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HOME>>講演録 TOP>>ロスチャイルド関連の世界史1900〜1950
1904年、日露戦争が開戦します。
日本が絶対不利だったにも関わらずクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフから融資を受け、戦費不足を補い、なんとか勝利します。
しかし、この負担がのちに大きく圧し掛かり、日本は外資によるコントロールから財政破綻、そして戦争へという道のりを歩み出します。
この間の経緯は複雑だし長くなるので省略しますが、シフは「日本の恩人」として天皇から勲章を授けられていますけど、そんな善意の人では全くないです。
1907年、ロイヤル・ダッチとシェルが合併してロイヤル・ダッチ・シェルが誕生します。
ロイヤル・ダッチというのはオランダ王室のことですね。オランダは産油国のインドネシアを植民地にしていましたので、そこと組んだわけです。
1909年、今のイランにアングロ・ペルシャ石油が設立されます。これは、のちのブリティッシュ・ペトロリアム、今のBPのことです。
ロスチャイルドは、バクー油田の利権を持っていますから、これでロシア、インドネシア、イランと大産油国の石油を掌中に収めたことになります。
現在では、シェルやBP、あるいはロックフェラーのエクソンモービルなど、国際石油資本が持つ油田の総埋蔵量は世界の全埋蔵量の10%を切っていて、残りは産油国の国有石油会社が持っていますが、商品取引所による価格形成メカニズムを用いて、影響力を堅持しています。
1910年、ロンドン・モルガン商会がモルガン・グレンフェルに改組されます。
創業者のエドワード・グレンフェルは、ロスチャイルド一族でイングランド銀行総裁ヘンリー・グレンフェルの息子であり、イギリスの老舗投資銀行ブラウン・シプリー社の重役でした。
ブラウン・シプリーのブラウン家は、米国ではハリマン家と結びついてブラウン・ブラザース・ハリマンになっています。
このブラウン・ブラザース・ハリマンの頭取を務めたのがパパ・ブッシュの義父ジョージ・ハーバート・ウォーカーで、ナチスに資金提供していたユニオン銀行を設立したのがアヴェレル・ハリマン、その社長を務めたのがパパ・ブッシュの実父プレスコット・ブッシュという関係です。
モルガン・グレンフェルは、現在、ドイツ銀行に買収された形になっていますが、実質、ドイツ銀行を乗っ取っています。
1913年、アメリカで連邦準備制度(FRB)が設立されます。
FRBは、1907年の金融危機を教訓として誕生しました。危機の再発を防ぐため、ポール・ウォーバーグが銀行改革の必要性について、連日のようにマスコミを通じて主張しました。
米国の中央銀行である連邦準備制度の設立に関する経緯を説明しますと、まず、1910年にJ・P・モルガンが所有するジョージア州のジキル島で全国通貨委員会の会員による秘密会議が開かれます。
この秘密会議の出席者は、次のようなメンバーでした。
米国では中央銀行に批判的な意見が多かったので、ポール・ウォーバーグは中央銀行という名称を避けるように提言し、連邦準備制度という名称に決定しました。
連邦準備制度をつくる法案は、共和党のネルソン・オルドリッチが議会に提出しましたが、オルドリッチ法案は民主党から激しい反対を受けます。
議論を続けている間に、共和党が野党に転落してしまいました。
そこで、民主党の大統領候補者ウッドロー・ウィルソンに白羽の矢が立ちます。
1912年の大統領選挙では、現職で人気者のウィリアム・タフト(共和党)が再選確実とされていました。
そこへ人気者の元大統領セオドア・ルーズベルトが、共和党を離れ、革新党を結成して立候補します。
その結果、共和党内で票が割れて、ウィルソンが地滑り的勝利を収めます。
この時、ウッドロー・ウィルソンを支援していたのが、ポール・ウォーバーグとジェイコブ・シフでした。
ウィリアム・タフトを支援していたのが、フェリックス・ウォーバーグ。ポール・ウォーバーグの従兄弟です。
そして、セオドア・ルーズベルトを支援していたのが、オットー・カーン。
ポール・ウォーバーグ、ジェイコブ・シフ、フェリックス・ウォーバーグ、オットー・カーン、この四人は全員クーン・ロープ商会の共同経営者です。
ウッドロー・ウィルソンは、晩年になって連邦準備制度設立に加担したことを後悔して、こう言い残しています。
ここで初代ロスチャイルドの世界革命行動計画を思い出してみましょう。
「12.財を活用して、我々の要求に素直に従い、ゲームの駒となって、政府を陰で操ることを我々から任じられた人物を選ばなければならない」
この選ばれた人物がウィルソンだったわけです。
軍隊経験はないのに、なぜか「ハウス大佐」と呼ばれていたエドワード・マンデル・ハウスは、ウィルソンが「もう一人の私」と呼んだほど親密な間柄でした。
ハウス大佐は、リンカーン暗殺の主犯格トーマス・W・ハウスの甥で、ロスチャイルドの代理人として欧州の金融資本とテキサスの石油業者をつなぐ役割を担っていた人物です。
ウォール街伝説の相場師と呼ばれたバーナード・バルークは、ウィルソン、ハーディング、クーリッジ、フーバー、ルーズベルト、トルーマンと6人の大統領顧問として活躍した人物です。
第一次大戦時には戦時生産局長官となり、軍需工場のすべてを掌握し、軍事予算から膨大な利益を得ています。 第一次大戦前、バルークは100万ドルの資産を持っていましたが、戦争が終わった時、その資産は2億ドルにもなっていました。
ドイツに法外な賠償金を支払うように決めた賠償委員会の委員長でもあり、第二次大戦後は国連の原子力委員会のアメリカの首席代表を務めました。
ユージン・マイヤーは、戦時軍需品・財政委員会や戦争産業委員会のポストに起用され、1930年には連邦準備制度理事会の理事に就任、1931年には再建金融公社の会長に就いた人物です。さらに1946年には初代世界銀行総裁にも就任しています。
ユージン・マイヤーの父親はロスチャイルド系投資銀行ラザード・ブラザースの共同経営者で、娘のキャサリン・グラハムはワシントン・ポストの社主でした。キャサリン・グラハムは「日本の首相はキャサリン・グラハムの許可がないと成れない」と言われたほどの影響力を持っていた人物です。
ちなみに、このマイヤー家は、オットー・カーンの一族です。
FRBの設立者ポール・ウォーバーグは改革派ユダヤ教徒、つまり彼もフランキストです。
ロスチャイルドの代理人として渡米したポールは、クーン・ロープ商会の創業者ソロモン・ローブの娘ニーナと結婚し、ジェイコブ・シフ同様、クーン・ロープ商会の共同経営者となりました。
ポールの兄マックス・ウォーバーグは、ドイツ諜報機関のリーダーであり、ナチスへ活動資金を提供していた人物です。
従兄弟のフェリックス・ウォーバーグは、レーニンを封印列車に乗せてロシア革命を支援したドイツ国防軍の情報部長官で、このフェリックスは、ジェイコブ・シフの娘フリーダと結婚しています。
また、ポールの娘フェリシア・シフ・ウォーバーグは、フランクリン・D・ルーズベルトの息子ルーズベルト・ジュニアと結婚しています。
ここにあるのは18世紀のフランクフルトのゲットーの地図です。
この狭いユダヤ人居住区の中に、シフ家、ウォーバーグ家、バルーク家、カーン家、そしてロスチャイルド家が住んでいたんですね!
シフ家はロスチャイルドと同じ屋敷を半分ずつにして住んでいて、カーン家はその4軒隣というほどご近所さんでした。
話を戻します。
ウッドロー・ウィルソンは、就任式の直後に特別会期を召集して、クリスマス休暇でほとんどの議員たちが帰省中に、民主党が提出したオーウェン・グラス法という連邦準備法を可決させました。
そのオーウェン・グラス法案は、以前、民主党が反対していた共和党のオルドリッチ法案と名前以外はほとんど同じという法案でした。
しかも、このオーウェン・グラス法案に対し共和党のオルドリッチとヴァンダーリップが激しい非難の声をあげるという茶番付きでした。
では、その連邦準備制度とは、どんな制度なのか。
FRBの実務は連邦諮問評議会が行なうことになっています。
連邦諮問評議会は、12の特権的都市にある連邦準備銀行の役員によって選出されますが、役員は連邦準備法により一般には非公開となっています。
(※12の特権的都市とは、ニューヨーク、リッチモンド、ボストン、フィラデルフィア、クリーブランド、シカゴ、セントルイス、アトランタ、ダラス、ミネアポリス、カンザスシティ、サンフランシスコ)
そして、米国の金融政策(金利、通貨の数量と価値、および債権の販売等)は、すべてニューヨーク連邦準備銀行が決定することになっています。
そのニューヨーク連邦準備銀行設立時の株主は、ナショナル・シティ・バンクやファースト・ナショナル・バンク、ナショナル・バンク・オブ・コマースなどの銀行でしたが、これらの銀行の株主を調べると−
この、民間銀行が所有する中央銀行が、どのようなことをおこなっているか?
1964年に開かれた下院銀行通貨委員会の公聴会でのライト・パットマン議員の証言を見てみましょう。
「1ドルは連邦準備制度に対する1ドルの負債をあらわしている。連邦準備銀行は無から通貨を創造し、合衆国財務省から政府債権を購入する。利子の付いた流通資金を合衆国財務省に貸し出し、合衆国財務省に対する小切手貸付と帳簿に記帳するのである。財務省は10億ドルの利付債の記帳を行う。連邦準備銀行は財務省に対して債権の代価の10億ドルの信用を与える。こうして10億ドルの債務を無から創造するのだが、それに対してアメリカ国民は利息を支払う義務を負うことになるのである」
もう少しわかり易く解説します。
ドルというお金は、実は、米国債を担保にニューヨーク連邦準備銀行が政府に貸し付けた債権なのです。
連邦準備銀行は、口座に数字を記入するだけで“無”からおカネを創造します。
米国民は、連銀が“無”から創造したおカネに対して利息を支払う義務を負います。
現在では、平均労働収入の約35%が連邦所得税として徴収されています。
1981年にレーガン政権が調査した結果では、連邦の個人所得の税収760億ドルが、全額FRBへの利子の支払いに充てられていたということです。
それだけでも酷い詐欺的行為なのに、さらに酷いことに、米国には連邦所得税を納付しなければならないという法律は存在していないんです。
法的根拠もないのに所得税を取られ、それが連邦準備銀行を通して株主へ流れるという、トンデモない仕組みになっているわけです。
じゃあ、何故こんなことがまかり通っているのか?その理由の一つに同じく1913年に設立された名誉毀損防止連盟(ADL)の存在があると思います。
ADLの上部組織はブナイ・ブリス、これは「契約の子孫」という意味ですが、ユダヤ人だけのフリーメーソン組織です。
南北戦争の時、ロンドンの金融界から指示を受けて米国で戦争工作を担当したのが、このブナイ・ブリスでした。
ブナイ・ブリスもADLも共に改革派ユダヤ教徒によって創設されています。
要は、ユダヤ人に都合の悪いことを言われた場合「反ユダヤだ!」とレッテルを貼り、あらゆる手段を使って、その言論を封じ込めるという役割を担っている組織です。
ADLは、米国全土に200の下部組織を擁し、全国有色人種地位向上協会(NAACP)や黒人市民権組織都市連盟の活動にも影響力を持っています。
V・マーケッティ元CIA副長官付上級補佐官は1990年にADLについて次のように語っています。
「アメリカにおけるADLの力は凄いものがある。ADLはどのような人でもしかるべき地位や仕事を与えることができ、逆にそこから引きずり下ろすこともできる。また企業をも成功させることも失敗させることも自在にできる。今日のウォール街はADLや、いわゆるユダヤ人「新興勢力」のなすがままになっている。アメリカ国内に張り巡らされたユダヤ組織網を使うことで、ADLは議会のメンバーを文字通り当選させることもクビにすることも好きなようにできる力を持っている。マスコミの人たちも、ADLとADLを支持する人々に脅えながら仕事をしている。」
1915年、アイルランド沖を航行していた英国籍の客船ルシタニア号がドイツ海軍のUボートから放たれた魚雷によって沈没し、米国人128人を含む1198人が犠牲となりました。
これにより中立だった米国議会が反ドイツに傾き、第一次世界大戦に参戦することになります。
ハウス大佐と英国外交官エドワード・グレイの会話記録が残っています。
1915年、トルコの支配地域である中東で、アラブ人の蜂起によりトルコを背後から脅かしたい英国の外交官ヘンリー・マクマホンが、アラビア半島の遊牧民で聖地メッカの太守であるフセインにアラブ人国家の樹立を約束します。これをフセイン=マクマホン協定と言います。
翌16年には、英国の中東専門家マーク・サイクスとフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコが、エルサレムーバクダット線より北方はフランスの統治、南方は英国で統治するという秘密条約を結びます。これはサイクス=ピコ条約と言われています
さらに翌17年、英国の外務大臣アーサー・バルフォア卿がライオネル・ロスチャイルドに「ユダヤ国家樹立」を約束する書簡を送っています。これをバルフォア宣言と言います。
そしてこの年、イギリス軍がエルサレムに入城し、オスマン・トルコ帝国による約400年のパレスチナ支配が終結しました。
フセインにアラブ人国家の樹立を約束し、ジョルジュ=ピコとは北方のフランス統治を約束、ライオネル・ロスチャイルドにはユダヤ国家の樹立を約束するという、この「イギリスの三枚舌外交」が今日のパレスチナ問題の大きな原因となっています。
ここに登場するマクマホン、サイクス、ジョルジュ=ピコ、バルフォア、全員がなんとロスチャイルド一族です。
これは知ったらアラブ人たちは、きっと怒り心頭でしょうね。
1917年、ロシアでボルシェビキ革命が起き、帝政ロシアのロマノフ王朝が倒れ、ソビエト連邦が誕生します。
これは1913年10月、ウィーンで発行されたユダヤ機関誌『ハンマー』の記事です。この記事の中でロシア革命は予言されていました。
「ツァーはキエフにおいてユダヤ人に対する徹底的な撲滅政策を決議した。運命はこの大闘争の結果にかかっている。ただしそれはユダヤ人の運命ではない。何故ならユダヤ人は負けることがないからである。それはただツァーの運命にすぎないというだけのことである。ツァーの勝利はその終焉の発端にすぎない。逃れる道はないことを知るべきである。このことをよく飲み込んでおけ。我々はキエフにおいて、全世界に向かって我らに侮辱をあたえるものを容赦しないことを示そう。
もしユダヤ人が今までにロシアに革命を起す事実を隠す政策をとっていたのならキエフ事件におけるツァーの態度が判った今日、その政策は捨てるべきである。この事件の結果がどうであろうと、ツァーに対しては容赦しない。それが我々ユダヤ人の決心である。」
この表を見ると、ロシアでは極少数派であるユダヤ人が、いかにソ連の要職を占めていたかがわかると思います。
レーニン⇒ウリヤーノフ
トロツキー⇒ ブロンシュタイン
カーメネフ⇒ ローゼンフェルト
ジノビエフ⇒ アプヘルバウム
メシュコフスキー⇒ ゴールドバーグ
ラジェヌキイ⇒ ラッシュマン
ステクロフ⇒ ナハムケス
ラデック⇒ ゾーベルソン
ダーセフ⇒ ドラプキン
スハノフ⇒ ギンメル
ゴーレフ⇒ ゴールドマン
マルトフ⇒ ゼデルバウム
ボグダノフ⇒ シルバースタイン
リトヴィノフ⇒フィンケルスタイン
英紙『モーニング・ポスト』より。
共産党幹部たちは、ロシア名を付けていても、本当はユダヤ人でした。
ここでアルバート・パイクの未来計画を思い出してみましょう。
「第一次世界大戦は、ツァーリズムのロシアを破壊し、広大な地をイルミナティのエージェントの直接の管理下に置くために仕組まれることになる。そして、ロシアはイルミナティの目的を世界に促進させるための“お化け役”として利用されるだろう。」
まさに、この通りですね。
1919年、モスクワでボリシェビキとユダヤの合同会議が開らかれ、日支闘争計画案が採択されます。
その内容は次の通りです。
1924年、ソ連は中国に国民党の軍官学校を設立させ、校長に蒋介石を任命します。
翌25年には、モスクワに中国人学生のための中山大学を設立。
毎年数百名の共産主義者が中国へ送り返され、コミンテルンの指揮下で反日運動を扇動しました。
コミンテルンとは、先ほど申し上げた通り、世界に革命を広げるための国際的共産主義組織です。
つまり、中国の覇権を争った国民党も共産党も、ともにコミンテルンによって設立されたわけです。
まさに「両建て作戦」ですね。
1937年、日中戦争の発端となった盧溝橋事件が起きます。
1939年に興亜院政務部が作成した「盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令」という資料が残っています。
同じ年の1917年、米国で、アメリカ・シオニスト機構が誕生します。
アメリカで最も尊敬されていた非ユダヤ人(マラーノだという説がありますが一般的には非ユダヤ人とされていた)の法律家ルイス・ブランダイス(のちに最高裁判事)が総裁となり、シオニスト運動に精力を注ぐようになってから影響力が増大しました。
このブランダイスは、日本国憲法の事実上の草案作製者でもあります。
1918年、第一次世界大戦が終了します。
11月にウィルソン大統領の“十四か条の平和原則”をドイツが受け入れたことで休戦が成立したのですが、この“十四か条の平和原則”はルイス・ブランダイスが作成しました。
この提案の中にあった国際平和機構が、のちに国際連盟となります。
1919年、戦後賠償問題を取り決めるパリ講和会議が始まります。
会議へ臨むウィルソン大統領の顧問団は、ウォール街の銀行家と国際共産主義者から構成され、米国の議員は民主党員さえ同行していませんでした。
パリ講和条約の主要部分を決定したのは、バーナード・バルーク、フィリップ・サスーン卿、ジョルジュ・マンデル(本名ジェロボーアム・ロスチャイルド)の三人で、彼らは国際労働者会議を発足させ、賠償委員会を準備し、パレスチナをユダヤ人に与え、世界連盟と国際裁判所をつくりました。
第1次大戦で敗北したドイツは、戦時賠償金として1320億マルクという戦前のGDPの三倍近い金額を請求されましたが、その支払い先はモルガン商会でした。
なぜなら、英国が戦争中にモルガン商会から多額の借金をしていたためであり、ドイツからの賠償金はその返済にあてられたのです。
米国と英国がつくった賠償委員会は、実は、ほとんどがモルガン商会などの銀行家によって構成されていました。
この巨額の賠償金を支払うため、ライヒスバンクは国債と交換に通貨を乱発。ハイパーインフレが起き、1923年には物価が20億倍に跳ね上がりました。
この驚異的なインフレが、ヒトラー政権の誕生につながります。
では、再びロスチャイルドの世界革命行動計画を見てみましょう。
「11.自ら戦争を誘発しながら、敵対するどちらの側にも領土の獲得が生じない和平会議を主導しなければならない。
戦争は対立する双方の国家がさらに負債を抱え込み、我々の代理人の手中に落ちるよう主導されなければならない。」
ということです。
このパリ講和会議では、アラブ代表ファイサルがバルフォア宣言を了解するというワイツマン・ファイサル協定も結ばれました。
これにより、アラブ人の反英・反ユダヤ闘争が始まります。
1919年、ロンドン金属取引所でロスチャイルド五社による金取引きの独占支配が確立されます。
同じく1919年、ドイツでナチ党、イタリアでファシスト党が結成されます。
ナチスは、アヴェレル・ハリマン、プレスコット・ブッシュ、ウォーバーグ兄弟など、ウォール街とシティの国際銀行家たちから莫大な資金を受け取っていました。
1920年、国際連盟が設立されます。
シオニスト運動指導者のナホム・ソコロウは「国際連盟はユダヤ人の発想である。25年の戦いの後それを作った」という発言を残しています。
1921年、米国で外交問題評議会(CFR)がエドワード・マンデル・ハウスによって設立されます。
初代会長はポール・ウォーバーグでした。
創設会議には、ジェイコブ・シフ、 J・P・モルガン、バーナード・バルーク、アヴェレル・ハリマン、ジョン・D・ロックフェラー、ウォルター・リップマン、ジョン・フォスター・ダレス、アレン・ダレス、クリスチャン・ハーターなど錚々たるメンバーが参加しました。
以降、米国政権の要職はCFRのメンバーによって占められます。
1929年、ウォール街の大暴落をきっかけに世界恐慌が始まります。
その原因は、1920年代にFRBの指示で銀行が信用創造量を増やしたことによります。
融資の担保は主に株券であり、その結果、株価は高騰、バブルが発生します。
株価がピークを迎えると、FRBは一転して銀行の信用創造を厳しく抑制。お金の流通量をわざと減らして大恐慌を引き起こしました。この事はミルトン・フリードマンはじめ多くの経済学者が指摘しています。
この恐慌により16000もの銀行が倒産し、そのほとんどはモルガンとロックフェラーが吸収・合併していきました。
また、紙切れ同然となった企業の株券も買占め、両者の独占状態になります。
銀行や企業だけでなく、融資を返済できなくなった農家も広大な土地を没収されたため、飢饉が発生します。
この土地の多くも、ウォール街の金融財閥の関係企業に買い取られました。
1931年、景気回復という名目のもと金の回収が行われます。
懲役10年という罰則のもと、米国民すべてが金貨や金塊を財務省で紙幣と交換することを義務付けられました。
そして、1939年末には兌換紙幣が廃止され、紙幣と金はもう交換できなくなりました。
つまり、合法的な金の強奪が行われたわけです。
金融危機を防ぐ名目で設置されたFRBでしたが、連邦準備制度が成立してから、1921年、1929年の株価暴落、そして1929年から1939年の大恐慌、1953年、57年、69年、75年、81年の景気後退、89年のブラックマンデーを経験し、1000%のインフレでドルの購買力の90%が破壊されています。
つまり、FRBは何の役にも立ってないわけです。
再びロスチャイルドの世界革命行動計画を見てみましょう。
「15.我々の力を行使すれば、失業と飢えがつくりだされ、大衆にのしかかる。そうすれば、確実な資本の支配力が生じる。」
まさに、その通りですね。
1929年、中央販売機構CSOが設立され、ロスチャイルドによるダイヤモンドの世界的独占支配が確立します。
1930年、中央銀行の中央銀行である国際決済銀行(BIS 通称バーゼル・クラブ)が設立されます。
BISの前身は、パリ講和会議でドイツに苛酷な賠償を課した賠償委員会です。
BISは、毎月、各国の中央銀行総裁が集まって、国際金融上の諸問題、マクロ経済の調整について話し合う場とされていますが、中央銀行総裁が毎月集まれるはずもなく、実際は事務局が取り仕切っています。
その事務局長は、代々、ロスチャイルドのフランス200家族から出ています。
この図は世界の金融支配構造を表したものですが、まず、シティを動かすロスチャイルド一族を中心とした国際金融資本カルテルが頂点にあります。
その下に中央銀行の中央銀行であるBIS。
その下にECBやFRB、それに日銀など各国の中央銀行があります。
その下が市中銀行ですね。
更にその下に証券や債券、商品などを扱う一般の市場があります。
各業種の成長力をコントロールするのは銀行融資による信用創造量です。
例えば、エネルギー産業を伸ばしたいと思っても、そこにお金が投資されなければ、伸びることはできませんよね。
なので、信用創造を通して経済はコントロールすることができるんです。
1931年、満州事変が勃発します。
この年、フランシス・リンドレーが駐日イギリス大使として着任。
翌年にはジョゼフ・グリューが駐日アメリカ大使として着任しています。
このグリューはモルガン一族、リンドレーはロスチャイルド一族です。
そして、両者共にモルガン・グレンフェルの代理人でした。
1933年、ドイツでナチスが政権を握り、ヒットラーが首相に就任。翌年、総裁となります。
同じく1933年、フランクリン・D・ルーズベルトが米国大統領に就任します。
ルーズベルトは、世界初のケインズ政策であるニューディールを実施。
ケインズ政策とは、政府による財政出動で有効需要を創出するというものです。
ナチス・ドイツはソ連と不可侵条約、翌年にはドイツ・ソ連通商協定を結び、ヒットラーは「賤しいユダヤ人」「呪うべき共産主義者」と攻撃していたはずの共産主義ソ連と手を組んで、石油・貴金属・穀物の供給を受けました。
ドイツには日本と同じで石油が出ないので、ドイツに戦争をやめさせたければ石油の供給を止めれば良いのです。
しかし、ドイツにソ連のバクー油田から石油を供給して戦争を継続させたのは、ロスチャイルド=ノーベル財閥の石油会社シェル(敵国である英国籍)でした。
ドイツとの奇妙な関係は、これだけではありません。
ナチスにユダヤ人を迫害させたのはシオニストだという証言が、ユダヤ人を中心にたくさん出ています。
マーク・レイン(反シオニズムのユダヤ人)
「ヒトラーはユダヤ人絶滅命令を一回として出してはいない。彼が部下に命じたのは追放することのみであった。そのユダヤ人追放が大量に達したとき、ヒトラーは当時のシオニズムの指導者であったハイム・ワイツマン(世界シオニスト機構・総裁、のちに初代イスラエル大統領)にある取り引きを申し出た。ユダヤ人たちをそちらに渡す代わりにドイツへの経済援助を求めたのである。これは歴史的事実である。しかし、ワイツマンはそれを断った。ユダヤ人たちが迫害され、あるいは殺されることによってそれがイスラエル建国のバネとなり、また戦争後のユダヤ人たちが世界にアピールしていくときのバネになると、彼ははっきり答えたのだ。」
ナイム・ギラディ(ユダヤ人ジャーナリスト)
「いつでも歴史において犠牲になるのは特権階級ではない、金持ちでもない、指導者たちでもない、一般庶民たちなのである。ナチス・ドイツの犠牲となったのは、そのような哀れむべきユダヤ人たちだった。しかしシオニスト指導者たちは、その犠牲となったユダヤ人たちの上に立って自分たちの主義主張を今に至るまで展開しているのである。言葉を換えれば、一般のユダヤ人の犠牲を利用しているといっても過言ではないだろう。」
ハビブ・シーバー(イスラエル建国の功労者、のちに反シオニスト)
「反ユダヤなどというものは、この世界のどこにもない。反ユダヤはシオニストたちが自分たちの都合のためにつくり出す騒ぎなのである。」
元ナチス高官
「アイヒマンはシオニスト・ユダヤ人について知りすぎていた男だった。ヒトラーはユダヤ問題解決のため、アメリカやイギリスと極秘のうちに話し合いを進めていた。その時の連絡係を果たしたのがアイヒマンだった。役目上彼は国際ユダヤ組織のトップたちと何度となく話し合っている。そして彼らの考えを克明に記録に残したのだ。アイヒマンは彼らに対して、もしアメリカもイギリスもユダヤ国家建設に協力しないなら、ドイツとしては彼らを隔離するために収容所に入れざるをえないだろうとまで言った。すると彼らは反対するどころか、大賛成の意を表明したのだ。さすがにアイヒマンもこれにはビックリしていた。彼らのうちの誰が何を言ったかまでアイヒマンは記録していた。」
ホロコーストという言葉は、ユダヤ人大虐殺と同義に使われますが、本来は「神に捧げる犠牲」と意味です。大虐殺が本当にあったのかどうかは非常に疑わしく、少なくとも600万人が犠牲になったというのは誇張です。せいぜい数万人だと思うのですが、それもガス室などではなく、ほとんどが飢えや病気が原因でしょう。ただ、ある種のユダヤ人が迫害を受けたことは事実で、イスラエル建国のためにシオニズムに反対するユダヤ人たちは、まさしく「神に捧げる犠牲」とされたようです。
同じく1939年、原爆製造のマンハッタン計画がスタートします。
ウランの調達は、アフリカのベルギー領コンゴ、カナダのグレートベア鉱山、アメリカのコロラド州カルノー鉱山でおこなわれましたが、三箇所ともロスチャイルドの支配下にある鉱山でした。
マンハッタン計画の監督を務めたのが、ロスチャイルド一族でハンブローズ銀行のチャールズ・ジョスリン・ハンブローです。
また、マンハッタン計画は、核物理学や資源確保という面で国際的な作戦計画であり、そのリーダーは、のちに国際原子力機関(IAEA)を創設するベルトラン・ゴールドシュミットでした。
ベルトラン・ゴールドシュミットの妻の名は、ナオミ・ロスチャイルドです。
1941年12月7日、日本軍による真珠湾攻撃により米国との戦争が始まります。
世論調査では米国民の97%が欧州戦争参戦に反対していたので、ルーズベルトは大統領選挙で再選される前に「攻撃を加えられた場合を除いて」外地での戦争に息子たちを送りはしないと繰り返し発言していました。
その2ヶ月後、大統領主席補佐官ハリー・ホプキンスは、英国首相チャーチルに「我々が共同してこの戦争を勝ち抜くことを大統領は決意しています」と伝えています。
この矛盾を解消するため、敵国から攻撃を受けて、仕方なく「参戦せざるを得ない」状況をつくる必要がありました。
再びロスチャイルドの世界革命行動計画です。
「17.代理人は大衆受けのするスローガンを生み出せるよう訓練されなければならない。大衆には惜しみなく約束しなければならないからである。約束された事と反対の事は、のちになれば常におこなえる」
のです。
日本を追いつめて米国に宣戦布告させれば、三国協定により自動的にドイツ・イタリアとも戦えるようになります。
11月26日、日本が日露戦争以降に東アジアで築いた権益の全てを放棄することを求めたハル・ノートを突き付けられ、日本は米国との交渉打ち切りを決定。戦争を決意します。
このハル・ノートの作成者は、財務次官ハリー・デクスター・ホワイトでした。
国務長官コーデル・ハルも提案書を書いていたのですが、ソフトな内容だったために、より過酷な内容のホワイト案の方をルーズベルトは採用しました。
のちにハリー・デクスター・ホワイトはソ連スパイであったことがバレて逮捕されています。その時に明らかになった事は、ソ連からの指示を受けてホワイトがハル・ノートを作成したということです。
当時、共和党議員の90%、民主党議員の50%が戦争に反対していたため、ルーズベルトは議会には内緒で戦争を挑発するような内容のハル・ノートを日本に提示しました。
日本は、開戦した場合「まず真珠湾の米艦隊を叩く」という戦略を1941年1月には固めていましたが、この情報は駐日大使ジョセフ・グルーを通して国務長官コーデル・ハルに伝えられていました。
日本では、大使館というと親善を深める場所だと思っている人が多いようですが、世界の常識としては情報収集が行われる機関で、スパイの巣窟です。
ちなみに、コーデル・ハルはジェイコブ・シフの親戚です。
ハル・ノートを突き付けられる前日、11月25日付の陸軍長官ヘンリー・L・スチムソンの日記には
「問題はいかに彼らを誘導して、我々があまり大きな損害を蒙ることなく、最初の弾を撃たせるかだ。これは難しい計略だ」と書かれていました。
同じく11月25日、ルーズベルトの秘書ヘンリー・シンプソンが、ルーズベルトの会話記録を残しています。
「問題はどうやって我々が日本に先制攻撃をさせるかである。日本に先制攻撃を仕掛けさせ、どちらが侵略者かを明確にさせることが理想だ」
ワシントンの現地時間で12月6日午後3時、日本の宣戦布告文が14部に分割されて、順次ワシントンの日本大使館に送信されましたが、それらは同時に傍受・解読されて、午後9時30分にはルーズベルト大統領のもとに届けられていました。
しかし、ワシントンからハワイへは何の情報もないまま、12月7日7時52分に攻撃が始まり、米太平洋艦隊は艦船16隻が大破、航空機188機が破壊され、2273人が死亡、1119人が負傷しています。
米国本土では、これを機に反戦ムードが一転。翌8日に米国議会は日本に対する宣戦布告を決議。
その3日後にはドイツ・イタリアへも宣戦布告しています。
1944年、まだ戦争が終っていない段階で、戦後の国際通貨体制に関する会議、ブレトン・ウッズ会議が開かれました。
英国代表は経済学者のジョン・メイナード・ケインズ、米国代表はハル・ノートの作成者、財務次官のハリー・デクスター・ホワイトでした。ケインズはフェビアン社会主義者で、ホワイトは国際共産主義者です。
社会主義者と共産主義者が協議して戦後の“資本主義体制”を決定するという実に不可思議な会議でした。
この会議を取り仕切ったのが、米国財務長官のヘンリー・モーゲンソーJr.です。
ヘンリー・モーゲンソーJr.は、日独に苛酷な賠償請求を課したモーゲンソープランの提唱者で、父親はロスチャイルド一族の銀行家ゴールドスミス家、母親はロスチャイルド一族の鉱山王グッゲンハイム財閥の出身という人物です。
このブレトン・ウッズ会議で、ドルが世界の基軸通貨と定められました。
基軸通貨を説明する前にシニョリッジについて説明しておきましょう。
シニョリッジとは通貨発行益といわれ、通貨発行者だけが独占的に得ることができる利益です。
例えば、金1g=1000円のとき、金1gを使って2000円金貨を鋳造すれば、貨幣発行者は1000円の差額を利益として得ることができます。
現在では、おカネをつくる費用は印刷代と紙代だけですから、ほとんどまるまる差益となります。
つまり、基軸通貨特権を得た米国は、ドルを印刷するだけで世界中から好きなものを手に入れることができるのです。
また、このブレトン・ウッズ会議により国際通貨基金(IMF)と世界銀行が創設されることになりました。
この両機関は、WTOと共にグローバリゼーションを推進する中心勢力であり、同時に途上国を支配する機関でもあります。
かつての植民地は、戦後、次々と独立を果たし、工業発展途上国と呼ばれるようになりました。
この名前の通り、途上国はもともと資源供給地にされていたので、技術力では相手にならないほど差をつけられていました。
それに、輸送手段と販路を既に握られているので、先進国のように世界各地へ売りさばくことができません。
貿易で豊かになろうと思えば一次産品の輸出を続けるしかなく、百数カ国の途上国がたった30品目程度しかない一次産品を競って輸出したため、60年代以降に価格が暴落します。
慢性的な赤字を抱えるようになった途上国は、IMFや世界銀行から借金をするのですが、その際、構造調整プログラムというものを受け入れることを条件にされ、債務国は自国の経営権を失うことになります。
その内容は次のようなものです。
つまりは、医療、教育、福祉などの補助や環境保護、公的サービスを切り詰めて借金を返済させる。
増税して国民からお金を集め借金を返済させる。
利益をあげられるような公的部門は売却して、その収入で借金を返済させる。
自然を外国企業に売って借金を返済させる。
自国民が食べる食糧をつくるのもやめさせ、外貨が稼げる換金作物をつくらせ、それを外国に売って借金を返済させる。債務の返済はハードカレンシーでおこなわなければならないので、外貨獲得のため、唯一外貨を稼げる一次産品を生産・販売することになります。そうすると更に価格は暴落。それでも借金は返済しなければならないのでダンピングして輸出します。こうして、食べ物を作っているにもかかわらず、その作っている人が餓えて死ぬという「飢餓輸出」と言われる現象が起こります。
通貨の価値を下げ、輸出を増やし輸入を減らして貿易黒字にし、その黒字で借金を返済させる。しかし、通貨を切り下げると、自動的に借金は何倍にも膨らみます。例えば、100分の1に切り下げられれば、借金は自動的に100倍に膨らのです。こうして途上国は借金地獄へと落ちていきます。
そして、規制を緩和して多国籍企業が参入しやすい環境を整える。
こういう事が行われることになるんですね。
米国による新植民地主義の手口は、次のような感じです。
米国が資金提供し、あるいは軍事力で、民主化運動を弾圧し、親米の独裁政権をつくりあげる。
親米政府にさまざまな法律をつくらせ、外国企業が自由に土地を使い、高い利益を上げられる環境をつくる。
軍隊を使い、虐殺行為を繰り返し、特定の地域の住民を追い出し、土地を外国企業のために確保。
その国からは多額のODA(政府開発援助)が親米政府に出される。
空いた土地に続々と外国企業が進出。
外国企業は、人権無視、環境破壊等を行って経済効率を高め、油田・鉱山・食物プランテーション開発、木材伐採を行う。
こうして多国籍企業は、自ら手を汚すことなく侵略を実現し、資本を広げ、利益を得られる。
土地を奪われた人達は抵抗勢力となって戦うが、それは“テロリスト”と呼ばれ、圧倒的軍事力で弾圧される。
再びロスチャイルドの世界革命行動計画を見てみます。
「21.ゴイムからその不動産、産業を奪うため、重税と不当競争を組み合わせてゴイムの経済破綻を引き起こさなければならない。国際舞台においてゴイムが商売ができないように仕向けることは可能である。」
これも、この通りですね。
1945年、第二次世界大戦が終了します。
日本は、1月には敗戦を確信し、講和交渉を模索していました。しかし、ルーズベルト政権はそれを無視し続け、引き継いだトルーマン大統領は、原爆の完成を待って、その威力を実証するために広島と長崎へ投下します。
何故ルーズベルトが無視し続けたのかと言えば、前年の九月に英国首相チャーチルと日本に原爆を落とす約束をしてあったんですね。これはハイドパーク協定と言われています。
ちなみに、チャーチルはマルボロ公爵家の貴族で、モルガン・グレンフェルのグレンフェル家とは親戚であり、終生、ロスチャイルドの忠実な代理人として働いたと言われる人物です。
第二次世界大戦の結果、国際連盟の後身である超国家機関、国際連合が成立しました。国際連合は英語で言えばUnited Nationsであり、つまりは戦勝国である連合国そのままです。
国連本部ビルの敷地は、ジョン・D・ロックフェラー2世が寄贈しました。
国際連合憲章を起草した米国務省高官アルジャー・ヒスは、ハリー・デクスター・ホワイト同様のちにソ連スパイであったことがバレて逮捕された国際共産主義でした。
第二次世界大戦の結果、共産主義者はドイツの半分と、ヨーロッパとアジアの半分を手に入れました。そして、イスラエルが建国され、西ドイツの莫大な賠償金はイスラエルへの援助に割り当てられています。
この結果を見れば、第二次世界大戦の受益者は、共産主義者とシオニストであったことは明らかでしょう。
ここで再びアルバート・パイクの未来計画を思い出してみましょう。
「第二次世界大戦は、『ドイツの国家主義者』と『政治的シオニスト』の間の圧倒的な意見の相違の操作の上に実現されることになる。その結果、ロシアの影響領域の拡張と、パレスチナに『イスラエル国家』の建設がなされるべきである。」
これも、まさにそのまんまですね。
米国による日本占領政策は、基本原則である3Rと重点的施策5D、それに補助政策である3Sから成っています。
3S政策には、日本人は見事にはまっていますね。
この3Sは、大衆を夢中にさせて政治に関心を向けさせないという効果と、日々の労働の辛さを緩和する鎮痛剤の役割を持っています。
実にシンプルかつ効果的で、上手い政策であると思います。
この占領政策を立案したのは、ルーズベルト政権下で二―ディールを実施した、いわゆるニューディーラーと言われる人たちで、彼らは国際共産主義者であり、ほとんどがユダヤ人でした。
日本国憲法草案作りの実務責任者はGHQ民政局次長のチャールズ・ケーディスで、ケーディスの師匠が、あのルイス・ブランダイスという関係です。
1945年9月21日に「日本新聞遵則」(プレス・コード)と「日本放送遵則(ラジオ・コード)」が報道関係者に公表されました。
〈日本出版法〉
第1条 報道は厳に真実に則するを旨とすべし。
第2条 直接又は間接に公安を害するが如きものは之を掲載すべからず。
第3条 聯合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加ふべからず。
第4条 聯合国進駐軍に関し破壊的批評を為し又は軍に対し不信又は憤激を招来するが如き記事は一切之を掲載すべからず。
第5条 聯合国軍隊の動向に関し、公式に記事解禁とならざる限り之を掲載し又は論議すべからず。
第6条 報道記事は事実に則して之を掲載し、何等筆者の意見を加ふべからず。
第7条 報道記事は宣伝の目的を以て之に色彩を施すべからず。
第8条 宣伝を強化拡大せんが為に報道記事中の些末的事項を過当に強調すべからず。
第9条 報道記事は関係事項又は細目の省略に依つて之を歪曲すべからず。
第10条 新聞の編輯に当り、何等かの宣伝方針を確立し、若しくは発展せしめんが為の目的を以て記事を不当に顕著ならしむべからず。
1945年9月29日には「新聞と言論の自由に関する新措置」を発令。
連合国に不都合な記事はすべて封じ込められました。
太平洋陸軍総司令部参謀第二部民間検閲支隊内に新聞映画放送部(PPB)が新設され、主要新聞は事前検閲、それ以外の新聞は事後検閲となります。
あらゆる形態の印刷物、通信社、ラジオ放送、映画、宣伝媒体に属する他の娯楽も検閲を受けることになりました。
これにより、マスコミは日本国に対する忠誠義務から解放されます。
「削除または掲載発行禁止の対象となるもの」として30項目からなる検閲指針がまとめられました。
こうして連合国批判や東京裁判批判につながる一切の言論が封じ込められたのです。
ウォー・ギルド・インフォメーションとは、日本人に戦争の罪悪感を植えつけ、民族の誇りと自尊心を奪い、再び米国および連合国の脅威とならないよう、無力化、弱体化させることを目的とした民間情報教育局(CI&E)の計画です。
検閲と民間情報教育局による宣伝が相乗効果を発揮し、戦前の日本人の歴史観・道徳観を変えられました。
1945年12月8日から新聞各紙で『太平洋戦争史』の連載が開始しました。
連合軍司令部が提供したその記事は、日本軍がいかに残虐であったか、日本の軍国主義者がいかに非道であったかを強調する内容でした。
『太平洋戦争史』連載開始から1週間後に「大東亜戦争」という呼称は禁止され、日本人の立場による大東亜戦争史観を封印し、連合国の立場による太平洋戦争史観が植え付けられました。
民間情報教育局は『太平洋戦争史』を基にラジオ番組『真相はかうだ』の放送を開始。この番組は名称を変えながら1948年1月まで続きます。
更に、1945年12月31日に民間情報教育局は、修身・国史・地理の授業を即時中止するように命令。
翌年4月、文部省は『太平洋戦争史』を国史等授業停止中の教材として使用するよう通達し、太平洋戦争史観が教育現場に浸透することになります。
1946年から日本の戦後復興が始まります。
米国は占領地域に対して、ガリオア(占領地域救済政府基金)とエロア(占領地域経済復興基金)という2つの基金を持っていて、日本は、これらの基金から救済・復興支援を受け、合計18億ドル(現在価値で約12兆円相当、内13億ドルは無償)が、国鉄、電気通信、電力、海運、石炭などインフラ整備の原資となりました。
1953年からは世界銀行の借款受入を開始。
1966年までの間に、計34件、合計8億6,290億ドルの借款契約を締結。インフラ及び基幹産業(道路、電力、鉄鋼など)の整備に使われています。
そして、この世界銀行の債務は、1990年7月になってようやく完済しています。
これらの借金について、どんな条件が課せられたのか定かではありませんが、おそらく何かしらの条件は付けられていたものと思われます。
1950年、朝鮮戦争が勃発し、日本の逆コース(GHQの戦略だった日本の民主化・非軍事化に逆行する動き)が始まります。
推進したのはジャパンロビーのアメリカ対日協議会(ACJ)で、首謀者は『ニューズウィーク』の記者ハリー・F・カーンでした。
『ニューズウィーク』は、モルガン、メロン、ゴールドマン、ハリマンなどが大株主となっていますが、当時の『ニューズウィーク』の実権を握っていたのはアヴェレル・ハリマンだったと言われています。
マッカーサーは、この逆コースに強く反対したのですが、ディロン・リード社の副社長だった陸軍次官ウィリアム・H・ドレーパーがマッカーサーを説得し、日本を経済大国にすることで“反共の砦”にしようとしました。
その結果、日本は朝鮮特需から高度経済成長へと経済大国の道を歩み始めます。
ちなみに、GHQとの交渉を担当した大蔵省の渡辺武氏によれば、GHQが最初に持ち出してきた案件は、ディロン・リードへの返済をどうするかという話だったそうです。日本は1931年には財政破綻をしていたので、第二次大戦を戦う戦費がなく、ディロン・リードから多額の借金をしていたようです。このディロン・リードの支配者は、ディロン家、オーガスト・ベルモントのベルモント家、そしてペリー提督のペリー家です。
話を戻して、A級戦犯に指名されていた児玉誉士夫、笹川良一、岸信介が釈放され、CIAのエージェントとして“政界のフィクサー”となります。
1968年には、統一教会の主導により、児玉誉士夫・笹川良一・岸信介らが「勝共連合」を結成、CIAと連携プレーをするようになりました。
その後、この統一教会が政治家や秘書として日本の国政に潜入していきます。
統一教会は、日本のマスコミでは合同結婚式とか霊感商法での壺売りとか、怪しい宗教団体として話題になっていますが、米国の傀儡だった朴正熙政権の時代に、韓国の情報機関KCIAにフロント機関として取り込まれています。のちに朴正熙は米国に刃向ってKCIAに暗殺されていますから、CIA=KCIA=統一教会と見ても良いと思います。
巣鴨プリズン(拘置所)から釈放された三人のコネクションを図で表してみました。
のちに首相となった岸信介の傍らには、いつもロビイストのハリー・カーンがくっついていたと言われています。つまり、お目付け役だったのでしょう。
岸信介の娘婿が安倍晋太郎、その息子が前・首相の安倍晋三です。
親戚には吉田茂がいて、その孫が麻生太郎ですね。
岸の弟がノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作。
岸派を継承して福田派となった福田赳夫の息子が第91代首相の福田康夫です。
福田派は、三塚派、森派となり、森派からは森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫と最近の首相が四人連続で出ています。
ちなみに、小泉純一郎の父親、小泉純也は岸信介の忠僕と言われていた人物です。
右翼の大物、笹川良一は、日本船舶振興会の会長で、競艇で稼いだ金を政界工作につぎ込んできました。
親戚には大富豪の糸山英太郎がいて、糸山の親友が石原慎太郎。石原の親戚に小泉純一郎がいるという関係です。ただ、この石原―小泉は、最近、遠い親戚となったばかりなので、あまり関係ないと思います。
笹川が友好関係を結んでいたのが、山口組、創価学会の池田大作、統一教会の文鮮明、それに日テレの正力松太郎です。
児玉誉士夫もやはり右翼の大物で、笹川の紹介で 海軍航空本部の嘱託となり、中国に渡ってスパイ網を完成させました。
また、満州で阿片を栽培し、それを中国で販売して、得た資金でタングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を大陸で調達する役割を担っていた人物です。
戦後、児玉は、その資産をダイヤモンドや貴金属に換え、日本に持ち帰ったとされています。
その資産の一部を鳩山一郎に提供、鳩山は自民党の前進である自由党を設立します。
その鳩山一郎の孫が、一人は民主党幹事長の鳩山由紀夫で、その弟が最近ヘンな発言を繰り返している現・法務大臣の鳩山邦夫です。
児玉が友好関係を結んでいたのが、住吉会、稲川会、渡辺恒雄、中曽根康弘で、ナベツネさんと中曽根さんは笹川良一とも親密な関係でした。
あと、住吉会と親密なのが石原慎太郎、稲川会と親密なのが小泉純一郎という関係ですね。
こうして見ると、如何にこのコネクションが戦後から現在にかけて大きな影響を持ってきたかがおわかりいただけると思います。
この図ではかなり省略していますが、このコネクションには財界の大物、官界の大物たちが、まだまだぞろぞろ連なって出てきます。
戦犯として公職追放中だった正力松太郎が突如追放解除となり、それを機にテレビ開局計画が急ピッチで具現化します。
カール・ムント米上院議員が1951年4月に上院議会で行った演説をみてみましょう。
「共産主義は飢餓と恐怖と無知という三大武器を持っている。こうした共産主義に対する闘いにおいて米国が持っている最大の武器はテレビである。我々は『アメリカのビジョン』なるテレビ・ネットワークを海外に普及させる必要がある。それを最初に試験的にやるべき地域はドイツと日本で、例えば日本の隅から隅まで行き亘らせるためのテレビ網建設費は460万ドル。これはB29爆撃機を2機つくるのと同じ金額である」
1951年9月4日に、正力松太郎は日本テレビ放送網設立構想を発表し、翌年7月31日には日本最初のテレビ放送予備免許を取得します。
この正力松太郎がCIAから与えられた暗号名は「PODAM」と言います。