニーを費やすほど十分に、我々は愚かでしょうか? 我々の活動は、そのような作業のために卑しめられるには、神聖過ぎます。そんなことをしたら、純然たる売春のようなものですよ。
我々が物質的な見返りを期待しないで誠心誠意専念しているときに、我々が行動するのを眺めて満足している人々が余りにも多過ぎます。これらの人々は、選挙の時がやってくると、突然に両足と舌を持っているのを思い出して、その選挙に彼らのエネルギーを全て使い果たそうとしても、我々に彼らの支援を期待するのはとんでもない話ですよね。

我々の社会信用運動は、本当の社会信用のために闘うものなので、大衆を構成している個々人に権力を再分配することを欲しています。個人は国会の外に見出されます。我々は、国会に数席の議席を手に入れるために、使命から離脱したり、エネルギーを浪費したりしません。国会で議席を得たとたん、彼らは完全に大衆を忘れ、何もしてくれないでしょう。
国会議員自身、彼らは何もしないことを認めています。万民のためになるような何かを要求したら、間違いなく“すいません、私には出来ません”と議員は答えます。
議席を得るということは、誰かを無能の席に着かせることなのであり、このような冗談染みたことのために、選挙の度に、興奮する値打ちがあるでしょうか? 
政府の道を明確に決めるのは国会議員ではありません。その道は、選挙に晒されることのない目に見えない政府によって、決められます。今日、政府を支配している権力から政府を解放できるのは、大きな安定した漸増する圧力だけです。

この圧力を効果的に掛けることができる唯一の力は、断固として成果を要求する人々の力であり、彼らは教養があり、団結していて、決然としている必要があります。
誰がそのような力を構築できるのでしょうか? それに従事する人々、すなわち積極的な社会信用論者です。どこで、それを築けるのでしょうか? 人々が存在するのは、国会の外なので、国会の外です。
したがって、選挙キャンペーン中、社会信用論者、本物の社会信用論者は、大衆の隣で大衆のために日々の仕事を実行します。もし、候補者が通りかかったならば、彼に我々のプログラムを叫びましょう。そして彼の話を聴くのは拒否しましょう。彼が今後何をするかを決定するために、投票するのは候補者ではありません。注文は、投票する人々から発せられて当然です。
だが、選挙キャンペーン中に危機に瀕しているのは、政治家の運命であって、我々大衆のそれではないことを忘れないようにしましょう。政治家をのた打ち回らせましょう。それは彼らの旋回です。そして彼らは我々が居なくとも、のた打ち回れます。我々はと言うと、我々の高貴な使命を続けましょう。

ダグラスと選挙運動
(1958年、11月1日の“ヴェルス・デメイン”から)

ダグラス少佐自身が設立した組織である社会信用秘書室は、1936年3月7日の社会信用創設者の演説を再出版している。その日、ダグラスは一般大衆に対してではなく、社会信用論者に向けて話している。
その演説において、ダグラスは圧力策を推奨し、政党、特に“社会信用”党の方法を強く非難している。何故非難しているかというと、それが始まる前から失敗が目に見えているためだけではなく、社会信用という美しいものを政治および投票箱に結び付けているためである。ダグラスは、次のようなことさえ言っている。
“もし、それが可能であったとし、社会信用党が第一党になったならば、この国における社会信用党の選出は起こり得る最大の大惨事の一つと私は看做すと言うかも知れない。”
ダグラスは次のように説明している。国会議員の本来の役割は、選挙人の正当な意志表現を受け取って、政府に伝えることである。政府の本来の役割は、その要求を受け取って、それに対応するように専門家(金融上の問題ならば、金融家)に命ずることである。それらの専門家にどのようにすべきかを指図しては駄目で、達成すべき成果を指摘し、その成果を要求しなければならない。

そして、国民の役割は、共通して望む目的に気付くこと、および代表者にその意志を表現することである。それは有権者によって始まり、それがスタートになるべきである。したがって、選べれた代表者ではなく、有権者に重きを置くべきである。
ダグラスの言葉に次のようなものがある。
“もし、国会に集団を送り込む目的が望むものを手に入れることだとあなたが同意するならば、何故特別な集団、特別な政党を選ぶのか? そこに居る集団が、あなたが望むものをあなたのために手に入れるべきである―それが彼らの仕事なのだ。それがどのようにしたら手に入れられるかを言うのは彼らの仕事ではない。どのようなことが為されるべきかは、専門家の責任範囲である。”

専門家は国民が何を望むかを告げられなければならない。そして、その要求は国民そのものからやって来なければならない。
選挙運動は民主主義の意味を誤解している。政党のすることが出来る全ては、国民を分裂させること、彼らの力を弱めること、彼らを落胆に導くことである。新しい政党を追加することは、別の名前の下で、別の落胆を追加することができるだけである。その冒険が社会信用のような優れた動機を引きずっているならば、その落胆は悲惨なものにさえなりかねない。
1951年にダグラスは、次のようなことも書いている。
“(社会信用との)非両立性、集産主義、弁証法的唯物論、全体主義、フリーメーソン的な哲学と政策。投票箱民主主義は、これら全てを具体化するものである。

政党、社会信用と正反対のもの
(1962年1月15日の“ヴェルス・デマイン”から)

本当の社会信用論者は政党員ではあり得ない。政党と社会信用は、それらの性質と定義からして、お互いを排除する関係にある。

権力欲

政党は、権力を求めている政治家が集まってできるものである。社会信用は、権力が国民に再分配されることを思い巡らす。必要とする商品を生産者に注文することを可能にするための国民への配当を保証することによる経済的権力、国民を政府の財産とするのではなく、政府を国民の財産とすることによる政治的権力の再分配を考えている。
政党システムは、一グループの政治家に国民の信頼を置くように導く。社会信用は、責任を取るように、政治においては、政府の監視者・良心となるように、国民に教える。
政党は、同じ権力を求める他のグループと闘わせることによって、国民を分裂させる。どのような分裂も国民を弱める。社会信用は、共通の基本的な大望の周りに国民を団結させ、どの政党が与党であろうとも、国民の要求を政府に履行させるように、その要求を結合させる方向に導く。もし、国民が政府に奉仕させるだけ十分強くないならば、変えられなければならないのは、政府でなく、より強力になるべき国民である。これは、分裂ではなく団結によって達成されることは疑う余地がない。

権力と強制によって

政党は、権力、したがって力を使う権利を欲する。なぜならば、権力は、行政上、立法上、および執行上の法令によって発揮され、その法令は罰則という恐怖の下で強要するものであるからだ。それは、強制を嫌い、動機を擁護する社会信用とは正反対である。社会信用は強制的なものを嫌い、選択の自由を擁護する。今日、政府からやってくるものの全ては強制的である。
どういう政党であれ、権力獲得を目的とする政党に忠誠を誓う社会信用論者は、本当の社会信用論者ではない。たとえ、彼が社会信用論者を自負していようとも、通貨システムに関する社会信用の提案に精通していようとも。彼は、福音書の教えに精通していて、他の人に教えることができるほどであっても、それに正反対な心に従って振舞うキリスト教徒に少し似ている。

候補者のため、あるいは国民のため

国民を社会信用論者にするであろうものは、政党でも選挙運動でもない。政党は、そのメンバーを国会に送ろうとするために存在し、それ故、選挙運動をする。そして、その選挙運動は候補者のために為され、国民のためではない。選挙運動の間、国民のために働いているのは政治家ではなく、権力を求める候補者のために働かされているのは国民である。選挙運動は候補者に何かをもたらすかも知れないが、国民には何も与えられるものがない。選挙運動は、国民の関心事ではなく、政治家の関心事である。

強い国民のために

金融権力は突然に現れなかった。そして、それは突然に消滅することはないであろう。金融権力は、今日しっかりと確立されている。金融権力をその安泰から追い出すものは、3年毎、4年毎、あるいは5年毎の投票でないことは間違いない。金融権力に立ち向かうことができる唯一の力は、十分に啓蒙され、金融システムが変更されねばならないことを一致団結して要求する全国民の力である。

神または富と物欲の神?
ペテロ・コフィー神父 著 哲学博士にして、アイルランドのメイヌース大学教授

豊かさを前にしてのフラストレーション
社会、経済、政治の悪は明白で、威嚇的であるけれども、それらを改善する前に、それらの本当の原因を正確な診断によって発見されなければならない。
社会の産業組織および経済組織の目的は何なのか? 万民に雇用―仕事―を与えることか? それとも、最小限の仕事量(雇用者数)で商品やサービスを提供することなのか?
過去150年の間における労働生産性の向上、必要な労働力の漸減、および労働力削減に寄与する機械設備の導入の過程によって、十分に組織化された社会は、労働力を常に削減しつつ、万民のための生活必需品を潤沢に提供できる段階に今や到着している。
しかし、この組織は非常に不完全に機能してきて、生産能力的に実現可能な富のほんの一部しか国民に行き渡らないという嘆かわしい状況を作り出してきたので、
(1)大衆は、産業システムの莫大な生産能力の存在に未だ気付いておらず、そして
(2)全住民が現代の労働力削減に寄与する機械設備が発明される前と同じぐらい長く懸命に働かないと十分な富が得られないものと未だに信じている。
それ故、何故、機械設備が運転されないで停止されている状況が増えているのかとか、何が生産品の分配・享受を妨げているのかを突き止めようとしないで、機械設備を災いの元凶として非難している。
一般的に人々は、資本主義の産業経済体制の下で、世界は潜在的に潤沢な時代に到着していることを悟り始めたばかりである。彼らは、何百万トンもの小麦やコーヒーが処分されていること、穀類がわざと減産されていること、多様な富が消費者に分配されないで処分されていること、働く意志があるのに仕事のない男達がいること、全ての国において機械設備や工場の操業時間が短縮されていることを聞いている。また、もし許されるならば生産可能な潤沢で漸増する富を現行のシステムが分配し損ねているため、世界中で何百万人もの人々が貧困状態にあり、結婚という自然の権利もままならないことも聞いている。
しかし、彼らがシステム改革を求めて大声を上げるのは正当ではあるけれども、本当は何が間違っているのかに関して、ほとんどの人々が無知で誤解していて、それ故、軽薄で非合法的な改革計画を信奉している。
それらの計画とは共産主義および社会主義であるが、これらは人間の自然の権利を否定するものなので非合法的であり、また、間違った診断であることから、社会がこうむっている経済的邪悪さを癒すことができないので軽薄でもある。教皇はそれらを有罪としていて、キリスト教徒に対してはそれを言うだけで十分である。

経済システムの目的

 正しい治療法を見つけるためには、病気を正しく診断しなければならない。すべての経済および産業の組織の明白で当然の目的は、使用・消費のための商品とサービスを提供することである。この目的を満たすためには、二つの過程がある。
(a)生産(輸送を含む)、および
(b)交換(取引、通商)による消費者への生産物の分配
前者は益々効率的になっているところである。したがって、欠陥は後者にある。壊れているのは分配である。
今日、分配の手段はお金である。通貨システムはその当然の機能を果たしていない。すなわち、商品を配送していない。

欠陥のある通貨システム

お金は本来、交換券システムであり、その価値あるいは有効性は、それらを使う共同体の富を生産する能力に対する人々の信頼(信用)に基づいている。その唯一の役割は、共同体が生産する能力のある全ての富が連続的に生産されて、その使用のために消費者に渡されることを確実にすることである。
上述の役割を通貨システムが効果的に発揮できるように、富の生産のために金券を発行し、富の消費によってその金券を償却するシステムを制御することが国家の義務である。しかし、現代における全ての国の政府は、通貨システム全体を民間人グループの自由な支配に委託することによって、その義務を無視してきた。その民間人グループはそのシステムの本来の目的を無視し、その目的とは正反対である反社会的な目的を促進するためにそのシステムを利用している。その反社会的な目的とは、全ての経済権力および政治権力さえ独占・強化し、社会の支配権を彼らの手中に収めることである。
教皇ピウス11世は、回勅書状クァドラジェジモ・アンノにおいて、この金融の国際的な世界規模の独占への注意を呼びかけていて、その悲惨な結果の幾つかを示している。
この金融あるいは銀行システムの管理者は、共同体に彼ら自身への(利子付きの)負債として、(富の生産と分配のため)共同体の金券を発行し、生産された富の全てが使用されるべく消費者に行き渡る前に、(生産された富の一部に対する対価によって)それらの金券を回収し、消滅させる。このようにして、消費者としての共同体の購買力と、共同体が生産した富の経理上の総額(これは銀行システムによって発行されたお金の総額に等しい)との間のギャップを拡大させる一方である。
それ故、次のようなことになる。輸出が強いられ、海外市場を求めて、国同士が競合して争うことになる。国際的な負債が積み上がる。経済的な衝突が生じ、戦争に発展する。全産業のプラント設備、資本、および社会の富の源泉が、抵当として世界規模の独占的地位にある銀行に絶えず流れていく。

国家は奴隷になってしまっている

教皇が示している別の悲惨な結果は、国家(すなわち、すべての現代の政府、現代世界における全ての政治的組織と権威)が超一流の財閥の実質的な奴隷になっているということであり、最高位の政治権力が金融という経済および産業の活力源の独占的支配者によって横領され行使されている。
今や、産業および経済組織のあるべき姿が完全に損なわれているが、経済組織の権威は(現世において)最高位にあるべきである。この権威は神から間違いなく由来するものであり、経済支配権を横領し、権力欲に傾く人々の強大な権力や技量に由来するものではない。
しかし、この増大している大衆の金融的貧困の結果、および共同体の生産プラント設備、資本、富の源泉の金融支配者への抵当としての累進的な移転の結果として、国家は必然的に経済組織の多くを国家内に肩代わりし、管理運営しなければならなかった。
教皇ピウス11世は、クァドラジェジモ・アンノにおいて、富の生産者であるそれらの共同組織−同業組合や社団法人−を示していて、その目的は富をより計画的により効率的に生産することを保証することにある。
しかし、それらがその目的を達成できるためには、国家が共同体の産業による生産品が使用されるべく共同体に分配されるように、この通貨システムを合法的に監督することによって、通貨システムを産業に仕えさせることが先ず必要である。
教会であろうと国家であろうとも、教え統治する任務のある人々の義務は、社会的政治的経済的関係にある人達のために健全で実用的な原則を定式化することだけではなく、悪用の除去および状態の改善のためにその原則を事実に適切に適用できるようにその関係の中で優勢となっている現実的な状況を研究することでもある。

社会はその信用を強奪されている

銀行システムだけがお金を創造し消滅する権力を、事実上保有して行使している。このお金の価値、有効性、および購買力は、ゴールドには全く基づいておらず、国の信用、すなわち消費と比肩する共同体の現実的な富を生産する潜在能力に基づいている。
したがって、共同体は民間のお金の創造者・発行者に絶え間なく強制的に取り立てられるべきではない。共同体はそのようにお金を取り立てられていて、これは共同体ではなく銀行家だけが創造できる通貨システムのためである。
新しく(コストを掛けることなく)創造されたお金に起因しての、共同体の銀行システムへの利益の支払いは、稼いで、貯蓄して、産業に投資(あるいは融資)した個々人によって既に流通するお金に課される利益とは、全く異なった基盤の上にある。

結末

お金がその本来機能を果たすのに失敗していることによる結末は悲惨であり、拡大している。

本当の治療法

政府はこれらの状況を治療することを欲し、様々な緩和剤を使用した。公共事業を起こしたり、最貧困層には直接の援助をした。
そして、政府はこれらの治療のために必要なお金を次の二つの方法だけで手に入れることができる。

この問題を解決するために政府がしなければならないことは明らかである。

そうすると同時に、如何なるインフレもデフレも自動的に避けるため、および価格と購買力の間の完全で一定の均衡を維持するため、生産と消費の統計学に基づいて適切な国家割引率を算出し、それによる価格調節が不可欠である。この割引は、価格と全体的な購買力の間のギャップを埋めるように算出される。

現行の税は強奪

道路の対価を支払うために徴収される現行の税金は、私からパンを奪う。それは私のパンを盗んでいる。この税金は強奪である。潤沢のただ中で私を割当状態に押し込む現在の税金は、現実と整合していない。彼らは、税金として使わねばならなかったお金で得られたであろう個人的な商品を私から盗んでいる。
ギルバート・コート-メルシェ 著

現行の税金は強奪である。現行の税金は廃止されねばならない。あなたは、“白いベレー帽”がこの二つの文を繰り返すのを聞いたことがある。それは空想を根付かせるために使われる単に純粋なプロパガンダ・スローガンだと、あなたは信じているかも知れない。
“ミカエル”の事務所に立ち寄ったビジネスマンは、帰り際に我々に次のように言った。「ここを訪問して非常に良かったと思っています。これまで知らなかったことを学びました。現行の税が本当に強奪であること、消えなければならなく、消えることができることを学びました。あなた方のポスターはスローガンを表現しているだけだと信じて疑いませんでした。しかし、それは信頼できる議論に基づいた真実であると、私は今分かりました。」
オタワ大学の若い学生が我々の会合の一つに参加した。彼は以下のように公言した。公共事業がどのようにしたら税金無しで地方の信用システムによって融資され得るか、お金の回収と発行がどのようにしたら社会信用金融システムによって為されるかを最終的に理解できて嬉しいです。
現行の税金は強奪である。我々は税金が廃止されるまで、それを信念を持って頑固に繰り返し言い続けるであろう。というのは、税金は家族および社会を崩壊させるからである。
所得税は、その我慢ならない納入通知書とともに、万民にとっての悪夢である。絶えず増え続け、家庭から家族を追い払う固定資産税と学校税は、農場や企業をそれらを築いた人々の手からひったくる。小さな町の学校税は、田舎の開祖の子孫を都市の方へ既に追い払っている。
生産に関する連邦税は、我々ビジネスマンに簿記、レポート、調査を必要とさせる。嘘の名前で偽装した別の税金である年金が、既存の耐え難い税負担に加わる。そしてこの合法的強奪は増大し続ける。それは、法律自身によって―全ての侵入者、強盗などから人々を保護すると、先ず第一に思われている政府によって―為される強奪である。
これらの税金は遅滞なく消えねばならない。我が政府の最も気のきいた案でも、現行の課税システムが廃止されない限り、無益以外の何ものでもない。我が政府は、強盗の保護者のように振舞う。政府は彼らの忠実な下僕である。 

質疑応答

現行の税は強奪である。これを理解するために、質疑応答の形で進める。

Q.―何故、税金があるんですか?
A.―公共サービス、道路、消防隊員などへの出費を賄うためです。
Q.―道路は何で作るんですか?
A.―砂、セメントなどの物質財と労働力で作ります。
Q.―道路を建設する人々は、何をよりどころとして暮らしているのですか?
A.―パン、住居などの物質財です。
Q.―それらの物質財を生産するためには何が必要とされるのですか?
A.―他の物質財と労働力が必要とされます。道路のような公共サービスがありますが、それは物質財と労働力を必要とします。そして、パンのように民間のサービスもありますが、それも物質財と労働力が必要です。公共サービスと民間サービス。すなわち、二つのセクターがあります。公共セクターと民間セクターです。これら二つのセクターは物質財と労働力を必要とします。
住民は、両セクターのサービス、つまり公共および民間として、たとえばそれぞれ道路およびパンの対価を支払うためのお金、すなわち購買力を持っています。
Q.―そうすると、税金とは何ですか?
A.―全住民のお金のうちの、民間セクターから差し引かれて公共セクターに回される、つまり毎日のパンから差し引かれて道路に回される部分です。政府は私に道路への対価を支払うためにパン無しで済ませることを望んでいます。
Q.―しかし、私にとって、道路の対価を支払うためにパン無しで済ませることは必要なんでしょうか?
A.―いいえ、全然。我々が道路を建築しても、その建設期間中や建設完了後も、十分なパンが市場にあるでしょう。だから、私にとってパン無しで済ませるべき理由がありません。というのは、パン屋がパンの生産率を変更したり、生産されるパンの量を減らさないからです。もし、道路を建設するのがパン屋だったら、私は私のパン屋と私のパンを失うでしょう。しかし、そうではなく、パン屋がパンを焼き続けるのです。だったら、何故、我々はパン無しで済ませるべきなのでしょうか? 道路への対価を支払うための税金が我々からパンを奪っています。その税金は強奪です。それは私のパンを盗んでいるのです。
民間セクターの生産が同じ速度で続いている限り、政府は公共セクターの生産に対する対価を払うために、私のポケットから1ペニーたりとも取ってはいけません。民間のサービスが減っていない限り、私は民間の商品とサービスのための購買力の全てを維持しなければなりません。それどころか、道路の建設がビジネスのために良いものならば、民間セクターの生産高の増加をもたらしさえします。
もし、道路が建築されているところであるいう理由で、パン屋がパンを焼くのを停止したならば、道路の対価を支払う目的として、税金を徴収して、パンのための私の購買力を取り去っても良いでしょう。しかし、潤沢の中で私から税金を徴収することは、現実と調和していません。それは不当です。それは強奪です。私が税金として支払ったお金で獲得できたであろう民間商品が私から盗まれているのです。

新しいお金

Q.―しかし、それならば、政府にどのように道路の対価を支払って欲しいと思うのですか?
A.―政府は、道路が創造されると同時に、信用事務所によって創造される新しいお金で道路に対する対価を支払わなければなりません。技術者と作業員は道路を作ります。道路が作られている間、財務担当者は道路の対価として必要になる信用、お金を創造しなければなりません。必要とされるだけのお金を創造しなければなりません。新しい道路なので、お金も新品でなければなりません。どこかから、納税者のポケットや他の所から取られたお金では駄目です。道路のために特別に創造されたお金です。新しい生産のためには、新しく創造されたお金です。新しい道路のための新しいお金です。このように、信用はお金ですから、道路の対価は税金ではなく、新しい信用で支払われます。
Q.―なるほど。しかし、信用事務所が全ての公共サービスのためにそのように新しいお金を創造するならば、新しいお金が一杯になります! インフレを引き起こすことになりませんか?
A.―信用事務所は作られている生産品に対してお金を創造し、消費または減損に対してお金を消滅させます。この国の信用事務所は、国の経理を担当します。それは、物質財と労働力の使用によって作り上げられる生産と消費、および物の減損を帳簿に記録します。信用事務所は生産に対してお金を創造し、消費に対してそれを消滅させます。その事務所は、生産品が作られるときにお金を創造し、生産品が消費されるときにそれを消滅させます。このようにして、商品価格と購買力の間に一定の均衡が保たれます。
この均衡によって、個々人は全ての民間および公共のサービスの対価を支払うために必要な全てのお金を供給されます。
Q.―信用事務所は民間の生産に対してもお金を創造しなければならないということですか?
A.―全くその通りです。信用事務所は民間と公共の全ての生産に対してお金を創造します。民間の生産品に対して創造されたお金は、3つのチャンネルを通して個々人に分配されます。民間企業への利子なしの融資、購入者のための価格割引、および全ての国民への配当の3通りです。そして、公共生産に対して創造されるお金は、公共サービスのために政府に渡されます。このようにして、税金は消えます。税金の大部分が消えます。公共の負債に対する利子支払いや、融資された元本の返済のために現在使われている税金が消えます。国家の負債は最早存在しないでしょう。そして、その結果、最早負債に仕える必要がなくなるでしょう。そのようにして税金は軽減されるでしょう。
Q.―それでは、税金は完全になくなるのではなく、多少の税金を支払う必要があるということですか?
A.―ゴミの収集や消防員のようなサービスの対価は、納税者が支払うことになるでしょう。しかし、信用事務所は、全ての公共および民間のサービスの対価を支払うのに必要なだけのお金の全てを個々人に分配しなければなりません。サービスの対価はお金で支払われねばなりません。お金は経理システムです。経理が提供されるサービスの前で欠けてはいけません。火を消す準備ができている人々、消防員がいます。我らが消防員は富です。本当の富で現実の富です。信用事務所は、我らが消防員で代表されるこの本当の富を経理に含めなければなりません。そして、信用事務所は、住民が消防員のために支払うのに必要なお金を持っていることを確認しなければなりません。民間セクターについても同じです。住民が消費できるだけのバターが売られています。バターは本当の富で現実の富です。金融上の富、お金の富は、単に経理です。国の信用事務所は、住民がバターの対価を支払うためのお金を欠いていないことを確認しなければなりません。
農夫の役割が国に食料を供給することであるように、信用事務所の果たすべき役割は国にお金を供給することです。もし、農夫が役割を果たすようにとほとんど説得不要ならば、何故、信用事務所は説得されるべきなのでしょうか? 今日、信用事務所は国の事務所ではなく、民間人の事務所です。全住民のために存在する本当の信用事務所の代わりに、銀行家の利益のために存在するのが銀行です。それは、国または地方の信用事務所、たとえばケベック信用事務所、オンタリオ信用事務所などになるべきです。
Q.―だから、我々は絶対に国または地方の信用事務所を持たねばならないのですね!
A.―そうです。国の信用事務所がなければ、通貨システム、我々家族の経理、および政府の経理が混乱します。税金は強奪です。現行の全体の金融システムは、何から何まで強奪です。このことは、“ミカエル”誌において良く説明されています。そして、我々は、社会信用手法の驚くべき素晴らしさ、および現行の金融システムと徴税の恥ずべき詐欺に光を投げかける良い小冊子を持っています。

戦い、取り替えるべき経済システム
我らが社会のキリスト教徒の義務についての、1954年四旬節のためのメッセージにおける仏国トゥールーズ大司教であるサリージ枢機卿

「人は忘れる。人は見ない。酷い住居に住み、十分食べられず、不十分な賃金しか得られない人々がいることを見たがらない。全住民が飢餓に瀕している国々があることを見たがらない。それは彼らの失敗だというような理由を考えるのは、キリスト教徒に相応しくない......
「長い間、キリスト教徒は貧しい人々を愛し援助するという表れによって見分けられた。キリスト教徒は貧しい人々の中に、取り分け頭を横たえる場所さえない人に、イエス・キリストを見た....
「貧しく家がなく飢えている人々を量産している経済システム。すべてのキリスト教徒はその経済システムと戦い、それを取り替えることを義務にしなければならない。
「繰り返すが、我々は我々自身を欺いてはならない。義務を実行しようと欲するキリスト教徒は、福音書や教皇達の教義を理解せず受け入れない他のキリスト教徒、および確立された秩序の維持を望む多くの保守的な無神論者によって反駁されている。」

教皇は堂々と述べている:
物質的財産は誰に帰属するか?

941年6月1日ペンテコステ祭におけるラジオ放送における教皇ピウス12世の演説から

「物質的なものは、全ての人間の必要性を満足させるために神によって創造されたものであり、正義と博愛がそう要求するように、全ての人間に配分されねばならない。 
「理性を贈られた存在であるところの全ての人間というものは、地球上の物質的なものを利用する基本的権利を必然的に持っていて、その権利の実際的な実現をより詳細に決めることが、人間の意志および法的な規定に委ねられている。 
「そのような個人の権利は、自然財に対する他の異論なく是認されている権利の行使によってさえ、抑圧され得ない。
「国の経済は、国の共同体内での人々の活動を結合させた果実であるが、国民の個人的生活が十分に発展することができるであろう物質条件を保証すること以外に何もしない傾向にある。
「これが得られ、許容できるほど得られたならば、人々は厳密に言えば豊かになるであろう。何故ならば、一般的な物質的幸福、すなわち、地球の財産を使う、全ての人々の個人的権利は、創造主の意志に従って実現されるであろう。
「国の経済的富は、価値の厳密な物質的計算で判断される商品の豊富さにあるのではなく、その豊富さが本当に効率的に、各人の公正な個人的な発展のための十分な物質的基盤となっているかにある。
「もし、そのような商品の公正な分配が果たされておらず、不完全に保証されているだけならば、たとえ、入手可能な商品量が豊富であったとしても、国の経済の本当の目的は達成されないであろう。というのは、分かち合いが上手く働かないので、人々は金持ちではなく貧乏であろう。
「逆にこの公正な分配が確かな基礎の上で有効に実現されたならば、たとえ、商品の量がより少なかったとしても、人々は経済的に健全になるであろう。
「今日、人々は金持ちであるか貧乏であるかを、てんびんによって、また、商品の面積や量のような単に定量的な判断基準によって鑑定する傾向にある。
「もし、逆に、国の経済の目的がその正確な価値に従って認識されるならば、その目的は政治家および国民の努力に対する誘導灯になるであろう。絶え間ない財と血の犠牲を必要としないで、平和と一般的な物質的幸福の成果を享受するような自発的な変化を啓発するであろう。

原文【英語サイト】http://www.michaeljournal.org/realsc1.htm

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