Money, an instrument of distribution
日本語訳文 『お金とは分配の道具である』
byルイ・エバン
原文【英語サイト】http://www.michaeljournal.org/distrib.htm
- [Q] 今に始まったことではありませんが、なぜ社会信用論者はお金について、お金の制度について、お金の制度改革についての説明を行っているのですか?
- [ルイ・エバン] 日々私たちを悩ませる問題のほとんどは、お金の問題だからです。それは個人的な問題のみならず、研究所、学校、大学、市政機関や政府が抱える問題も含まれています。
今日の世界において、ある人間が生きるには、他者の生産物を得ることが不可欠となりました。ある人に生産物を与えたその他者もまた、他の誰かの生産物を必要とします。私たちは、対価を支払わなければ他者の生産物を得ることはできません。その対価として、私たちにはお金が必要なのです。
したがって、お金とは生きるために必要な許可証のようなものです。とはいえ、それはわれわれが空腹のときにお金を食べるからでも、お金を衣服のように身にまとうからでもありません。しかしながらお金がなければ、自身が生産手段をもっている場合においても、自分で生産したもの以外は何も手に入りません。お金がなければ遠くへも行けません。生きるためには、お金に執着がない人であっても、多少のお金は持たざるを得ないのです。
- [Q] しかしながら、お金は悪魔の発明であるという人もあります。混沌の源であり、支配の道具であり、破滅をもたらすものであるともいわれます。
- [ルイ・エバン] それらのことすべてが生じるのは、それこそ悪魔によってなされるお金の悪しき利用や、お金のシステムの悪しき操作が原因となっています。他の多くのおぞましい出来事も、すべてそれが原因です。
しかし、生産物の交換と分配の道具としてのお金は、人類の最も素晴らしい社会的発明です。私はお金が分配の道具であるといいましたが、これは重要な点です。というのも、お金とはまさにこの目的のためにこそ作り出されたものだからです。お金があるおかげで、自分の家族に必要な分以上に多くのジャガイモを収穫した農家の人は、その人の子供に靴が必要だったとしても、ジャガイモを必要としている靴屋の人を探し出す必要はないのです。同じことが靴屋の人にもいえます。靴屋の人は靴を欲している、余分なジャガイモを持った人を捜し当てる必要はなくなるのです。
人々は各々が必要としないものを一般市場に提供します。そうすることで、その人たちは持ち運びにもかさばらない小さなものを受け取ります。それはお金と呼ばれました。そしてそのお金を利用することで、一般市場でその人が必要とするものを選んで手に入れることができるようになるのです。
その人は自分の欲しいものを選ぶことができます。ここに大量のお金があります。お金があればバターを買うことも、楽器を買うこともできます。すべての人は、お金は誰もが受け取ってくれる対価であることを知っているので、その人の生産品や労働の対価として、お金を受け取るのです。
本質的に、お金自体に価値はありません。とりわけ現代のお金に関していえばそうです。簡素な印刷がなされた紙切れに5ドルと数字が書いてあれば、あなたは5ドルの価値があるものを買うことができます。大きくもなければ分厚くもない、ただの紙切れに10ドルと書いてあれば、10ドル分の価値に相当するものを何でも選んで買うことができるのです。
実質的な意味においては、お金それ自体に価値はありません。お金とは本質的に、価値を表す数値であり、価値を代理する数値であり、書かれた数値分の価値を得ることを許可するものなのです。
- [Q] たとえそうだとしても、生産品がそこになければいけませんね。
- [ルイ・エバン] もちろんです。人がものを買うためには、もとより生産物がなければいけません。
お金は商品でもなければ、生産物でもありません。お金は生産物を分配するための道具なのです。存在しないものは分配されることはありません。生産物が存在しなくても、価値を代理する数値だけがあれば私たちは生きていくことができるなどというのは、到底ありえない話です。北極や砂漠といった、そこから抜け出せないような場所で孤立した生活を送る人に、あなたと同じくらいのお金を分配したとしても、それは無意味でしょう。これは、私たちが生きていくのに必要な生産品があるのに、それを得るための価値を代理する数字が存在しないのと同じくらい馬鹿げて下らない話なのです。
こうした話で明らかになるのは、ある特定の価値が付けられた生産品と、そうした生産品を必要とする人が持つ価値を代理する数値には、正当な関係がなければならないということです。
- [Q] その関係とは、簿記のことですか?
- [ルイ・エバン] その通りです! 一方には生産品が、価格と呼ばれる数値を付けられてあったとします。もう一方には、購買力を表す数値が書かれた紙切れや円形の金属や銀行口座があったとします。両者の示す数字が等しいなら、生産品は生産者か小売業者を通じて、それを必要とする消費者の手に渡ることが出来るのです。
- [Q] では、私たちのお金のシステムは良いのでしょうか?
- [ルイ・エバン] 簿記が完全に正確なもので、なおかつ製品の権利を与える数値が正しく分配されているのならば良いものといえるでしょうが、このシステムの機能は損なわれています。その原因はシステムを運営する人たちが誤った簿記を行い、数値を公正に分配していないことにあります。
会計士は、生産者でも政府でもありません。数値は銀行によって創り出されます、こうした数値は市場に提供された生産品との関係をもたない一方で、銀行家がこの数値を取引することによって利益を得ることができるかも知れないと考えるものとの関係を持っています。
簿記システムは、その単純な役割を果たすことがなくなり、お金のシステムはその機能が損なわれてしまったのです。そのシステムの管理運営は独占的に行われるようになり、それは取引、支配、圧制、日々私たちに振るわれる独裁の道具となりました。
農業の人は生産高が増加したとします。お金のシステムを管理運営する会計士、つまり銀行家がそれに対してお金の量を増やさず、農業の人の生産品を買いたい人たちへ分配するお金の量を増やしませんでした。ところが、ある人が銃器や爆弾、誰も欲しがらない宝石が生産されたときに、お金は豊富に供給されたとしましょう。こうしたお金は弾薬を生産する労働者たちに分配されます。彼らは市場に売り出されるものについては、何も生産しません。これは単に価格を上げ、お金が代理する価値の数値の購買力を低下させる働きをもつのみです。そして、私たちが戦争や戦争準備を考えもしないとき、それは私たちとは逆に、戦争への準備を進めるのです。
私たちは、あらゆる文明国における偉大なる政治家たちは過去10年間、数字をやりくりする人 [ 訳者註:銀行家 ] たちによって発生したお金の不足により、人々が売れなくなった生産品を目の前にして隅へ追いやられ、飢え死にしていくことをみすみす許してきました。これは犯罪的行為といえます。不実なる会計士たちの行いは犯罪に値します。公共の利益のために選出された政府の人々は、臆病かあるいは愚鈍からか、銀行家のこうした行いを許してきたかどで、この犯罪行為の共犯者であるといえるでしょう。
- [Q] 社会信用論者はこのシステム全部を取り除きたいと考えているのですか?
- [ルイ・エバン] そうではありません。党員はお金が本質的に簿記であることは非常によいものであると考えています。ただし、彼らが望んでいるのは、お金が簿記としての存在であることだけです。彼らはお金に本来の正しい役割に戻って欲しいと考えています。つまり、分配の道具としての役割にです。それを成し遂げることは少しも難しいことではありません。お金は生産品に対する要求権である以上、大衆は自身が必要とする生産品を発注するに十分な購買力を持たなければなりません。生産システムが生産品を供給するのは、それと速さの点で等しくなければなりません。人はそれぞれ生産物を得て生きる権利があり、その権利はお金がなくては行使できません。したがって、大衆の中でそれぞれの人はこの購買力を十分に共有しなければなりません。
こうしたことから、社会信用論者は次のように提案します。
A:国か地域単位で総生産量・総消費量(あるいは破壊・価値下落の総量)を記録し続ける信用機関を設立する。
B:生産能力と関係を持つ総購買力を社会の成員間で公正に分配する。
- それは、今日行われているような、産業自体によって分配される労働報酬として行われる。
- それは、配当を受ける人が雇用されていようがいまいが、誕生から死没するまで、少なくともその人が生きるために必要な分のお金を保証する定期配当として。その配当は先述の信用機関によって行われる。
- それは、どのようなインフレ発生の恐れを払拭する一般的な割引を行うことで行われる。この価格割引は信用機関により、小売業者に補償されることになる。
- [Q] その信用機関は、小売業者が割引を行う見返りとして得る配当や補償を行うためのお金をどこで調達するのですか?
- [ルイ・エバン] お金とは、私たちに国の生産品を獲得することを許可する数字ですから、信用機関は生産品の供給に応じて数値を創り出せばよいわけです。これは単純に簿記計算の問題に過ぎません。こうした数値は市民がそれぞれに開設された口座に対する簡単なクレジットの記述であるかもしれません。あるいは、国家(あるいは地方)のクレジットを利用した、簡素な小切手の形式を取るかもしれません。いずれにしてもそれらは小売業者へ、その業者が発行する割引券のために送られます。技術的な詳細をここで述べるのは、意味もなく、また不可能なことです。それに、適用の方法は様々です。(適用可能な方法のひとつは、ルイ・エバンの冊子『健全かつ効率的な財政システム』で詳しく述べられている)
- [Q] こうしたクレジットがお金のように循環し、受け入れられるものになると思いますか?
- [ルイ・エバン] もちろんですとも。 事実今日もそれらは循環し、人々に受け入れられていますよ。製造業者や小売業者に対するローンや当座貸越といったものは、マッケンジー・キング、ルーズベルト、チャーチルらが6年間に及ぶ殺戮を計画することを許してきたクレジットと同じものですが――それらは全て、金でも紙でもなく、口座に書かれたり、小切手で集められたりした数字に過ぎません。
- [Q] しかしながら、あなたはお金のシステムをまさしくその通りに運営することができるとお考えですか?
- [ルイ・エバン] あなたはお金に従属して生きたいとお望みでしょうか? それだけではありません。あなたは社会信用論者によって提唱された通貨簿記会計システムにおいて、専制的なものは何もないことに気付かなければいけません。生産品は生産者の商売取引であり続けます。消費は消費者の取引であり続けます。信用機関の会計士は両者の総計を記録するだけです。彼らは両者の数値を均等にするために、一方の過不足を数学的に推測します。
したがってそこに没収はありません。国有化もなければ、何を生産し、あるいは消費するべきかを命じる法律も存在しません。ソーシャル・クレジットは完全なる経済の民主化を意味するのです。
ありとあらゆるものは、自由な人々の取引であり続けます。十分な購買力をもった消費者は、薄っぺらく、ともすれば空っぽの財布をもつ人より、はるかに自由に生産品を選んで買うことができるため、人々は今日より自由に生きることができるでしょう。
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