Anti-Rothschild Alliance

もどる

資料室

A Sound and Effective Financial System
『健全かつ効率的な金融システム』

目次

ルイ・エバン
原文【英語サイト】http://www.michaeljournal.org/soufin1.htm

この小冊子で議論する健全かつ効率的な金融システムは、社会信用という名称で一般に知られている金融システムである。それはまだどこでも適用されていないが、その原理はスコットランド人のエンジニアでエコノミストでもあるC.H.ダグラスによって確立され、1918年に初めて彼によって出版され、それ以後、多くの国における全人的な学校を通して広められている。 

ダグラスは、それが一度実行に移されたならば、全ての金融問題を決定的に取り除くであろう提案をした。生産や分配に関して全く実際的な問題の生じない提案である。彼の提案したシステムでは、国の経済において、金融は奉仕の役割を演じ、最早命令するようなことにならない。 

ダグラスは正確に提案を作成したが、それを実行する方法には立ち入らなかった。また、ダグラスは、それらの方法は場所や確立された慣習などの違いに応じて変容し得るし、経験からの結果に基づいて修正されるかも知れないが、原理原則から外れることはないと指摘している。 

社会信用専門誌“ミカエル”や“ヴェルス・デメイン”、および同じ情報源からの他の著作は、ダグラスの原理原則を適用するための金融システムを確立できる方法を検討する分野に入るのを一般に控えてきた。 

我々の役割は、先ず第一に、どのような人々が彼らの経済活動から解放されなければならないか、またその理由、すなわち何故彼らは成果を享受する権利を有するのかを示すことだと、我々は考えている。 

その方法、すなわち成果を得るためにダグラスの提案をどのように適用するのかについては、我々の意見であるが、むしろ専門家が対応すべき問題であろう。専門家とは大臣や政府ではない。政府の役割は、専門家に何をするべきかを指示し、その決定をさせることであろう。

社会信用論者のある日の集会において、ダグラスは、もし銀行家がそうする指図を得るのに成功したならばであるが、社会信用の金融システムを樹立するのは銀行家となると言ったことが、知識として心に残っている。 

別の機会において、彼は次のようなことを示唆している。個人および政府が1930年代を通して不満の声を上げてきた金融の慣習から逃れるためには、政府は2〜3人の国の指導的銀行家を集めて拘束し、彼らが世界を苦しめている害悪に対する治療薬を見つけるまで彼らを監禁すべきである。(そうしていたら、この治療薬を、彼らは速やかに見つけていたであろう!) 

しかし、本著作においては、その方法について少し立ち入ろう。その方法とは次のものである。ダグラスの提案を履行できるであろう方法。価格と消費者の購買力の間に一定の均衡を確立するための方法。貯蓄によってではなく新しい信用によって、何らかの新しい生産に融資する方法。

我々のゴールは、実現可能な唯一の方法を提示することではなく、ダグラスの提案を履行できる可能性を示すことである。それ故、ここで説明される方法は教義的でも排他的でもない。しかし、我々は、我々にとってより実際的でより当惑させられないと思われるものを主唱する。寛大にも現行の金融メカニズムを利用するが、経済の本当の目的すなわち人間の必要性への奉仕から逸脱させる基本的な金融欠陥は劇的に取り除くのである。

害悪の真相

何故、現行の金融システムを批判し非難するのですか?
それがその目的を遂行しないためです。
金融システムの目的は何ですか?
金融システムの目的は、お金を融資することです。需要に応えるための商品への融資、商品の生産高が需要量に到達するように融資することです。
もし、金融システムがそうするのならば、その役割を果たしています。もし、そうしないならば、その役割を果たしていません。もし、それ以外の何かをしているのならば、その役割を超えています。
何故、現行の金融システムがその役割を遂行していないと、あなたは言うのですか?
なぜならば、人々が必要とし、実際的にほとんど確実に実現可能な商品―公共商品および民間商品―がありますが、金融システムがその生産のための融資をしていないために、無いままです。さらに、必要としている人々に提供されるべき商品があっても、個人や家族の中にはそれを手に入れられない人も存在します。金融が消費のための融資をしないからです。これらは否定できない事実です。
生産と消費は何によって融資されるのですか?
支払い(現金信用)によってです。これらの支払い(現金信用)は、貨幣、紙幣、あるいは銀行口座から振り出された小切手でなされます。
これら全ての支払い手段(現金信用)は“金融信用”という用語で纏めて表されます。なぜならば、誰もがそれらを信頼して受け入れるからです。その信用という言葉は信頼を暗示しています。あなたは、4枚のクオータコイン、カナダ銀行発行の1$紙幣、あるいは、その人が銀行口座を持っていればどこの銀行の小切手であろうとも、いずれも同じ信頼度で受け入れるでしょう。もし、あなたが生産者ならば、労賃や素材費としての1$に対して、また、消費者ならば商品の対価としての1$に対して、これら3種類の支払い手段(現金信用)のいずれでも使えるということを、あなたは現実に知っていますよね。
この“金融信用”、すなわちこれらの支払い手段(現金信用)はその価値をどこから引き出しているのですか?
金融信用はその価値を“本当の信用”から引き出します。すなわち、国の生産能力からです。国の生産性がそれに釣り合う商品を供給できるということだけで、その形がどうであろうとも1$は価値を持つのです。この国の生産能力が信頼の本当の要因なので、その生産能力を“本当の信用(現実信用)”と言うことができます。その国に住むことができるという信頼を引き起こしているものが、国の本当の信用、すなわち生産能力です。
この“本当の信用”は誰に帰属しているのですか?
それは社会の利益です。個人および集団のすべての種類の能力がそれに寄与していることは疑いありません。しかし、神意による贈り物であって、個人の能力の結果ではない天然資源が存在せず、労働の分業を許す社会が存在せず、学校、道路、輸送手段のようなサービスが存在しないならば、総生産能力は遥かにより低く、本当に極めて低くなるでしょう。
そういうことから、我々は決して国家支配下の生産ではなく、国の生産、国の経済について話します。市民達、各市民が物質的な必要性の満足についての信頼の基礎を見つけることが出来なければならないのは、その総生産能力の中においてです。ピウス12世は、1941年のペンテコステ祭におけるラジオ放送で次のように述べています。
「国の経済、すなわち国の共同体内で一緒に働いた人々の活動の果実は、市民の個人生活が十分に展開することができるような物質的条件を、支障なく確保する以外のものには向かわない。」
金融信用”は誰に帰属していますか?
本当の信用がそれからその価値を引き出しているとの同じように、金融信用はその源において全国民に帰属しています。それは、共同体の全構成員にそこから利益を分配しなければならない、共同体の利益です。
“本当の信用”と同じように、金融信用は本来、社会信用です。(それは社会の全ての構成員に帰属します。)
この公共利益の使用が、生産能力を邪魔する状況やそれ本来の目的からそらす状況に晒させてはいけません。本来の目的とは、人間の必要性、差し迫った個人的および公共的性格の必要性、万民の基本的な必要性の満足です。少数者の贅沢な要求、名声を貪欲に求める為政者のファラオがしたような壮麗な計画は含まれません。
すべてのことを計画し、生産プログラムを強制する独裁者と商品の分配を取り仕切る管理者を設けないで、経済からこの一般的に階層的な必要性の細目を得ることは可能ですか?
共同体の金融信用の分け前を各個人に保証する金融システムを作れば、間違いなく可能です。個人が自分で決めることができるような、国の生産性からの十分な分け前で、少なくとも個人の基本的な必要性を満たすのに足りる分け前です。
そのような金融システムは何も指図しません。生産プログラムは、個人商品に関する場合、消費者からの注文に従って組まれます。一方、生産プログラムは、公共商品に関する場合、公共行政機関からの注文に従って組まれます。金融システムは、このように一方では、消費者の意思を表現するために奉仕します。また他方では、生産者の奉仕によって、このように表現された注文の方向に国の生産能力が動員されます。
このためには勿論、現実に忠実で、現実を乱さない金融システムを持つ必要があります。現実を反映し、現実と不和でない金融システムです。制限して配給するのではなく、正当に分配する金融システムです。人を卑しめるのではなく人に奉仕する金融システムです。
そのような金融システムは考えられますか?
はい。その概要は、社会信用と呼ばれるものを世界に説明した大家にして天才であるクリフォード・ヒュー・ダグラスによって与えられています。(社会信用という名称を悪用した政党と混同しないで下さい。)
ダグラスは3つの提案において、それらの目的を達成し、さらに機械化、動力化、あるいは自動化のどのようなレベルまで経済が発展しても、それに十分追随できる柔軟性を有するシステムの基本的な原理を要約しています。

ダグラスの3つの提案

ダグラスの3つの提案とは何ですか?
ダグラスは3度の機会で、それらの提案を公に述べています。1924年にスワンウィックで、1930年5月にマクミリアン委員会で、そして1930年 10月のロンドンのキャクストン・ホールの講演でです。そして、彼の数件の著作、とりわけ「信用の独占」においても、それについて説明しています。
それらの提案のうち第一のものは、購買力と価格の間の調整による消費への融資に関連しています。
どの国の全住民の現金信用も、その国で売られている消耗品の総体的な現金価格に総体的に等しくさせます。そうすれば、そのような現金信用は、消耗品の購入または減価償却によってのみ、キャンセルまたは減価償却されます。ダグラスはこの提案に関して何も変えていません。すなわち、1924年も1930年も同じ事を言っています。
この提案において、消費者の手の中にある正貨や小切手のような支払い手段について言及する際に、ダグラスは”現金信用”という用語を使います。一方、生産への融資について話すときには、彼は単に”信用”と言っています。
2通りの用語の違いは、消費者の手の中にあるお金は彼らのものだということです。すなわち、彼らにとって、それは購買力なのです。彼らが欲しいと思う生産品を手に入れるために彼らが使うものなのです。一方、生産に対しての信用は前渡し金に相当し、生産者は生産品が売れたらそれを返済しなければなりません。
ダグラスが主唱するこの第一の提案のゴールは何ですか?
この提案のゴールは完璧な購買力と呼ばれ得るものを達成することです。それによって、購入者によって払われる価格と購入者の手の中にあるお金の間に均衡が達成されます。 
社会信用では、仕入原価と購入者によって支払われる価格(現金価格)を区別します。購入者は仕入原価の総額を払う必要がないだけではなく、この価格は住民の手の中にある支払い手段(現金信用)に対応したレベルまで下げられます。
もし、生産者がビジネスを継続したいと望むならば、仕入原価分を生産者は必ず回収する必要があります。しかし、生産者が生産物がその目的に適うこと、すなわち消費されるためには、支払われるべき価格は消費者の手の中の購買力のレベルでなければなりません。
そのような二重の条件はどうやったら実現できるのですか?
価格調節メカニズムによります。調節であり、価格の固定ではありません。仕入原価の設定は生産者自身の問題です。どのような生産品がどれだけ掛かるのかを知っているのは彼らです。
提案されている調節は、全ての小売価格に適用されるある係数からなります。この係数は、与えられた期間における全消費量と全生産高の比率に応じて、定期的に(たとえば、3ヶ月(または6ヶ月毎に)計算されます。
もし、たとえば、この与えられた期間において、全生産高が400億$で全消費量が300億$であったとしましょう。この場合、会計上の仕入原価が現実にどうであったろうとも、400億$の生産高はその国に300億$を費やさせたということです。したがって、300億$が、400億$の総生産高の本当の原価なのです。そして、もし、生産者が400億$を回収しなければならないのだったら、消費者は彼らの分担分として300億$だけ支払わなければならない。 100億$の不足分は、購入者からではなく、別の財源から生産者に供給されねばならない。それをするのが、通貨メカニズムである。
この場合では、全ての小売価格に係数3/4が掛けられます。仕入原価はこの係数3/4すなわち0.75が乗じられます。したがって、購入者は仕入原価の75%だけを払います。
換言するならば、新らしい期間の間、すべての小売価格全体に対して、25%割引(消費税の逆)が適用されます。そして、各期間の終わりに、その期間における消費状況と生産状況にしたがって、全体の割引率が計算されます。このようにして、可能な限り完璧な購買力に近付きます。
この操作は、時には代償価格または代償割引と呼ばれます。なぜならば、割引の結果として売り手が買い手から手に入れないお金が後で国の信用事務所から与えられるからです。この代償によって、売り手は仕入原価の減額を回復することができます。誰も損はしません。必要性を考えてより疑問なく作られる商品の販売によって、誰もが得をします。
これが完璧な購買力を達成するとあなたが言うのは何故ですか?
なぜならば、支払い手段と価格との間の比率をそれが1にするからです。上の例では、その比率が3/4でした。生産の3/4しか払えなかったのです。価格調節操作後、比率は1になり、全生産品に対して払えるようになった。その操作によって、生産がその目的に到達することが可能となり、生産は消費され得たのです。
また我々は、次の理由からも、それは完璧な購買力を達成すると言います。それが、住民に”適正価格”すなわち生産の本当の原価だけを払えば良いようにすることで、住民に公正さを与えるという理由です。”適正価格”という言葉に数世紀もの間社会学者が探しても見つけられなかった定義の与え方を知ったのはダグラスです。彼はそれを次のように明確に述べています。”生産の本当の原価はそれが要求するところの消費である。” これが、経済学の教科書で全く無視されているように思われる真実です。
価格調整メカニズムの方法については、それは変化し得るがこの完璧さを成し遂げ、最小限の操作で可能に違いないです。その上、消費者共同組合において各組合員に払い戻し額を計算することの複雑さと比べたら、遥かに単純でしょう。
それではダグラスの2番目の提案は何ですか?
ダグラスの2番目の提案は生産の融資に関係しています。スワンウィックで、およびマクミリアン委員会で、彼は次のように述べています。
生産への融資のための信用は貯蓄から供給しては駄目で、新しい生産に結び付く新しい信用とします。
1930年10月のキャクストン・ホールでの講演では、ダグラスは上記の供述を次のように変更している。
”生産に結び付く新しい信用”
彼は”新しい生産”と言わず、単に”生産”と言っています。明らかに両者は同義です。生産がなされたら、それは新しい生産です。消費者が買い物をする生産の流れを続けるための新しい生産です。
この生産は生産量の増加分だけを指すと誤解する人たちもいました。3つの提案を合わせて考えれば、ほとんど間違いなく、そういう解釈の成り立たないことが分かります。
ダグラスは次のように付け加えています。
そして、これらの信用は全体の減価の全体の騰貴、すなわち全体の富裕化に対する割合でのみ償却することとします。
何故、このように貯蓄ではなく新しい信用で生産に融資するかということですが、貯蓄は実現された生産との関係で分配されたものに起因するからです。今や、すべてのこのお金は実現された生産の仕入原価に払われるのです。もし、このお金が生産を買うのに使われないならば、支払い手段と価格との間のギャップは増大するでしょう。
投資などを通して貯蓄が新しい生産の流れに融資したら、購買力として循環して戻るという意見を述べる人がいるかも知れませんね。それは本当ですが、生産者による費用としてとなるので、新しい価格を作ることになります。今や、同じ量のお金が、前の生産に対応する価格と新しい生産に対する価格に同時に払うために仕えることはあり得ません。
貯蓄されたお金がこのように消費者に戻ってくる度に、新しい価格が作り出されます。このお金が貯蓄になるときに対応する購買力無しのままでの前の価格を払うこと無しにです。
このことを例を挙げて明確にしましょう。
300$の月給を稼ぐ労働者がいるとします。このうち、50$を使って、新しい工場を建てる事業の株を彼は購入します。
月給300$は、労働者がそのために働いた商品の価格内にリストされているのは言うまでもありません。しかし、300$というこの価格を前にして、購買者に残されているのは250$だけです。
工場の建設は、建設労働者に分配される給料を通して購買力として50$還元されるでしょう。しかし、新しい工場から生まれる商品はそれらの中にその 50$を含まねばならないでしょう。再び購買力になったその50$は、前の生産の50$と新しい生産の50$を同時に払うことができないのは言うまでもないでしょう。
これは、節約家が生産拡大に彼のお金を投資することによって悪い事をしているという意味ではありません。彼に属しているお金で彼が何をしようと完全に自由です。しかし、貯蓄に起因する全体の購買力の減少は、消費者の手に届く等価な量のお金を通して(たとえば、社会配当や割引率の増加を通して)何らかの方法で補わなければなりません。一度これがなされたならば、購買力への効果は生産が新しい信用を通して直接融資されたことと同じになります。というのは、これらの新しい信用が購買力から逃げた貯蓄に置き換わるためです。
現行システムではこの埋め合わせがされません。現行システムは購買力のカットを気にせず、貯蓄を通して融資することを要求します。それは、消費者の支払い手段と商品価格の間のギャップを生み出す唯一の原因ではないですが、原因の一つです。
ダグラスの3番目の金融上の提案は何ですか?
3番目の提案は、購買力に新しい要素を導入します。雇用されている人だけではなく生産に従事していない人も含めた万民への配当の分配です。それはそれ故、支払い手段を持たないような個人を無くすことができる購買力の構成因子です。
それは、最大の現代の生産要因の共同資本家、共同法定相続人として、万民が生産の分け前を受ける権利の承認です。その生産要因は一つの世代から次の世代へ伝達され、増大する後天性の進歩です。また、自然資源の共同所有者としての神からの無料の贈り物でもあります。
たとえ、従業員無しで益々生産が進むとしても、それは生産のフローと関連付けて購買力のフローを維持するための方法でもあります。それ故、それは今日の最大の悩みの種に対する解決策です。その悩みの種は、経済学者をして頭を壁にぶつけさせ、全雇用政策が成功しないことで政府を唖然とさせるところのものであります。完全雇用の追求は馬鹿げたことであり、人間が聡明な存在である御蔭でその追及は困難である。というのは、進歩が容赦なく労働者を釈放し、従業員を益々必要としなくなるからです。 
ダグラス自身はこのことについて次のように述べています。
現金の分配は進歩とともに雇用と益々無関係になります。すなわち、配当が進歩とともに賃金および給料に置き換わります。
ダグラスは進歩とともにと言う表現を、他でも、たとえばマン・アワー(人・時間)当たりの生産性増加に対しても使っています。これは、生産フローにおいて、労働と進歩のそれぞれの寄与と完全に連携します。
共同の利益である進歩は生産要因として益々重要になり、逆に人間の労働は重要でなくなります。この現実は、一方では万民への配当を通して、他方では雇用への報酬を通して収入の分配に反映されねばなりません。
市民各々への定期的な配当について説明する際に、この問題に戻り、更に議論することにしましょう。
しかし、これだと、生産への融資方法と生産の支払い要求への分配方法において、すべてを転倒させる提案になっていませんか?
それは、先ず第一に、そして簡単に言うと、経済および金融のシステムの役割概念における哲学の変化です。適切な手段を駆使して、本来の目的にシステムを戻すことです。本来ならば、既に、逸脱が訂正に身を委ねているべきなのですが。
しかし、これすべては、お金または金融信用が生産と消費に直ちに融資することができることを示唆しているように思えます!
確かに。通貨システムは本質的に会計システムです。会計士は、加えたり、引いたり、掛けたり、割ったり、3つの規定を作ったり、パーセント表示をする算術に長けていないですか?
その上また、お金が算術の問題だということを示す事実があります。算術というシステム独占者は、帳簿、ペン、および2〜3滴のインク以外に何もなくても彼らの決定に従って、現れたり消えたりさせることができます。
1936年3月7日、ウェストミンスターの講演において、C.H.ダグラスは彼の聴衆、すなわち社会信用聴衆に対して次のように言っています。
 「我々、社会信用論者は、現行通貨システムは事実を反映していないと言います。反対者はしていると言います。まあ、それはあなた方の良識に委ねておくことにしましょう。さて、次のようなことは、どういうことでしょうか?世界は、1929年にほとんど熱狂的に繁栄しているように見え、あるいはそう主張され、正統派の権威によって判断されていて、確かに途方も無い量の商品とサービスを生産でき、それらのうちの相当量を分配することができました。しかし、1930年までに貧窮化し、基本的に大きく変わった結果、状況は逆になり、世界はひどく貧乏になったのは、どういうことなのでしょうか? 1929年10月のある日とその2〜3ヶ月後の間で、世界が金持ちの世界から貧乏な世界へ変わったと想像することは合理的でしょうか?勿論、合理的でないですね。」
ダグラスは第二次世界大戦勃発の3年半前にこの発言をしました。それが公言されるや否や、だれもがダグラスと同じ性質の疑問を自問しましたが、逆の意味においてでした。
10年間お金が不足していたのに、6年も続き、何百億$も掛かった戦争のために必要とされたお金が一夜のうちに現れたのはどういうことなのだろう?
両方のケースに同じ答えが当てはまります。通貨システムは単に会計の問題であり、法的に裏付けられた数字を必要とするだけです。したがって、もし、通常の人間の要求を満足するための生産能力に問題が無いのにお金が不足しているならば、そして、もし、生産者と生産手段が戦場および戦争道具のために必要とされるときにお金が豊富になるならば、自由な生産者と自由な消費者のために実行される自由な行為から生じる事実を忠実に反映しないような決定を通貨システムがしているためということです。

ダグラスの3つの提案

  1. どの国においても、全住民の現金信用は、その国で売れれている消耗品の集合的な現金価格と、どの瞬間においても集合的に等しくする。そして、そのような現金信用は、消耗品が購入されたとき消失させる。
  2. 生産に融資するために要求される信用は、貯蓄から供給するのではなく、新しい生産に関連付けた新しい信用とする。そして、全体的な減価の全体的な騰貴に対する比率においてのみ回収する。
  3. 現金の個人各々への分配は、発展的に雇用依存性を弱める。すなわち、配当が発展的に賃金や給料に置き換わるようにする。

生産融資の仕方

しかし、先に述べられたダグラスの提案を進めるための金融システムのサービスとしてのお金、金融信用、これらの”合法化された数値”をどこで手に入れるのですか?
生産融資および分配に要求される信用は、国の莫大な本当の富に基づく国の金融信用から引き出されるでしょう。それによって、定着した社会構造に激変が生じることはないでしょう。民間企業は民間企業のままです。銀行さえ民間企業として残るかも知れません。金融信用が流されて、源に戻るのはそれらを通してです。
銀行はこのサービスをしっかりと実行するための全てのメカニズム、全ての必要とされる設備、良く整備された支店ネットワーク、および熟練した有能な職員を現実に所有しています。銀行はこれらの機能においてサービスに対する報酬を獲得し続けるでしょう。銀行は生産への貸付の責任だけでなく、消費者信用(配当および保障される割引)に関する経理処理の責任も維持し、公正な報酬を得るかも知れません。しかし、そのように銀行が取り扱う信用の所有権は社会に属したままで、銀行の操作は上記の目的と原則に関して金融システムの目標を配慮しなければならないでしょう。
ダグラスの述べた提案を実行するために異なった方法を思い抱くことができます。しかし、最善の方法は現存する組織に最小限の影響しか与えない方法であると言って間違いないでしょう。
公認された銀行が生産融資の責を有するかもしれないと仰せですが、生産者は商品が売れるまでの間の費用を借り入れるために銀行にこれまで通り行くということを意味しているのですか?
勿論です。我々はそのようなサービスを必要とし、銀行はそれを取り計らうために非常に良く組織化されています。通常、生産は最終商品の状態に到達する前に幾つかの連続する変化を通過します。その鎖の最初の生産者はお金、金融信用の前払いを必要とするかも知れません。そして、その生産者が半製品を第二の生産者に受け渡すとき、費用を回収して銀行家に返済するために直ちに支払いをされることを望むでしょう。たぶん数ヶ月、あるいは数年も後になるであろう、その鎖の終端に達したという掛け声を、最初の生産者も銀行家も待てないかも知れません。そして、彼らは、お金を手に入れるために、最終製品が売れて消費者が支払うまで待つなんて尚更できないかも知れません。
たとえば、生産過程が3つの連続する会社A,B,Cを経由するとしましょう。この場合、以下のような金融操作が思いつきます。
生産者Aは、原材料費、輸送費、人件費、光熱費、動力費、および諸経費を工面するための融資を必要とします。彼は商業銀行に行って、融資を受けます。
Aが作った半製品をBに売るとき、Aは銀行へ返済しなければならない借入金を含めて彼が使ったすべてを半製品の価格に含めるでしょう。Aはそれに利益(A自身の給料)を追加するでしょう。BはAの求めるこれ全て、および多分B自身の操業原価―輸送費、労賃・給料、諸経費など―を支払うために融資が必要になるかも知れません。Bもまた銀行に行き、融資を受けて、Aに支払います。
Bから受け取ったお金で、Aは銀行に返済することができるでしょう。
BがBの半製品をCに渡すとき、Bもまた、銀行からのBへの借入金を含めた全ての費用をBの価格に含めるでしょう。そして、CもまたBからの請求およびC自身の操業費のために銀行へ行くことができるでしょう。
Cが支払うや否や、Bは銀行からの借金を清算するでしょう。
Cが最終製品を卸売業者に渡すときも同じです。卸売り業者も生産者達が連続的にしてきた様なことをする、すなわちCに支払うために必要な融資を銀行から受けることができるでしょう。
銀行は、会計士と設備によって、これらの操作を取り計らうようにきちんと組織化されていて、貸付と返済の状態をフォローアップします。たとえ、生産者達が同じ銀行と取引しなくとも、たとえば一社がモントリオール銀行、他の一社が王立銀行と取引するとしても、問題は発生しません。銀行は、24時間を通して、銀行間での負債と信用のバランスを取れるように組み立てられています。
ダグラスの提案を実践するにおいて、現行の銀行業メカニズムのままでも、生産の様々なレベルへの貸付というこの金融方法が十分に成り立ちます。
銀行は今日と同じように信用を創造するということなのですか?
いいえ。我々はそれを説明してきました。これらの信用は様々な活動、天然資源、応用科学、組織化された社会の存在などから生じる国の生産能力を表します。これらの金融信用は、本当の信用、国の生産能力があるからこそ何らかの価値を有します。金融信用は、本当の信用、本質的に社会的である利益を数字化したものです。その源において、社会信用であるところの金融信用の所有権は社会だけに属し得ます。
この信用を循環させるため、国の生産能力を起動させるべくその信用を使う人々に託すため、および、その仕事が遂行されたあとでその信用をその源に返済するため、銀行を国有化することなしに、現存のチャンネルである銀行メカニズムを非常に有効に利用することができます。
したがって、新しい支店ネットワークを樹立したり、信用を求める人々のために信用小切手を作ったり、またその信用が使われたあとで信用を取り消すことを直接請け負ったりするための中央銀行は不必要です。
しかし、この金融信用は社会的な手段のままであり、その源は、共同体への奉仕に純粋に専念する機関、すなわち国の(or 地方の)信用事務所、あるいはこの機能を実現する(国有化された)中央銀行だけが保有しなければなりません。
しかし、そうならば、商業銀行は生産に貸し付けるための金融信用をどこで手に入れるのですか?
商業銀行は、源そのものから、すなわち中央銀行から要求に応じて、無料でその金融信用を手に入れます。無料とは、すなわち循環の道のりが終わったあと、その源へ同じ量を返済する義務だけを持つということです。
中央銀行は、出て行くものと入ってくるものを数え、商業銀行の口座で出て行くものを借り方に、入ってくるものを貸し方に記入し続けます。
中央銀行と商業銀行の間のこれらの会計関係は何も新しいものではありません。カナダにおいて、各銀行はカナダ銀行に口座を持っていて、その口座には毎日借り方と貸し方の記入がされています。
しかし、公認された銀行は彼らが貸したローンに対して借り手に手数料を課し続けるのでしょうか?
確かにその通りです。銀行は、いずれの民間企業とも同じように、要った費用を支払い、従業員に月給を支給し、諸経費を負担し、合法的な利益を上げることができなければなりません。
銀行は、彼らが得意とする予防手段を講じたにもかかわらず、ある借り手は返済することが出来なくなるというケースも予知しなければなりません。借り手の破産は、中央銀行に対する融資銀行の義務を帳消しにしません。融資銀行が得たであろう社会の信用をその源に返済する責任があるとされます。
社会信用の目的は人々を無責任にすることでは決してありません。それどころではないのです。商業銀行は中央銀行から得られる進歩した融資に対する責任があるとされます。借り手―個人または会社―は融資商業銀行に対しての責任があるとされます。この融資商業銀行は、特に新しい顧客の場合、または危険性のある企業への融資の場合、間違いなく担保を要求します。
銀行が融資することで要求する手数料は、今のまま利子と呼ばれるかも知れません。しかし、時間因子、すなわち融資と返済の間の期間はより重要性が低くあるべきだと我々は思っています。6ヶ月であろうと、1年、2年、あるいは3年の融資であろうとも、それは銀行家の金融上の情勢に影響しません。というのは、社会信用であり、銀行家の信用ではなく、循環するものだからです。その期間が長くなっても、借り手の口座への帳簿記入数が増加する程度のことかも知れません。
しかし、これらの手数料、これらの利子料金は、その借り手が借りた以上の信用を返済するよう余儀なくされることを意味しますね。全ての他の借り手についても同じですね。我々が今非難しているものと同様、数学的に不可能なことを作り出さないのでしょうか?
社会信用金融システムの下では、いいえです。なぜならば、そのシステムは、定期的な万民への配当および調節され代償される価格メカニズムによって、購買力を価格と均衡させるからです。今や、利子料金を含めて、全ての金融原価は価格に含まれています。したがって、公衆の手中のそのような安全な支払い手段のお蔭で、この全ては回収可能なのです。 
これらの付加的原価は、”全ての新しい生産は新しい信用によって融資されねばならない”というダグラスの提案と両立するんですか? もし、たとえば、生産融資に対する5%の料金、すなわち生産者に渡る信用に加えて5%を払ったならば、新しい生産は新しい信用によって全て融資されることにならないように思えます。
生産の様々なレベルの経過の間に、融資は生産者の個人資産や部分的に借り入れによるかも知れず、全て借り入れ(利子を含まず)でさえあるかも知れません。しかし、これ全ては生産が最終製品の形になったときに清算されるでしょう。なぜならば、新しい生産になるのは正にその時だからです。そして、社会信用システムにおいて特有の操作がダグラスの述べた提案を実行できるのは、最終製品が卸売業者または最終生産者から小売業者に渡るその時です。新しい信用(無利子信用)がこの新しい生産に充てられなければならない全ての費用をカバーするために発行されるのは、その時なのです。 
それはどのように成し遂げられるのですか?
繰り返しになりますが、それを達成するための方法は幾つかあるでしょう。ニュージーランドの社会信用論者W.B.ブロッキー氏は、商品を小売業者が受け取るとき、すなわち、最終製品の全仕入れ価格をカバーする無利子信用が小売業者になされることによって達成されるべきことを示唆しています。この方法は次の二重の目的に到達するために非常に適切なように思われます。1.新しい信用によって新しい生産を有効的に融資すること。2.その後、商品が消費されて、信用がその源に戻ること。
生産過程は、原材料から最終製品に至るまでの様々なレベルからなる連続的な流れです。消費者に分配する役割を負う小売業者に渡す準備ができた場所で、生産は最終製品になります。
じゃあその場所は、ということになりますが、もし、小売業者がそこで最終製品を受け取るとするならば、卸売業者または最終生産者の所です。最終製品は価格を持っています。小売業者に請求される価格です。それは生産の仕入原価です。しかし、最終的な仕入原価を得るためには、分配原価すなわち小売業者の費用を付け足す必要があります。無利子信用の新しい発行によってカバーされねばならないであろうものは、これ全て、すなわち最終的仕入原価です。
それ故、小売業者は、卸売業者の請求額に、運搬費、人件費、避けられない損害に対する費用、および諸経費からなる小売業者の費用を付け足さねばなりません。小売業者は、これらの週当たり、あるいは月当たりの原価を経験的に知っています。商品の週当たり、あるいは月当たりの平均的な売り上げ量を知っています。それ故、買い手に商品が渡る際の商品最終仕入原価を設定するために、卸売業者の請求額にどの程度上乗せしたら良いかを、かなりの精度で予測できます。
この重要点をもっと理解するのに役立つ仮想的な例を示して頂けないでしょうか?
小売業者が彼の経験を通して、商品を売るのに掛かる取り扱いおよび奉仕の原価が、平均して、彼が卸業者に払わなければならない価格の10%に等しいと知っていると想定しましょう。
その次に、この小売業者が卸値4,000$の商品供給を受けると想定しましょう。彼の全原価(卸値に取り扱い原価を加えるが、全ての利益は含めない)に見合うようにするためには、供給された商品の最終価格は4,000$+4,000$の10%、すなわち4,000$+400$=4,400$とすべきと彼は結論するでしょう。
この最初の生産の最終仕入原価はこのように合計で4,400$となります。それ故、この新しい生産に関しての完全な原価を清算するために必要なのは、4,400$の新しい無利子信用です。
これを達成するために、それを完成させるまでの間、小売業者の間で広く使われている金融上の方法、すなわち当座貸越を使うことができます。今日、ほとんどの小売業者が、当座貸越小切手によって卸売り業者に支払っているのは現実のことです。すなわち、小売業者とその取引先銀行の間で交わされた契約によって、小売業者の銀行口座に十分な資金がないときでさえ、銀行はそれらの小切手を引き受けます。小売業者の”信用限度”を決めているある制限額以下の範囲で、小売業者の必要に比例して、要請によってなされる貸付のようなものです。卸売り業者は、小売業者の支払い義務に見合ったものを遅延なく払ってくれるように望むので、その当座貸越という方法は小売業者にとって非常に便利です。
銀行の帳簿において、これらの融資は小売業者の口座の借り方に記入されます。彼は生産品を売ったら、小売の成果を銀行に持ち込み、口座をできるだけ赤字にしないようにしなければならず、口座の残高が合議した信用限度額を超えないようにすることで銀行家を満足させなければならないでしょう。それ故、事実は、相互の了解に基づく融資と返済の繰り返しということです。そして、現行金融システムでは、銀行家はこのサービスに対して小売業者に手数料を請求します。この手数料は赤字の大きさと期間に基づいて計算される利子です。
さて、新しい信用による新しい生産の融資について提案されているシステムにおいての話になりますが、小売業者はいかなる利子請求を受けることなく、銀行家から得られた融資でのこの生産に関して、彼に求めれる勘定のすべてを清算します。これは、全ての小売業者を間違いなく喜ばせることです。
上での例では、小売業者は銀行から無利子で4,400$の融資を受けます。公認された銀行は、中央銀行から同じく無利子でこの目的に必要とされる全額を引き出します。(商品が生産されるときに信用を発行し、商品が消費されたときにそれを取り消すという、現実に適合した社会的な金融システムについて話しているということを忘れないで下さい。)
しかし、生産者の場合は融資に対して利子を払わねばならないのに、小売業者は無利子融資を受けられるという、この違いは何故なのでしょうか?
2つ以上の理由があります。一つ目は、状況が違うという事です。生産者の場合、まだ実現されていない生産に対する融資ですが、小売業者の場合は、十分かつ本当に生産が終えられた生産に対する融資です。(生産者は利子料金を価格に含めるので、利子を払う義務によって損害を受けることがないという事、および生産の下流レベルへの融資がそれらを負担するということを付け加えさせて下さい。)
二つ目はですが、もし、小売業者への融資が利子を要求するならば、この利子は小売価格に、この融資でカバーされない要素を付け加えることになるでしょう。その場合、新しい生産は新しい信用によって完全に融資されたことにならないでしょう。というのは、ダグラスの提案は正確に現実を反映することを金融システムに要求するものだからです。
次に三つ目ですが、もし、利子が最終的な小売価格に課せられるならば、この利子は小売業者によって返済されたときに商業銀行の所有物になるでしょう。それ故、商品が消費されたとき、信用の一部が源に戻らないことになり、そのシステムは正確に現実を反映しないことになるでしょう。ダグラスは、”支払いの手段(現金信用)は消費のための商品の購入をもって消滅させる”と言っています。
我らが小売業者は、それ故4,400$の融資を受けます。そして、商品が売れると、いかなる追加料金も含まないで、その4,400$だけを返済すれば良いのです。
小売の時点で、買い手が小売業者に払うお金は”現金信用”すなわち消費者のお金であるのを止め、単なる金融信用になります。そして、小売業者から銀行家に渡って、それが発行されたときに使われたのと同じチャンネルを通って、その源へ向かう完全な回帰を開始します。
4,400$の額は、原材料から製品の運搬までの全ての生産および取扱い原価を含むが、小売業者の利益を含まないと言いましたよね。小売業者はそれに彼の利益を追加して、4,400$以上の価格で商品を売るのでしょうか?
いいえ。ここで提案したゴールに到達する方法では、小売業者の利益は買い手が払う価格に含めてはいけません。もし、彼の利益が小売価格に含まれたならば、小売値のその部分は彼に属し、現金信用(支払い手段)の償却として信用の源に戻らないことになってしまいます。これは、先に指摘した欠陥を生み出します。
たとえば、上記の例で、小売業者が10%の販売利益で商品を売ったならば、小売価格が4,840$まで上がります。そうなると、この新しい生産に融資するために発行された新しい信用を440$超過します。これは、全ての新しい生産が新しい信用によって融資されるというダグラスの提案を歪めます。銀行の貸付を4,840$にアップし、小売業者は4,400$だけ返済し、残りの400$を彼の利益とすることによって、銀行家が小売業者に貸し付ける額でカバーされる他の原価の中に小売業者の利益を含ませることも適切ではないでしょう。それは、まだ為していない仕事に対して小売業者に支払うことになるでしょう。
小売業者の利益は買い手の財布以外の源からでなければならず、彼が販売を完了してからでなければならないのです。
したがって、小売価格は小売業者の利益を含まないでしょう。これは、商売が繁盛し、販売利益をアップする小売業者が多くなり過ぎる傾向による価格上昇を防ぐでしょう。今や、社会信用金融システムの下にあり、純粋な金融上の問題は最早ないので、商売はいつも繁盛するでしょう。それを利用して過大な利益を出そうとすることは価格インフレーションを招くでしょう。むしろ、生産品が順調に売れるならば、価格は低下すべきです。
社会信用金融システムの下では、小売業者はもはや利益を得られないということ、あるいは小売業者の利益に最高限度が決められるということを、あなたは言っているのですか?
いいえ、全然違います。しかし、小売業者の利益は価格上昇に依存してはいけません。彼の 利益はむしろ売り上げの数量に依存するでしょう。商売に応じて前もって決められた適度な販売利益の下、小売業者は多品目を売るほど、より大きな利益を得る でしょう。非独占的で競合する経済において、消費者に最善のサービスを提供する小売業者が、1品当りの販売利益限度を守りながら、最大の利益を上げるでしょう。したがって、各営業品目毎の合意により規制されなければならないのは、利益の絶対量ではなくパーセントです。
社会は小売業者にこれを要求する権利があります。というのは、第一に、社会は、原価発生なしで、請求された費用を清算するために必要な融資を小売業者に与えるからです。第二に、提供された商品を前にして、全購買力が全価格に等しい状況をいつでも維持するからです。
在庫品化する商品の対価としての信用を小売業者に提供しているのは社会なので、社会がこれらの商品の所有者で、小売業者は所有者ではなく、いわば、商品を社会の代わりに売るための代理人です。その売るというサービスに対して小売業者に報酬を払うことは正当ですが、買い手から搾取するのを許してはいけません。
したがって、小売業者に利益を提供するのは社会で、返済しなければならない融資の形ではなく、現金信用、すなわち小売業者自身の所有となる支払い手段の形で提供します。
小売業者は、民間企業のままで、その管理に関して口出しされることはないですが、それでもやはり、ある意味で、商品を分配する役割の共同体代理人です。生産者も民間企業を維持しますが、全く同じように、ある意味で、本当の信用、すなわち国の生産能力を使用する役割の共同体代理人です。銀行家もまた銀行企業の所有者のままですが、ある意味で、国の本当の信用に基づく金融信用の発行と回収の流れを管理する役割の共同体代理人です。
社会信用は、個人資産の強力な擁護者です。しかし、すべての民間企業は、それでもやはり社会的な機能を持ちます。すなわち、ダグラスが述べた提案に忠実に沿った社会信用金融システムの単純な働きを通して、自動的にその機能を果たします。
しかし、小売業者は、いつどこで、社会から販売利益を得るのですか?
社会の源、すなわち中央銀行あるいは国の信用事務所からその信用を引き出す公認された銀行を通してです。
小売業者は取引先銀行に2つの口座を持ちます。当座貸越口座では、小売業者への貸付とその返済を銀行家が記録し続けます。もう一つは個人口座で、その口座において、小売業者は、他の人と同様に、貯金をし、私事のために小切手を発行し、現金を手にすることができます。
小売業者は商品を売ると、それで得た収入を銀行に持っていきますが、それは一番目の口座で信用返済として記録されます。それと同時に、銀行家は、小売業者のビジネスの種類に応じて予め合意されているパーセントを用いて、売上高に対して与えられている権利であるところの利益を、もう一方の口座すなわち小売業者の個人口座に記録します。"社会"の振込み人名義でなされるこの入金記録に対して、銀行家は国の信用すなわち中央銀行宛ての小切手を発行します。
たとえば、もし、販売利益が10%と決められていて、小売業者が売上金の100$を返済のために銀行に持ち込むとすると、銀行家は100$を当座貸越口座に入金し、それはその源に戻ることになります。そして、銀行家は小売業者の個人口座に10$を入金します。
顧客による支払い手数料がなかった全ての会計サービス(無利子融資、小売業者への利益、万民への定期的配当)に対して、銀行家は合意された基準に従って、中央銀行に10$を記録します。
そんなことだと、極端に複雑になりませんか?
全然、そんなことないですよ。それを説明するには多くを語る必要があります。しかし、全ての銀行支店で毎日我々が目の当たりにする銀行の操作と同じぐらい手際良くすることが可能な、決まりきった作業となるでしょう。
そしてこのシステムは、経済的事実を正確に反映し、生産と消費に効果的に融資する健全なものになるでしょう。このようにして、このシステムは満足した経済生活のために奉仕し、全体の経済がこうむっている購買力の不足を緩和しようという試みのために政府機関が今日必要としているのと比べて、官僚、情報調査局、金融操作を遥かに必要としないでしょう。(しばしば長く、いつも自尊心を傷つける審問のあとで政府が最終的に貧困状態であると認めたとき)貧困者のテーブルの上にパンを置こうと努力するために今日必要とされる重税は、このシステムでは不要になるでしょう。
これは我々が慣れ親しんでいる金融の方法と余りにも掛け離れていませんか?
はい、結果に着目すれば異なっています。しかし、ほとんど全ての点で現行のメカニズムと同様です。同じ銀行設備と銀行家。銀行口座における同じ借り方と貸し方の入力。小切手による同じ支払いシステム。生産者への融資に対する同じ手続き。貸し手と借り手の役目に関する同じ責任。無利子という点で異なるが、小売業者に対する同じ当座貸越支払いサービス。
これに加えて。各人に保障された適切な配分の下での全体の生産高と全体の購買力の均衡維持。その結果としての生産の果実のより良き分配。不当な価格上昇防止。お金による独裁の抑制。そして、それだけということではありません。
次に、例として上げた生産の4,400$の部分に関して、最終的な状態について考えてみて下さい。
どのような金融上の妨害物なしで生産を実行することが可能です。生産のあるレベルから次のレベルまで信用は必要性に着いてきます。全ての参加者は正当に支払われます。融資業務に対する利子を得ることができるので、銀行家もそこに含まれます。生産原価と同様に金融原価も含む全ての原価をカバーする完全で最終的な支払いは、生産品が最終的に完成されるや否や、その最終製品を手にする小売業者への無利子融資によって為されるでしょう。生産品は仕入原価に対していかなる料金も加えられることなく売られます。
金融組織は全く同じ"はめ歯"歯車のままですが、ベアリングやギアの中への砂の混入がなく油が適切に差され、― そしてこれはその操作によって世界を全く異なったものにします。
これらの信用放出のために、お金が蓄積してインフレーションに襲われないでしょうか?
これらのページに示した簡略化した概要における信用のルートを理解して下さい。信用は蓄積しません。富の移動と共に、商品が生産されている間は循環し、商品が消費されると、その源に戻ります。
これらの信用は社会に帰属する運転資本のようなもので、実現可能な範囲において全住民の需要に応えるために経済に奉仕します。需要が増加し、生産性がそれに応えられるならば、その運転資金も増加され得ます。
生産された商品の割り当てという社会的な特徴に関しては、社会信用経済が購買力アップのために万民への定期的配当を導入することによって、それを保障していますが、その配当についてこの研究の中で更にお話させて頂きます。

公共事業の財政管理

今、説明して頂いたことは、生産において、および消費財すなわち個人と家族が市場で購入する商品の分配において、ダグラスの金融に関する提案がどのように適用され得るかを示しているのですね。この方法は公共事業の生産と支払いにもまた適用できるのでしょうか?
はい、その通りです。このケースでは、消費を減価償却、すなわち規則的な価値の低下、これらの商品の加齢と呼ぶのがベストです。それらを消費するのは全体として一般人ですが、学校、水道設備、地方自治体の建物、道路、歩道、下水道システムのケースのように政府や地方の公的行政機関によって代表されます。これらの公共事業は一度為されたら疑いなく新しい生産です。それ故、この生産もまた、新しい信用によって融資されなければなりません。
消費財のケースでは、あなたは利子付きの銀行貸付けを除外することなしに、現行の金融システムを通して生産者自らに財務処理させ、そして最終製品が卸売業者から小売業者に渡ったときに、これらの原価を無利子の社会信用でカバーさせるのですね。それは公共事業でも同じことでしょうか? またこの新しい生産の金融原価は、いつ無利子の信用でカバーされるのでしょうか?
通常―そしてその方法は一般的に適用されるべきですが―政府や他の公的行政機関はこれらの事業の運営を請負業者に委託します。ほとんどの場合、力量と信頼性をチェックしたあと、最安値を提示した業者に委託します。さて、業者は消費財の生産者と同じように財務処理します。自由裁量権のある資金を既に持っている場合も、また元本と利子を後で返済する約束で、銀行から貸付けを受ける場合もありますでしょう。
これらの公共事業に融資するための新しい信用に関しては、公的行政機関がこれらの完成した事業の所有権を得たときに、請負業者に払うための無利子の信用を手に入れます。
そして、この場合において消費者である全住民が、それが起こったときにこの消費(この場合は、価値の低下すなわち原価償却)に対して支払います。
例を挙げて説明して下さいませんか。
この研究の最初で、国の本当の信用はその国の生産能力にあるというお話をしました。それは社会信用であり、その本当の信用に基づいている国の金融信用の全体もまた社会信用です。
それ故、話しましたように、全ての新しい金融信用は、社会のために営業している(中央銀行と称されえる)通貨事務所から来なければなりません。しかし、この信用は現存する銀行システムによって生産に向いて非常に良く流路化されていて、生産と消費においてその信用の使用が終わったら、源への返済のために同じ流路を使うことできます。
通貨事務所は、カナダの場合、国家規模ではカナダ銀行でも良いとも言いました。あるいは、連邦政府が関わらず、地方行政府が率先する場合には、地方規模での通貨地方事務所でも良いです。
説明を簡略化するために、社会信用はカナダ全体で確立されると想定しましょう。
公共事業計画が人々の代表者に―連邦司法権の及ぶ範囲ならば首都オタワに、州司法権の及ぶ範囲ならば関係する州議会に、そこの司法権で判断すれば良いならばその地方の公的行政機関に―提出されたとき、人々の代表者は計画が財政上可能かどうかを少しも悩む必要がなく、本当の必要性に応えるものか、実際的に実現可能かだけを疑えば良いのです。実際的に実現可能かは、すなわち、個人の必要性に答えるために要求される商品を供給し続けながら、その計画を実行できるだけの国の生産能力があるかどうかということです。換言すれば、この新しい公共の生産が、より緊急の生産を妨害しないかということです。
提出された計画を進めるか延期するかを決定する際に、いかなる金融上の検討も不要です。金融は、決定に関与しなく奉仕するだけで、その役割を果たすでしょう。したがって、財政均衡を気にする必要がなく、要望の強さや実現の容易さを考慮した順番付けに集中すれば良いのです。
例として、橋の建設計画について話されているとしましょう。この建設は決定されます。なぜならば、それは現実の必要に応えるものであり、その建設事業をしたからと言って、消費財が小売店に供給されるのを妨げる恐れがないからです。
社会信用金融システムにおいては、橋への融資は問題になりません。しかし、政府はそれでも請負見積書を要求するでしょう。というのは、融資が現実を正確に反映するならば、低価格はより少ない原材料、より少ないエネルギー、より短い工期を意味し、それ故、国の本当の富から差し引かれる分が少なくなることを意味するからです。
50万$の見積もりで契約を取ったのがジョン・スミスだとしましょう。この見積もり値は全費用と正当な利益をカバーして計画されたものです。彼がこの目的のために必要な資金をまだ持っていない場合、彼は原材料費と人件費を払うために利子を含めてどれだけ借りるべきかを予想していました。それは政府のではなく彼の事業です。橋が完成され、検査の結果、橋が契約仕様を満足したものに出来上がっていることが検査で確認されたならば、政府に引き渡され、50万$手に入れることができることが、彼に保証されている全てです。
契約金総額が50万$であるのに、スミス氏が20万$あるいは30万$を借りるように強いられたとしても、それは彼の問題です。彼は銀行家と協議して、契約を結ぶでしょう。政府はそれに関与することはありません。
民間の生産の場合と同様、もし、スミスが銀行から融資を受けるならば、どの貸付け機関でもするように、営業原価とリスクをカバーするために、貸付け銀行が彼に利子を要求することは全く正当です。
一度、橋が完成されたならば、それは勿論ジョン・スミスの資産ですが、彼にとっては特に使い道がありません。それ故、彼は急いでそれを政府に引き渡そうとします。政府は、受入れ検査合格をもって、彼に契約金50万$を支払います。
この契約金は全てを含んでいます。ジョン・スミスが見積書を作成する段階で含めていた利益だけではなく、彼が予期していた金融上の原価もです。
ああ! 金融原価に加えて、彼の負債に対する利子ですか? それなら、この新しい生産は新しい無利子のお金で支払われないですよね?
いいえ、支払われます。実際、消費財について議論したときの小売業者と同じように、政府はこの新しく完成された生産に対する支払いのために、全額を無利子の新しい金融信用によって手に入れます。 
政府はそのお金をどうやって、どこから手に入れるのですか?
政府は社会の金融信用の源である中央銀行から直接、あるいはこの目的のチャンネルとして関わっている商業銀行を経由してそのお金を手に入れます。そして後者の場合、商業銀行は信用の源、すなわち中央銀行から単なる小切手を通して要求次第にそれを手に入れます。
それならば、政府は直接あるいは商業銀行を通して中央銀行に50万ドルの借金がありますね?
いいえ、そんなことはないです。借金はないです。橋は国の全住民によって創造された富です。直接貢献した人々の働きの御蔭だけではなく、彼らの仕事を遂行することを可能にするためのもの、すなわち食料などの色んな必需品を供給した人々の働きの御蔭で、それは作られたのです。この橋の建設従事者は勿論これらのものの対価を支払いますが、これらのものは住民の生産です。ある商品は輸入品かも知れませんが、その場合、それは輸出した国内生産に対するリターンです。
住民は、パン屋自身が作ったパンに対してパン屋に支払いを要求しないのと同様、住民自身の生産に対して借金を負うことはありません。もし、カナダの橋がメキシコまたは中国によって建造されたならば、カナダのメキシコまたは中国に対する借金として記録されるかも知れません。健全な金融システムにおいては、現実と符合して、公共の借金すなわち国の負債は外国に対してのみ存在し得ます。それは、海外に供給する実物(労働、原材料など)よりも海外から手に入れる実物の方が多い場合です。
しかし、消費財の場合には、小売業者が最終商品を手に入れるために彼が得た全額を無利子で中央銀行に返済しますよね。彼が最終製品を売ったときに彼が得ていた信用を銀行に返済しなければならなかったですよね。
仰せの通りです。彼は商品を買った消費者からそのお金を手に入れました。彼は消費者に商品の消費に対して支払って貰っていました。そして、それは銀行が小売業者に供給した新しい無利子信用によって融資されたものでした。
そして、公共の生産の場合、橋の場合、その源、その銀行から得られた無利子信用は、その源に帰るのですよね? もし、そうならば、誰によってどのようにしてでしょうか?
その場合も、消費財の場合と全く同様です。先に説明したように、橋は住民自身の生産なので、住民は橋に対して支払う必要はありませんが、それが消費されたとき、その消費、すなわち価値の低下、減価償却に対して支払うでしょう。これは、ダグラスによって主唱されている原則と矛盾しません。
新しい生産は新しい信用によって融資されなければなりません。そして、消費に比例して、従って、創造されて融資された富が消えてゆくにつれて、信用は回収されなければなりません。
パン屋のパンの例えに戻ると、パン屋は彼自身が為したパンの生産に対して支払う必要はないですが、それを食べた人がその消費に対して支払います。橋の場合は、それを“消費”するのが公衆です。それ故、生産者としてではなく消費者として、その対価を払うのは、公衆、住民です。
住民はその橋の対価をどのように支払うのでしょうか?
その橋の寿命が少なくとも50年と予想されるとしましょう。1年当たりに平均1万$の減価償却が差し引かれます。そのようにして、公衆は中央銀行に1年当たり1万$の返済を要求されるでしょう。その結果、金融は経済的な実態を現実に反映し得ます。
50年経ったら、その橋が完全に“消費”されて(使い潰されて)いようといまいと、公衆はそれ以上支払いを続ける必要がありません。 人はあるものを二度消費できないので、住民がそれの対価を二度払う必要はありません―パンの消費者が一塊のパンの対価を小売業者に二度払う必要がないのと同じです。現行の金融システムは、給水設備、学校、橋、道路に対して二度の対価を住民に払わせる不合理で略奪的な金融システムです。
橋の“消費”の1年当りの対価を公衆から政府が回収するのは、税金を通してですか?
政府は、色々考えられる強制課税法でそれを回収します。厳しく扱い難く費用が掛かり、しばしば不公平な現行の税徴収法とは必ずしも同じである必要はありません。年間1万$を消費額に上乗せするという価格調整メカニズムによって、徴収することも可能です。橋の場合と同様に、誰もがする消費の問題であるとき、それによって誰に対する対価も影響されます。
では、偶然または破壊工作によって、橋が10年で落ちたら、どうなのでしょうか?
突然に消えた価値の分だけ、その期間における国の全消費量が上がることになります。そして、すべての価格を調整する価格調整メカニズムによって処理されるでしょう。社会信用システムの下では、仕入原価から初めて、消費の生産に対する比率に従って、価格が調節されるので、全消費量が全生産高に対する比率において増加すればするほど、代償性の価格割引率が低下するということが明らかです。
その時、消費者は買う全ての物に対して、より多額の対価を払い、そのより多額のお金が源に戻るでしょう。これは、金融は現実を正確に反映したものでなければならないという前に述べた原理と整合しています。

金融信用の循環

もし、私が正確に理解しているとしたら、社会信用金融システムの下で、銀行システムは今日と同様、消費財生産者や公共事業請負業者に対して利子付きでお金を貸し付けるという業務を続けるのですね?
メカニズムは今日と厳密に同じですが、精神において異なります。銀行家が貸し付けるのは、社会の信用“社会信用”です。それ故、彼は最早彼自身が創造した信用を貸し付けるのではなく、社会の信用の管理人である中央銀行から手に入れた信用を貸し付けます。社会に属するものに基づいた金融信用の創造者としてではなく、公認された銀行はこの信用のチャンネルとして奉仕するだけです。
いずれの場合においても、借り手は同じ条件で同じ融資を受けるので、これは実際には取るに足らなく、ほとんど違いがなく、全然重要でないように見えるかも知れません。しかし、そうではなく、非常に大きな違いがあるのです。
1934年、ダグラスがアルバータの州議会集会で指摘したように、もし、信用が生まれつき金融機関の財産であるならば、これらの金融機関は、この信用によって生産・融資された全ての富に対しての担保権を無から手に入れることになります。それに対して、もし、この信用が全てその起源において社会の財産であるならば、無からこの担保権を手に入れるのは全住民です。そして、この融資を与えるのは全体としての住民であり、配当に対する、およびこの“社会の”信用によって生産・融資された富の分け前に対する権利は全ての市民に授けられます。
この金融信用は、今日と同様、一時的なお金のままで、融資によって創造され、返済によって消滅する(キャンセルされる)のでしょうか?
いいえ。融資は信用を創造しません。この信用は既にあり、中央銀行によって保有されていて、使われるのを待っています。同じように、融資の返済は金融信用をキャンセルしません。それがやって来た中央銀行に向かっての回帰チャンネルに放り込まれます。
現在の公認銀行が他の融資をするためにお金をいつでも創造できるので、これは大きな違いにならないように思われるかも知れないですね。しかし、提案している方法はもっと現実と符合しています。金融上の信用は、唯一その価値を与える国の生産能力を数値に反映表現したものであらねばなりません。そして、借り手がそれを使ったあと借りた金融信用を返済するとき、国の生産能力が消えるわけではありません。じゃあ、何故、生産能力を現す金融信用が一時的にさえキャンセルされるってことがあるのでしょうか?
中央銀行によって発行され、商業銀行を通して循環する金融信用は、今日において返済期限が来たときにされるように、予め決められたときにその源へ戻らなければならないのでしょうか?
いいえ。生産に融資された信用は、民間であろうと公共の生産であろうと、生産の速度でその源から出て行き、民間であろうと公共の消費であろうと、消費あるいは原価償却の速度でのみ源に戻ります。
特に公共商品において今日なされているように、消費が起こるよりも速く返済を要求されることは事実に符合していません。消費が現実に起こっているよりも速い速度で、消費・減価償却が支払われるとき、現実に対する暴力が行われています。給水設備、橋、校舎の価格の2倍が、融資返済のために税金を通して循環から取り除かれる、すなわち、公共品の価格の2倍がその完全な原価償却の前においてさえ循環から取り除かれるのは、現実と矛盾しています。それが1回“消費される”前に2倍ですよ!(そして、一体全体、我々はどうやったら2回も消費できるのでしょうか?)
それはお金の活動と現実の富の活動の間に、今日において関係がないということを意味しますか?
これが現行システムの最大の欠陥の一つであることは明確で、これには幾つかの理由が挙げられます。消費が起こるよりも早く生産に要したお金の返済を要求されるためだけではなく、提供される商品の価格と消費者の手の中の支払い手段との間に平等な比率がないためでもあります。
商品が製造されたときに価格が決まり、この価格が最終商品に付けられます。そして市場で売られます。一方、生産過程で分配されたお金は1,000回旅に出て、時間調整なしに1,000回使われたあと、最終製品とその最終価格が出現します。
後の機械の入れ換えのために保存されることで、流通しないお金も、小売価格に含まれています。また、個々人の貯蓄もあり、それは価格に含まれているにも関わらず、現実の購買力の一部になりません。などなどです。
そのため、もし、(社会信用が提唱するような)価格調節がないならば、購買力と価格との間の必然的なギャップは残り、生産はそのゴールに達しません。
別のポイントに着目すると、存在する購買力の総計は多くの消費者を無視します。それは主に報酬として生産者に分配されるので、生産において雇われていた人々はほとんど、または全く購買力を持ちません。
これら全ての理由のため、生産だけではなく消費についての融資に気を配る必要がある。進歩とともに生産は雇用者を益々必要としなくなるので、この必要性は増加します。
消費に欠けているものを融資するための支払い手段はどの源から取られねばなりませんか?
生産融資に対するのと同じ源からです。中央銀行からですが、この場合では、商業銀行のチャンネルを通して為されても良いです。
ということは、それもまた商業銀行が消費者に利子付きで貸し付けるお金なのでしょうか?
とんでもないです。生産に融資するお金と生産を購入するお金はいずれも同じ源から来ますが、両者を区別しなければなりません。
ダグラスは“信用”および“現金信用”について話すとき、この区別をします。“信用”は生産に先立つお金であり、貸付け銀行に返済されねばなりません。 “現金信用”は“消費者のお金”と呼ぶものであり、消費者はそれを望むように使います。これらの2種類のお金の違いは、それらの機能においてであり、その性質においてではありません。両方とも同じ源から発行される本当の金融信用です。さらに、生産のお金は、生産者によって、賃金、給料、企業配当という形で支払われたとき、消費者のお金に変わります。
今日、ほとんど全ての購買力を分配しているのは生産活動であるため、事実上全ての消費者のお金は最初は生産のお金なのです。
社会信用システムの下では、追加的な消費者のお金が企業を通してではなく直接に源から2通りの方法でやって来ます。
A)価格調節による、買い手に認められた全体的な割引に対する小売業者への代償として
B)(“ミカエル”の次の版において)話す予定の万民への社会配当として
この購買力の追加によって、売られている商品の価格に含まれているが、消費者の手の中にまだ、あるいはもうない分のお金が消費者に補填されます。
数箇所の金融機関に借金をしなければならないことと比べて遥かに満足な状況になります。現行システムの下で益々広がっているこの借金が、住民をして豊富な生産を手に入れるのを許す奇妙な方法です。価格と購買力の均衡を実現できないシステムによって、少数の金融家が利益を得て、住民が苦しんでいます。

社会信用システムにおける金融信用の循環

新しい商品の生産のために、お金が国の信用事務所によって生産者(企業)に融資され、それが価格を伴う新しい商品の流れを生み出します(左の矢印)。手に入る商品の全てとサービスの対価を支払うのに労賃だけでは不足するので、国の信用事務所が全ての市民に毎月配当を発行することによって、購買力の流れと全価格の流れの間のギャップを埋めます。消費者と商品は市場(小売店)でめぐり合い、生産が購入(消費)されたとき、この商品を生産するために最初に融資されたお金はその源、すなわち国の信用事務所に戻ります。どの瞬間においても、住民の手の中にある全購買力と市場で売られている消耗品の全価格はいつも釣り合っています。

万民への社会配当

万民への社会配当ですか? しかし、配当は生産に投資された資本を前提とするのでは!
金融信用はその起源において社会の全ての人々の財産であることを既に述べましたが、もっと繰り返して言うべきでした。金融信用は、本当の信用すなわち国の生産能力に基づいたものなので、そうなのです。この生産能力は確かに部分的に労働、すなわち生産に従事する人々の力量から成ります。しかし、大部分は常にそれの占める割合が増加していますが、万民の財産である他の要素から成っています。
先ず第一に、誰の生産にも当たらない天然資源があります。それは神の贈り物であり、万民のものであるべき無料の贈り物です。また、考案され改良され、世代から世代へ受け継がれた数々の発明もあります。今日、それが生産に寄与する最大の因子です。それは多くの世代による成果なので、この進歩を独占所有できるような人物は誰もいません。
我々現在の人々がこの進歩を利用させて貰っていることは疑う余地がありません。そして、人々は報奨金を貰う資格があります。人々はそれを報酬、すなわち労賃や月給などの形で手に入れます。しかし、その産業に従事しない人であっても、彼が彼の資本をその産業に投資していることになるので、その成果の分け前を得る権利があります。
さて、現代の生産における最大の本当の資本は、発見および進歩的な発明の総計であり、その御蔭でより少ない労働によってより多くの商品が生産されます。そして全ての人間は誰であろうとも、常に増大するこの莫大な資本の共同法定相続人ですので、万民は生産の成果の分け前を得る権利があります。
従業員は、この配当および彼の労賃または月給を受け取る権利があります。非従業員は労賃や月給がありませんけれども、この配当を受け取れます。その配当は、社会資本からの収入なので、我々は社会配当と呼んでいます。
これは新しいことですが、論理的に思われます。
はい、全くその通りです。そしてそれは、地球の商品に対する分け前を得るという基本的な権利をすべての人間に保障するための最も直接的で具体的な方法です。全ての人は、生産の従事者としてではなく、単に人間としてこの権利を所有します。
「全ての人は、理性を贈られた存在として、地球の物質的財産を利用する基本的権利を生まれながら持っています。」―ピウス12世(1941年6月1日のラジオ放送)
 そして、それは没収できない権利です。
「そのような個人の権利は、物質的財産に対する他の避けられず認められた権利によってさえ、決して抑圧され得ない。」。」―ピウス12世(同上)
他の権利、すなわち財産権、賃金労働者の権利、株主の権利などは、物質的財産を使う個々人の権利を決して抑圧しません。
教皇は当然のことを言い足しています。
「この権利を実際に実現するためにより詳細に規則化する問題は、人間の意志および人々の法制定に委ねられています。」(同上)
すなわち、地球の財産に対する分け前を得る権利をどのように達成すべきかは、法律および規則を通して、人々自身の問題です。
万民への配当はこれを達成します。現行の社会保障制度を含めて、これまで提案されたどのようなシステムも、我々の提案ほど効果的でありませんでした。
少なくとも最低限の生活必需品に対する個々人の権利を認めることは良いことで、だれもそれを否定できないでしょう。しかし、お金も生産手段も無い状況で―これらの手段は益々少数の人々に集中しています―、現在の世界でこの権利を行使しようと試みて下さい。
我々の現代世界では、お金を提示することなしに、物質的な財産に対する権利を行使することは不可能です。
社会配当、万民への定期的配当、生まれながらの権利として個々人に認められた基本的収入、少なくとも最低限の生活必需品をカバーするのに十分な収入は、社会信用経済における最も社会的な要求です。また、既に述べたように、それはまた、全ての人間は過去の世代の共同法定相続人であるという否定できない事実を認めることでもあります。
しかし、これは個々人に、いわれなく何かを与えようとしているんじゃないですか?
だったら、資本家のところへ行って、彼が投資した資本に対する配当を受け取ったとき、いわれもなく何かを手にしていると言ってやって下さいな! そうではなく、もし配当を辞退させられたら、彼は不当だと主張するでしょう。
先に説明したように、共同資本家で、現実の資本―単に表記されただけの価値を持つドルや他の通貨単位よりも本質的な資本―の共同法定相続人である社会の各構成員についても、全く同じことです。
そして、住民の半数以上が交換のための手段を持たないような冷酷な交換経済は、人間的な経済ではありえない。それは、子供、家庭に居る主婦や娘、身体障害者、病人、失業者、定年退職した老人、機械によって取り代わられた強壮な男などの場合です。今日の冷酷な交換経済、“お金がなかったら何も手に入らない ”という経済は、野蛮な経済に過ぎません。そのような経済は、個人を、個人のために制定されたのではなく、お金のために制定された法令の生贄にしています。
個人への優先権に従って樹立された社会経済システムにおける商品の分配の取扱いに関して、フランス人のトマス・アクィナス派哲学者ジャック・マリタンは同様の結論に達しています。

「お金がなかったら何も手に入らないというのは、<資本主義>経済および報酬目当ての文明において自明の理、個人主義的所有概念に繋がる自明の理である。(社会的な機能とともに)先に概説した所有概念が効力を持つシステムにおいて、この自明の理は最早成り立たないと我々は考える。それに反して、共産主義の法律の下では、少なくともそして取り分け、人間にとって基本的で物質的および精神的な必需品に関わるものについては、お金がなくとも出来るだけ多くのものを手に入れる権利が存在する。・・・ 「人間が基本的な必要性においてそのように奉仕されることは、結局のところ、その経済が野蛮だとレッテルを貼られないに値する第一の条件である。そのような経済の原則は、すべての人間は生まれるや否や過去の世代の相続人であるという状態をある意味で享受することを許されるというような意味で、世襲概念についての深遠な意味と必然的に人間的なルーツをより良く理解させてくれるであろう。」
(ヒューマニズム インテグラル、pp. 205-206)

しかし、労働者の給料をアップすることで同じ結果を得ることが出来ませんか?
いいえ、それでは全く駄目です。というのは、給料のアップは給料を稼ぐ人だけを潤し、被雇用者には何の恩恵もないからです。また、全ての給料アップは価格に影響するので、価格と購買力の間のギャップ調整を損ないます。
万民への社会配当のような、雇用と無関係な個人の収入は生産性が向上するとともに、すなわちより少ない労働者でより多い生産が得られるようになるとともに益々避けられないものです。完全自動化によって、従業員がいなくなったとき、収入を得るための条件としての雇用を擁護する人々は、どうやって生産を分配できるのでしょうか?この段階に達してはおらずとも、より少ない雇用によってより沢山の商品を生産できるように既になっています。購買力の分配はこの状況を反映するものでなければなりません。
総購買力の向上のための給料アップは、公平さという観点において解決とはなりません。給料が労働の報酬であるならば、仕事が減ったら給料は逆に減少します。これらの給料アップは万民に与えられるべき配当の窃盗です。
実験しないで受け入れられるような思い付きについて再考する努力をしたことのない人々を甚だ当惑させる、万民への配当というこの問題について書くべきことが沢山あります。
そして、不労所得を不道徳だと頑固に言い張る人々の反対に何の価値があるでしょうか? 父親から相続の創造に寄与していない子供への相続も、不道徳だと彼らは言うのでしょうか? 自分で稼いだわけではない百万長者へ払われる配当に対して彼らは不道徳だと言うのでしょうか? 税金によって彼らの給料を払っている人々のために何もしない地方公務員の高給に対して、彼らは何か言うでしょうか? そして、配当に反対する人々に対してこの種の質問をあと何通り投げかけられるでしょうか?
健全で効果的だとあなたが言う、社会信用が主唱する金融システムにおいて、購買力は2通りの方法で消費者に届くということですね。一つは、生産における雇用と結び付いた労賃、給料、および他の形の報酬で、もう一つは雇用とは無関係な配当を通してということですね。
はい。その上、これは今日実例があります。生産に雇用されている人々は支払われますが、資本家は全く生産に従事していなくとも彼らの資本に対する配当を受け取っています。もし、その資本家が雇用されているならば、2通りの方法で、すなわち彼の仕事に起因するお金および彼のドル資本のみに起因するお金として、収入を得ています。
社会信用金融システムにおいても、以下の違いはありますが、同じことです。全ての市民は単に社会の構成員として最大の生産因子の共同所有者なので、万民はこの現実の共有資本に起因する生産に対する定期的な配当を受けます。
しかし、雇用者への報酬と万民への配当の総合計が商品の総計と一致するならば、報酬と配当への配分はどうなるべきなのでしょうか?
それは資本家への配分と労働者への配分の間の今日の摩擦を引き起こしているのと同じ問題です。資本家は、「我々のお金がなかったら、仕事もなくそれ故生産もできなかったろう」と言います。労働者は、「仕事をしなかったら商品は作れなかったろう」と言います。資本と労働の両者が現実に生産の因子であり、一般には、分配されるお金の最大の配分は、圧倒的に多数者である労働者に為されねばならないと認められています。
社会信用金融システムの下では、圧倒的に多数なのは資本家(社会の全構成員)です。カナダにおいて、全人口3千万人のうち約1千2百万人が給料を稼いでいます。それ故、1千2百万人の労働者と3千万人の資本家がいます。
また、生産は、1千2百万人の雇用者に起因する労働よりも、3千万人の人々に属している現実の資本に益々依存しています。進歩すなわち共有資本から生じる生産の比率と生産に参画する人々の努力から生じる生産の比率に基づいて正確に購買力を計画するならば、社会配当の総計は労賃や給料の総計よりも明らかに多くなければならないでしょう。
しかし、それだと働く人よりも働かない人の方が収入が多いことになりますよ。そんなことをしたら怠ける人ばかりになりますよ。
根拠のない結論に飛びつかないで下さい。
第一に、生産のために働かない人の方が働く人よりも沢山のお金を得るというのは誤解です。両者は同じ配当を手にしますが、従業員は配当に加えて労賃や給料を手に入れます。
したがって、両者の間には今までと同様に同じ差があります。しかし、何もないのと労賃や給料との間の差ではなく、一方は配当だけで、他方は配当+労賃や給料という差になります。それ故、労賃や給料を得たいという気持ちになるのは、今のままです。そして、それに加えて、労賃を稼ぐ人の社会的感覚が進歩するにつれて、万民への配当が重要だという気持ちが増大するでしょう。
現実の共有資本が現代の生産因子として占める支配的な部分に基づいた配当は、それ、気前の良い額になるでしょう。
食事制限状態から好きなだけ食べる状態へ移る際には、何らかの対策が必要なことは分かりますね。回復特別食を経ることなく、不健康な食事から健康的な食事に、直接移行しません。
それ故、定期的な万民への配当の額は徐々に増やしてゆくのが賢い方法でしょう。
しかしながら、その原理は最初から適用されねばなりません。制限経済および従業者に限定された収入という精神ではなく、豊富な経済および万民への配当という精神を直ちに持たねばなりません。
この問題についてダグラスは何と言っていますか?
ダグラスは、3つの原則の三番目、それを適用することによってシステムは事実と符合するようになると彼が云う三番目について、次のように説明しています。
消費者のお金(現金信用)の個々人への分配は、進歩とともに雇用と益々無関係になっていきます。すなわち、マン・アワー(人・時間)当たりの生産能力が増加するにつれて、配当が労賃や給料に連続的に置き換わっていきます。
それ故、配当による購買力の割合が増えて、雇用によるその割合が減少するということです。
スコットランドでの彼の原理を適用するために提案された計画概要の主要な構想において、お金に評価した国の資産合計の1%を配当として男女および子供に割り当てることで始めることをダグラスは考えていました。彼は、次のように言い足しています。
このようにして得られる配当は、一家族当たり年間で300ポンドを超えると予想され得る。
ダグラスはこれを1933年に書いているが、そのときの為替平価でドル換算すると、家族当たり年間1,450$、月間121.5$となり、(平均5人家族だと仮定すると)スコットランドの男女および子供に一人当たり月間25$の配当ということになります。
この額が1933年において妥当だと判断され得るならば、今日に当てはめると少なくとも月間800$になるべきと考えて間違いないでしょう。生活費がその後10倍以上高くなっていること、および生産能力が増大し、一人当たりに分配できる商品が増えていることを考えると、そういうことになります。
これがダグラスが初めの配当として考えていたもので、その配当は、マン・アワー当たりの生産能力が増加するにつれて後で増加されるべきものです。
カナダの現在の生産能力があれば、どうあろうとも、国の各市民が通常の必要性を満足させるものを手に入れられるように、定期的な社会配当を直ちに認めるべきです。これは我々の社会保障システムを単純化し、官僚組織を不要にするとともに、より効果的な社会保障を実現するでしょう。社会的感覚および個人的義務の発達する風潮が生まれます。
“マン・アワー当たりの生産能力の増加”とは、どういう意味ですか?
仮想的な例を挙げて、理解して頂きましょう。
1年間に10万人の労働者が10万単位の生産品を製造し、その翌年に2倍の20万人の労働者が2倍の20万単位の生産品を製造したならば、マン・アワー当たりの生産能力は両者で正確に同じです。
しかし、翌年において、最初の年と同じ労働者(10万人)で2倍の20万単位の生産品を製造したならば、マン・アワー当たりの生産能力は2倍になったということです。
あるいは、翌年において、半分の労働者(5万人)で最初の年と同じ(10万単位の)生産品を製造したとしても、マン・アワー当たりの生産能力は2倍になります。
実際、全ての工業化された国において、マン・アワー当たりの生産能力は毎年増加しています。全生産高を減少させることなく、労働者の人数や労働時間数を毎年減らすことができます。あるいは、労働者の人数と労働時間数を同じとすることで、より豊富な生産品を得ることができます。
この生産能力増加は、労働者がより努力したためではなく、進歩した設備・技術の導入によるものであることは明らかです。全面的に進歩によるものであり、さっき説明したように、誰もがその進歩の共同法定相続人にして共同所有者です。それ故、月当たりの配当が徐々に同額されるという恩恵を受けるべきなのは、これらの所有者・法定相続人、すなわち全市民であるというのが、唯一の公正な考え方です。
しかし、それだと労働者の現行の労賃が下がることになりませんか?
必ずしもそうなるとは限りません(社会信用金融システムの登場によって、幾つかの理由でそうなることは妥当ですけれど)。 しかし、労賃が下がらずそのままであっても、国の生産能力の増大に伴う月当たり配当の増加によって、全購買力に全労賃の占める割合は減少します。
経済の現実に符合し、購買力の分配を考慮できるシステムがともかく必要不可欠です。
就業時間が週40時間で労働者が100人の工場を例としましょう。週当たり4,000マン・アワーになりますね。この工場のアウトプットが8,000生産単位とすると、マン・アワー当たり2生産単位のアウトプットになります。
ある自動化手段を有するより進歩した機械設備を導入することで、この工場は労働者数が70人で良くなり、就業時間も週30時間で済むようになり、しかもそれでも、週当たり10,500生産単位のアウトプットを得たとしましょう。
この場合、(4,000マン・アワーではなく)70×30=2,100マン・アワーになりますね。そして、この2,100マン・アワーでの生産で 10,500生産単位が得られた訳ですから、(それまでの2生産単位のアウトプットでななく)、マン・アワー当たり5生産単位のアウトプットになります。
マン・アワー当たり2単位から5単位への生産性向上は決して労働力の増加のためではなく、それどころか週当たりの労働時間は短縮されています。その生産性向上は、数世代の成果であり、かつ共同社会の資本である改良された機器設備、すなわち進歩のためであり、その進歩は益々顕著となり、生産性は益々向上することになります。
この生産性向上の成果の恩恵を受けるべきなのは、もし、共同社会の所有者、すなわち万民でないとしたら、一体誰なのでしょうか? この社会資本には、社会配当が結び付けられるべきです。
5生産単位のうちの3生産単位は、工場の近代化へ進歩を適用したことによります。生産者(雇用主と従業員)に生産の2/5に相当する報酬を残すのが公平であり得るならば、全共同体(生産者と非従業員)は生産の3/5に相当する配当を分かち合うべきです。
これは、ダグラスの提案を理解して貰うための仮想的な事例でしかありません。進歩とともにマン・アワー当たりのアウトプットが増加するので、配当として分配される購買力の割合は増大し、労賃や給料としてのその割合は減少するに違いありません。
もし、このダグラスの提案が40年前に採用されていたならば、経済の発展状況は我々が見てきたものとは全く異なったことでしょう。労働者の数は徐々に減っていきますが、その労働者への労賃や給料が増加する代わりに、労働者およびその妻子も含めた万民への配当がどんどん増えていくのを目撃したでしょう。その配当は、労働者およびその妻子にも分配されるのです。
インフレーションの発生回数も少なかったでしょうし、発生したとしても軽微だったでしょう。万民に購買力が与えられ、生産は万民の必要性により良く応えたでしょう。
他の点においても同様で、純粋に経済的な障害というものは取り除かれ、実現され分配される生産の総量はもっと沢山になったでしょう。そして、生産量は、現実の生産能力限度または消費者の必要量限度によってのみ制限されたでしょう。
労賃を稼ぐ人々は何を失くす訳でもありません。彼らは、労賃よりも配当金でより多くの収入を得る人々、すなわち資本家のようになったでしょう。
この毎月の社会配当は、社会を構成する各人全てにどのように分配されるのでしょうか?
より実際的な方法でです。最小限の官僚制度が必要で、現行の支払い手段移転メカニズムへの最小限の追加を必要とする方法です。
たとえば、老齢生活保障年金および(盲人、身障者などての)様々な手当ては、各々の資格団体へ毎月送られる小切手で支払われています。毎月の万民への配当の場合も、同様のことをすることができます。
各市民が彼の最寄の銀行に登録しておけば、商業銀行のチャンネルをここでも使うことができます。毎月、商業銀行は毎月の配当として宣言された金額を各市民の口座に入金するだけです。この事例においては、生産原価を無利子の融資によってカバーすることについて話した事例におけると同様、商業銀行は中央銀行から、要求に応じて手数料無しで、毎月の配当に対する必要な額を手に入れ、その管轄内の口座に入金します。そして、これらのサービスに対する料金は、商業銀行が適切な契約条項に照らして中央銀行から受け取ります。
毎月の配当受領のために郵便局の口座を利用することも非常に良いでしょう。
それは、ダグラスがスコットランドでの案として主唱した方法でもあります。すなわち、彼は「配当は、郵便局を通してスコットランド政府の為替手形として毎月支払われる。」と言っています。
大きな会計事務所にどんどん導入されている電子計算機および他の最先端の技術によって、各人への毎月の配当を分配するために速く確実で正確で効果的でもある方法を選択することは困難でないでしょう。資本家仲間の協力が納税者仲間のそれよりも遥かに熱心なように、尚更容易なことでしょう。
この消費者への配当を通してのお金の分配は、誰もが恐れるインフレーションを招かないのでしょうか?
消費者の財布の中のお金は増加することになりますが、それによってその利益を享受する人が不満を言うとは思いません。あなたに損害を与えるのは、あなたの収入が増えたときではないです。誰か収入が増えて文句を言っている人について聞いたことがありますか? 誰もが不満を述べるのは、物価が騰がったときです。
しかし、この配当を通してのお金の分配によって、実際に物価が騰がるのではないですか?
仕入原価は1セントたりとも影響されないでしょう。社会配当は生産者によって支払われないので、労賃、給料、貪欲な資本家への配当と違って、産業界に影響しません。それ故、社会配当は仕入原価に影響しません。それは、人々の福利である社会信用の源から直接支払われます。
必要としないところに制限を設け、少しは必要とするところに何も寄与しない現行のシステムにおいては、消費者のお金の増加は小売価格の不当な上昇を引き起こすかも知れません。しかし、社会信用システムにおいては、仕入原価は生産の間の会計上の費用と符合したままで、小売価格は、ダグラスの述べた3原則の最初のものと整合して樹立された調節・代償価格という方法でチェックされます。
長年、国の生産が増加しないようなときにも、配当は存在するのですか?
全く間違いなく存在します。生産高がどうあろうとも、その生産の一部は現実の共同体の資本の御蔭であることに変わりありません。配当が無くなるのは生産高が零になった場合だけで、そのときには生産がされないのだから、労賃や給料も無くなります。
生産高が低いときには、全購買力が現実と符合して小さくなければならないことは明らかです。そのような場合、三者―配当、労賃、給料―は、生産高が大きいときと比べて、より少なくなるのは当然です。人は存在するものしか分配できませんから。
しかし、何人かの社会信用論者は、書き物や演説において、配当は年間生産高の増分に応じたものであるという、誤った見解を述べています。この増分は、既に述べたように配当の増分を正当化します。しかし、生産高がどうであろうとも、繰り返し言いますが、生産の一部は社会資本使用に頼っているのです。それ故、生産の一部が万民への社会配当をいつも正当化しています。
配当は、購買力を物価レベルに一致させるために、購買力において欠けている分の分配であると云う人々もいます。これも正しくありません。配当は物価と購買力の間のギャップを埋めるのに確かに寄与しますが、その根拠がそこにあるのではありません。そしてたとえ物価と購買力の間にギャップが無かったとしても、各市民は配当を得る資格があります。その理由は前節で既にお話しましたね。
万民への配当を確約することは、健全なる金融システムの役割の一つです(ダグラスの第三の原則)。価格総計と全購買力の間の均衡を達成維持することは別の役割です(ダグラスの第一の原則)。社会信用のテクニックは、国の現実の信用と関連付けて社会的な金融信用に適用される単純な会計操作によって、誰が誰を害することなく、両者を達成します。

社会信用と民間企業

民間企業を完全に保有する生産者であってもやはりある意味で、現実の信用、国の生産能力を利用する共同体の代理人です。
銀行の所有権を有する銀行家であってもやはりある意味で、国の現実の信用に基づいた金融信用を上流側または下流側にチャンネルする共同体の代理人です。
完全に彼の個人ビジネスであり障害なく経営している小売業者であってもやはりある意味で、商品を分配する共同体の代理人です。
社会信用は所有権と民間企業の断固たる擁護者です。しかし、どの民間企業も達成すべき社会的役割を担っていますが、ダグラスが述べた提案と符合する金融システムによって自動的に成就されます。

社会信用の見地での税金

社会信用金融システムの下でも税金はまだあるんですか?
それは現行金融システムのスタイルでの質問ですね。それに答え、理解して貰うためには、社会信用のスタイルで、すなわち直接にお金の面ではなく、先ず第一に現実の面で、道理を説く必要があります。答えが現実の立場で与えられたならば、社会信用経済の他のどの面におけると同様、金融をそれに適応すれば良いのです。
現行の課税制度は経済の現実と矛盾していて、現行の金融システムと同様、汚れています。金融帝国および国家の手の中にあり、中央主権に奉仕していて、詐欺的です。ダグラスはこの問題について、1926年2月にウェストミンスターでの講義で公言していて、1934年版の“民主主義への警告”の61ページに再録されています。
「現代の徴税は合法的な略奪であり、合法的であってもやはり略奪に違いありません。なぜならば、それは国家の民主政体を通じて達成されるが、その民主政体は略奪物のうちの僅かな分け前を与えられて従犯者になっているからです。しかし、略奪がそれの主要な目的ではないと私は思っています。政策は単なる利益以上のものであり、それの目標だと考えています。全ての努力がロンドン経済学政治学専門学校から輩出したタイプの経済学者によって為されていて、彼らは盗みの過程を加速することである種の黄金時代を実現できるということを労働党に教え込んでいるということが最も重大であると考えています。」
そして、1937年版の“社会信用”の105ページに、ダグラスは次のように書いています。
「今日の金融および徴税は金融権力を集中するための巧妙なシステムに過ぎません。」
それ故、ダグラスは現行の徴税システムを強く非難しています。
けれども、“民主主義への警告”の175ページに、ダグラスは次のように書いています。
「現行の形での徴税は、その表面上の目的を達成するための不必要で非効率で腹立たしい方法であるということが良く理解されています。しかし、それはそうであっても、その中に勿論意図があり、民間企業と公共サービスが共存する状況において、徴税は避けられません。公共サービスは商品と人的サービスを供給する必要があり、これらが民間企業から公共サービスに移転されるメカニズムにおいて、本質的に徴税の形を採らざるを得ません。」
えっ〜! このダグラスの著書からの引用は先の引用と矛盾していませんか?
ダグラスが支持している論拠と同様に、ダグラスが使っている用語にも留意すれば、全然そうではないですよ。
ダグラスが“合法的略奪”と呼ぶのは現行の徴税方法であり、それは金融システムの要求および決着を満足させるために個々人からお金を取り上げるものです。一方、彼が避けられないと考える“徴税の形”は、個々人からお金を巻き上げるメカニズムではなく、共同体の公的必要性に応えるために必要な物や仕事を民間セクターから公的セクターに移動させるためのメカニズムです。これは最早金融神話の立場での話ではなく、現実を見る立場での話しです。
その点について、少し分かり易く教えて頂けませんか?
政府がたとえば道路、あるいは1本の道路を建設させるとき、それはミルク、バター、野菜、衣類、靴、および他の消費財の生産に対して少しでも支障を与え、生産高を減少させるでしょうか? それどころか、道路建設従事者に分配される労賃がそれらの消費財の売り上げを刺激するので、生産は活性化されませんか?
さて、現行のシステムにおいては、政府は道路建設従事者に支払いをするために、納税者に課税します。道路の建設のために、消費財購入に充てられたであろうお金を取り去ります。
このシステムは現実と符合していません。もし、その国が民間と公共の商品を同時に生産できるのならば、金融システムは両者に支払われるべきお金を供給しなければなりません。国の生産性が両者を賄うことができるのに、公共部門の生活水準のために民間部門の生活水準を落とすというのは道理に合いません。
社会信用金融システムの下では、民間の生産であろうと公共の生産であろうとも、物理的に可能で住民が要望するものならば、自動的にお金が融資されます。例として橋の建設を取り上げて公共部門について上で説明したことが、このことです。
ダグラスが徴税を“合法的略奪”と呼ぶのは、公共事業への現行の融資の仕方のためですか?
それが窃盗罪であることは明々白々で、狂気だけが言い訳できます。“ミカエル”の過去の版で、次のように述べられています。
国の全住民が民間商品と公共商品を同時に供給する能力があるのに、公共生産のためだという口実で、民間生産に対する要求を個々人から取り上げるとは、馬鹿か泥棒に違いない。
しかし、徴税は合法的であっても不当な略奪である他のケースがあります。とりわけ、次のケースです。
提供された生産が買い手を待っているのに、徴税が個々人から購買力を取り上げるケース。
個々人、家族、仲介団体に任せるべきなのに、政府が自分たちでやろうとして税金を取るケース。そしてその点については、政府の干渉が増大するほど、窃盗は増加する。その理由として、政府が個々人、家族、地方自治体の財政不足を挙げるのは、本当のことでしょう。しかし、それならば、政府は、社会信用金融システムがするように、その財政上の課題解決を目指して行動すべきです。
またもですが、合法的な略奪であるケース。税金そのものだけではなく、税金を収集するために要する費用も含まれています。その費用は公的部門が支払いますが、納税者はお返しとして何のサービスも得ることがありません。
しかし、ダグラスの言葉としてあなたが引用した最後のものは、民間の生産から公共の生産に商品と仕事を移転するための“徴税の形”でしたね。そして、あなたは、それは必ずしもお金の移転とは限らないと言いましたね。あなたはそれをどのように理解しているのですか?
第一に、私はそれを現実の面から理解します。その金融上の表現は異なる形を採ることができます。説明させて下さい。 
公共計画の例としてあげた橋の建設の場合、国の生産能力の一部を公共部門に移転するのは、人々の代表者の承認の下での政府による決定によります。全住民の生活水準に影響するかも知れないのは、消費財の生産高に帰結するような状況です。
民間の商品の問題であれ、公共のそれであれ、全住民は生産されたもの以上のものを手に入れるなんてことはあり得ません。もし、市民がその代表者を通して政府に多過ぎる公共商品を要求するならば、民間商品の生産が減少する結果、たとえ公共商品をより良く享受したとしても、生活水準は必ず低下せざるを得ないでしょう。それは、金融の問題ではなく、現実の富の問題です。
そして、この現実の状況は、金融的にはどのように表現されるでしょうか? 人は存在しない物を買うことができないので、購買力の減少によってです。そして、社会信用金融システムの下では、購買力の低下は調節・代償価格システムに数学的に適合します。
この調節から生じるどんな価格上昇も全く正当です。全体が消費の生産に対する比率に応じて調節されるので、投機でも搾取でもありません。その上昇は民間商品の生産高の減少を意味します。一般の人々はいつもそれに気付きます。もし、その負荷が重過ぎると考えるならば、政府にその公共部門の活動を抑制するように要求するでしょう。
上述の“徴税の形”を唯一考えられるものと主張しはしません。要点は金融の面で現実を正確に反映すべきということです。方法の選択は実用性の問題であり、原則が尊重されている限り、事情に合わせれば良く、実験的であっても良いでしょう。
それ全ては、社会信用金融システムの下で、政府、自治体、学校委員会、その他公的な行政のためにそれ以上何も払う必要がないことを意味していますか? そして、新しいお金がそれら全ての必要性のためにやって来ることを意味していますか?
区別すべき事があります。新しい生産は新しい信用によって融資されなければならないと言いましたが、消費するときには支払う必要があることを付言しました。たとえば、もし、新しい信用で建てられた学校の寿命が少なくとも20年と評価されたならば、その学校を使用する住民は毎年その価格の1/20を支払わなければなりません。それについては、橋の例で説明済みです。
それは最早、略奪的税金ではないです。我々が消費するものへの支払いです。仕立て屋にスーツ、あるいはパン屋にパンの支払いをするのと同じぐらい普通のことです。
もし、個人や家族が個々にそのサービスを提供するならばより高くなるので、個人または家族へのサービスを提供するために起こされた公共のサービスの場合も同じです。 
たとえば、給水やゴミ収集のサービスについて考えてみましょう。もし、各家族が湖や川に水を汲みに行ったり、あるいは誰かが持ってきた水を買うならば、時間を食って疲れるか、あるいはお金が高く付くでしょう。ゴミをゴミ捨て場まで運ぶか、誰かに運んで貰う場合も同様です。
そして教育も。たとえ、母親が子供の教師をする技量があったとしても、時間がない場合も少なくありません。各家庭が教育のために私的な家庭教師を見つけ雇うことができるとは考え難いですね。しかし、もし、20、30、または100家族が一緒に彼らの子供を教育するための有能な人物を雇うことを決心したならば、同等のサービスを得るための、各家族の経済的負担は確実に軽減されます。
各家族がそのために払わねばならないものを税金と呼ばなければならないでしょうか? 多分、その用語を使うのは普通でしょうけれど、家族の一員を診てくれる医者や靴の修理をしてくれる靴屋に払うお金と同様、実質的には税金ではありません。
それならば、税金に関してですが、今日存在するものと、社会信用金融システムの下で予期されるものとの間の違いは何なのでしょうか?
大きな差があります。第一に、既に述べたように、国の発展は新しい信用によって融資されるのであって、税金によってではありません。我々は生産のために支払うのではなく、消費や原価償却のためだけに支払うでしょう。我々は公共の負債を引きずらないでしょう。その負債は数学的に返済不能であり、毎年税収入の大部分がその返済に充てられています。
我々は、個人または家族の問題であるべきことに対処するような政府職員を援助するために税金を払う必要はないでしょう。そして今日の個人および家族は経済的に破綻することがなくなり、政府に経済援助のための仕事を与えることも無くなるでしょう。
我々は、社会保障制度に関わる政府組織が必ずより多く要求する資金を税金によって与える必要がなくなるでしょう。なぜならば、全市民は、共有資本の共同法定相続人にして共同所有者として、価格調節と連動した社会配当の形で無条件の経済保障を受けられるからです。
そして、全ての物理的可能性はまさにこの事実によって金融的可能性なので、公衆は民間の生産と同様に公共の生産において国が提供する全てのものに対して、集合的に支払うことができるでしょう。それ故、今日と違って、公共サービスへの支払いが民間商品を手に入れるための負担や障害にならないでしょう。
社会信用金融システムの下で、全市民は株主のように処遇され、国の生産に対する配当を享受する資格を与えられます。全市民には、株主と同じように、国の経理情報が定期的に開示されますが、それは現行システムでの複雑なものと違って遥かに単純で分かり易いものであるでしょう。それ故、上述したように、国の生産への寄与を下げて、その代わりに民間商品の供給量を増やして欲しいと願う場合には、選出した代表者にそう指示できるようになるでしょう。
その上、各人に保障された収入― 当初は生物学的に最小限のレベルで、その後、直ぐに文明人的に最小限のレベルになる収入―は、生産能力に彼ら固有の注文を与えるための全ての手段となるでしょう。
社会信用の世界の観点のためには、全てのものを現実の観点で見ることが必要です。生活水準は最早金融システムに依存するのではなく、注文によって実現されるか実現され得る生産に依存するでしょう。金融は、生産者側の生産メカニズムに油を差し、消費者側の自由選択を許すために仲裁するだけになるでしょう。
住民は公共サービスの対価をどのように支払うのでしょうか?
その方法は、どのようなサービスかによって、全住民に利するものか、ある地理上の区域だけに貢献するのかによって決定されるべきです。また、試行してより実用的なものに決定すべきです。しかし、効率性の口実の下で、いかなる金融上の目的もそれを正当化できないような悪事を人々に引き起こすものを避けなければなりません。
ある公共サービスは、現状でも優れていて、今日と同様、それらを利用する人々だけによって支払われ続けるかも知れません。そのような例として郵便サービスがあります。それを利用する人々が切手を買うことでその対価を支払います。高速道路のような速い交通路線もそのような例です。ただし、社会信用システムの下では、公共事業に融資する新しい手段を考えれば、多くの通行料金は無料になるか、無料になるまでの期間が現在よりも短縮されるでしょう。
他の公共サービスとして、国のどこに住んでいようとも、全ての市民によって利用されるものもあります。そのような例は通常の道路です。また、国防もです。国防とは、何らかの起こりうる侵略に備えての国の防御であり、十分な軍隊の維持が必要で、攻撃する場合には軍事行動が必要になります。更にまた、確立された社会秩序を維持するための国の統治もその例です。全ての人がそれによって等しく利益を得ます。その対価を払うための最も簡単な方法は、価格調節メカニズムによって公衆から回収される社会信用を利用する方法だと思われます。
しかし、共同体の少数の人々にしか提供されない公共サービスがあります。たとえば、上下水道サービスなどであり、田舎に住んでいる人々は都市部に住んでいる人と違ってそれらを享受できません。それ故、これらのサービスの対価を、都市部だけではなく田舎も含めた全ての買い手が原価を負担するところの価格調節システムを通して払うのは公平ではないでしょう。これらの場合には、それらのサービスを提供する自治体が、その対価をその自治体の住民に払ってもらう責任があります。
一般に、これらのサービスに恵まれる人々がその原価を負担すべきだと言えます。最良の方法として、ダグラスは“民主主義への警告”(1934年版、176ページ)において、次のように書いています。
「我々が公共信用と呼ぶ共同体の不労所得を分配するための方法は、理論的に2通りあります。これらの2つの方法のうちの一つは“お金”の授与で、もう一つは価格の全体的な値下げであり、どちらを選択するかは実用性の観点での選択であり、原則の観点ではありません。それ故、商品およびサービスの民間利用から公共利用への移転を達成するための方法は2通りあり、直接の方法と間接の方法があります。そして、粗雑さ、複雑さ、非道さにも関わらず、直接の方法が良いと主張する傾向があるのは奇妙なことです。大英帝国における全ての税金を廃止し、その代わりに全ての種類の品物に売上税を課すことは、簡単で実行可能でしょう。そして、他のことを考慮しないならば、そのような政策は、現存する金融システムの範囲内において考えられるあらゆるものを遥かに上回る管理経済をもたらす結果となるでしょう。」
直接税は個人から直接徴収されるもので、所得税、人頭税、相続税、固定資産税などです。
ダグラスはこのように、価格に影響するであろう売上税の方を採っています。社会信用システムにおいては、これは消費者によって支払われる価格の調節と連動するでしょう。前に指摘したように、少なくとも、全住民に提供される公共サービスの対価を支払うために、申し分なく相応しい方法です。
しかし、低所得者層や、子供が多いために沢山消費する大家族が含まれるので、公共サービスの対価を全ての人々に支払わせるこの方法は不公平じゃないですか?
そのような反対意見は、現行のシステムにおいてさえ、物価は貧乏であろうと金持ちであろうと誰に対しても同じであることを忘れています。
社会信用金融システムでは、各人が何歳であろうとも雇用と関係なく分配される社会配当という収入が保証されることを取り分け忘れています。そういうことで、大家族ほど多額の配当を得るのです。そして、この配当は、消費財の価格に公共サービスの価格が織り込まれようとも、万民に少なくとも生活必需品を供給できる国において、各人が少なくとも生活必需品を手に入れられるだけ十分な額でなければなりません。実際、必要性の度合いに階層がありますが、先ず第一に万民が生活必需品に対して満足するように国の生産能力が使われるべきです。
更にまた、富裕層は、必ずではないですが一般に低所得者層よりも沢山買います。それ故、提案の間接的方法では、富裕層が低所得者層よりも公共サービスの原価を負担するでしょう。国の富から最も利益を得る者がその原価に対してより多く払うことは、公平以外のなにものでもありません。
しっかりとそれを見据えるならば、価格に含まれた税金は所得税や固定資産税と比較して横暴性が小さくもあります。それは師匠ダグラスが強調する点です。もし、価格を通して支払う税金を節約したいならば、買い物を控えて、より低い生活水準で満足するという選択肢を必ず持てます。一方、所得や固定資産から何らかの特別な利益を得なかったとしても、所得税あるいは固定資産税は厳格な義務として我々を襲います。

全ての税金のうち最も邪悪なるもの

ここで、固定資産税について、特にそれが家族の住居に課せられたときについて一言、言わせて頂きます。それはおびただしい邪悪の源泉です。 
家族の住居は家庭であり、お金の泉ではありません。その家の壁や床からお金が出てくる訳ではないのに、何故家族にお金を要求するのでしょうか?
それは所有権の地位を貶めて、共産主義の方向に非常に宜しく進めるでしょう。
しばしば、それは家族を苦悶に追い立て、国税省が要求する金額を用意できずに何ヶ月も辛苦に耐えた後で、たぶん、家族はそれを街路に投げ捨てたくなり、持っていないお金を補充することに対する無能さを感じるでしょう。
他のものに優先して、この形の徴税が普及されてきたのは明白です。徴税者側は支払わない人々を、彼らの資産を売ることで、罰することが許されている。これは人間よりもお金の収集により大きな意義を与えていると言えます。
我々の意見では、固定資産税は最も邪悪な税であり、第一に取り除くべきものです。
税金の問題についての締めくくりとして、社会信用金融システムの下では、いわゆる税金と言うものは存在しないことを繰り返して言わせて下さい。民間サービスに対する対価と同様に、公共サービスに対する対価の支払いはあります。そしてどのような場合でも、公共および民間の必要性に応えるために提供される全てのものの対価に対する支払い手段は、国の全住民に提供されるでしょう。

結論

今、我々は健全で効果的な金融システムについての研究を終えようとしています。この話題に疲れ果てたためではなく、読者―あるいは学生と言わせて頂ければもっと良いが―をして、かなりの社会的な影響をしばしば引き起こす全ての経済問題について、社会信用の見地で取り組むことを可能にできたと信じるからです。
社会信用の見地で取り組むことは、全ての純粋に金融上の制限をきれいに拭い去ることを意味します。
社会信用を採用すれば、純粋に金融上の問題―国の生産能力を発揮させられない問題、生産の成果を誰にでも届くように適切に分配できない問題―は無くなります。
そして、それは、如何なる企業の国有化も不要で、生活水準を等しくするようなユートピア的方法の模索も不要で、生産および市場に関して確立された方法の革命も不要で、住民のために富を生産提供する生産者や小売業者などの企業家への報酬を抑制することも不要とするものです。
社会信用のような現実を反映する金融システムによって、莫大な生産能力を有する国は貧困国に多くのものを与えることができるということを、我々は付言できます。
純粋に金融上の妨害を廃止することによって、全ての発展、物質的なものだけではなく文化的なものの発展に対する展望が開けますが、現行金融システムだとその欠陥のためにその展望は閉ざされたままになります。

原文【英語サイト】http://www.michaeljournal.org/soufin1.htm

このページのTOPへ