Anti-Rothschild Alliance

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資料室

Social Credit, for a healthy economy
『社会信用、健全な経済のために』

全員の社会資本に基づく全員への社会配当
社会信用による正当な価格付けがインフレーションを訂正するための唯一の方法である

ルイ・エバン
原文【英語サイト】http://www.michaeljournal.org/schealthy.htm

“ ミカエル”誌の新しい読者は経済と金融に関するこの論文に含まれている、読者に目新しいアイデアに当惑するかも知れない。これらのアイデアが論理的に思えるし、またその適用が生活に希望の光をもたらそうともである。現状と非常に異なっているこの理論はどこから来たのか?現在の経済学の教科書に載ってさえいない“社会信用”という用語は何なのだ? “ミカエル”編集者からの一撃の刺激であろうか? その答えはノーである。“ミカエル”誌は啓発的な新事実であると考えるものを熱烈に広めるのだ。今日の大変な進歩が我々の世界のために新しい光り輝く視野を切り開くべきであるのに、我々の世界の苦悶を引き起こしている経済的社会的性質に関する問題のほとんどを解決するために丁度良い瞬間に到着した発見である。しかし、“ミカエル”誌はその新事実の著者ではない。

C.H.ダグラス

社会信用の起源に言及する上で、天才である一人のスコットランド人の名前―クリフォード・ヒュー・ダグラス―を挙げねばならない。 
ダグラスの職業はエンジニアであった。重要なプロジェクトを任された優秀なエンジニアであった。彼は、インドでは英国ウェスチングハウス社の技師長兼部長で、南米ではブエノスアイレス太平洋鉄道社の電気部門副技師長であった。ロンドンに戻ってからは、ロンドン郵政公社地下鉄道の建設に従事し、第一次世界大戦の間にはイングランドのファーンバラにあった王立航空機工場の工場長補佐であった。 
ダグラスは仕入原価会計の専門家でもあった。英国政府が航空機工場の経理における“ある混乱”を整理するために1916年にファーンバラへ彼を行かせたのは、彼のこの専門性のためである。 
ダグラスは経済学者との肩書きを決して持たなかった。それは、大学で教えている経済学における、嘘の前提に基づく間違いの記念物に過ぎないので、その肩書きを侮蔑と思ったのであろう。しかし、ダグラスは本当は空前の偉大な経済学者であった。彼は今日の経済学の主要な欠陥を診断し、それを解決するための案を明確に述べているからである。 
哲学者アリストテレスの弟子ダグラスは経済学の様々な機能をそれ本来の目的との関係で熟考し、適切な手段を講じてそれらの目的に適わせた。彼は、エンジニアとしてそうしていて、直接的で簡単で潜在的に効率性の高い方法を提案している。彼はまた自然法と道徳律に完全に立脚してそうしている。彼は破られ得ない“ 戒律”があると云った。ダグラスは個人の自由と責任を守ることや、生得の各個人を守ることに関心があった。すべての種類の機関―政治的、経済的、社会的機関―は個人に奉仕しなければならず、君臨したり窒息させたり、選択の自由を妨害したり生活様式を指図したりしてはいけない。
人間らしい人間のためのこれらの原則と懸念は、現在の信用の独占およびこの独占によって創造され支援されている巨大企業についての最小限の心配事である。これらの原則は金融上の信用を技量の奉仕と看做す。徐々にそして速やかに、大量の非人間的雇用は、人々が必要とする商品やサービスを供給する責任を感じるような自由な社会に屈服するかも知れない。個人は、彼の助けを求めるすべての事業において彼個人の参加を受け入れるか拒絶するかの自由を取り戻すであろう。 
お金と信用の独占者およびその忠実な支援者は、ダグラスの提案の中に、彼らの利権への脅威を直ぐに見つけた。社会に有害であろうとも、彼らはその特権を断固として維持したいと望んでいる。それ故、彼らは報道機関、政府、公共機関、高い地位にある人々を使って強力な影響力を行使し、ダグラスの教えを排斥した。最初は共謀して無視し、次にダグラスの理論の信用を貶めるためにその理論を故意に誤って伝えた。そして、野心的な人々に“社会信用”党を結成させることで、“社会信用”という用語を侮蔑することによって、人々を混乱させた。 
しかし、ダグラスは著作を残し、カナダを含む数カ国、特にフランス系カナダ人の中に弟子をこしらえた。これらの弟子は彼の教えを拡散し続けている。病的なシステムによる腐った果実の蓄積があっても、政府はダグラスの多くの主張を渋々でさえ認めない。公的な経済学者は全員揃って、彼の主張を潰そうとして立ち上がった。このようにして、金本位制神話は国家の通貨から消え、ゴールドの通貨機能は国際的なレベルで益々重要性を失った。そして、それ以外の聖牛たる均衡予算で何をしたのであろうか? 政府は、正統な経済学者によって生死の問題だと教えられているいわゆる需要を無視することを強いられた。もし、政府が不均衡予算に頼らないならば、現在の金融システムのもとでは、すべての経済
活動は停滞するであろう。
政府は困難に直面したときには、ダグラスの教えの中から何かを借用しようとするが、現状のシステムのソースの中に入れて料理する。予算の場合で云うと、料理人としてケインズを使うようなことをするのだ。現実を金融的に反映させないで、そのように料理してしまうので、公益の創造は公的負債の増加で表現される。そのような手法はダグラスの弟子が採るはずのものではなく、悪化している状況を軽減するために採用される如何なる社会保障対策も本当の社会信用とは全く異なっているのだ。 
精神安定剤は苦しんでいる人を助けるかも知れないが、治す訳ではない。現行のシステムに全ての種類の丸薬を与えても、病的状態から抜け出せることはない。社会信用が健全な経済を創造し、経済は無限と云えるほどに改善される。 
現在の金融組織は経済生活の金融システムによって汚染されているので、ダグラスの社会信用が正当で人間らしい経済の原理に向いていることは全く不思議ではない。ダグラスは現在ある偽りを断固として認めない。事実、真実に基づくならば、嘘に基づくよりも、自然で人間的でキリスト教徒らしい原理を経済に付与することが可能である。

完全に実現される基本的権利

1941年6月1日の教皇ピウス12世による有名なペンテコステ祭におけるラジオ放送演説の中の以下の言葉を思い出そう。 
「物質的なものは、全ての人間の必要性を満足させるために神によって創造されたものであり、正義と博愛がそう要求するように、全ての人間に配分されねばならない。」
「理性を贈られた存在であるところの全ての人間というものは、地球上の物質的なものを利用する基本的権利を必然的に持っていて、その権利の実際的な実現をより詳細に決めることが、人間の意志および法的な規定に委ねられている。」
ダグラスはこの一節を使っていない。しかし、彼の主張の発展は同じ結論に彼を導いている。各々の人間は国の経済が供給できる物質的なものを分け合う権利がある。そして、少なくとも生活の必需品を確保できると彼が言うところの、市民一人一人への定期的な配当という彼の考案したメカニズムは、ピウス12世の云う権利の実際的な実現のための素晴らしい“法的な規定”である。 
この配当は無条件であり、それは誰をも忘れず、誰をも罰せず、誰の利害をも損なわない。吐き気を催すほどの傷を引き起こしている癌であるところの金融システムを攻撃しないで、その傷を隠そうとしてあらゆる種類の課税法の検討でまごついている政府と、ダグラスの提唱した配当という考え方を比較してみて下さい。

価格

価格の問題を無視した金融改革はどんなものでも失敗に終わると、ダグラスは書いている。もし、価格も上昇するならば、消費者の所得を増やすような改革の採用は、意味があるのだろうか。物価上昇と増税が引き続いて生じる賃上げと同様、全く聡明なことではない。購買力は2つの要素からなる。一つは、消費者が使えるお金で、もう一つは商品に対して小売業者が設定する価格である。問題なのは、これらの2要素の比率である。あなたが15$持っている場合、20$で売られているものの3/4しか買えない。もし、持っているお金が2倍、すなわち30$だとしても、同じ商品の価格が2倍、すなわち40$で売られていたら同じことで、やはり3/4しか買えない。これは単純な算術である。 
理想は、その比率が1であることで、支払い能力と価格の間に等価性があるべきなのだ。このことが正にダグラスが提案したことの一つである。 
「ある国の全住民が保有する現金の総額を、その国で売られている消費商品の価格総計に一致させるべきである。」
ダグラスは、「商品の仕入原価がいくらであろうとも」と付け加えている(これについての説明は、この論文内で後述する)。 
この提案を前にして、正統派の経済学者は次のように馬鹿にした発言をした。「先生、それはそうです。いつもそうだったんですよ。どの商品の価格も、それを生産するのに要したお金の合計です。だから、消費者に分配されるお金の総額は、いつだって価格の総計に等しいですよ。」 この前の5月、パリにおいて小集団の前で私が社会信用についてのプレゼンテーションをしたときも、フランス人銀行家が同じようなことを述べた。彼は、私に言った。「フランス人は購買力が足りないってことないですよ。価格によって要求されるお金の総額は、生産原価を払う過程で、消費者に前もって分配されているからです。」 
経済学者は1世紀以上の間、そう言い続けて来た。しかし、事実は同じく1世紀以上の間、正反対であることを示して来た。これらの経済学者は事実を語っていない。彼らは自明の理と考えていることを繰り返すだけで、この自明の理に反する事実を受け入れようとしない。一方、ダグラスは、最初に事実を見つめ、次に事実を説明しようと努め、訂正され得ることを訂正するための道を探す。

“A” は “A” + “B” を買うことができない

購買力については、生産過程で発生する原価は2つのカテゴリーに分けられるとダグラスは説明している。1.労賃のように個人すなわち消費者に分配されるお金。ダグラスはこれらの原価を支払い”A”と呼んでいる。2.原材料費や機器設備費などとしての他の組織への支払い。ダグラスはこれらのコストを支払い ”B”と呼んでいる。両方の原価(”A"+”B")が価格に含まれる。消費者は支払い”A"を受け取るが、価格は”A"+"B"の複合である。もし、消費者が生産過程での支払い以外の源泉から”B"に等価なお金を手に入れないならば、”A"が”A"+"B"を買えないことは明らかである。 
正統派の経済学者が挙げる第一の反論は、支払い”B"を受け取った他の組織がその従業員や株主にそれを分配するので、支払い”B"は遅かれ早かれ支払い ”A"に等しくなるということである。この反論の短所は、”遅かれ早かれ”という言い回しの中にある。なぜならば、反論者は時間要素を考慮していないからである。ダグラスはそれを考慮しているのだ。時間当たり100回転と分当たり100回転はいずれも100回転であるが、それらは同じでないということを彼はエンジニアとして知っている。 
ダグラスの”A"+"B"定理と呼ばれているものは、経済学者とダグラス主義者との間の長年の論争主題である。これは、この雑誌の今後の版における論文の主題となり得る。しかし、この論争の面白いところは、ダグラスによる存在する事実の説明を拒否し、また、否定できない事実に対する解答を探そうとしないでその事実が存在しないという結論を導きたいと欲する経済学者がいるということだ。 
仕入原価簿記の正確さにも関わらず、人々の購買力が売られている最終製品の価格に等しくないということは、極めて明らかなことである。経済学者は、その相違を無視する一方で、その相違の存在を確証するような経済政策を擁護する。彼らは輸出を推奨する一番手、輸入するよりも輸出するほうが好ましいと主張する一番手じゃないですか。彼らは確かに、より多くの商品が輸入されるよりも輸出される方が、国内の商品がより豊富になると言おうとしていない。しかし、彼らはそれが”好ましい貿易収支”だと言う。輸出をすることによって、より多くのお金が国内に入り、購買力が増加し、国産製品を買うためのギャップを埋めることができるからだと言う。 
同様に、彼らは外国の投資家や政府に失業者のための仕事を創出することを求めていませんか? 商品の生産のためではなく、建物、道路、橋、工場などへの資本支出を求めていませんか?
そして、政府は我々が生産できるけれども買うことができない商品のお蔭で、15年あるいは20年もの間、借金をしていませんか? 消費財の生産がそれらを購入するに足るお金を分配しないように、税金を原資とする公共財の生産も十分なお金を分配していないのではないでしょうか? 
このことが、何故そんなに多くの割賦販売があるのか、何故人々が最終製品を購入できるように借金しなければならないのかを説明している。これらの借金は、支払い”B"の部分をこしらえるためにお金が借りられたことを表している。その支払い”B"の部分は、最終製品が市場で販売され、価格”A"+"B"が最終製品として提示されるとき、人々の手の中にまだないのか、あるいはもうないのかのいずれかである。  
次の推論についてどう考えますか? 「この世に生まれた全ての人間は早かれ遅かれ死ぬ。かくして、死は生を流動化する。だから、世界の人口は増加しないし、減少もしない。それは均衡している。」 あなたはきっと次のように答えるでしょう。「そんなアホな。誕生による人口増加速度と死亡による人口減少速度を考慮してへんがな。その速度が同じであるはずがないやんか!」 
ところで、正統派経済学者は、まさに上記の推論のように考えている。彼らは価格の設定される速度を考慮していない。その速度は、最終製品の全原価を支払うための購買力分配の速度と同じではない。新しい最終製品が店の棚に現れたときと同時に、その価格も消費者の前に現れる。しかし、購買力の要素(支払い”A" と支払い”B")は、異なる時期に消費者に到着する。あるお金は最終製品が現れる前に到着するが、あるお金は遅れて到着し、決して到着しないお金もあるのだ。

訂正

その本質的な相違点は現行システムにおいて先天的である。それはどのように訂正され得るか? 正確な簿記の結果である仕入原価を偽ること無しにである。その原価は、生産者がビジネスの中に留まり、生産を続けるために、生産者が全額を回収しなければならない。この相違点を訂正するための正しい方法は別のチャンネルを使って購買力を増加することである。そのチャンネルは、生産を通さず直接に消費者へ到達すべきであり、価格に含まれるようなルートは駄目である。他の方法として、消費者の購買力のレベルまで価格を下げることである。いずれの場合においても、理想的な購買力が達成され、価格と購買力は一致し、その比率は1となる。 
この二つの方法を組み合わせることが、ダグラスの主唱するところのものである。(上で説明したような)本当の権利に基づく万民への配当によって、購買力は生産原価を通り越すことなく増大させられる。そして、すべての小売価格に対する全体的なディスカウント、科学的に計算されたディスカントによって、価格と購買力は完全に均衡する。このディスカウント分は、国の信用事務所によって、小売業者に補償される。 
この全てのことは、生産と消費の事実を反映し、自由な生産者をして自由な消費者の需要に合うようにさせることを許すような柔軟性を有する金融システムの存在を前提としている。 
柔軟な金融システム、これこそ社会信用が狙うものである。金融システムは単なる簿記の問題以外の何者でもあってはならず、その機能は我が国の経済組織をリードするものではなく、それに奉仕するためのものであるべしというのが、社会信用の考え方である。金融的な信用は現実の信用、すなわち基本的に社会の富であるところの我が国の生産能力に基づくべきであることを認めるならば、これは非常によく整理され、柔軟性もあるシステムなのだ。

適正価格

価格についてダグラスは真実を発見し、それを明らかにしたことにより、すべての経済学者の上に抜きん出た。彼ら経済学者は以前の教科書に書かれていたことを再現したに過ぎない教科書で読んだことを反復するだけである。 
ダグラスはその真実を次のように表現している。 
「生産の適正価格は消費である」
それが意味することは、たとえその仕入原価が正確であろうとも、生産物の本当の原価は会計上の原価ではないということである。
実質的に考えれば、最終製品の本当の原価は、その生産過程で消費されたものの総額である。もし、たとえば、1個の家具の生産を考えるならば、立ち木の破壊、道具や機器の消耗、その生産に従事する人々の衣食住がその生産に付属する実際的な原価である。これらの実際的な原価の総額、すなわち、その1個の家具の生産過程で消費される商品や労働が本当の原価である。
もし、この消費(木材、消耗品、小売業者の食料など)が通貨単位で表されるならば、会計上の用語で表現される最終商品の本当の原価を知ることができる。この原価は仕入原価とは全く異なり得る。もし、一方で、リビングルーム・セットを作るために分配される労賃が100$になるならば、この金額は仕入原価の中に全体として含まれる。しかし、もし、従業員が消費財の購入のために100$の一部だけ、たとえば60$しか使わなかったならば、このセットの仕入原価はその本当の原価よりも40$高くなるだろう。一方、もし、このセットを生産している間に事故が発生して、何人かの従業員が怪我をした場合、彼らの入院治療がより多くの支出を発生させるであろう。それ故、最終製品の本当の価格は仕入原価より高
いのかも知れない。 
勿論、すべての生産品についての本当の価格を知ることは不可能である。生産業者は彼の事業で必要とした費用しか知らず、彼が払った労賃が何か必需品を買うために使われたかチェックしない―それは彼の関知すべき事柄ではない―という簡単な理由のためである。一方で、我が国で1年間にどれだけ生産されて、どれだけ消費されたかについては通貨単位において容易に知ることができる。
たとえば、国家会計において、その国の1年間の総生産高が400億$に達し、その年の総消費量が300億$であると想定しましょう。この場合、その国は 400億$の富を生産する一方で、同時に300億$の富を(消費や減価を通して)消滅させていると結論できる。400億$の富を生産するために、300 億$の富を消費しなければならなかったのだ。したがって、この生産品の総額の本当の原価は、その簿記上の原価の3/4だったと云える。 
さらに云うならば、この生産品を作り出した者達は、債務を遂行し、ビジネスを継続するために、彼らが支払ったところの全額400億$を回収しなければならない。それにも関わらず、その国の人々は消費した分だけしか払わない。3個しか買わなかった人に4個分の請求はできない。国の住民全体の場合も同じことである。現実として、300億$の商品しか買っていないのに、400億$を請求できない。 
たとえ、簿記上の原価がどうあろうとも、生産の”適正”価格は消費の原価であるとダグラスが言うのは、そういう理由のためである。上述の例では、国の社会信用事務所が小売価格に対して全体として25%の割引を命じる。買い手は小売業が4$という価格を付けたものに3ドルだけ支払い、国の社会信用事務所が割引された1$分を小売業に補填する。 
1年が過ぎたら、仕入原価(簿記上の価格)と本当の価格の比率は異なっているかも知れない。そして割引率がそれに応じて再計算されるが、自由な生産者と自由な消費者の自由な事実から生じる生産と消費という事実および統計に従って、必ず科学的に計算される。

原文【英語サイト】http://www.michaeljournal.org/schealthy.htm

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